ビールを1ミリも飲まない真面目な人
「ゼンセイでーす!」という大声で居眠りから目が覚めた。
20年前の首相官邸記者クラブである。
ゼンセイってなんだ?と寝ぼけながら考えていると、ソファー席にビールや乾きものが並べられ、当時の野中広務官房長官、鈴木宗男副長官らが登場し、即席の宴会が始まった。
他社の人に聞くとクラブの幹事が2か月に1回代わるのを機に行われる「引き継ぎ善政(ぜんせい)」という名の懇親会だという(今はもうないらしい)。
たまたま次期幹事だった僕は野中さんの横に座らされた。
ビールをついでくれたのでつぎかえすと1センチくらいで「もう結構」と言う。
そして1ミリも飲まない。
聞くと、医者から健康のために食事と酒を制限するよう言われているという。
それにしても一杯くらい飲んでもいいのに、と思って後からいろいろ聞いてみると、医者の言う通り真面目に減量しすぎてげっそり痩せてしまい、逆に病気じゃないかと周りに誤解されて困っているということだった。
日本の安保の歴史的な転換点を作り上げた
当時の野中さんは、狙った政敵は必ず撃ち落とすので、政界のスナイパーとか剛腕とかいろんなすごい名前で呼ばれていたのだが、意外に不器用で生真面目な人なんだなと、ちょっとホッとした。
ちなみに僕が一番好きだった野中さんの呼び名は「悪魔にひれ伏した男」である。
悪魔にひれ伏す男ってビジュアルに想像するだけでも面白いではないか。
この場合の悪魔は小沢一郎さんである。
同じ派閥にいた小沢さんが自民党を離党した時、野中さんは小沢さんのことを悪魔と呼んだらしい。
その後、小渕政権で過半数が取れなくなり、小沢さんの自由党と連立をせざるを得なくなった時に、野中さんは「小沢さんにひれ伏してでも」という有名なセリフを発した。
悪魔だの、ひれ伏すだの、言われる方も嫌だったと思うのだが、小沢さんの態度は立派だった。
堂々と連立協議に応じ、小渕政権に安保政策の転換を求めて、それが周辺事態法の成立へとつながる。
野中さんはその後のインタビューでこのことを後悔していたようだが、僕は日本の安保の歴史的な転換点として評価すべきだと思う。
当時、最も力のあった2人の政治家が作り上げた「歴史」なのだ。
“野中のどんでん返し”で決まった沖縄サミット
いずれにしてもこういう激烈な言葉が似合う政治家だった。
若いころから苦労し、政治家として遅咲きだったからか。
今の政治家の中に誰か野中さんに似ている人はいるだろうか。
現官房長官の菅義偉さんは野中さんの2代前の官房長官の梶山静六氏の薫陶を受けたと言っているが、僕は菅さんはむしろ野中さんに似ているのではないかと前から思っている。
一見強面なのに弱者に優しいところなど共通点が多い。
2000年の日本でのサミット会場を決める時に、ほぼ福岡というのが各社の報道だった。
沖縄も有力な候補だが米国が反対しており無理だろう、ということだった。
米国政府は大統領を沖縄に行かせたくないらしい。
ただなかなか決まらない。
外務官僚に聞くと「野中さんがうるさいんだ」と言う。
ある日のニュースの中継でスタジオのキャスターが「福岡に決まりか」と僕に聞くので、「野中さんのどんでん返しがあるかも」と言ったら、翌日、本当に急転直下、会場が沖縄に決まり、上司に褒められたこともあった。
悪魔にひれ伏してでもこの国を守ろうとした政治家
昨年暮れに野中さんの具合が悪いので、評伝を書いてみないかと言われ、野中さんが起こした「事件」をいろいろ思い出してみた。
首相にしようと思っていた加藤紘一さんが起こした「加藤の乱」を自ら容赦なく鎮圧したこと、駐留米軍の基地使用継続に関して「再び大政翼賛会になってはならない」という有名な国会演説をしたこと、小泉政権に反旗を翻し政界を突然引退したこと。
どの場面でも、常に野中さんは切羽詰まったような表情をしていた。
僕は野中さんの番記者ではないので、本来評伝を書く資格はない。
ただ彼が権力の頂点にいた官房長官、幹事長時代に、官邸キャップや政治部デスクだったので、ライバルだった小沢さんやその後出て来る小泉さんら、まさに役者のそろった歴史の舞台を最前列で見ることができたのは幸運だった。
その舞台上で野中さんは激烈な言葉と行動を貫いたが、同時に不器用で、生真面目で、弱者への優しさにあふれていた。
悪魔にひれ伏してでも、この国を守ろうとした政治家だった。