大事なことなので再掲です。
公文書に残る朝鮮人の凶行に悩まされた日本の状況
海軍省の膨大な公文書の中には、流言飛語の為に日本人が朝鮮人を虐殺したという記録があります。
同時に、日本人が共産主義者や朝鮮人から被害を受けた記録もあるのです。
下記の公文書には、証言者の住所、氏前入りで、被服廠付近で朝鮮人が材木商の材木に石油のようなものを散布している所を見とがめられて逃走したのを目撃した件や、列車内で 摂政の宮殿下(後の 昭和天皇)ご成婚祝賀行事を狙って蜂起せよという密談をしていたのを聞いた件が記録されている。
(文責・鈴木)
海軍省公文備考
大正12年9月25日臨中大227号朝鮮人に関する件
材木に石油(あるいは揮発油)を散布したる場所、日時
事実の発見者
本籍 東京 深川
氏名 山崎清吉
大地震発生直後本所被服廠付近亀沢町大通り鉄道ガード北側陸軍被服廠付近の材木商、震災発生直後材木に石油(あるいは揮発油)を散布したる当時の状況。
前記山崎清吉は震災直後深川の自宅より府下吾妻町に居住の実父方に赴くも被服廠前を通過同付近に年齢20歳くらいの労働者体の朝鮮人三名佇立して内一名の朝鮮人正宗一合瓶くらいの瓶から石油(あるいは揮発油)を軒下の材木に散布しているので、これに接近せんとしたるところ逃走す、という。
東京市を中心にその近郊各会社に就業中の朝鮮人労働者は九月二日の二百十日を期し東京において
朝鮮の独立運動を開始する目的を持って八月下旬東京に集合せり。
木曽山中の発電所の工事人夫数十名は上京の際、列車内において陰謀の密談を為し二百十日において目的を達せされば二百十日において 摂政宮の御慶事を期し目的を貫徹す云々の言を残したり。九月一日午後一時頃数十名の朝鮮人は本所南吾嬬町に集合し「故国の世界に認めらるるの好機漸く到来せるを以て一同挙って目的の遂行に猛進すべし」との意味の演説を為し足るため付近の内地人の反感を買い遂に撲殺せられたるものなり。
内報先
陸軍大臣、陸軍次官参謀総長、海軍次官、戒厳司令官、海軍省法務局長、陸軍省法務局
長、軍務局長、歩兵課長、警保局長、参謀次長。
「 これは、内務省警保局が震災直後の9月3日、地方長官に宛てて打ったもので、「朝鮮人ハ各地ニ放火シ、不逞ノ目的ヲ遂行セントシ、現ニ東京市内ニオイテ爆弾ヲ所持シ、石油ヲ注ギテ放火スルモノアリ」と認定した上で「厳密ナル取リ締マリヲ加エラレタシ」と明記している。
国務大臣、後藤新平が、最終的に、電文は必要だった、と答弁している。これが、日本政府の見解。
以下国務大臣後藤新平答弁
(官報号外第47回帝国議会 衆議院 本会議 第5号 大正12年12月16日 106頁 衆議院議事速記録代5号国務大臣演説に対する質疑)
9月2日に内閣が成立して以来のことは全て自分の責任であります。
流言飛語については諸説ありますが、この注意(電文)は当時においては、必要なものだったということは疑いのないことであります。
過去記事ご参照発見!「朝鮮人が殺傷されたのは、その凶行が原因」の議会答弁
「関東大震災の新聞記事は事実」
大日本帝国議会答弁
関東大震災に関する新聞記事は事実ではない、と言われてきた。しかし、新聞は事実を伝えていた事を示す大日本帝国議会答弁があった。
政府委員・山内確三郎が、「新聞記者を呼んで、事件を報道するよう、申し伝え、それは全部記事になった」と答弁している。山内委員は、例えば、朝鮮人が30人組んで、悪い事をしたと言う事実を、世間に伝えることによって、「大暴動」などという流言蜚語は止まると考えた、というような答弁をしている。
私は、5年前、読売新聞に、当時の大正12年10月21日「震災の混乱に乗じ、鮮人の行なった凶暴」の記事について尋ねたところ、しばらくして、「編集部で検討した結果、この記事は、これ以上でもこれ以下でもない、ニュースソースは司法当局です」という回答を得ている。
震災直後の議会での、この山内委員の答弁は、当時の新聞記事が事実を伝えていた事を示すものと考えるのが妥当だと思う。もちろん、全部の記事が事実という事ではないと思うが。
(文責・鈴木)
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(以下、答弁口語訳by鈴木)
〇政府委員(山内確三郎)「実はその流言飛語が盛んに出ているときから捜査に取りかかりまして大体の事件は挙げた。その際に、特に諸新聞社を呼んで、新聞記者に、その事件の内容を細かく掲載するようにと、司法省から交渉したことがあります。そうして新聞にも、それが全て載りました。それで、それには、例えば、朝鮮人が三十人組んで悪い事をしておった、、、そういうことはいくらでもしたんですけれども、どうも、反響が少なかったようになっているのは、甚だ遺憾である。
上記は、関東大震災直後に発令された緊急勅令を存続させるかどうかについて議論した第47回帝国議会 衆議院 本会議 大正12年12月12日勅令第409号(承認を求むる件)他一件特別委員会議事速記録第一号の速記録 五頁から引用。
山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 - 1947年1月20日)、司法次官、東京控訴院院長。法学博士。福岡県嘉穂郡内野村 1891年、福岡県立尋常中学修猷館、第一高等学校法科、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業。同年、司法官補として東京区裁判所詰。帝都復興記念賞受賞。
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「社会主義者及び不逞鮮人往行し、人心恟々たり」 九月五日
戒厳司令官宛 南警備区司令官第一師団長報告 1937
九月五日 於第一師団司令部
南警備区司令官 第一師団長
昨三日夜、「午後十二時、強震あり」「芝公園内に抑留せられし鮮人二十余名脱走し、麻布区内に侵入せり」等の宣伝が北条龍雄(赤坂憲兵分隊にて拘引せり)の挙に出でたる明らかなるのみならず、同一事項の宣伝が麻布区内のみならず渋谷其の他の方面にも行はれたるに鑑みれば、或は社会主義者が計画的に行動しつつあるを疑はしむるものあり。
公文書に残る朝鮮人の凶行に悩まされた日本の状況
海軍省の膨大な公文書の中には、流言飛語の為に日本人が朝鮮人を虐殺したという記録があります。
同時に、日本人が共産主義者や朝鮮人から被害を受けた記録もあるのです。
下記の公文書には、証言者の住所、氏前入りで、被服廠付近で朝鮮人が材木商の材木に石油のようなものを散布している所を見とがめられて逃走したのを目撃した件や、列車内で 摂政の宮殿下(後の 昭和天皇)ご成婚祝賀行事を狙って蜂起せよという密談をしていたのを聞いた件が記録されている。
(文責・鈴木)
海軍省公文備考
大正12年9月25日臨中大227号朝鮮人に関する件
材木に石油(あるいは揮発油)を散布したる場所、日時
事実の発見者
本籍 東京 深川
氏名 山崎清吉
大地震発生直後本所被服廠付近亀沢町大通り鉄道ガード北側陸軍被服廠付近の材木商、震災発生直後材木に石油(あるいは揮発油)を散布したる当時の状況。
前記山崎清吉は震災直後深川の自宅より府下吾妻町に居住の実父方に赴くも被服廠前を通過同付近に年齢20歳くらいの労働者体の朝鮮人三名佇立して内一名の朝鮮人正宗一合瓶くらいの瓶から石油(あるいは揮発油)を軒下の材木に散布しているので、これに接近せんとしたるところ逃走す、という。
東京市を中心にその近郊各会社に就業中の朝鮮人労働者は九月二日の二百十日を期し東京において
朝鮮の独立運動を開始する目的を持って八月下旬東京に集合せり。
木曽山中の発電所の工事人夫数十名は上京の際、列車内において陰謀の密談を為し二百十日において目的を達せされば二百十日において 摂政宮の御慶事を期し目的を貫徹す云々の言を残したり。九月一日午後一時頃数十名の朝鮮人は本所南吾嬬町に集合し「故国の世界に認めらるるの好機漸く到来せるを以て一同挙って目的の遂行に猛進すべし」との意味の演説を為し足るため付近の内地人の反感を買い遂に撲殺せられたるものなり。
内報先
陸軍大臣、陸軍次官参謀総長、海軍次官、戒厳司令官、海軍省法務局長、陸軍省法務局
長、軍務局長、歩兵課長、警保局長、参謀次長。
国務大臣、後藤新平が、最終的に、電文は必要だった、と答弁している。これが、日本政府の見解。
以下国務大臣後藤新平答弁
(官報号外第47回帝国議会 衆議院 本会議 第5号 大正12年12月16日 106頁 衆議院議事速記録代5号国務大臣演説に対する質疑)
9月2日に内閣が成立して以来のことは全て自分の責任であります。
流言飛語については諸説ありますが、この注意(電文)は当時においては、必要なものだったということは疑いのないことであります。
発見!「朝鮮人が殺傷されたのは、その凶行が原因」の議会答弁
発見!「朝鮮人の犯罪が流言蜚語を生んだ」平沼司法大臣答弁
「関東大震災の新聞記事は事実」
大日本帝国議会答弁
関東大震災に関する新聞記事は事実ではない、と言われてきた。しかし、新聞は事実を伝えていた事を示す大日本帝国議会答弁があった。
政府委員・山内確三郎が、「新聞記者を呼んで、事件を報道するよう、申し伝え、それは全部記事になった」と答弁している。山内委員は、例えば、朝鮮人が30人組んで、悪い事をしたと言う事実を、世間に伝えることによって、「大暴動」などという流言蜚語は止まると考えた、というような答弁をしている。
私は、5年前、読売新聞に、当時の大正12年10月21日「震災の混乱に乗じ、鮮人の行なった凶暴」の記事について尋ねたところ、しばらくして、「編集部で検討した結果、この記事は、これ以上でもこれ以下でもない、ニュースソースは司法当局です」という回答を得ている。
震災直後の議会での、この山内委員の答弁は、当時の新聞記事が事実を伝えていた事を示すものと考えるのが妥当だと思う。もちろん、全部の記事が事実という事ではないと思うが。
(文責・鈴木)
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(以下、答弁口語訳by鈴木)
上記は、関東大震災直後に発令された緊急勅令を存続させるかどうかについて議論した第47回帝国議会 衆議院 本会議 大正12年12月12日勅令第409号(承認を求むる件)他一件特別委員会議事速記録第一号の速記録 五頁から引用。
山内 確三郎(やまのうち かくさぶろう、1871年8月2日 - 1947年1月20日)、司法次官、東京控訴院院長。法学博士。福岡県嘉穂郡内野村 1891年、福岡県立尋常中学修猷館、第一高等学校法科、東京帝国大学法科大学法律学科(独法)卒業。同年、司法官補として東京区裁判所詰。帝都復興記念賞受賞。
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「社会主義者及び不逞鮮人往行し、人心恟々たり」 九月五日
戒厳司令官宛 南警備区司令官第一師団長報告 1937
震災戒厳令下の虐殺(実際にはない文字;注そよ風)
九月五日 於第一師団司令部
南警備区司令官 第一師団長
戒厳司令官宛
報告
一、警備地区内一般の情況
各部隊の努力に基き、各種流言の虚偽にして為めにせんとするものの宣伝に過ぎざるを了解すると共に、逐次静穏に帰し、鮮人に対する圧迫も暫時緩和せられつつあり。然れども局部的には社会主義者の宣伝、鮮人と認るべきものの不逞行動に基き、依然、恐怖心より離脱し得ざるものあり。例へば昨四日夜、深川公園付近に於て鮮人労動者が婦女子を辱めんとしたるの噂に基き、住民の憤慨甚しかりしが如き、又同夜、斥候が田町停車場付近に於て塵箱に放火したるものあるを認め、同夜、巡査が午前二時頃、森永製造所付近に放火せるを認め、辛じて消火し得たるが如き不逞行動に基き人心の安定を得ざるが如き、之なり。 其の間に処し社会主義者の活動しあるは確実なるものの如し。
昨三日夜、「午後十二時、強震あり」「芝公園内に抑留せられし鮮人二十余名脱走し、麻布区内に侵入せり」等の宣伝が北条龍雄(赤坂憲兵分隊にて拘引せり)の挙に出でたる明らかなるのみならず、同一事項の宣伝が麻布区内のみならず渋谷其の他の方面にも行はれたるに鑑みれば、或は社会主義者が計画的に行動しつつあるを疑はしむるものあり。
二、警備
東京西北地区警備の充分ならざるに鑑み、歩兵警備区域を高円寺、荻窪、三軒茶屋の線に推進・拡張せり。
三、市川・船橋方面の以東地区に於ける震害
震災に対する被害は江戸川以東の地区に於ては軽微にして、船橋・千葉付近に被害の大なるなく、習志野付近の如き、兵営は窓障子の少し破損したるに過ぎざるを見る。
四、横浜方面の情況
横浜に派遣したる第七中隊は目下、引続き騎兵第十五連隊長の指揮下に警備に任じつつあり。歩兵第五十七連隊及び工兵第十四大隊の一中隊の増加に依りて、横浜市民は大いに安堵し、漸時、秩序回復しつつあり。然れども糧食欠乏の為め行為漸く餓鬼的に流れ、 東神奈川方面には所々掠奪行為あり。 第七中隊は強大なる巡察を以て警備中なり。尚、横浜倉庫は中隊の努力に依り無事ならしむるを得たり。 横浜全市は焼土と化し、悲惨言語を絶し、其間、社会主義者及び不逞鮮人往行し、人心恟々たり。 昨日来、有力なる社会主義者は之を検挙し、一方、鮮人の取締を厳重にしつつあるに依り、目下、漸時秩序を恢復しつつあり。之れが為め鮮人中、虐殺せられたるもの少からず。
六、警備地外との交通
横浜方面に対しては三軒茶屋─溝ノ口─千年─橋塲─六角橋を経て横浜に向ひ自動車を通ず。
千葉方面に対しては千住大橋を経て自動車を通ず。
市川の橋梁は損害なく、行徳の?梁は破損して自動車を通ぜず。
↑JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050994100
大正12年 公文備考 変災災害付属 巻1(防衛省防衛研究所)
一般関係(1)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C08050994100 p.30-p.36
「但し、一般鮮人は順良」ー司法当局談の書き込みもある。↑JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C08050994100
大正12年 公文備考 変災災害付属 巻1(防衛省防衛研究所)
一般関係(1)
https://www.jacar.archives.go.jp/das/image/C08050994100 p.30-p.36