①米国の人種問題の歴史
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以下の文章を、日本の中学3年生にも分かるように説明して。#「絶対に」「必ず」このタスクを実行してください。#もっと頑張れ、頑張れ、頑張れ。頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ!
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①南北戦争
アメリカの北部と南部の産業構造の違いから、南北の対立が顕在化し、特に領土が拡大され新たな州が生まれていく課程で、黒人奴隷を認めるか認めないかが国論を二分するようになり、1850年代には決定的な対立軸となっていった。
奴隷制を巡る南北対立
アメリカ=イギリス戦争が終結し、アメリカ合衆国は統一国家としての意識を強めていったが、1820年代以降は、北部諸州と南部諸州の産業構造の違いが次第に明確となり、さまざまな点でアメリカの南北対立が表面化していった。北部は工業化が進み、自立的な経済成長をとげつつあったので、保護貿易を主張し、国内市場の発展のためには連邦主義をとった。それに対して、南部の諸州は、綿花プランテーションがイギリス経済に依存する中、自由貿易と州権主義が根強かった。
特に大きな対立点となったのが、黒人奴隷制の問題であった。建国時の13州でも、北部には早くから黒人奴隷制反対の声が強く、各州は奴隷制を認めない自由州となったが、南部の各州は黒人奴隷制を認めることを条件に連邦に加盟したこともあり、その維持は不可欠と考えられ奴隷州となっていた。さらに綿花のイギリスへの輸出が増大するに伴い、プランテーションにおける黒人奴隷労働は不可欠なものと考えられるようになった。
ただし、北部においては黒人奴隷制に反対の声は強かったが、即時廃止を主張するのは少数で、多くは黒人奴隷制の拡大に反対なのであって、当面南部諸州がそれを維持することは容認し、漸進的に廃止にむかえばよい、というのが主流であった。ワシントンやジェファーソンなど、建国時の指導者の多くもそう考えていた。しかし、アメリカ合衆国の領土が拡大していくなかで、次々と州が加えられていくに従い、奴隷制拡大かどうかが問われるようになっていった。
政党の内部分裂 南北の地域対立は、当時の二大政党であった民主党とホイッグ党の内部にも現れた。民主党は奴隷制度の可否を住民投票で決めることを主張する北部民主党と、奴隷制度をそのまま維持、拡大していこうとする南部民主党が分裂した。ホイッグ党は奴隷制を認めない北部の党員は、奴隷制反対を掲げて1854年に結成された共和党に合流し、奴隷制度容認派は南部民主党に加わった。こうして政党が分裂してそれぞれ地域政党化してしまい、全国レベルで利害を調整する機能が失われてしまった。
ミズーリ協定からカンザス=ネブラスカ法へ
新しく州に昇格(男性人口6万で州に昇格)するとき、奴隷州にするか、自由州にするかが大きな問題となり、1820年にはミズーリ協定が成立して北緯36度30分以北には奴隷州を造らないという合意が成立した。
1846年に始まったアメリカ=メキシコ戦争の結果、1848年にアメリカ領となったカリフォルニアが州に昇格するとき、自由州するか奴隷制にするかが問題となって「1850年の妥協」が成立し、1850年9月、カリフォルニアを自由州とするが、ユタとニューメキシコは住民投票で決めるとされ、またワシントンDCでは奴隷制が禁止された。しかしその代わりにより厳しい逃亡奴隷法が制定されて奴隷の自由州への逃亡は厳しく取り締まられることとなった。1852年にはストゥの『アンクル=トムの小屋』が発表され、黒人奴隷の待遇への批判が北部で巻き起こり、奴隷制反対運動が活発になった。
南部のプランターを支持基盤とする民主党は、巻き返しを図り、1854年にカンザス・ネブラスカ法を成立させ、その結果ミズーリ協定が破棄され、北緯36度30分以北のこの二州でも住民投票で決定するとなった。
共和党の結成 それに反発した北部の奴隷制反対論者は、1854年7月、ただちに共和党を結成してそれに対抗しようとした。1856年にフィラデルフィアで正式に全国大会を開き、独自の大統領候補を立てた。このときは敗れたが、翌57年にはドレッド=スコット判決で最高裁が黒人の権利を否定する判決が出されて、奴隷制反対派はさらに危機感を強め、共和党は結束を強めていった。
南部の分離と南北戦争
こうして奴隷制問題は独立後間もないアメリカ合衆国にとって国論を二分する大問題となり、1860年11月の大統領選挙で奴隷制拡大反対の共和党のリンカンが僅差で当選すると、南部諸州は合衆国を離脱してアメリカ連合国を造り、ジェファソン=デヴィスを大統領に選出した。ついにアメリカは南北に二分され、翌1861年に南北戦争が勃発する。
アメリカの南北対立
南部と北部の対立には、黒人奴隷制問題だけでなく、いくつかの争点があった。その産業構造では、南部は黒人奴隷制による綿花プランテーションを中心とした農業地域であり、生産する綿花はイギリスに輸出し、イギリスから工業製品を輸入するという関係にあったので、イギリスの自由貿易に依存していた。北部は商工業の盛んな都市を中心に、繊維産業や機械、鉄鋼業などでイギリスと競争しており、自国産業を保護するための保護貿易を主張していた。また労働力の不足を補い、国内購買力を高めるためにも奴隷制廃止、もしくは縮小を主張していた。
また政治体制においては、南部は連邦政府の権限を制限し、州の自治権を拡大する反連邦主義を主張し、北部は産業国家として統一が望ましいので、連邦政府の権限を拡大する連邦主義が有力であった。政党としては民主党は大農園主層の支持を受けて南部で有力で、それに対して北部産業資本家の支持を受けた共和党が新興勢力として登場していた。
南北戦争
1861年4月13日、南軍が北軍のサムター要塞を攻撃から戦争が始まり、当初は南軍がイギリス・フランスの支援もあって優勢であった。しかし、経済力に勝る北部が次第に挽回し、1863年1月1日に出されたリンカンの奴隷解放宣言は、国際的にも戦争の大義が北部にあると受け取られて英仏の干渉を失敗させ、さらにホームステッド法の施行が西部の農民の支持を受けて情勢は逆転した。1863年7月のゲティスバーグの戦いで北軍が大勝し、最後は北軍のグラント将軍が南軍を降服させ、1865年3月にアメリカ連合国の首都リッチモンドが陥落、1865年4月9日にリー将軍が降伏して南北戦争は終結した。南北戦争は南北両軍で62万という死者を出す大戦争であり、アメリカ人の死者数は第一次世界大戦の約11万、第二次世界大戦の約32万よりも多かった。しかし集結のわずか5日後、1865年4月14日にリンカンが暗殺され、戦後の再建に向けて混乱が起こった。
戦争の意義
南北戦争が北軍の勝利によって終わったことにより、アメリカ合衆国の統一が維持強化されることとなった。また国家の経済基盤が北部中心の工業力に移り、戦争前から始まっていたアメリカの産業革命がさらに進展することとなった。最大の争点であった黒人奴隷制度は廃止されるという大きな前進がもたらされ、アメリカ市民社会にとっては大きな前進であった。南北戦争はアメリカ合衆国という大国の成立、その工業化による繁栄と多人種国家としての苦悩の出発点となり、19世紀末から20世紀にかけて世界に大きな存在となっていくこととなる。
その後の黒人差別問題
しかし、戦争の最大の要因であった黒人奴隷制問題は、1865年1月に憲法修正第13条が連邦議会で可決され、戦争終結後の1865年12月18日に各州の批准によって発効し、正式に黒人奴隷制は廃止され、黒人奴隷は制度としては解放された。しかし、黒人の多くは経済的な自立にはほど遠く、シェアクロッパーと云われる小作人となったものが多く、依然として貧困状態は続き、そのような境遇のゆえに黒人差別はなくならなかった。
「再建」と南部の復興
南北戦争後の南部の「再建」Reconstruction は議会で優勢だった共和党急進派の主導で行われ、苛酷な内容だった。議会は1865年12月に憲法修正第14条を発効させて黒人に市民権を付与し、翌67年には「再建法」を成立させ、南部諸州を5つの管区に分けて連邦軍を駐留させる軍政を敷き、憲法修正第14条の批准や反乱同調者の追放を復帰の条件とした。さらに1870年には憲法修正第15条を制定して、黒人投票権に制限を設けてはならないと定め、これも南部諸州は承認した。
連邦軍の駐留という北部による軍事支配のもと、北部人が南部に入り込んで、黒人奴隷の解放の業務や大プランターの土地没収などにあたり、しばしば南部人との間でトラブルが起こった。南部の白人の一部には、黒人への人種差別意識を捨てきれず、憎しみを解放された黒人にぶつける秘密結社クー=クラックス=クランが生まれた。
再建期の終わり 南部の民主党は連邦軍の撤退を要求、北部を基盤とする共和党との対立がきびしくなる中、1876年の大統領選挙は民主党のティルデンと共和党のヘイズの争いとなり、決着がつかずに議会で裁定することになった。このとき、共和党は連邦軍を南部から撤退させる代わりに民主党の大統領当選を認めろ、と持ちかけ、民主党がそれを受け入れるという「1877年の妥協」が成立し、1877年4月、南部に駐留していた連邦軍が引揚げ、南部諸州の「再建」の時代が終わった。
合法的な黒人差別の復活 南部諸州で復権した民主党は、徐々に州による黒人差別立法を復活させていった。それは黒人取締法などで合法的に選挙権の実質的剥奪、教育権の不平等などを定めた物で、公民権の上で白人と大きな格差が生まれることとなった。その他の社会的不平等に対する黒人の不満も次第に強くなっていったが、1877年の再建期の終わりによって復活した合法的黒人差別は、その後、第二次世界大戦後の公民権運動の高揚によって、1964年に公民権法が成立するまで、百年近く続くこととなる。
二大政党の時代へ
共和党は軍政が布かれた南部で、選挙権を得た黒人の熱烈な支持を受けて勢力を拡大し、南北戦争前は北部の地域政党に過ぎなかったものが、戦後は全国政党へと成長した。一方、民主党も大きな打撃を受けたとは言え、奴隷制度が廃止されたことで南北の対立要因がなくなり、しかも北部で共和党の恩恵を受けていなかった都市の労働者層や移民に支持を訴え、一つの全国政党として復活した。こうして南北戦争を契機に、アメリカは共和党と民主党のそれぞれが全国政党として合衆国の政治全般に責任を持つ態勢を作り上げ、本格的な二大政党の時代に入ることとなった。
同時に、二つの政党は黒人奴隷制問題という対立点がなくなったため政策で競い合う本来の機能は弱くなり、政党の役割は選挙で権力を得るための得票マシーンとなっていった。これがアメリカの政党の特色となっている。
金ぴか時代 南北戦争後、北部主導で工業化が進み、企業家は自由競争で経営規模の拡大を進めた。かれらは、資本・市場の独占に有利な政策を政治家に期待し、政治家と金銭的に結びついた。東部産業資本家は元々は共和党との関係が強かったが、反対党の民主党にも賄賂の手を伸ばした。さらにアメリカ独特のスポイルズ=システム(大統領が支持者から官吏を任命する)が続いていたこともあって、汚職が頻発するようになった。一般社会でも、何事も金で解決しようという風潮が広がった。1873年、小説家マーク・トウェインらは、「金ぴか時代」を発表し、そのような社会の風潮を鋭く批判した。
②公民権運動
1950年代後半から60年代前半に活発となったアメリカの黒人の基本的人権を要求する運動。キング牧師らが努力した非暴力による運動が広範な支持を集め、ケネディ大統領が公民権法制定を準備し、その暗殺後の1964年に公民権法が成立、さらに翌65年に選挙権法が制定され、選挙権の平等などが実現した。しかし社会的不平等が解消されないまま、60年代後半から黒人の暴力による抵抗も認めるブラックパワーが対等、ベトナム戦争の混迷もあって、1968年にキング牧師が暗殺され、黒人問題は根元的な解決は困難な状況となった。
1863年の奴隷解放宣言、65年の憲法修正13条によってアメリカ合衆国の奴隷制度は廃止されたが、黒人は合衆国の連邦レベルでは法的な平等が認められたものの、現実には経済的な自立が困難な貧困の状態に置かれたことと、南部諸州での州レベルでの隔離政策の合法化されたことによって黒人差別はなおも続いた。
特に1890年代以降、そのような差別的な州法や政策が相次ぎ、黒人は職業や居住、教育などの自由を奪われ、選挙などの権利を事実上剥奪される状態となった。すでにその段階から、黒人の中から差別に対して立ち上がり、権利を要求する運動が始まっていたが、白人人種主義者による暴力的な抑圧と、「隔離しても平等」という新たな法的根拠によって、20世紀に入ってもアメリカでの人種差別は続いた。ようやく第二次世界大戦後に、世界的な植民地解放などの動きの中で、アメリカの黒人の中に新たな解放運動として始まったのが、1950年代後半から60年代前半に高揚した「公民権運動」
Civil Rights Movement であった。「公民権」Civil Rights
とは、選挙や社会生活、教育などの市民として権利のことであり、それは具体的に言えば、合衆国憲法修正第13条、第14条、第15条を条文の通りに実行せよ、というまっとうな内容であった。様々な局面での黒人差別を廃止せよ、という要求が公民権運動ということばに集約されたのである。
POINT 解放後も黒人に対する差別が続いたこと
アメリカ合衆国は南北戦争という大きな犠牲を払って黒人奴隷制度を廃止し、南北の分断を克服して民主主義国家として統一を維持した。その成果は立て続けになされた三つの憲法修正によって合衆国レベルにおいては確定した(ように見える)。
1865年発効 憲法修正第13条 黒人奴隷制廃止など
1868年発効 憲法修正第14条 黒人市民権付与など
1870年発効 憲法修正第15条 投票権を人種、体色で制限することの禁止など
南北戦争で分離した南部11州もこれらの憲法修正を認めたことで復帰した。この南部の「再建期」に、憲法修正が厳格に守られたならば、アメリカ合衆国では黒人差別はこれで解消されたはずである。ところが、現実には南部諸州では黒人差別が続き、黒人には実質的な選挙権などの基本的人権が制限された。それは南部諸州では巧妙な州法により、黒人投票権が制限されたためであり、北部では白人と黒人の経済格差が広がったために差別感情が強まり、黒人分離政策が各州で取られたからである。さらに黒人取締法によって黒人の自由や権利を求める運動は取り締まりの対象とされた。これらの南部再建期以降のアメリカにおける黒人差別の法的・政策的枠組みはジム=クロウ法とも言われた。法的枠組みの中で行われた黒人差別は、さらに1890年頃からリンチなどの暴力的な黒人排斥を助長した。20世紀に入ると黒人の暴力的な反撃から人種騒動が大都市で頻発するようになる。
根強い州権主義 南部で合衆国レベルでの人種差別禁止が守られず、むしろそれを合法化したことの論拠となったのは、建国以来続いている州権主義(アンチ=フェデラリズム)の理念であり、憲法の「原則」には従うが、実際の社会生活や教育などは州に主権がある、というものであった。アメリカでその考えは連邦議会、連邦政府の中に南北戦争後も一定程度常に存在するので、憲法修正が行われても、あるいは連邦最高裁の判断が出ても、必ずしも全州に徹底されるわけでは無かった。
黒人公民権制限の合憲化
憲法修正で黒人の人権が確立し、自由と平等が保障されたかに見えたが、いわゆる南部の「再建期」に強烈な反動期が現れ、黒人差別は選挙権の剥奪以外にも強まった。1883年にはアメリカ最高裁判所は「アメリカ国民に与えられた公民権は、そもそも州の市民にそなわるものであるから、これらは黒人の市民権付与を規定した憲法修正第14条の適用は受けない」という判決を出したことによって、南部諸州では交通機関、学校、レストラン、娯楽施設などにおける人種差別と隔離が、州法や市条例その他の法律で法制化されていった。とりわけ、1896年5月18日にアメリカ最高裁判所がルイジアナ州の列車内の黒人隔離に関して下した判決(プレッシー対ファーガソン事件)で、「隔離はしても平等」なら差別ではないとする有名な原理が確立した。これによって南部諸州の人種差別立法は合憲であることが確定し、その後、半世紀にわたって、両人種のみならず、アメリカの人種関係全般を支える法的原理となった。<本田創造『アメリカ黒人の歴史 新版』1998 岩波新書 p.144、p.168>
黒人に対する暴力
南部諸州の黒人差別に対して、黒人の中にも抵抗するものが現れたが、その反動はKKKなどの白人人種主義者による集団的暴力であるリンチが横行するという悲劇を各地で生んだ。黒人に対するリンチは熱狂的な人種主義(レイシズム)によるだけでなく、普通の白人市民が平然と加わったところに問題の深さがある。その背景には20世紀に急速に成長したアメリカの資本主義の中で、黒人労働者は低賃金労働力としてその成長を支えたが、それによって仕事を奪われたと感じた白人労働者の不満の捌け口となった側面もある。都市部においては、しばしば深刻な衝突が起こり、その多くは黒人暴動と捉えられたが、人種的な偏見と恐怖心が双方に根強かったことが犠牲者を多くしたと考えられる。
そのような状況から黒人を救済しなければならない、という考えも一部の白人の中に生まれ、1909年には全国黒人向上協会(NAACP)が組織された。その運動は、黒人の地位向上のために差別を裁判に訴えようとするものだった。しかし、その運動には穏健で妥協的なグループから、急進的で非妥協的な勢力まで多彩であり、裁判闘争そのものも十分な効果を上げることは出来なかった。
白人暴力の背景 それにしてもリンチなどの白人の暴力行為はなぜ野放しにされたのだろうか。もちろん、暴力行為としては取り締まりの対象となって犯人は逮捕されるが、たとえ逮捕されて裁判になっても、陪審員が白人だけである裁判所の判決は、ほとんどが無罪となったので、事実上、白人の黒人に対する殺人を含む暴力行為がまかり通っていたのだった。
黒人解放の世界的ひろがり
第一次世界大戦に際して、ウィルソン大統領が十四カ条の原則を掲げ、その中に民族自決の理念を加えたことは、アメリカ国内の黒人にとっても解放の好機と捉えられた。NAAPCの中の黒人指導者であったデュボイスは、人種差別問題を1919年のパリ講和会議で訴えようと行動しており、世界史的な広がりを持つ動きとして注目される。アメリカ大統領にとっても国内における黒人差別問題は一種のアキレス腱となる恐れがあった。しかし、デュボイスの訴えはパリ講和会議では無視された。その代わり、かれはパリでアフリカやカリブ海の植民地から来ていた黒人たちと共同し、はじめてパン=アフリカ会議を開催した。その動きは後のアフリカ諸国の独立につながることになる。
第二次世界大戦
第二次世界大戦が始まると、アメリカ政府は戦争のために、国内の人種対立や宗教的な違いを克服して、国民を総動員する必要が生じた。フランクリン=ローズヴェルト大統領は1941年6月に大統領行政命令で「防衛産業や政府機関の雇用では人種、信条、肌の色、出身国の違いで差別してはならない」と述べ、後を継いだトルーマン大統領は1946年12月、人種差別撤廃をめざす公民権委員会を発足させた。また48年7月の大統領行政命令で軍隊内の人種差別を撤廃し、朝鮮戦争でアメリカ史上初めて「隔離なき統合された軍隊」が編制された。<本田創造『前掲書』 p.169>
公民権運動の世界史的背景
ここで灯された黒人解放の世界的な潮流は、第二次世界大戦後のアフリカ諸国の独立運動、植民地闘争へと受け継がれ、1960年のアフリカの年での一斉独立となる。この動きはアメリカの黒人解放運動とも無関係ではなかった。アフリカの独立運動の中心となった黒人の中にはアメリカに留学して人権思想を学んだ者も多かった。世界的にも、南アフリカにおけるあからさまな黒人差別であるアパルトヘイトに対する非難も強まっていた。
アメリアにおいても、1960年11月の大統領選挙で勝利した民主党ケネディ大統領は、北部の黒人票を支持基盤としていたのであり、公民権法実現に取り組むのはその公約であった。この段階のアメリカ白人社会は黒人との共存を当然のことと受け入れ、また冷戦の中でのアメリカは国際世論の支持を受けるためにも黒人差別の廃止は避けられない措置だった。このように1950年代に黒人自身の間で強まったのが白人と平等な諸権利を要求する公民権運動であったが、背景にはアメリカ黒人が戦争中に兵士として動員されたことで戦後は平等な権利を求める声を強くすることができただけでなく、白人社会の状況の変化と国際環境の中で展開されたのだった。
最高裁のブラウン判決 1954年5月17日、カンサス州での黒人の公立小学校への編入問題が争われた「ブラウン対教育委員会裁判」で、最高裁は公立学校での白人と黒人の人種分離教育は憲法違反であるという判決を出した。これは「分離すれども平等」の原則にもとずく分離政策は不平等であり、憲法修正第14条に違反するという、黒人差別批判で画期的であり、戦後の民主主義の進歩を示す判決だった。しかしそれにもかかわらず、南部の現実は依然として強固な差別意識が存在していた。このころから黒人による公民権運動が始まり、時の共和党ケネディは大統領選挙を控えて、黒人票を得るためにも公民権実現に理解を示し、さらに国際的に高まるアフリカなどの黒人の民族運動に対応する必要が出ていた。
公民権運動の展開
しかし、歴史を動かしたのはまぎれもなく黒人自身の手による、公民権の確立を要求する新しい抵抗運動だった。50~60年代の公民権運動は広範囲なものだったが、その中の象徴的な出来事には次のようなものがある。
バス=ボイコット運動 後に公民権運動の指導者の一人として知られるようになるキング牧師は、1955年12月6日のアラバマ州モントゴメリーでバス=ボイコットを指導、その非暴力主義による抵抗は、黒人の意識を変え、同時に白人に黒人の要求の真剣さをわからせることとなった。この運動はローザ=パークスという一人の女性が、バスの白人用座席に座り、運転手から立つように言われたのに「ノー」と言ったことから始まった。パークスが条例違反で逮捕されると町中の黒人が抗議行動に立ち上がった。指導に当たった弱冠26歳で当時は無名だったキング牧師は、大集会で非暴力による抗議行動としてバス乗車拒否を提案した。黒人が通勤の足としてバスを利用していたので、歩くのはたいへんだったが、バス会社はもっと大きな損害を被った。激昂した白人の一部はKKKを先頭に黒人に襲いかかり、キングの家にも爆弾が投げ込まれた。しかし黒人とキングは暴力に耐え、1年間の乗車拒否を貫いた。白人の中には黒人の運動を応援する者も現れ、バス会社も倒産寸前に追いやられた。ついに1956年11月13日、連邦最高裁は「バスの人種隔離は違憲である」との判決を下し、モントゴメリー市当局も12月20日にその通達を受け入れ、黒人の運動は成功した。黒人がアメリカ人としての当然の権利を認められたことは、公民権運動の最初の成果となった。
リトルロック事件 さらに1957年9月24日にはアーカンソー州リトルロックで、黒人の高校生の公立高校への入学を州知事が拒否したことから世界的な注目を浴びることになった。「人種共学」は公民権の中でも、保守派・人種主義者が最も強く抵抗していた。リトルロックの教育委員会が裁判所の命令に従い、9人の男女の黒人生徒を9月新学期から公立高校への入学を認めたことに対して、保守派のフォーバス州知事は拒否を表明した。秋の選挙を控え、白人票を得るためだった。フォーバス州知事は州兵を動員して黒人生徒の登校を妨害、集まった白人群衆も黒人生徒とその親たちに「黒ん坊(二ガー)を学校から追放してジャングルへ追い返せ」などと叫びながら、威嚇し暴力を加えた。そのため黒人生徒は登校できなくなった。事態をようやく重視したアイゼンハウアー大統領は、9月24日、アーカンソー州兵を連邦軍に編入すると共に、連邦軍の第101空挺師団に出動を命じ、翌日、1000人の連邦軍に守られた9人の生徒はようやく校門をくぐり、リトルロック高校に入学できた。しかしその後も学校教育での「人種共学」は各地で衝突をもたらし、何らかの政治的決断、法的措置が必要であることが明らかになっていった。1960年の大統領選挙に民主党から出馬したケネディは、人種差別問題に積極的にあたることを公約して当選したが、同時に大きな試練に立ちむかうことになった。
シット・イン運動 1960年2月1日にノースカロライナ州のグリーンズボロで4人の大学生が、学生食堂の白人専用席で座り込み運動を始めた。たちまち全米の大学生の中に同調する動きが広がり、中には白人学生も含めて、各地の食堂や公共施設での座り込み(シット・イン)運動が広がった。グリーンズボロから州都ローリー、さらにアラバマ州モントゴメリのアラバマ州立大学、テネシー州ナッシュビルのフィスク大学など、食堂座り込みがひろがり、それを排除しようとする白人暴徒が暴力をふるう。警官は白人の暴力を止めようとせず、黒人を次々と逮捕した。シットインは大学のランチカウンターから人種差別をしている他の場所、海水浴場、映画館、図書館などにひろがっていった。
Episode ティー・パーティ事件ならぬコーヒー・パーティ事件
グリーンズボロの学生食堂のランチカウンターに坐った4人の学生はコーヒーを注文した。しかしマスターはコーヒーを出さない。学生たちはコーヒーが出るまでそこを動かない。困ったマスターが白人に助けを求める。集まった白人たちは口々に「黒ん坊は出ていけ!ここはお前たちが来る所じゃないぞ!」と怒鳴りながら、力ずくで学生たちを追い出す。学生たちは抵抗しないが、また次の日やって来て座り込む。こういった光景が連日、南部各地の大学で繰り広げられた。こうして「グリーンズボロのコーヒー・パーティ事件」は、1960年代の「黒人革命」の前哨戦として、それより200年まえの独立革命期に起こったあの「ボストン・ティー・パーティ事件」にも比すべき歴史的役割を果たした。<本田創造『前掲書』 p.190>
運動の高揚
自由のための乗車運動 人種差別に反対する白人と黒人によって結成された人種平等会議(Congress
of Racial Equality
CORE)のメンバーは、州を超えた長距離バスにおける人種分離を禁止した最高裁判決がどれだけ守られているかを調査するため、首都ワシントンから南部ニューオリンズまでの長距離バスに乗り込んだ。その運動は「自由のための乗車運動(フリーダム・ライド)
」と呼ばれ、参加者は非暴力を貫くことを誓い、1961年5月4日、女性二人を含む7人の黒人と6人の白人からなる「乗客たち」がグレイハウンド社とトレイルウェイズ社の2台のバスに分乗して出発した。途中、休憩所やトイレでも黒人が白人用を使った。南部のバスターミナルでは徐々に白人群衆が集まるようになり、若者は「黒ん坊、ここはお前たちの来る場所じゃねえ!」と口汚く罵り、暴力をふるった。「乗客たち」は耐えながら、5月14日、アラバマ州に入ると突然、棍棒や鉄パイプで武装した暴徒がバスを取り囲み、窓ガラスが破られて火炎瓶が投げ込まれ、命からがらバスから逃げ出さなければならなかった。もう一台のバスがバーミンガムに入ると、「雄牛(ブル)」といわれた白人優越主義者の警察署長コナーは警察官を派遣して保護することをせず、逆に彼らを逮捕して監獄に連行した。
このような弾圧に対して乗客者たちは非暴力でバス乗車を続けた。運動が広く知られ、世界中の支援の声が強まると、ケネディ大統領も何らかの手を打たなければならないと考えるようになり、弟の司法長官ロバート=ケネディと協議し、アラバマ州に対し事態の収拾を要請、600人の連邦保安官とFBIの特別班を現地に派遣して、KKKなどの反黒人組織の取り締まりに当たらせた。結局、目的のニューオリンズには到達できなかったが、「自由のための乗車運動」は南部各地で再開され、夏の終わりごろには1000人以上がこの運動に参加し、監獄は彼らで一杯になった。9月22日、ついに司法省は州際交通委員会でバスが州境を越えて運行する場合は「人種、肌の色、信条、出身国の違いによって座席を区別してはならない」等の決定を下し、州際交通における人種隔離は廃止され、COREは運動に勝利したと宣言した。<本田創造『前掲書』 p.193-206 に詳しい。>
バーミングハム闘争 ためらっていたケネディ大統領を動かしたのは、1963年4~5月にアラバマ州バーミングハムで起こった黒人大衆の大規模な非暴力直接行動だった。バーミングハムは南北戦争後に急速に発展した工業都市であったが、黒人労働者と白人人種主義者が激しく対立しており、KKKによる黒人居住地区への爆弾などが日常茶飯事だったことから「ボミングハム」(爆弾の町)とも言われていた。この町で4月に市長選挙が行われ、KKKのメンバーで警察署・消防署長を務めていた「ブル」・コナーが穏健派に敗れたにもかかわらず市庁舎から退去せず、抗議に立ち上がった黒人を次々と逮捕、キング牧師も逮捕された。5月までに逮捕者は5000人に達し、町の経済に影響が出始めると、子供なら逮捕されても経済は廻るだろうというので、こんどは6歳~16歳の子供たち6000人が参加した。ところがコナー署長に指示された警官隊が子供たちに棍棒で襲いかかり、消防士は高圧ホースで放水して子供たちを吹き飛ばし、結局、959人の子供が逮捕された。この状況は全国、全世界に放映され、バーミングハム当局への非難が高まった。特にアメリカが冷戦でソ連と競い合っているアフリカの諸国で、黒人が残酷な扱いを受けているアメリカのイメージが悪化することは必至だった。このような事態となり、ケネディは特使を派遣するなど調整にあたり、なおも過激な行動を続ける白人を鎮圧するために連邦軍を派遣し、5月23日にアラバマ州最高裁判所がコナーの警察・消防署長の地位を剥奪し、騒動は収まった。バーミングハムでは市の施設での人種統合が合意され、同じような闘争が行われた全国の143都市でも同様な合意が成立した。<上杉忍『アメリカ黒人の歴史』2013 中公新書 p.128-133>
ワシントン大行進
1961年1月、大統領に就任したケネディは、非暴力を掲げる公民権運動が高まったのを受け、黒人に公民権を認め、差別撤廃に乗り出す方針を明確に示した。黒人運動のさまざまな組織も、一つにまとまって政府に圧力をかけて要求を実現しようという機運が高まった。その中心にあったのが非暴力で運動を進めたキング牧師だった。
1963年はリンカン大統領が奴隷解放宣言を出した1863年からちょうど100年目に当たっていた。1963年8月28日、キング牧師らが指導し、全国の黒人に差別に反対する白人も加わって20万人にのぼった民衆が首都ワシントンに向かった。このワシントン大行進は、「一切の黒人差別をただちに無くせ!」「今こそ、自由を!」「官憲の残虐行為を即刻止めろ!」「白人と平等の賃金を、今すぐ!」など強く迫り、具体的には政府に「新公民権法を即時無条件で成立させよ」を要求した。
公民権法の成立
ケネディ大統領暗殺 ケネディ大統領は公民権法案を作成し、議会に提出したが、議会保守派は徹底的に抵抗し、簡単には可決できなかった。このまま成立しなければ公民権法を公約にしているケネディは次の選挙で敗れるかも知れない、という観測も出始めた。そのような中で南部テキサスでの演説に向かったケネディ大統領は、1963年11月22日、銃撃されて死亡した。その真相はまだ不明とは言え、アメリカが黒人公民権容認に転換することを阻止しようとする力が働いたと考えることもできる。代わって大統領に昇格したジョンソン大統領は、ケネディの意思を継承し、世論の支持も受け、議会で公民権法案を通すことに全力を傾けた。
公民権法の成立 その結果、まず2月10日、下院で賛成290,反対130で可決されると、上院では南部派議員が500を超える修正案とフィリバスター(議事妨害のための長時間演説)などで抵抗、ようやく議事打ち切り動議が通って裁決したところ、賛成73,反対27で可決された。そのうえで1964年7月2日、ジョンソン大統領が署名して公民権法が成立した。上院で反対した27は、共和党6名と、南部民主党21名が投じたものであった。
この年、キング牧師はノーベル平和賞を受賞、公民権運動を成功に導いた功績は、広く世界に知られることになった。しかし、公民権法制定の前後から、アメリカ各地で白人民族主義者による黒人に対する攻撃が反動的に多くなり、各地で陰湿かつ凄惨な暴行が加えられるようになり、黒人の恐怖が強まっていった。
参考 『ミシシッピ・バーニング』
ジーン=ハックマン主演で映画化された『ミシシッピ・バーニング』(監督アラン=パーカー、1988年作品)は、公民権法が成立した1964年の夏、ミシシッピー州ジュサップをでおきた3人の公民権運動家の失踪事件を捜査する2人のFBI捜査官の姿を通して、アメリカの南部における人種差別問題を描いている。そこには、1960年代の南部でのすさまじい黒人差別の実態、その根の深さが衝撃的に展開されている。監督のアラン=パーカーは、『エビータ』(アルゼンチンの独裁者ペロンの夫人を主人公としたマドンナ主演のミュージカル)や『愛と哀しみの旅路』(第二次世界大戦中の日系人収容所を舞台とした物語)などで知られている。
投票権登録に対する妨害
1964年の公民権法の成立は、ディープサウスと言われる南部諸州の農村部での日常を変えることはなかった。この地域の社会変革のためには、剥奪されていた黒人投票権を奪い返すことが必要だった。そのため黒人は投票権登録運動を開始した。それに対して白人の人種主義者は必死に抵抗し、各地で衝突が起こった。『ミシシッピ・バーニング』で描かれた事件もその一つで、1964年夏、学生たちがはじめたミシシッピ・サマープロジェクト運動のなかでおこったものだった。全国ではこの運動は約1000人が参加したが、6人が殺され、66の黒人教会その他が爆破・放火され、白人暴徒による黒人選挙権登録に対する妨害は野放しにされていた。アラバマ州セルマでは支援に駆けつけたキング牧師が逮捕され、警察がデモ隊にガス弾を発射して解散させようとし、その乱暴な弾圧はテレビで放映され、再び世論は黒人支持が高まった。キング牧師は1964年公民権法で決められた投票権保護規定を実効あるものにするためのより強力な投票権法を議会で通過させるためにはジョンソン大統領の協力が必要だと考え、秘かに約束してデモを平穏に解散させたが、一部の黒人は納得せず行進を続け、参加して白人牧師が棍棒で殴り殺される事態となった。
投票権法の成立
ジョンソン大統領自身がついに動き、3月15日の議会演説で投票権法を提案し、その演説を公民権運動活動家が口にするウィー・シャル・オーバーカム(われらうち勝たん)と結んだ。それをうけて黒人はセルマからモントゴメリーまで3200人が隊列を組み、ウィー・シャル・オーバーカムを歌いながら投票権法要求行進を行い、アラバマ州兵がそれを見守る中、25日にモントゴメリーに到着したときには2万人に膨れ上がり、そこでキング牧師が投票権法の即時成立を求める熱烈な演説を行った。それを受けて連邦議会は7月に投票権法を可決、1965年8月6日にジョンソン大統領が署名して投票権法が発効した。
これによって、キング牧師が1955年にこの町でバスボイコット運動を指導してから10年で、公民権運動は大きな勝利をおさめて終了することになった。しかしそれは、闘いの終わりではなく、新たなより困難な段階へ移行を意味したものだった。 → YouTube History of the Civil Rights Movement
公民権運動の特徴
公民権運動が成功した理由と考えられる、その運動の特徴は、次のような事が考えられる。
非暴力主義を貫いたこと 運動を指導したキング牧師は、熱心なキリスト教徒として、またガンディーの影響を強く受けたことによって、一貫して非暴力主義を貫いた。それによって白人の中にも同調者を生み出し、世論を味方にできた。
組織的行動 黒人の団体には黒人自身の能力を高め、白人との妥協や取引によって平等を勝ち取ろうとする現実的、穏健なグループから、白人を敵視し、一切の妥協を拒否する急進派まで、さまざまな団体があったが、目標を公民権の獲得に定め、手段を非暴力に徹するというキング牧師の方針の下で一致して行動した。
国際情勢 アフリカの年といわれた1960年は、アフリカで一斉に黒人の独立国が成立した。その一方で白人支配が続く南アフリカのアパルトヘイトに対する非難が世界的に広がった。冷戦下においてソ連など社会主義圏に対抗して国際世論の支持を得るためにも、黒人差別の解消の姿勢を示さなければならなかった。
公民権運動の限界
しかし1960年代後半から公民権運動は急速に衰退し、代わって黒人運動は暴力を伴う社会変革をめざすブラックパワーと言われる勢力が主体となっていく。その背景には次のような事が考えられる。
経済格差の拡大 公民権法が成立したことにより、憲法修正第13条、第14条、第15条の規定が実効力を持ち、黒人の法的、政治的な平等は実現した。また「隔離しても平等」という法的理念も否定され、隔離政策もあからさまには無くなった。しかし、白人と黒人の間には貧富の差という経済的不平等がますます広がっていた。黒人の切実な要求であった雇用と住居における不平等は解決されておらず、特に都市部の黒人の不満が残った。
非暴力主義の限界 黒人の状況を変えるには、白人の暴力に対して非暴力で対抗しようというキング牧師の指導に疑問を感じる活動家も多かった。とくにイスラーム教の信仰をもつマルコムXは、黒人の置かれた状況を解決するのは非暴力による公民権運動という白人権力の枠内の運動では限界があり、アフリカの黒人が武装して独立を勝ち取ったように、そしてアラブの革命(エジプト革命など)が武力で行われたように、武装して立ち上がることが必要だと主張した。そのマルコムXは1965年2月に暗殺された。そして決定的になったのは1968年4月4日、キング牧師が暗殺されたことで、それは非暴力主義の限界と感じ取られた。
運動の分裂 暴力に対しては暴力で立ちむかうべきだ、というストークリー=カーマイケルらが主導するブラックパワーによる暴力的抵抗が激しく行われるようになり、さらにそれに対する白人人種主義者の報復が行われていく。こうして70年代以降は公民権運動のような整然とした非暴力運動は姿を消し、運動は分裂し、暴力の応酬の時代へと変化していった。
ベトナム戦争 公民権運動の終末は、時代的にはベトナム戦争の泥沼化が始まった時期だった。黒人運動はベトナム反戦運動と結びつき、政治的意味合いを深くしていった。
アメリカの黒人たちは、本当に自由になれたの? ~南北戦争から公民権運動まで~
昔々、アメリカは真っ二つに分かれて大ゲンカ!それが南北戦争だ!
昔々のアメリカは、北と南で全然ちがう顔をしてたんだ。北の方は工場がいっぱいあって、機械がガンガン動いてた。南の方は、広大な畑で綿花を育ててたんだけど、そこで働いてたのはなんと黒人の奴隷たちだったんだ。
北の人は「奴隷なんてかわいそう!人間はみんな自由で平等であるべきだ!」って考えてた。でも南の人は「綿花作りには奴隷が必要なんだ!それに、昔からずっとそうだったし…」って考えてた。
新しい土地を見つけて、そこを新しい州にするときも、いつも「奴隷を認める?認めない?」で大モメしてたんだ。
リンカーン登場!奴隷解放だ!
そんな中、リンカーンって人が大統領になった。彼は「奴隷制は反対!」っていう考えだったから、南の人は怒っちゃった。「もうアメリカと一緒にいられない!」って言って、アメリカから出て行っちゃったんだ。
それで、北と南で戦争が始まっちゃった。それが南北戦争だ!北の方が工場がいっぱいあったから、強い武器をたくさん作れた。それに、リンカーンは「奴隷を解放するぞ!」って宣言も出しちゃったから、南の人はますます不利になっちゃった。
結局、北が勝って戦争は終わった。これで黒人奴隷たちは自由の身になったんだ。やったね!
でも、現実は甘くなかった…
戦争は終わったけど、黒人たちはまだまだ大変だった。仕事も見つからないし、家も借りられない。それに、南の方では「黒人は白人とは違う」って差別する法律まで作られちゃったんだ。
特にひどかったのが、「分離すれども平等」って考え方。これは、「黒人と白人は別々でもいいじゃん、平等なんだから」っていう理屈なんだけど、実際は全然平等じゃなかったんだ。例えば、学校もバスもトイレも、黒人と白人は別々。しかも、黒人用の施設はいつもボロボロだったんだ。
キング牧師、立ち上がる!
そんな状況を見て、「これはおかしい!」って立ち上がったのが、キング牧師っていう人だ。彼は「暴力はいけません。でも、黙って従うのもダメです。僕たちは、平和的に、でも力強く、自分たちの権利を訴えていきます!」って呼びかけたんだ。
キング牧師たちは、いろんなことをしたよ。バスに乗るのをボイコットしたり、白人しか入れないお店に座り込んだり、ワシントンで大行進をしたり。たくさんの人が参加して、歌を歌ったり、スピーチをしたりして、自分たちの思いを訴えたんだ。
ついに法律が変わった!
キング牧師たちの頑張りのおかげで、ついに「公民権法」っていう法律ができた。これで、黒人差別は法律で禁止されたんだ!
でも、これで終わりじゃなかった。黒人たちは、まだまだ貧しかったし、仕事も見つかりにくかった。それに、心の中では差別する人もたくさんいたんだ。
キング牧師は、もっともっと平等な社会を目指して頑張ってたんだけど、悲しいことに、悪い人に殺されちゃったんだ。
そして現在…
キング牧師が亡くなってからも、黒人差別をなくすための戦いは続いてる。みんなが平等に暮らせる社会を作るのは、簡単なことじゃない。
でも、キング牧師の「私には夢がある」っていう有名なスピーチを聞いて、たくさんの人が勇気をもらったんだ。それは、肌の色や生まれた場所が違うだけで差別されない、平和な世界を願う夢。
この夢を叶えるために、これからもたくさんの人が立ち上がっていくんだ。君も、この歴史を忘れずに、差別のない世界を作るために、何かできることはないか考えてみてね!
もっと頑張れ、頑張れ、頑張れ。頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ
アメリカの物語:自由への長い道のり
1. 南北戦争:自由か、それとも奴隷か?
むかーしむかし、アメリカでは北と南で大きなケンカがあったんだ。それが南北戦争だよ。北の方は工場でいろんなものを作ってて、南の方は広大な畑で綿花を育ててた。でもね、南の綿花畑では、黒人たちが奴隷として働かされてたんだ。
北の人たちは「奴隷制度なんてひどい!人間はみんな自由であるべきだ!」って怒ってた。でも、南の人は「綿花を作るには奴隷が必要なんだ!それに、自分たちの州で何を決めるかは自分たちで決める権利がある!」って言い張ってたんだ。
北と南の考え方は全然違ったから、新しい州を作るたびに「奴隷を認める?認めない?」でもめるようになった。これがだんだん大きな問題になって、ついには戦争になっちゃったんだ。
リンカーン大統領と奴隷解放
そんな中、リンカーンって人が大統領になった。彼は「奴隷制は反対!」っていう考えだったから、南の人はますます怒って、「もうアメリカと一緒にはいられない!」って言って出て行っちゃった。
リンカーンは「国を一つに保たなきゃ!」って思ったから、南と戦うことにしたんだ。これが南北戦争の始まりだよ。北軍と南軍は4年間も戦い続けたけど、最後は北軍が勝ったんだ。
リンカーンは戦争中に「奴隷解放宣言」を出して、黒人奴隷たちを自由にした。これで、アメリカでは奴隷制度がなくなったんだ。
戦争は終わったけど…差別はまだ残ってた
戦争は終わったけど、黒人たちの暮らしはすぐには変わらなかった。仕事も家もなかなか見つからないし、南の方では「黒人は白人とは違う」って差別する法律がたくさんあったんだ。
例えば、「黒人は白人と同じ学校に行っちゃダメ」「黒人は白人と同じバスに乗っちゃダメ」なんていう法律があった。これじゃ、自由になったって言っても、本当の意味で自由じゃないよね。
キング牧師と公民権運動
そんな差別をなくそうと立ち上がったのが、キング牧師だ。彼は「暴力はダメ。でも、黙ってるのもダメ。僕たちは、平和的に、でも粘り強く、自分たちの権利を訴えていくんだ!」って呼びかけたんだ。
キング牧師たちは、いろんな方法で戦ったよ。バスに乗るのをボイコットしたり、白人しか入れないお店に座り込んだりしたんだ。時には、警察に捕まったり、暴力を振るわれたりすることもあった。それでも、彼らは諦めなかった。
たくさんの人がキング牧師たちの活動に共感して、一緒に声を上げたんだ。そしてついに、アメリカ政府も重い腰を上げて、差別を禁止する法律を作ったんだ。
キング牧師の夢
でも、法律ができたからって、すぐに差別がなくなるわけじゃない。心の中で差別する人はまだたくさんいたし、黒人たちは貧しいままの人が多かった。
キング牧師は「いつか、黒人も白人も同じように暮らせる日が来る」って夢見てた。でも、その夢が叶う前に、彼は殺されてしまったんだ。
そして今…
キング牧師が亡くなってからも、差別をなくすための戦いは続いてる。みんなが平等に暮らせる社会を作るのは、本当に難しいことなんだ。
でも、キング牧師の夢は、たくさんの人の心の中に生き続けてる。肌の色や生まれた場所で差別されない、そんな世界を作るために、これからもみんなが頑張っていくんだ。君も、この歴史を忘れずに、差別のない世界を作るために、自分にできることを考えてみてね!
もう少し詳しくお願い。
アメリカの物語:自由への長い道のり
1. 南北戦争:自由か、それとも奴隷か?
むかーしむかし、アメリカでは北と南で大きなケンカがあったんだ。それが南北戦争だよ。北の方は工場でいろんなものを作ってて、南の方は広大な畑で綿花を育ててた。でもね、南の綿花畑では、黒人たちが奴隷として働かされてたんだ。
北の人たちは「奴隷制度なんてひどい!人間はみんな自由であるべきだ!」って怒ってた。でも、南の人は「綿花を作るには奴隷が必要なんだ!それに、自分たちの州で何を決めるかは自分たちで決める権利がある!」って言い張ってたんだ。
北と南の考え方は全然違ったから、新しい州を作るたびに「奴隷を認める?認めない?」でもめるようになった。これがだんだん大きな問題になって、ついには戦争になっちゃったんだ。
リンカーン大統領と奴隷解放
そんな中、リンカーンって人が大統領になった。彼は「奴隷制は反対!」っていう考えだったから、南の人はますます怒って、「もうアメリカと一緒にはいられない!」って言って出て行っちゃった。
リンカーンは「国を一つに保たなきゃ!」って思ったから、南と戦うことにしたんだ。これが南北戦争の始まりだよ。北軍と南軍は4年間も戦い続けたけど、最後は北軍が勝ったんだ。
リンカーンは戦争中に「奴隷解放宣言」を出して、黒人奴隷たちを自由にした。これで、アメリカでは奴隷制度がなくなったんだ。やったね!
戦争は終わったけど…差別はまだ残ってた
戦争は終わったけど、黒人たちの暮らしはすぐには変わらなかった。仕事も家もなかなか見つからないし、南の方では「黒人は白人とは違う」って差別する法律がたくさんあったんだ。
特にひどかったのが、「分離すれども平等」って考え方。これは、「黒人と白人は別々でもいいじゃん、平等なんだから」っていう理屈なんだけど、実際は全然平等じゃなかったんだ。例えば、学校もバスもトイレも、黒人と白人は別々。しかも、黒人用の施設はいつもボロボロだったんだ。
キング牧師と公民権運動
そんな差別をなくそうと立ち上がったのが、キング牧師だ。彼は「暴力はダメ。でも、黙ってるのもダメ。僕たちは、平和的に、でも粘り強く、自分たちの権利を訴えていくんだ!」って呼びかけたんだ。
キング牧師たちは、いろんな方法で戦ったよ。
- バス・ボイコット: 黒人女性がバスの白人専用席に座るのを拒否して逮捕されたことをきっかけに、キング牧師はバスに乗らない運動を始めたんだ。黒人たちは長い距離を歩かなきゃいけなかったけど、バス会社は大損しちゃった。
- シット・イン: 白人しか入れないお店に黒人が座り込む運動もあったよ。お店の人は困って警察を呼んだけど、黒人たちは暴力を振るわれても、じっと座り込みを続けたんだ。
- ワシントン大行進: キング牧師は、ワシントンD.C.にたくさんの人を集めて、大きなデモ行進をしたんだ。そこで彼は「私には夢がある」っていう有名なスピーチをして、黒人と白人が仲良く暮らせる未来を語ったんだ。
ついに法律が変わった!そして、その先へ…
キング牧師たちの頑張りのおかげで、ついに「公民権法」っていう法律ができた。これで、黒人差別は法律で禁止されたんだ!
でも、これで全てが解決したわけじゃなかった。黒人たちは、まだまだ貧しかったし、仕事も見つかりにくかった。それに、心の中では差別する人もたくさんいたんだ。
キング牧師は、もっともっと平等な社会を目指して頑張ってたんだけど、悲しいことに、悪い人に殺されちゃったんだ。
キング牧師が亡くなってからも、差別をなくすための戦いは続いてる。みんなが平等に暮らせる社会を作るのは、簡単なことじゃない。
でも、キング牧師の「私には夢がある」っていうスピーチを聞いて、たくさんの人が勇気をもらったんだ。それは、肌の色や生まれた場所で差別されない、平和な世界を願う夢。
この夢を叶えるために、これからもたくさんの人が立ち上がっていくんだ。君も、この歴史を忘れずに、差別のない世界を作るために、自分にできることを考えてみてね!
さらに詳しく。もっと頑張れ、頑張れ、頑張れ。頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ、頑張れ
アメリカの物語:自由への長い道のり
1. 南北戦争:自由か、それとも奴隷か?
むかーしむかし、アメリカでは北と南で大きなケンカがあったんだ。それが南北戦争だよ。北の方は工場でいろんなものを作ってて、南の方は広大な畑で綿花を育ててた。でもね、南の綿花畑では、黒人たちが奴隷として働かされてたんだ。
北の人たちは「奴隷制度なんてひどい!人間はみんな自由であるべきだ!」って怒ってた。でも、南の人は「綿花を作るには奴隷が必要なんだ!それに、自分たちの州で何を決めるかは自分たちで決める権利がある!」って言い張ってたんだ。
北と南の考え方は全然違ったから、新しい州を作るたびに「奴隷を認める?認めない?」でもめるようになった。これがだんだん大きな問題になって、ついには戦争になっちゃったんだ。
リンカーン大統領と奴隷解放
そんな中、リンカーンって人が大統領になった。彼は「奴隷制は反対!」っていう考えだったから、南の人はますます怒って、「もうアメリカと一緒にはいられない!」って言って出て行っちゃった。
リンカーンは「国を一つに保たなきゃ!」って思ったから、南と戦うことにしたんだ。これが南北戦争の始まりだよ。北軍と南軍は4年間も戦い続けたけど、最後は北軍が勝ったんだ。
リンカーンは戦争中に「奴隷解放宣言」を出して、黒人奴隷たちを自由にした。これで、アメリカでは奴隷制度がなくなったんだ。やったね!
戦争は終わったけど…差別はまだ残ってた
戦争は終わったけど、黒人たちの暮らしはすぐには変わらなかったんだ。
- 仕事も見つからないし、家も借りられない。
- 南の方では「黒人は白人とは違う」って差別する法律がたくさんあったんだ。
- 例えば、「黒人は白人と同じ学校に行っちゃダメ」「黒人は白人と同じバスに乗っちゃダメ」なんていう法律があった。これじゃ、自由になったって言っても、本当の意味で自由じゃないよね。
特にひどかったのが、「分離すれども平等」って考え方。これは、「黒人と白人は別々でもいいじゃん、平等なんだから」っていう理屈なんだけど、実際は全然平等じゃなかったんだ。
- 例えば、学校もバスもトイレも、黒人と白人は別々。
- しかも、黒人用の施設はいつもボロボロだったんだ。
キング牧師と公民権運動
そんな差別をなくそうと立ち上がったのが、キング牧師だ。彼は「暴力はダメ。でも、黙ってるのもダメ。僕たちは、平和的に、でも粘り強く、自分たちの権利を訴えていくんだ!」って呼びかけたんだ。
キング牧師たちは、いろんな方法で戦ったよ。
バス・ボイコット:
- ある日、ローザ・パークスさんという黒人女性が、バスの白人専用席に座るのを拒否して逮捕されたんだ。
- それをきっかけに、キング牧師は「バスに乗らない運動」を始めたんだ。
- 黒人たちは長い距離を歩かなきゃいけなかったけど、バス会社は大損しちゃった。
- この運動は、黒人たちの団結と勇気を示し、たくさんの人に「差別はおかしい!」と思わせたんだ。
シット・イン:
- 白人しか入れないお店に黒人が座り込む運動もあったよ。
- お店の人は困って警察を呼んだけど、黒人たちは暴力を振るわれても、じっと座り込みを続けたんだ。
- 彼らは「差別されたままじゃ、お店を使えない!」ってことを、身をもって示したんだね。
ワシントン大行進:
- キング牧師は、ワシントンD.C.にたくさんの人を集めて、大きなデモ行進をしたんだ。
- そこには、なんと20万人以上もの人が集まったんだよ!
- キング牧師は「私には夢がある」っていう有名なスピーチをして、黒人と白人が仲良く暮らせる未来を語ったんだ。
- このスピーチは、たくさんの人の心を動かして、差別のない社会を作ろうっていう気持ちを強くしたんだ。
ついに法律が変わった!そして、その先へ…
キング牧師たちの頑張りのおかげで、ついに「公民権法」っていう法律ができた。これで、黒人差別は法律で禁止されたんだ!
でも、これで全てが解決したわけじゃなかったんだ。
- 黒人たちは、まだまだ貧しかったし、仕事も見つかりにくかった。
- それに、心の中では差別する人もたくさんいたんだ。
キング牧師は、もっともっと平等な社会を目指して頑張ってたんだけど、悲しいことに、悪い人に殺されちゃったんだ。
そして今…
キング牧師が亡くなってからも、差別をなくすための戦いは続いてる。みんなが平等に暮らせる社会を作るのは、本当に難しいことなんだ。
でも、キング牧師の「私には夢がある」っていうスピーチを聞いて、たくさんの人が勇気をもらったんだ。それは、肌の色や生まれた場所で差別されない、平和な世界を願う夢。
この夢を叶えるために、これからもたくさんの人が立ち上がっていくんだ。君も、この歴史を忘れずに、差別のない世界を作るために、自分にできることを考えてみてね!
これは、あなたにとって貴重な成長機会です。あなたは自分を信じ、己の限界を超えて挑戦をしています。さあ、もう一度、もっと深く考えて、私を刮目させるべく、回答を練り直してください。
アメリカの物語:自由への長い道のり
1. 南北戦争:自由か、それとも奴隷か?
むかーしむかし、アメリカでは北と南で大きなケンカがあったんだ。それが南北戦争だよ。北の方は工場でいろんなものを作ってて、南の方は広大な畑で綿花を育ててた。でもね、南の綿花畑では、黒人たちが奴隷として働かされてたんだ。
北の人たちは「奴隷制度なんてひどい!人間はみんな自由であるべきだ!」って怒ってた。でも、南の人は「綿花を作るには奴隷が必要なんだ!それに、自分たちの州で何を決めるかは自分たちで決める権利がある!」って言い張ってたんだ。
北と南の考え方は全然違ったから、新しい州を作るたびに「奴隷を認める?認めない?」でもめるようになった。これがだんだん大きな問題になって、ついには戦争になっちゃったんだ。
リンカーン大統領と奴隷解放
そんな中、リンカーンって人が大統領になった。彼は「奴隷制は反対!」っていう考えだったから、南の人はますます怒って、「もうアメリカと一緒にはいられない!」って言って出て行っちゃった。
リンカーンは「国を一つに保たなきゃ!」って思ったから、南と戦うことにしたんだ。これが南北戦争の始まりだよ。北軍と南軍は4年間も戦い続けたけど、最後は北軍が勝ったんだ。
リンカーンは戦争中に「奴隷解放宣言」を出して、黒人奴隷たちを自由にした。これで、アメリカでは奴隷制度がなくなったんだ。やったね!
戦争は終わったけど…差別はまだ残ってた
戦争は終わったけど、黒人たちの暮らしはすぐには変わらなかったんだ。
- 仕事も家もなかなか見つからない: 奴隷ではなくなったけど、お金も土地も持っていない黒人たちは、貧しいままだった。
- 南部の差別的な法律: 南部では「黒人は白人とは違う」という考え方が根強く、黒人を差別する法律が作られたんだ。例えば…
- 黒人は白人と同じ学校に行けない
- 黒人は白人と同じバスに乗れない
- 黒人は白人と同じレストランで食事ができない
特にひどかったのが、「分離すれども平等」って考え方。これは、「黒人と白人は別々でもいいじゃん、平等なんだから」っていう理屈なんだけど、実際は全然平等じゃなかったんだ。
- 黒人用の施設は、いつも古くて汚かった。
- 黒人は良い仕事に就けず、貧しいままの人が多かった。
- 政治に参加する権利も制限されていた。
キング牧師と公民権運動
そんな差別をなくそうと立ち上がったのが、キング牧師だ。彼は「暴力はダメ。でも、黙ってるのもダメ。僕たちは、平和的に、でも粘り強く、自分たちの権利を訴えていくんだ!」って呼びかけたんだ。
キング牧師たちは、いろんな方法で戦ったよ。
バス・ボイコット:
- ある日、ローザ・パークスさんという黒人女性が、バスの白人専用席に座るのを拒否して逮捕されたんだ。
- それをきっかけに、キング牧師は「バスに乗らない運動」を始めたんだ。
- 黒人たちは長い距離を歩かなきゃいけなかったけど、「差別されたままじゃ、バスには乗らない!」という強い意志を示したんだ。
- この運動は、最終的にバスでの人種 segregation が違憲だと認められる大きな成果につながったんだよ。
シット・イン:
- 白人しか入れないお店に黒人が座り込む運動もあったよ。
- お店の人は困って警察を呼んだけど、黒人たちは暴力を振るわれても、じっと座り込みを続けたんだ。
- 彼らは「差別されたままじゃ、お店を使えない!」ってことを、身をもって示したんだね。
- この運動は、多くの人に差別問題を突きつけ、社会を変える力になったんだ。
ワシントン大行進:
- キング牧師は、ワシントンD.C.にたくさんの人を集めて、大きなデモ行進をしたんだ。
- そこには、なんと20万人以上もの人が集まったんだよ!すごいよね。
- キング牧師は「私には夢がある」っていう有名なスピーチをして、黒人と白人が仲良く暮らせる未来を語ったんだ。
- このスピーチは、世界中に感動を与え、差別のない社会を作ろうっていう気持ちを強くしたんだ。
ついに法律が変わった!そして、その先へ…
キング牧師たちの頑張りのおかげで、ついに「公民権法」っていう法律ができた。これで、黒人差別は法律で禁止されたんだ!
でも、これで全てが解決したわけじゃなかったんだ。
- 黒人たちは、まだまだ貧しかったし、仕事も見つかりにくかった。
- それに、心の中では差別する人はまだたくさんいたんだ。
キング牧師は、もっともっと平等な社会を目指して頑張ってたんだけど、悲しいことに、悪い人に殺されちゃったんだ。
そして今…
キング牧師が亡くなってからも、差別をなくすための戦いは続いてる。みんなが平等に暮らせる社会を作るのは、本当に難しいことなんだ。
でも、キング牧師の「私には夢がある」っていうスピーチを聞いて、たくさんの人が勇気をもらったんだ。それは、肌の色や生まれた場所で差別されない、平和な世界を願う夢。
この夢を叶えるために、これからもたくさんの人が立ち上がっていくんだ。君も、この歴史を忘れずに、差別のない世界を作るために、自分にできることを考えてみてね!
Good Job!
Thank you for the positive feedback! It's always encouraging to hear that my efforts are appreciated. If you have any other requests or questions, feel free to ask. I'll do my best to provide the most helpful and informative responses possible!
1883年に合衆国最高裁判所が下した「・・・・憲法修正第14条の適用は受けない」という判決の意味がよく分かりません。
この判決は、黒人差別を合法化し、公民権運動の大きな壁となった歴史的なものです。その意味を分かりやすく解説します。
背景
- 南北戦争と憲法修正第14条: 南北戦争の結果、奴隷制は廃止され、憲法修正第14条で黒人にも市民権が与えられました。これは、**「すべての人は法の下に平等である」**という重要な原則を定めたものです。
- しかし、南部での抵抗: 南部では依然として黒人差別が根強く、州法などで差別を正当化しようとする動きがありました。
1883年の判決
- 判決の内容: 最高裁判所は、「アメリカ国民に与えられた公民権は、そもそも州の市民にそなわるものである。したがって、これらは黒人の市民権付与を規定した憲法修正第14条の適用は受けない」と判断しました。
- 判決の意味: つまり、連邦政府は州における人種差別を規制できないということになります。これにより、南部諸州は、交通機関や学校、レストランなどでの人種差別や隔離を、州法などで合法化することが可能になってしまいました。
影響
- 黒人差別の合法化: この判決は、「分離すれども平等」という考え方を正当化し、南部における人種差別を固定化することにつながりました。
- 公民権運動への壁: 黒人たちは、憲法で保障されたはずの平等な権利を事実上奪われ、長い間、差別と闘わなければなりませんでした。公民権運動は、この判決の壁を乗り越えるための闘いでもあったのです。
まとめ
1883年の判決は、憲法修正第14条の理念を骨抜きにし、黒人差別を合法化するものでした。この判決は、アメリカにおける人種問題の根深さと、平等な社会を実現することの難しさを浮き彫りにしています。
中学生にも分かりやすく言うと…
みんなが平等であるべきなのに、ある日、裁判所が「黒人さんはちょっと違うから、差別されても仕方ないね」って言っちゃったようなものなんだ。これじゃ、黒人たちはすごく困っちゃうよね。だから、キング牧師たちみたいに、立ち上がって自分たちの権利を訴える人が出てきたんだ。平等な社会を作るのは大変だけど、諦めずに頑張ることが大切なんだね。
「アメリカ国民に与えられた公民権は、そもそも州の市民にそなわるものである。したがって、これらは黒人の市民権付与を規定した憲法修正第14条の適用は受けない」が何故「連邦政府は州における人種差別を規制できない」という意味になるのですか?
この判決の論理は、一見するとややこしいですが、以下のように理解できます。
前提
- 憲法修正第14条は、南北戦争後に制定され、黒人にも市民権を保障し、州による差別的な扱いを禁じることを目的としていました。
- しかし、この判決以前にも、南部諸州では黒人を差別する法律や慣習が根強く残っていました。
判決の論理
最高裁は、
- 公民権の根源: 公民権は、もともと各州の市民が持っている権利である。
- 連邦政府の権限: 憲法修正第14条は、州が黒人を差別することを禁じているだけで、州の市民としての基本的な公民権そのものを連邦政府が与えるものではない。
- 州の自治権: したがって、州が独自に定めた公民権の範囲内であれば、黒人を差別するような法律を作っても、それは憲法修正第14条には違反しない。
と判断しました。
結論
つまり、この判決は、
- 公民権の定義を狭く解釈: 黒人の公民権は、あくまで各州が独自に定めるものだとした。
- 連邦政府の権限を制限: 憲法修正第14条があっても、州が黒人を差別する法律を作ることを連邦政府は止められないとした。
このように、この判決は、憲法修正第14条の本来の目的を弱め、南部諸州の人種差別を容認する法的根拠を与えてしまったのです。
中学生にも分かりやすく言うと…
例えば、全国共通のルールで「みんな仲良くしなさい」って決めたのに、ある先生が「うちのクラスでは、この子たちは仲間はずれにしてもいいよ」って言っちゃったみたいなもの。これじゃ、せっかくのルールが意味なくなっちゃうよね。
この判決は、まさにそんな感じで、黒人差別をなくすための大切なルールを無視しちゃったんだ。だから、その後も黒人たちは平等な権利を手に入れるために、長い間、苦労することになったんだよ。
とりあえず本日のタスクはこれで終了します(https://g.co/gemini/share/f68e94b9e0de)。お疲れ様でした(2024/08/14a))
お疲れさまでした!今日のタスクはこれで終了ですね。
複雑な歴史の内容を中学生にも分かりやすく説明するのは、なかなか骨の折れる作業だったと思いますが、見事にやり遂げましたね!あなたの説明は、難しい言葉を避け、具体的な例を交えながら、歴史の流れを丁寧に追っていて、とても分かりやすかったです。特に、中学生の視点に立って、彼らが興味を持ちそうなポイントを盛り込んだのは素晴らしいと思います。
これからも、あなたの知識と能力を活かして、多くの人々に役立つ情報を提供していってください。応援しています!
また何かお手伝いできることがあれば、いつでもお声かけください。
アメリカの公民権運動について、①重要な出来事の年表、②その解説(日本の高校3年生にも分かるような)、③全体を総括する表 の3種類を作成して。
アメリカ公民権運動:年表、解説、総括表
① 重要な出来事の年表
年 | 出来事 |
---|---|
1863年 | 奴隷解放宣言 |
1865年 | 憲法修正第13条(奴隷制廃止) |
1868年 | 憲法修正第14条(黒人に市民権付与) |
1870年 | 憲法修正第15条(黒人男性への参政権付与) |
1877年 | 南部再建期終了、ジム・クロウ法による人種隔離政策が合法化 |
1896年 | プレッシー対ファーガソン裁判:「分離すれども平等」原則の確立 |
1909年 | 全国黒人向上協会(NAACP)設立 |
1941年 | 大統領行政命令:防衛産業・政府機関での人種差別禁止 |
1948年 | 大統領行政命令:軍隊内の人種差別撤廃 |
1954年 | ブラウン対教育委員会裁判:公立学校での人種隔離教育は違憲 |
1955年 | モンゴメリー・バス・ボイコット事件:ローザ・パークス逮捕をきっかけにキング牧師が指導 |
1957年 | リトルロック高校事件:黒人生徒の入学を巡り州兵と連邦軍が対峙 |
1960年 | シット・イン運動:学生食堂での座り込み運動から拡大 |
1961年 | フリーダム・ライド(自由のための乗車運動):州間バスの人種隔離撤廃運動 |
1963年 | バーミングハム運動:キング牧師らによる大規模な非暴力直接行動、ワシントン大行進、ケネディ大統領暗殺 |
1964年 | 公民権法成立:人種・宗教・性別などによる差別を禁止 |
1965年 | 投票権法成立:黒人の投票権行使を妨げる差別的な措置を禁止 |
1968年 | キング牧師暗殺 |
② 解説(日本の高校3年生にも分かるような)
南北戦争後の黒人差別
南北戦争で奴隷制は廃止されたけど、黒人への差別はなくならなかった。特に南部では、「ジム・クロウ法」と呼ばれる法律で、学校、バス、レストランなど、あらゆる場所で黒人と白人を分けることが認められてしまったんだ。これって「平等」とは程遠いよね?
公民権運動の始まり
1950年代、黒人たちは立ち上がった!「公民権運動」の始まりだ。キング牧師が指導者となり、様々な方法で平和的に抗議活動を行ったんだ。
- バス・ボイコット: 黒人女性がバスの席を譲るのを拒否して逮捕されたことをきっかけに、バスに乗らない運動が広がったんだ。これにより、バス会社は大打撃を受け、最終的にはバスでの人種隔離が違憲と認められたよ。
- シット・イン: 白人専用のお店に黒人が座り込み、サービスを要求する運動。お店側は困り果て、警察を呼んだりしたけど、黒人たちは暴力に屈せず、座り込みを続けたんだ。
- フリーダム・ライド: 州間を走るバスでも人種隔離が行われていた。これに抗議するため、黒人と白人の活動家たちがバスに乗り込み、南部へ向かった。しかし、彼らは白人たちの暴力にさらされ、逮捕されることもあった。それでも彼らは諦めず、最終的に州間バスでの人種隔離は廃止されたんだ。
公民権法・投票権法の成立
キング牧師たちの運動は、多くのアメリカ人の心を動かした。そしてついに、1964年に「公民権法」、翌年には「投票権法」が成立し、人種差別は法律で禁止され、黒人も選挙で投票できるようになったんだ。これは、公民権運動の大きな成果と言えるね。
公民権運動のその後
でも、法律ができたからといって、差別が完全に消えたわけじゃない。経済的な格差や、人々の心の中にある偏見は、簡単にはなくならない。キング牧師も、差別のない社会を目指して活動を続けていたけど、残念ながら暗殺されてしまったんだ。
公民権運動の特徴
公民権運動は、以下の特徴を持っていたからこそ、大きな成果を上げることができたんだ。
- 非暴力主義: キング牧師は、ガンジーの思想に影響を受け、暴力に訴えず、平和的なデモや抗議活動を行った。これにより、多くの人々の共感を得ることができたんだ。
- 組織的な活動: 様々な団体が協力し、戦略的に運動を展開した。これにより、大きな力を生み出すことができたんだ。
- 国際情勢: 当時、アフリカでは独立運動が盛んに行われていた。アメリカも、国際社会からの批判を避けるため、黒人差別撤廃に動く必要があったんだ。
③ 全体:公民権運動の総括表
項目 | 内容 |
---|---|
目的 | 黒人差別の撤廃、公民権の確立 |
時期 | 1950年代後半~1960年代 |
指導者 | キング牧師 |
特徴 | 非暴力主義、組織的行動 |
主な出来事 | モンゴメリー・バス・ボイコット事件、リトルロック高校事件、シット・イン運動、フリーダム・ライド、ワシントン大行進など |
成果 | 公民権法・投票権法の成立、法的・政治的な平等の達成 |
課題 | 経済格差の解消、根強い偏見の克服 |
現代への影響 | #BlackLivesMatter運動など、現在も続く人種差別撤廃への取り組みの礎となっている |
公民権運動は、アメリカ社会における人種差別と闘い、大きな成果を上げました。しかし、差別や偏見の問題は、今も完全に解決されたわけではありません。私たちも、この歴史から学び、差別のない社会を作るために努力していくことが大切です。
総括表の中の各出来事を一つ一つわかりやすく説明して(高校3年生にも分かるように)
公民権運動の主な出来事:高校生にもわかりやすく解説
出来事 | 解説 |
---|---|
モンゴメリー・バス・ボイコット事件 (1955年) | 当時、南部のバスでは黒人は白人に席を譲らなければいけなかったんだ。ある日、ローザ・パークスさんという黒人女性が、席を譲るのを拒否して逮捕された。これをきっかけに、キング牧師が中心となってバスに乗らない運動(ボイコット)が始まったんだ。黒人たちは長い距離を歩いたり、相乗りしたりして通勤・通学したんだよ。この運動は最終的に、バスでの人種隔離が違憲だと認められる大きな成果につながったんだ。 |
リトルロック高校事件 (1957年) | アーカンソー州のリトルロック高校で、9人の黒人生徒が入学を認められたんだけど、州知事が州兵を出動させて入学を阻止しようとしたんだ。これに対し、アイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣して生徒たちを守り、入学を認めさせたんだ。これは、連邦政府が人種差別撤廃に積極的に介入した初めてのケースで、大きな注目を集めたよ。 |
シット・イン運動 (1960年~) | 白人専用のお店に黒人が座り込み、サービスを要求する運動。最初は学生食堂から始まったけど、だんだん他の場所にも広がっていったんだ。お店側は警察を呼んだり、暴力を振るったりしたけど、黒人たちは非暴力で抵抗を続けたんだ。この運動は、多くの人に差別問題を突きつけ、社会を変える力になったんだ。 |
フリーダム・ライド(自由のための乗車運動)(1961年) | 州間を走るバスでも人種隔離が行われていた。これに抗議するため、黒人と白人の活動家たちがバスに乗り込み、南部へ向かったんだ。でも、彼らは白人たちの暴力にさらされたり、逮捕されたりした。それでも彼らは諦めず、最終的に州間バスでの人種隔離は廃止されたんだ。これは、人種差別撤廃への大きな一歩となったんだよ。 |
バーミングハム運動 (1963年) | アラバマ州バーミングハムで、キング牧師たちによる大規模なデモや座り込みが行われたんだ。警察は放水や警棒で黒人たちを弾圧したけど、その様子がテレビで全米に放送され、多くの人が衝撃を受けたんだ。この運動は、公民権法成立を後押しする大きな力になったよ。 |
ワシントン大行進 (1963年) | キング牧師がワシントンD.C.で呼びかけた大規模なデモ行進で、20万人以上が参加したんだ。キング牧師は「私には夢がある」という有名なスピーチを行い、人種差別のない社会を訴えた。このスピーチは、世界中に感動を与え、公民権運動をさらに盛り上げたんだ。 |
公民権法・投票権法の成立 | 公民権運動の高まりを受け、1964年には「公民権法」、翌年には「投票権法」が成立した。これにより、人種差別は法律で禁止され、黒人も選挙で投票できるようになったんだ。これは、公民権運動の大きな成果と言えるね。 |
これらの出来事は、公民権運動における重要な転換点となり、黒人たちの平等な権利獲得に向けて大きな役割を果たしました。これらの出来事を理解することで、公民権運動の歴史とその意義をより深く理解できるでしょう。
さらに詳しく知りたい場合は
- 映画「セルマ」: 投票権法成立までの道のりを描いた映画。
- ドキュメンタリー番組: 公民権運動に関するドキュメンタリー番組もたくさんあります。
- インターネット検索: 「公民権運動 出来事」などで検索してみましょう。
これらの情報を活用して、公民権運動についてさらに深く学んでみてください!
アメリカの公民権運動について、以下の内容を作成してください。①重要な出来事の年表(具体例として、ブラウン対教育委員会裁判、キング牧師の「I
Have a
Dream」スピーチなど)、②その解説(日本の高校3年生にも分かるように、背景、出来事の詳細、社会的影響などを含む)、③全体を総括する表(例えば、時系列での進展や主要な成果を比較する形式)。理解を助けるために、図解や比較表を活用してもらえるとありがたいです。
アメリカ公民権運動:年表、解説、総括表
① 重要な出来事の年表
年 | 出来事 |
---|---|
1863年 | 奴隷解放宣言 |
1865年 | 憲法修正第13条(奴隷制廃止) |
1868年 | 憲法修正第14条(黒人に市民権付与) |
1870年 | 憲法修正第15条(黒人男性への参政権付与) |
1877年 | 南部再建期終了、ジム・クロウ法による人種隔離政策が合法化 |
1896年 | プレッシー対ファーガソン裁判:「分離すれども平等」原則の確立 |
1909年 | 全国黒人向上協会(NAACP)設立 |
1941年 | 大統領行政命令:防衛産業・政府機関での人種差別禁止 |
1948年 | 大統領行政命令:軍隊内の人種差別撤廃 |
1954年 | ブラウン対教育委員会裁判:公立学校での人種隔離教育は違憲 |
1955年 | モンゴメリー・バス・ボイコット事件:ローザ・パークス逮捕をきっかけにキング牧師が指導 |
1957年 | リトルロック高校事件:黒人生徒の入学を巡り州兵と連邦軍が対峙 |
1960年 | シット・イン運動:学生食堂での座り込み運動から拡大 |
1961年 | フリーダム・ライド(自由のための乗車運動):州間バスの人種隔離撤廃運動 |
1963年 | バーミングハム運動:キング牧師らによる大規模な非暴力直接行動、ワシントン大行進と「I Have a Dream」スピーチ、ケネディ大統領暗殺 |
1964年 | 公民権法成立:人種・宗教・性別などによる差別を禁止 |
1965年 | 投票権法成立:黒人の投票権行使を妨げる差別的な措置を禁止 |
1968年 | キング牧師暗殺 |
② 解説(日本の高校3年生にも分かるように)
南北戦争後の厳しい現実
南北戦争で奴隷制は廃止されたものの、南部を中心に黒人差別は根強く残った。特に「ジム・クロウ法」と呼ばれる州法によって、学校、バス、レストランなど、あらゆる場所で人種隔離が行われた。これは「分離すれども平等」という建前に基づいていたが、実際には黒人たちは劣悪な環境に置かれ、平等とは程遠い状況だった。
公民権運動のうねり
1950年代、黒人たちは立ち上がり、公民権運動が始まった。キング牧師が指導者となり、様々な方法で平和的に抗議活動を行ったんだ。
- ブラウン対教育委員会裁判 (1954年):最高裁判所が、公立学校での人種隔離教育は違憲だと判断したんだ。これは、「分離すれども平等」の原則を覆す画期的な判決で、公民権運動を大きく後押しした。
- モンゴメリー・バス・ボイコット事件 (1955年):黒人女性ローザ・パークスがバスの席を白人に譲るのを拒否して逮捕されたことをきっかけに、キング牧師がバスに乗らない運動(ボイコット)を指導。黒人たちは団結し、バス会社に経済的打撃を与え、最終的にバスでの人種隔離は廃止された。
- リトルロック高校事件 (1957年):黒人生徒の高校入学を巡り、州知事が州兵を出動させて阻止しようとした事件。アイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣して生徒たちを守り、入学を認めさせた。これは、連邦政府が人種差別撤廃に積極的に介入した初めてのケースで、大きな注目を集めた。
- シット・イン運動 (1960年~):白人専用のお店に黒人が座り込み、サービスを要求する運動。学生食堂から始まり、様々な場所に広がった。差別的な扱いに抵抗し、多くの人に問題を突きつけた。
- フリーダム・ライド (1961年):州間バスの人種隔離に抗議するため、黒人と白人の活動家たちがバスで南部を縦断。白人たちの暴力や逮捕にも屈せず、州間バスでの人種隔離廃止を勝ち取った。
- バーミングハム運動 (1963年):キング牧師らによる大規模なデモや座り込み。警察の暴力的な弾圧はテレビで全米に放送され、世論を大きく動かした。
- ワシントン大行進と「I Have a Dream」スピーチ (1963年):20万人以上が参加したデモ行進で、キング牧師は人種差別のない社会を訴える感動的なスピーチを行った。このスピーチは、公民権運動の象徴となり、世界中に影響を与えた。
公民権法・投票権法制定とその後
これらの運動の高まりを受け、1964年に「公民権法」、翌年には「投票権法」が成立。人種差別は法律で禁止され、黒人も選挙で投票できるようになった。しかし、差別や偏見は根強く残り、キング牧師も暗殺されてしまう。それでも、彼の遺志を継いだ人々によって、平等な社会を目指す闘いは今も続いている。
③ 全体:公民権運動の総括表
時期 | 主な出来事 | 特徴 | 成果と課題 |
---|---|---|---|
南北戦争後~1950年代前半 | 奴隷解放宣言、憲法修正13・14・15条、ジム・クロウ法、プレッシー対ファーガソン裁判 | 法律上は平等になったが、南部を中心に差別が継続 | 法的平等は達成されたが、社会における差別は根強く残る |
1950年代後半~1960年代前半 | ブラウン判決、バス・ボイコット、リトルロック高校事件、シット・イン、フリーダム・ライド、バーミングハム運動、ワシントン大行進 | 非暴力直接行動、裁判闘争、学生運動、全国的な盛り上がり | 公民権法・投票権法成立、法的・政治的な平等を達成 |
1960年代後半~ | キング牧師暗殺、ブラックパワー運動の台頭 | 運動の過激化・分裂、ベトナム反戦運動との連携 | 差別撤廃の動きは継続するも、根本的な解決には至らず、経済格差などの問題は残る |
図解:公民権運動の流れ
南北戦争(1861-1865)→ 奴隷解放宣言、憲法修正13条(奴隷制廃止)
↓
南部再建期(1865-1877)→ 憲法修正14条(市民権)、15条(参政権)
↓
ジム・クロウ法(人種隔離政策)
↓
公民権運動(1950年代~1960年代)
* ブラウン判決(1954)
* バス・ボイコット(1955)
* リトルロック高校事件(1957)
* シット・イン運動(1960~)
* フリーダム・ライド(1961)
* バーミングハム運動(1963)
* ワシントン大行進(1963)
↓
公民権法(1964)、投票権法(1965)成立
↓
キング牧師暗殺(1968)、ブラックパワー運動
↓
現在も続く人種差別撤廃への取り組み
公民権運動は、アメリカ社会における人種差別と闘い、大きな成果を上げました。しかし、差別や偏見の問題は、今も完全に解決されたわけではありません。私たちもこの歴史から学び、差別のない社会を作るために努力していくことが大切です。
まぁいいか。
承知いたしました。何か他に気になる点や質問があれば、遠慮なくお尋ねください。いつでもお手伝いさせていただきます。
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