english

ここから本文エリア

  • 閲覧上のご注意

広島の声

石原章三さん 直接被爆・距離3.5km(宇品)
被爆時21歳 / 東京都大田区5610

被爆地の光景を紹介しています。写真はメッセージと直接関連はありません。       生と死と
     発病
  三日目、すなわち原爆の日から四日目も晴れて暑い日が続いた。私たちの活動の範囲は逐次拡大していた。広島城を中心にし白島、泉邸の一部、八丁堀、紙屋町などである。白島は整った屋敷町だが、きれいに焼けていた。焼け跡はまだ焼けた材木や何かが山積みのままだった。老婆がやってきて手を貸してくれという。焼けた材木の重なった一部を指差した。何も見えない。けげんな顔をして見せると、彼女は、そこは娘がいて死んだ所だからそこをあけて、何か供えてやりたいというのだった。小柄で控えめ、もの静かな物腰から母親がにじみ出ていた。顔をのぞき込んだが、伏せた目には涙はもう涸れていた。どういう事情だったかは聞かなかった。仕事を終えた後、とぼとぼと、消えてしまった屋敷町の中を、何処かへ歩き去った後ろ姿が淋しく、私たちの心に重いしこりを残していった。

 泉邸へ行ったグループによると、木立の多いお屋敷であるのに被害はひどかった。巨大な古木が無残に打ちひしがれている周りに、僅かな日陰を求めてか、罹災者や死者が多い。特に川の上流から流れてくる死体が、ひどく腐敗しており、死臭に慣れてはいても、とても手が出ないほどだという。
 広島駅から紙屋町にかけての道筋は、負傷者、罹災者、田舎から出てきた親類縁者などであろう人波が増えるばかりであった。その人の行列は、真夏日の下なのに、何か鳥の行列に似た黒色だった。ひどい負傷者もいた。耳の落ちた人、鼻の欠けた人、手がぶらぶらの人。どう形容したらいいのか、異様な行列である。皆何処か恐ろしい処に曳かれて行くように、黙って歩いていた。

 その日の午後のことだった。練兵場で作業を指揮している処に、背の高い候補生が青い顔でやって来て、
  「教官どの休ませて下さい。」
という。彼は、日頃成績優秀で活発である。東京高等師範の学生で真面目人間、故意に怠ける人ではないことは分かっていた。だが私は、彼が他の人間の模範になることを期待していた。それに、ここでは、これだけの大災害の中、軍人以外の、沢山の社会人の目があった。こんな時こそ軍人は社会人の模範でなければならない。例え多少苦しいことがあっても、耐えねばならない。それでこそ救援隊である。そう思った私は、
  「何を言うか。」
と、大きくわめいて、胸倉をつかんだ。すると、彼は、ものも言わずに、膝から簡単に崩れ落ちて行った。普通ではなかった。慌てて私は、助けを呼んで、とにかく福屋百貨店の救護所に送り込んだ。

 問題はそれからだった。一人二人と、同様の休養を申し出る候補生が増えてきた。夜までに何人になったのだったか記憶はないが、十人を遥かに越したことは間違いない。彼等は高い熱にうなされ始めた。そして下痢である。これはとてもここでは駄目だと思って、宇品に送り返すことにした。
  次の日から、そうした病人は増えるばかりである。症状は皆同じだった。私たちの作業はほとんど素手であったといって良い。見るべき道具などなかった。私は、あれだけの死人や病人を扱った手を洗うこともままならない水事情だったから、赤痢かチブスかの伝染病かもしれないと考えた。だから症状のある候補生は早速送り返した。
  八月八日、広島に着く前、仁科博士は、これが原爆であることを予感して、『白血球が二千以下に減った人は危険だから現場を離れて休養しなければいけない。』といわれ、その旨第二総軍から指示が出たそうだが、それはこの日の後のことだろうし、また、事実私たちは終戦の日まで、いかなる指示も注意も、原子爆弾であるということさえも、公式には知らされなかった。

 この指示の起草者新妻清一中佐は、
  「『爆心地から何メートル以内にいた人は休養すべし』
というふうに通達すれば、何人かの被爆者を救えたかもしれない。とにかく火傷で入院したものは助かったのが多いが、たいしたことないといって働いた人はたいていなくなった。私たちもその点では至らなかったと残念に思っている―」と語ったそうだが(昭和史の天皇)、そんなことは知る由もなく働いていた。それどころか、軍人である我々は、一般人よりも、余計に働かねばならないと信じていたし、そのように指揮していた。

    日赤病院
  この頃だった。夜になってからだった。一人の候補生が腹痛を起こした。明らかに他の発病した候補生の症状とは違っていた。助手の下士官が、盲腸ではないかと言い出した。年の功に敬意を表して、外科のある病院へ行くことにした。近くといえば日赤しかない。
  日赤病院は、出陣の日、トラックを降りたところだ。それ以来だった。付近は焼け切って建物のない中にここだけ建物が残った。内部はもちろん焼けている。しかし罹災者収容のためいちはやく片付けてベッドがぎっしり並んでいた。病人はベッドの上にも下にもいた。

 診断はやはり盲腸だった。こんな非常事態の中にも、平常の人間生活の営みがあるのかななどと、本人の苦しみは別にして、自分だけ妙に納得して、心がなごやいだ。しかし肉親がいないのだから手術に立ち会ってくれと医者は言う。こうした手術に経験などあろうはずのない私には、荷が重いと感じたがやむを得ない。手術室は暗くて蝋燭だけの明りであった。これで手術ができるのかといぶかる。手術台の近所では他の手術もやっている。麻酔はどうだったのだろうか記憶はない。とにかく、手術台の頭の所に立って病人の両手を持った。患者はひどく悶えていた。素早く断ち割ったおなかから、赤紫色の腸が取り出されて、医者の手のなかにあった。暗い明りの中で、それは、最初の日に見た、練兵場の兵隊の、破裂した腹を思いださせた。思わず顔を背けた私の手を、候補生は激しく握って苦しんだ。
  「頑張れ。」
と、握り返す。だが医者は平気で、腸を看護婦に見せながら何か説明している。そしていきなり、何かをパチンと切った。候補生がのけぞる。思わず肩を抱いた。兵隊だから乱暴に扱うのかとも思ったほどの苦しみだった。時間が長く感じた。ようやく手術の終った病人を、病室のベッドに運んだ。薄暗い病室のなかにぎっしり並んだベッドには、傷ついた見習士官ばかりいた。その数の多さに驚いた。なぜか、私と同様の学徒動員の人だろうと思った。爆心地に近いところに収容されているのだから死に直面している重症の人ばかりである。なぜか、一歩間違えば私もこの運命になっていたかもしれなかったと思った。人間の運命など、はかない分からなさがある、こうしてここに立っている自分に不思議すら覚える。

 うなだれて、歩きだしていた。板囲いの向う側で、何か妙な声がするので顔を上げる。手術かなと最初は思った。板囲いの向う側で、看護婦が立てかけた板と板の間の隙間に立ちはだかっているその向こうに、ちらっと見えたのは、どうやら女性の裸の下半身らしかった。医者が立てた両足の中を覗いていた。出産だと直感した。負け戦の戦場のようなところ。しかもあの大爆発の後でも新たな生命が生れ出るのかと不思議に思えた。あの爆発の日からの、数々の場面を思い出してみた。出てくるのは暗い、死の場面ばかりだ。しかもこれ以上はないほどの悲惨な地獄絵ばかりだ。だが、今ここでは、こんなひどい場所ででさえ、新たな生命が生れ出ている。
   練兵場の野営地へ帰った。疲れを覚えていた。紙屋町の交差点のところの、三分の一ほど焼け残った電柱が、急に、燃えだした。丁度、蝋燭に火をつけたみたいだった。その回りを、人魂のような、青い火、赤い火、黄色い火がふらふらと飛び交った。正に地獄絵である。再び死の世界だ。爆発の日からもう何日もたっているのにどうして炎が飛び交うのだろう。無残にも生命を奪われた人の怨念かとさえ思われた。隊付きの下士官が、どこで手に入れたか、バケツ一杯の水を燃え始めた電柱にかけていた。

      終戦
     空襲
  もし空襲警報の鳴らない空襲が経験があるかと聞けば戦争中は笑われたであろう。だがここ広島では、あの爆発の日からは、例え敵機がやって来ても、もはや空襲警報はなかった。私は、あの大爆発の後、初めて広島城に来た日、はるか上空を飛ぶB-29を見た。何事も起こらなくてよかったが、警報はなかった。警報の設備が無くなっていたのだろう。この日、八月十一日ごろだったと思う、もそうだった。いきなり、広島湾の方角から黒く見えた国籍不明の飛行機が飛んできた。爆撃機よりは高度が大分低くすぐ発見できた。
  「教官殿敵機です。」
といわれた時は、もう頭上に来ていた。そして北のほうへ飛んでいって大きく迂回している。また来る気配だ。私は、鯛尾にいて、呉の軍港が爆撃された日、艦載機の一つが、いきなり鯛尾に向かってきて、機銃掃射を受けたことを思い出していた。思いも寄らぬあっという間の出来事だった。陸上と空とではそのくらいスピードが違う。早く処置しなければならない。丁度私たちは練兵場にいた。瞬間の決心だった。

 「みんなあお向けに寝ろ。」
と叫んだ。私たちは、武器は何もない。持っているのは急造の土掘りや担架の類だ。軍隊だといっても非武装である。だがそんなことは上空の飛行機には分かるまい。だから軍隊と見れば機銃掃射はするだろう。しかしこちらはどうしようもないのだ。それならどうでもしてくれと諦めて、空に向かって大の字に寝転んだ。黒い飛行機は、北西の方向から比治山に向かって、一層低空で我々の丁度上を飛んだ。黒いと思っていた飛行機は、迷彩をほどこした曼荼羅模様で国籍を示すものは何も見えないが、日本のものとはとても思えない。何事も起こらなかったが、比治山の向こうで旋回して、今度はパイロットの顔が見えるくらいに感ずるほどの低さできた時は、今度はやられると観念していた。飛行機は我々の上空で、翼を揺するように傾けて西北へ飛んでいった。しばらくそのまま寝ていたが、それだけだった。私たちは顔を見合わせて起き上がった。私たちは敵機から機銃掃射も受けない軍隊になっていた。

    金庫破り
  その翌日の午後、私たちの隊に休養命令がきた。ようやくこの爆弾は原子爆弾という新しい爆弾だということも知らされてきた。放射能については何も説明はなかったと思う。とにかく、私たちの部隊からは、あまりに沢山の候補生、兵士が発病して、原隊へ送り返したから休めというのである。一応の後片付けも出来たことだし、休むのはいいとしても、特別に休む場所などあるはずがない。八丁堀の一角で焼けた風呂を見付けて修復して、部下を風呂に入れることにした。
  この暇に、広島駅へ歩いた。駅の建物は、中央の、時計のあるコンクリートの部分だけが残って、東に傾いていた。駅を背にして右に斜めに道があった。不思議にも、一面の焼野が原の中そこだけ二軒の家屋の焼け残りが傾きあって立っていた。この年の春先以来よく利用した宿屋の跡である。よく気のつく姐さんがいて、持ち込んだ米を炊いて家庭の味を楽しませてくれた。我々のたまり場だった。もちろん誰もいない。消息を示すものは何もない。恐らく彼女も、こんなに爆心地に近ければ、助からなかったであろう。

 駅から紙屋町に通ずる電車通りを歩いていると、人だかりがしている。近寄ってみると、大きな穴を掘っている。民間人ばかりだった。その穴の縁にいた一人の男が、新聞記者だということだった。原爆の日からもう五日以上にもなるのに、やっと今ごろ報道員が来るとは、のんきなものだと非難の目を向けた。彼は駅からここまでの道筋の光景で、顔は歪んでいた。その顔で、この穴でやがて焼かれる死体に目を遣って、同行した写真屋に指示していた。この新聞記者から長い間見なかった新聞を見せられたような気がする。そして、ソ連の突然の対日宣戦布告、戦車隊の満州南下を知った。全く予想さえ出来ないことだった。私は、千葉の戦車学校にいて、満州から、関東軍の精鋭戦車隊が本土防衛のため、帰ってきたことをこの目で見ていた。満州は空白地帯のはずだ。どうなるのだろう。日本は負けるのかという思いが初めて頭をかすめた。こんな思いは、八月初め、中支にいた兄から、ヤルタかポッツダム会談かのことを知らせてくれた時でさえ、頭に浮かばなかったことだ。まさかそんなことはあるはずがないと思い直した。敗戦という観念は出てこなかった。だが練兵場の野営地へ帰った時もなお暗い気持ちだった。

 着物を着た婦人が来て、手を貸せという。家は焼けたが金庫が残った。だが女手では開けられないからというわけだった。八丁堀の一角の、低い土塀のある家だった。どうもこの辺り色町ではなかったか。将校集会所はこの近くだった。裏門とおぼしき所に、真っ黒の人形が立っている。この辺りは死傷者の整理も大抵は済んでいるはずだ。変に思った下士官が、手で押してみると、どっさっと倒れた。まさかと思った黒焦げの人だった。男女の区別も分からないほどの炭になっている。あらためてこの辺りの物凄さをものがたっていた。あるいはこの婦人の家の人かとも思ったが、婦人は何の表情も見せない冷たい素振りだった。あるいは近所の人かともチラッと思ったが、くだんの婦人は知らぬ顔だった。

 金庫は立派だった。いちだん高い土盛りの上に、堂々と立っていた。よほどの金持ちだったにちがいない。この頑丈さではとても女の手に負えない。ここは経験豊かな下士官に任せて私は練兵場へ帰った。
  大部時間が経ってからだった。候補生が数人缶詰を沢山持ち込んできた。あの婦人が御礼だといって何処かの倉庫へ案内され貯蔵品をくれたものだという。なかなかの貴重品である。毎日握り飯しか食べていない若者にはたまらない贈り物だ。もう夕方になっていた。円陣を作って食べようとしていた。
  「待て。」
みんながけげんな顔で視線を私に向けた。
  「食べるな。片づけて、整列しろ。」
何人かの民間人が遠くからこちらを見ていた。
  「なんだ貴様らは。いやしくも幹部候補生だろう。民間の人がこんな悲惨な状況にあるのに、自分たちだけが良ければいいのか。こんな物遣ってしまえ。心を入れ替えさせてやる。」
二列に並んだ候補生の一人一人を、順番に一歩前へ出させて、喉元を拳骨で突いた。彼等はもろかった。一発で倒れるのが多かった。

 一体これは何だったのだろう。ソ連参戦や長崎のことで暗い気持ちになっていたことは間違いない。だがそれだけでは無さそうだ。社会人の目を意識した若気のポーズがあった。軍人はこのようにして鍛えるという独り善がりがあった。それに、女郎屋の女将の贈り物という懸念に何処かで拘っていたようだ。折角の休養日だった。久しぶりの風呂を浴びさせた後だった。こんな時、こんな場面ということを深く考える心の余裕はまだ持ち合わせていなかった。恥ずかしいことだが、崩れていく国と軍隊へのかすかな抵抗に無意識に粋がっていたのだろう。見物していた社会人は、うつむいて去っていった。解散した後、気まずさだけが残って、私は宵闇の中で独りぼっちで、先程の暴力で痛くなった手の指を押えていた。

 後のことだが、宇品へ帰ってからだった。同僚の見習士官で、太田川の西側へ救援に行った人がいた。彼の担当の地域に罹災した水飴工場があって、水飴がまだ沢山残っていた。それを候補生たちにふんだんに食べさせて飴だらけになったと、朗らかに話していた。私ならどうしただろうかと、心で自問していた。何か後ろめたい暗さが心を曇らせて、私は自分のしたことを黙っていた。

    終戦の詔勅
  翌日八月十三日は簡単に後片付けをして、宇品の原隊に復帰した。仕事が終ったわけではないが、私の部隊は余りにも脱落が多く、半身不随と見られて、とにかく休めということらしかった。だが、この時でさえ、放射能の危険性については何の説明もなかった。さらに、不思議にも、私たちの部隊の代わりに、ここは引き受けたという交代要員はやってこなかった。考えてみると、この約一週間、広島ほどの大都会の中心街、しかも新型爆弾の爆発した中心地に、若造の私が指揮する部隊の他には、纏った部隊はとうとうやって来なかったし、上級の将校が指揮官として着任しなかったことも理解し難いことだった。
  そのせいかどうかは知らないが、帰ってみると、おまえは勲章ものの働きをした。戦場なら金鵄勲章ものだといってくれる人がいた。いずれ何かもらえるだろうとも聞いた。無我夢中で働いた後の快感が残っていたから、悪い気はしなかった。しかし勲章とはそんなものなのかという変な気がしないでもなかった。

 十四日の夜だったと思うが、明日正午士官以上の集合が伝えられた。別に特別の動きも噂もなかったから不思議とも何とも感じなかった。
  十五日の集合は、二階の部屋だった。真夏の暑い淀んだ青空の日だった。どこの建物の二階だったかは記憶がない。大抵の建物は原爆で相当痛んでいたから、床が酷くきしむ狭い部屋だった。窓はすべて取り外してあるから、外の蝉の鳴く声がやかましかった。見習士官はもちろん将校の末席である。ぎっしり並んでひといきれのする部屋の窓際で直立して、玉音放送を聞いた。玉音を聞くなどは、もちろん生れて始めてのことで、緊張と期待で暑いのも忘れていた。
  普通の人とは違う、甲高い声と抑揚は感じ取ったが、ラジオのひどい雑音で内容はなにも分からなかった。期待が外れて、ぼんやりしていると、どうも戦争は終結らしいとささやかれた。そう言われてみても、初めはそれがどういうことか理解困難だった。昨日まで神州不滅だけが声高に唱えられてきたのだから、話の筋道に継ぎ穂がない。いわんやそれが戦争に負けたという内容にまで結び付けるのには時間がかかった。そしてこの事態を終戦と呼ぶことを教えられた。

 負けたのだ。敗戦である。敗戦などとは、日本の軍人には無い概念である。入営以来、自分の心の中だけではあったが、内務班の、古年兵の非人間性に反発し、予備士官学校では、陸士出の将校の独善性に抵抗を感じていた私も、自分自身が、教官になって、軍人を育てる立場になった。いつしか、かって嫌っていた教官の真似事をしている自分に変わっていた。そして、神州不滅を口にし、何時しか、自分自身も、それ以外のことを考えなくなっていた。いや、考えないことにしていたのかもしれなかった。

  暁部隊―船舶工兵隊に配属されるということは、その95%が戦死すると言われていたから、自分も死を覚悟しなければならない。死が必然だとすると、何か死を納得するものが欲しかった。大学予科で、初めて人間性に目覚め、自由の観念を覚え、理想主義に憧れ、これからという時に、学徒出陣で入営させられた。軍人になることに激しい矛盾を感じていた。口で軍人勅諭を唱える外側と、心で矛盾に悩む内側との相克の道を歩んできていた。それが、のっぴきならぬ死の必然性に直面して動揺した。戦場はまじかに来ていた。本土決戦が唱えられていた。沖縄の次は九州だ。九州では、モーターボートの両脇に、爆雷を抱えて、敵船を迎えることになっていた。自分自身が教えた、沖縄で自爆した少年特別幹部候補生が乗ったあのモーターボートである。

 敵がいつ九州に来ても不思議でない。時間がない。一日も早く納得しなければという焦りがあった。そんな焦りが、理性を飛び越えて、軍人として死ぬならば、その意義はという姿勢に飛躍していたことに気がつかなかった。元々軍人でない自分が、心で反発していた―軍人―その軍人として死ぬことを自ら求めていたことに気が付かなかった。予期もしなかった予備士官学校の教官という立場が、それを手伝ったのかもしれなかった。ともあれ、あの陸士での教官のように、敗戦という観念は頭に入ってこなかった。だが現実は敗戦である。しかも、戦死の代わりに、今度は、捕虜になるかもしれない。陸軍の教えは、生きて虜囚の恥を忍ぶことを許さない。戦死の代わりに、捕虜として自殺を要請されることになるかもしれない。私は、つい前の日に、広島での働きで、勲章を貰えるらしいことになっている話を何となく思い出していた。しかし今はすべてが崩壊したのだ。

 Battle Fatigueという言葉があるそうだ。私の場合はFatigueは二重だった。War&Bomb Fatigueとも言うべきか。いずれにしても、戦争と原爆からの唐突な突き放しというダブルショック。戦争と原爆、それ以外はもはや、頭になくなっていただけに、心神喪失というか惚けというか、空虚がゆっくりとやって来ることになる。
  必然視しなければならなかった戦死から逃れたという実感はなかったのか。不思議なことに、その実感があれば、喜びの感情もあったはずだが、この必然の運命からの解放感は無くて、空虚が来たのだった。  ここからは、誰もが体験したことのない世界になる。何を為すべきか、何をして良いか一切不明である。責任のない流言飛語が出始めていた。徹底抗戦を主張する某少佐は、上層部の優柔不断に業を煮やして、抜刀して机を叩き割って抗議した。若手将校はそれを支援している。初めて見る軍規の亀裂であった。そんななかに、アメリカ軍がすぐにも上陸してくるという噂がとんだ。私たちは捕虜になるかもしれない。どうするのだという不安と疑心が交錯していた。どういう訳かは知らないが、私たちの予備士官学校は、鯛尾に移ることになった。鯛尾は、広島からは一応海を隔てている。後ろには山があるので、半島ではあるが、島のような状況である。いわば世間から隔離された場所だ。そこで待機することになった。鯛尾に移ってしまうと、宇品の緊迫感が薄れてきた。

 指令されたことは、機密書類を焼くことだった。アメリカ軍がやって来れば、一切を渡さなければならない。そのときでも、日本陸軍の軍事機密は渡してはならない。そんな準備が始まった。作戦用務令を初めとして、一切の軍務に関する本は、教科書に至るまで焼いた。私たちにはそれ以上の機密書類というべきものは何もない。それをやってしまうと私たちにはもうやることがない。アメリカ兵がやって来る気配はなかなか無かった。捕虜になるかもしれないという懸念も何となく薄らいで行った。仕方が無いから、候補生を連れて、裏山に出て軍事教練の真似をした。アメリカ兵が来た時に備えてといういことがあったのかもしれない。しかし武装解除されることは分かっていたから、こんなことに力が入るはずが無い。海に出て爆薬で魚とりをした。候補生には無かったが、魚とりの最中に、爆薬の操作を誤って、足を失った兵士もいたから、人間の運命は分からない。戦争が終ってから重傷をするのだから。

 原爆症の症状で倒れていた候補生たちは段々元気になって復帰してきた。もっとも、一部の候補生は復員する日もなお全快しないでいたのだが、当時は原爆症の知識など全くないのだから、治って当たり前と思っていた。だから、戻ればみんなと一緒に行動した。

  本来なら、原爆症の知識があって、血球検査は行われるべきだったのだ。仁科博士らの原爆の認定は出ていたのだし、放射能のことも、この頃なら或る程度は、軍の上層部には分かっていたはずなのだから。だが、そんな警告も指令も何もなかった。敗戦の混乱が、こんな重大なことも伝えることを忘れさせたのだろうか。原爆の後には、草も生えない。七十五年間は人間は住むことができないなどと言われ始めたことを知ったのは、復員した後のことだった。だから、休養すべきところを休まず、動き回っていた。

 わずかな距離ではあっても、海で隔離された鯛尾にいると、何時しか広島から切れていた。もちろん、ここにも罹災者は収容していたから、肉親を捜す市民は、毎日やって来た。しかし、その対応は私たちの仕事では無かった。だから、広島でのことは済んだことになっていた。むしろ、終戦という予期もしなかった事態に心を奪われていたのかもしれない。
  この頃ではなかったろうか。候補生たちも私も、郷里の自分の家に葉書を出した。郷里では、私たちが広島にいることは知っていたはずだ。しかし広島のどこにいるなどは知らないから、恐らく死んだと思っているに違いない。とにかく、生きていることだけは伝えようということで、葉書を書いて、郵便局のありそうな、呉線の沿線に行く人に預けた。もっとも、この混乱だから、果たして家に届くかどうか当てにはできなかった。

 鯛尾の暁部隊が解散になり、帰郷できることになったのは九月に入ってからだった。

 ☆被爆地  広島市宇品3丁目 錦華人絹(大和紡績)跡地 教導連隊船舶練習部
☆執筆日時 平成4年11月5日
(2010年送付=「臥龍 広島における被爆学徒兵の体験記」<2001年>より抜粋)