田中希生

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田中希生
@kio_tanaka
大学教員。歴史学者(近現代史)。著書に『精神の歴史』2009、『存在の歴史学』2021(いずれも有志舎)。
奈良fragment-group.com/kiotanakaBorn May 20, 1976Joined March 2010

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告知です。来たる8月18日(日)14時より、奈良女子大学にてシンポジウム「苦悩する歴史家/歴史」を開催します。興味のおありの方、どなたでもぜひ。(詳しくはWebサイトをご覧ください。) fragment-group.com/shogo/
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死にまつわる議論は配慮がいるが、学者としてあえて切り込んでいえば、戦後社会のひとつの特徴は、若い人が死ななくなったことである。かつて、すくなくとも戦前であっても、若者が最初に経験する死といえば、兄弟姉妹の死がほとんどだった。だが、いまでは最初の死はおよそ老人のものである。
さて、コロナ禍。「あのときは仕方なかった」というかつての戦争を思い出させる論調が現れているが、あのときは「終戦」宣言があった。いまはその宣言もなく、対策を訴えてきた専門家もしれっとマスクを外し始めている。いつか終わると思って対策を続ける一般国民について、どう考えているのだろうか。
さて、コロナ禍から4年。あのときの大学1回生は4回生になり、コロナ禍が過ぎ去っても、マスクを外す機会を持てないまま卒業を迎える学生が何人もいる。いまさら外せないし、いまさらわざわざ仲良くなる必要も感じられない、というわけだが、側で見ていて、淋しさや苦しさはよく感じられる。
さて、100%マスクの昨年と50%マスクの今年。同じ時期に来た波は、昨年より大きくなることなく引いていった。日本社会こそ、マスクの効果に否定的な事例を提供したわけだが、一部の医師や学者のプライドを守るためだけに、修正しないまま、無意味な対策を続けさせるのだろうか。悲しくなってくる。
ウイルスのことだけを考えている科学者なら、マスクを推奨すればいいだけですが、人文学者としては、しかも近代史家としては、それがもたらす負の側面を指摘しないわけにはいきません。人文学者がここで沈黙するなら、そもそも日ごろしている研究はなんだったのか、という話になってしまいます。
さて、第9波・感染拡大してきたからマスクを、というのがわりといて、まいっている。オールマスクで8回同じことが繰り返され、9回目はノーマスクが原因だ、と考えるのは科学なのか。この程度の屁理屈でもとに戻したら、今度は第10波に怯えながら、もう1年ユニヴァーサルマスクをやることになる。
アングラで活動してきた人間が、国家主義的な催しに音楽を提供することより、彼が行った40年前の非人間的な扱いを知り、憤った民衆が彼をその場から引き摺り下ろすことの方が、はるかにアートである。アートは、彼を救う。彼を国家主義的な場所から引き離すことによって。
さて、自分がいつからコロナ「対策」禍を問題にしていたか。別のところで二度聞かれたのでいえば、ほとんどはじめからである。どんな理由であれ——つまり命がかかっているときでさえ、「自由」を制限するものについては注意を払う。それは人文学者としてとるべき最低限の態度と思ってきたから。
さて、「マスク着用」がまだ右の柱にトレンドとしてあがっている。マスクはもうできるだけ外す方がいい。風邪など病気でもないのにするのは、人としていいことではない。それはけっして思いやりではない。ワクチンもそうだ。思いやりでするものではない。しなくていい。
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結論をいえば、老人を攻撃する言説は完全に間違っているのだが、ならばなにが起きているのか。現代日本を覆うのは、一言で言って、「生命」主義である。生きるよりも「生命」を重視するこの主義のために、社会的配慮から老人は病院の近くで息を潜めて生きることを強いられるのだ。
さて、唾液の飛沫について。料理屋の店員にマスクをしてほしい向きがある。だが、彼らも同じ人間である。客である自分の唾液のついた皿を洗うわけだ。自分は店員にマスクは求めない。唾液をわざわざ吹きかけるのでなければ、常識の範囲で、自然にしていてほしい。それより笑顔が見たい。自分はね。
僕はこのやりとり、中川淳一郎氏に、心の底から共感する。中川氏のようにはうまく言葉にできず、震えてしまうだろう。
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杉原航太
@kota_sugihara
『思いやり』トレンド入り。 新型コロナ最大の闇『思いやりワクチン』。こんなもの絶対に思いやりではないと国民全員が認識するまでこの動画はアップし続ける。無惨に若者や子どもが死ぬのを黙って見てはいられない。 忽那賢志は子どもたちに思いやりワクチンを推めた。
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1:15
さて、最近はワクチンのリスク/ベネフィット論をよく見かける。要するに「リスクをベネフィットが上回る」という言い方のことである。もちろんリスクを正しく公開している、という前提だが、こうした統計的/経済的言い方ほど無責任なものはない。このリスクには「死」が含まれているからである。
さて、この四年は日本社会の幼稚さを感じる四年だった。人と同じことができれば大人である、という学校教育をひきずったまま、大人になってしまう。高等教育が機能していない。病気でないなら、マスクは外せるのが大人だ。顔はみな違う。その違いを見せていい。春、なにかを変えるなら、マスクだね。
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80を過ぎようと、90を越えようと、好きな旨い酒を飲むべきだし、生命主義のためにそれを控える必要もない。自分が老人なら、妙な気を回して孫がマスクを外さない、などという目にはあいたくない。孫でも子供でも、赤の他人のでも、笑顔が見たい。どうせ死ぬなら笑顔が見たい。
さて、コロナの第9波も収まったようでなにより。マスク50%でも、100%の去年と同じように収まっていくのだから、僕の中では答えが出たね。マスクは波と関係しない。ヘラクレイトスは言った。「山火事の火を消そうとするより、その火事を消せると思うあなたの傲慢の火をまず消しなさい」と。
さて。日本人の思考が神経症的になっている傾向は、ずっと感じている。ここで僕がいう神経症とは、ひとつのパラメータだけを気にするような生き方のことだが、このパラメータが他の変数を蹴散らしてしまい、唯一のパラメータを上昇させることに思考が費やされてしまうような状態をいう。
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いまは反対に、老人は生きなければならない。それは、死を避けるべきという常識にしたがったまでだが、死に近い分だけ老人にはその配慮が圧倒的に必要とみなされる。老人の生は、いわば、今日の生命主義の象徴であり、この生命主義のために、老人は、医療の粋を尽くして生きねばならない。
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真に「生きる」ということについての哲学の不足。「生きる」ことを医療言説に奪われて「生命」に変質させる、言い換えれば医療なしには生きられないというような転倒を転倒と思わない日本社会。これをもう一度反転させるような哲学が、求められているのだと思う。老人こそ生きねばならない。
さて……当初からいやな予感はしていたが、ウイルスにかかわらず、日本社会に「マスク」が残ってしまいそうだ。こんな日本では困る。視線の哲学・イメージの哲学の決定的な欠落。見られることからの逃避衝動があり、それがマスクをする、という行動につながっている。
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戦前と戦後にある、こうした死の配分の圧倒的な変化と格差は、望むと望まざるとにかかわらず、ひとつの社会的な変化と権力を生み出してしまう。かつて、若い「きょうだい」たちの命の軽さは、戦争を可能にし、また戦争に非常に重点を置いた権力構造を可能にしていた。いまはどうか。
なぜひとは歴史に学ばないのか、という嘆きをよく耳にしますね。その嘆きの主は、けっきょく歴史に学んでいないのです。というのは、いままでひとは、一度たりとも歴史に学んでこなかったからです。肝心なときにはいつも忘れている。それをこれだけ繰り返しても、まだ歴史に学ばない、と嘆いている。
「マスクを外すのは恥ずかしい」という意見が出ている時点で、社会的には副作用がまちがいなく出ているのだけどね。これは無視されてしまう。
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自分はこれは間違った生き方だと思っている。むしろ老人こそ、労働から解放されて《遊ぶ》こと、あるいは自分のためだけに真に《走る》が求められているのに、彼らは社会によって、方々からの——多くはもっぱら医療的な配慮により、生きさせられているのである。
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この変化は、死の言葉をひとが避けるために表に出にくいとしても、ひとが意識的に思っているよりも非常に重い。年齢的には20代後半くらいから、祖父母の死を経験する、それが身近な人間の最初の死のケースになることが多いと思う。
さて、疫病にかかわる人間の行為が、「正義」の名のもとに全体主義・ファシズム傾向をもつことは、発生直後に論文でも書いたように自分を驚かせていた。しかしそれ以上に驚いたのは、左派知識人の沈黙や扇動である。全体主義の吹き荒れた第二次大戦期の社会についての彼らの理解は、自分と異なっていた
さて、コロナ対策を推奨するひとへの雑感。彼らは往々にしてその批判者の0/1思考を非難する。完全に防がなくとも、少しでも効果があれば対策すべき、という考えだ。何度も言っているが、この発想では、効果を測る段階では0/1の間を思考できていても、行動は0/1になる。0でない限り1である。
さて、マスクを外せる世の中になって随分経つ。若者の一部は——若者だけではないが——定着したようだが、人としては外す方が自然。そちら側にがんばって自分の精神を持っていこう。一部医者がなんと言おうと、マスクを日本ローカルにするのはよくない。そう言わない医者もいる、というので十分である。
この四年を考えると悲しくなりますが、マスクは若者の精神に一定の傷を与えていると思います。まだ若者の置かれた境遇に思い至るだけマシですが、軽い対策と思われていたらしいマスクには、顔を隠すことによる精神上の重い問題があると考えて欲しかった。
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大阪に住む唯の男
@Tqbz0adPzjIOdGT
「青春時代を楽しめなかった若い世代には、ありがとうという気持ちでいっぱい」 よく言えましたね。
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さて、奈良は海外の観光客につられてか、日本人のマスク姿も減りつつある。経済的停滞下の日本で、さまざまな《不安症》が高まっていたところに疫病があった。この不安症に乗って、マスクはよく浸透した。不安症のもたらした全体主義のほうを、ぼくはこのウイルスより恐れる。歴史家として当然と思う。
さて、残念ながら、マスクを外せない学生も多い。もう4年目に突入だが、これまでの3年の歳月は、重く学生にのしかかっている。急に「顔」を晒して自己同一性を破壊する、その勇気が持てない。マスクを通した付き合いしかしてこなかったのだから、いまさらと、面倒にも思うのだろう。
ぼくが若いころは、マルクスを古いマルクス主義を乗り越えて、どう読み替えていくか、というアルチュセール以来の課題の延長上にあって、そこで思考するのが出発点だったから、88歳の伊藤隆はともかく、ぼくと同世代の研究者がマルクス主義を執拗に攻撃しているのをみると、奇妙な気持ちになる。
四年も子供や若者が人前で顔を隠して過ごす。子供が黙って、団欒なしに食事をする。そんなのいいわけないのです。たとえコロナがあったとしても、その脅威がどれほどかを見極めながら、闇雲に顔を隠さなくて済むよう、若い人の可能性は最大限に生かす。当たり前のことだと思うんですけど。
マスクを外したから疫病が蔓延したという、原因と結果に強い相関を主張する根拠不明の言説は、子供からマスクを外す選択を奪ってます。外したら発生源とみなされちゃいますから。子供も大人も、教室や職場でのいじめを避けるべく生きています。ある意味、いじめをウイルスより恐れていますからね。
さて、NHKの偽報事件。これはあまりに露骨であったため、声を失ってしまったが、とんでもないことだ。映像は周到に編集されていたが、その盲目的な、ある意味では喧嘩を売るかのような専制的周到さが恐ろしい。分断しか生まないそのやり方の意図はどこにあるのだろうか。
さて。見かけたので……。僕は医療にはさほど文句はなく、人文学に文句がある。ただ、こうした《医者に文句を言えばいい》というようなヒロイズムは幼稚と思う。「世の中が傷ついた」式の言い方は問題を矮小化している、と思うし、やはり人間をその水準でしか見ていないのだな、と思う。 t.co/lj9lbZWTlF
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ちなみに、医療を否定しているのでは、もちろんまったくない。人文学者として、あまりに高度化した医療の浸透がもたらす社会的・精神的変化を指摘しているわけだね。それが「生命主義」(「生命」という観念が「生きる」ことの前提になってしまう)というわけだ。
さて、マスクがたんなる科学の対象でないのはわかりきっていた。顔、厳密には表情を隠すのだから、人間の社交性を部分的に遮断する。それでマスクをめぐって社会に分断が生じ、科学者が人格にかかわる語(思いやり……)を使用したり、あるいは人格攻撃にいたるようなことも生じている。
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ただ「生命」を長引かせるような生き方ではなく、若い男女を眺めて思い出に浸りながら、どこかの居酒屋で旨い酒を飲み、ときには旅をして、あるいは何かを学んで、新しい世界に足を伸ばす。足が痛いなら家で飲めばよく、あるいはストア哲学を学べば水でも酔うことができる。生きることである。
またセンスのない、雑な実験を。人間の感情は4つしかないと思ってるのか。これはもう大人の問題、日本社会の問題だね。
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Takuro⚓️新型コロナ情報in全国/神奈川/横浜/川崎/東京/大阪/岐阜/広島/愛知/静岡
@triangle24
静岡大学と畿央大学の研究。写真だけでも、サングラス着用でも8割感情を読み取れ、音声付きだと着用なし/マスク/サングラスどれもほぼ100%正解 古見講師「保育や教育の現場では、(子供のために)必要以上に『マスクを外さなければ』と思わずに、個人の判断が尊重されると良い」huffingtonpost.jp/entry/story_jp
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誰にとっても死は恐ろしく、それだけに死の配慮を求めるのだが、戦後社会における、誰にも襲い掛かるはずの平等な死の配分の圧倒的な格差のために、老人は社会的配慮を受けることを強いられ、こうして弱者であるはずの老人の重みに社会が耐えかねるような事態まで起こっているのである。
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僕のような人文学者にとって、ユニヴァーサルマスクはあってはならない対策であり、これがかなり長い間実現したということは、ファシズムの将来にわたる実現可能性をよく実証していた。相手がウイルスではなく自然環境そのものになれば、なにが生じることになるのか、そちらのほうが恐ろしい。
さて、コロナ禍はゼロにならないまま過ぎ去って行った。ゼロにはけっしてならない問題に対して、1か0か、という関心でコロナ禍に取り組んだひとが専門家にも多く、おかげで一部でマスクが残るという、難問を長く抱えることになってしまった。マスクはできるだけ外す。そういう習慣をつけよう。
さて。ユニヴァーサル・マスクにはほとほと参ったが、いまだにこういう全体主義的対策を実践する気になるのだから、戦争だって起こりうるということだ。この対策の問題は、一点に集約される。たんに、した気になるだけで、「できない」のである。もっと早い段階で「できない」と思えなければならない。
さて、このところ、じつはかなりの大人が、マスクを外し始めていると思う。さすがに8回マスクで防げなかったものを9回目だけはマスクで防げる、と根拠なく考える大人は少なくなっていく。マスクこそ生のエビデンス、と思っている人間もいるようだが、それはエビデンス主義という病だね。
さて、世の中、第10波だそうである。風邪には気を付けるべきだが、なぜ効果のないマスクが推奨されるのか。亀裂の走った堤防でもないよりマシ、という「専門家?」がなぜか多い。マスクをして息をすればわかるが、水が亀裂に殺到するように、呼気も顔とマスクの隙間に殺到している。
エビデンスがないとマスクが外せなくなってしまったひとたちがいる。もちろん、そんな彼らも、親しいひとの前では問答無用で外しているので、彼らの無意識は当然のようにエビデンスなしの行為を受け入れている。この「無意識」の側に、人間は存在している。不思議なことに、意識は人間を忘れるのだ。
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ともあれ、「きょうだい」の命の軽さが、戦前日本社会の戦争を可能にしていたとすれば、現代社会は、命の重さと、死の重みの配分が圧倒的に老人に偏っていることからくる非対称性が、ひとつの権力構造を作り出している。老人を攻撃して済む話ではない。これは、社会を覆う「生命主義」の産物と思う。
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「あの時は仕方なかった」、その「あのとき」とはいつまでなのか。法的にはこの言葉で弁護できるようだが、しかし、法的という割に、その範囲は誰にもわからないのである。終戦の宣言もなく、まだその「仕方ない時間」を過ごしている若者や子供もいることを、もっと真面目に考えた方がいい。
僕もそう思います。昔フーコーという哲学者が、科学は見えないものを見えるようにする、哲学は見えるものを見えるようにする、と言っていました。その意味が、いまはよくわかります。ウイルスばかり見て、現にマスクをしている子供がみえていない。
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👩🏻‍⚕️いすちゃん(保健室の人)🏀
@isu_hokenshitsu
未だに「マスクが子どもの発達に害というエビデンスは無い」と言う方がいる事に驚くけど、仮にそんなエビデンスが出てしまったら、もはや手遅れですよね。 精神的に外せなくなっている子が大勢出ている時点で明らかに「害がある」でしょう。子ども達の今の現状が何よりの根拠じゃないですかね。
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さて、日本社会は疲労している。経済を何年も止めつつコロナ対策にかけた圧倒的に巨額の金と、それに対して今度の震災に用意した金の差が、それをよく表している。前者はまだ終わっていない(まだワクチンを打てる)というのだから、恐ろしいコストになっている。人間の同情はかくも利己的なのである。
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もうマスク社会はやめないか。人間の顔を隠して同情としての疫病を可視化するだけの、有害な対策である。これがあるだけで、自分は災害のなかにいるという錯覚をもたらす。横でひとが傷ついていても、手を差し伸べない。自分も災害のなかにいる(同情してほしい)、というわけである。
さて、コロナをめぐって、政府は言論統制の準備を始めている。こうした言論統制は、もちろんまったく学問的ではないが、そもそも疫病にかかわる人間の行為は、戦争同様、どうしても全体主義・ファシズム傾向をもつ。また同じ対策禍を繰り返すようなら、日本は再起不能のダメージを受けるのではないか。
さて、現代社会の知の閉塞を感じている。若者に意識してほしいのは、知を独占しようとするアカデミアに対してつねに穴を開けるつもりでいてほしいということ。いまや日本列島全体が病院化しているが、それは、人間身体についての知を医者が独占していることからきている。これは全分野的傾向だ。
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ストア派の老哲学者クリュシッポスは自分の人生に満足を感じながら夕日を眺めていた。ふと気づくと、傍らのロバが自分の持っていた葡萄をすべて食べ尽くして酔っ払っていた。クリュシッポスはそれが可笑しかった。笑いが止まらなくなり、そのまま笑い死にしてしまった。これが生きること、人生だね?
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これから、4年間マスクで過ごした若者が教師になることになる。子供がマスクをしていても、なにも感じないだろうし、それこそマスクの効果は0から100の間に収まるというのだから、いくらでもマスクをしつづけることができる。日本はこうして顔を隠す社会になるのかと思うと、自分はぞっとする。
いいかい? 喜怒哀楽は人間の複雑で多様な感情を4つの言葉で表現しただけであって、七色という言葉に引っ張られて虹は7つしか色がないと思うのと同じ観念論だね。大人のやることかい?
さて、やや難しい話をしたので、頭のネジを巻き直そう。マスクを外せなくなった子供たちの話を目にするが、悲しいことだ。目に見えないウイルスを可視化し、恐ろしいものにすることが、対策を貫徹させる安い方法だったのだが、人間を馬鹿にしたそんなやり方が、どれほど暴力的に作用していたか。
さて、疫病の脅威は、ウイルスというより人間に対する敵意にある。疫病には、そうした敵意を生む構造がある。生活から知恵を引き出す人文学者として、僕はこの間、マスクにこだわってきたが、それはマスクが敵意を回避するための護符だったから。こうして、ぞっとするような全体主義社会が出現した。
感染症を舐めたらいけないですが、「相手に感染させない配慮」は科学的発言ではないですね。「相手」も「配慮」も規定できないからです。科学的エヴィデンスをもとにマスクを語ろうとしているひとが、そこで情緒に訴えてはいけないと思うのですが、マスクはこの情緒の部分で流通している。
さて、新学期が始まったが、まだまだ、学内はマスク姿が圧倒的。マスクは外さなければならないし、外したほうがいいに決まっているのだが、強要はしない。外す姿を見せ続ける、それで変わってくれるのを待つ。まったく、「生命主義」を撒き散らすだけ撒き散らして、この後始末はどうするのか。