理由
2022年10月22日。メールチェックをしていたら、前日にMENSAからメールが届いていたことに気づいた。「【JAPAN MENSA】証明書による入会判定 結果通知」と題されたそのメールに、どうせ受かっているだろうことはわかっていながらも、少しドキドキしていたのを覚えている。
結果は合格。月曜日に郵便局に行って、入会費(3000円)と今年の分の年会費500円)、2026年の分までの年会費(年3000円×4)、MENSAの会員証(2000円)、しめて合計17,500円を支払った。
さて、決して安くはないお金を支払ってまでMENSAに入りたかったのはなぜなのだろう。実のところ、私自身もMENSAに入ることそれ自体に明確なメリットを見出していたわけではない。というのは、アメリカのMENSAであればギフテッドチルドレンのためのグループがあるらしいが、日本にはまだそのようなものはないというからだ。
多分、私は何かを証明したいという強迫観念に囚われていたのだと思う。その証明すべき「何か」が何だったのかは未だ明確には分かっていない。だが、多分次の2つなんじゃないかと思っている。
1つ目は、私にはひらめきや発想力のような才能があるということであり、その才能をどこかで活かすことができるということだ。だが、こうした能力はあまりにもふわっとしている。だからこそ、それを証明する方法はMENSAしかないと直感した。
2つ目の理由は説明するために前提を要求する。学校に対する捉え方が2つに大別されうるという話がそれだ。学校観の1つは、あくまで学校を勉強のための場所であり個人が自分の能力を伸ばすための場所として捉える機能主義的な見方である。これに対し、もう1つは集団の中で人間性をはぐくむ共同体主義的な捉え方である。ここで、適応できない個人も一定数必然的に伴ってしまうことが共同体主義の論理的帰結であることには注意しておく必要がある。というのは、共同体主義的な教育は伝統的な運動会や部活や式典や修学旅行などを通して人間関係の苦しさやチームで何かを達成する喜びを経験させることを意味するが、ここで人間関係に苦しむ人がいないことは、集団の中で人間性をはぐくむという目的に対して手段として不十分だということを意味するからである。
※以下は、以前から私が考えていたことを「機能主義/共同体主義」というキーワードを用いてキレイに言語化してくれた記事である。こちらも参考にしていただきたい。
さて、日本の学校であるが、共同体主義的な側面が強い。こうなると、ギフテッド(どころか私の場合には2Eなのだが)特有のマジョリティに属していないことに起因する苦痛は大きなものとなる。これを語りたい、共有したい、分かってほしいという思いがあった。だが、世の中には「自称ギフテッド」などと揶揄する連中もいることは知っている。それこそが第2の理由だ。MENSAに入ることで「自称ギフテッド」ではないことを証明する必要を感じていた。
ちなみに、今年の夏頃からギフテッド教育が話題になったはいいものの、そこからギフテッドに関するさまざまな揶揄を目の当たりにして正直精神的に参っている。例えば「神童も二十歳過ぎれば只の人」などの言葉を持ち出して揶揄するような人がいる。神童が凡人へと落ちぶれていくような話を聞けば溜飲を下しやすいのだろうから仕方ないのだろうが。「ギフテッド=天才」ないし「ギフテッド=エリート」というイメージからか、あるいはギフテッドの適応困難が発達障害と似ていることからかはわからないが、「親が我が子を発達障害だと認めたくないだけ」などという揶揄もしばしば見受ける。あるいは、公文式などのイメージに引っ張られるのだろうか、ギフテッドの存在を早期学習の効果と矮小化する例も見られる。ギフテッドはインチキであり優生思想だ?ふざけたことを言うんじゃない。
さらに悪いことには、サンデルの『実力も運のうち』という著書も世界的に売れている。これでは「何か」を証明するどころか、これまで抱えてきた苦悩を語ることさえも封じられてしまう。サンデル許すまじ。ともあれ、似たような苦悩を抱えるもの同士が安心して語ることのできる場は、多分MENSAくらいしか残されていないのだと思う。サンデルに関してはいずれ別の機会に書きたいが、少なくともサンデルの顔面をサンダルで引っ叩きたい。
ちなみに、「神童も二十歳過ぎれば〜」現象に関していえば、多くの人がおそらく考えているのとは逆の結論を導くことができるだろう。私自身、高校生時代に不登校や抑うつ状態を経験し、浪人までしている。Twitterのギフテッド界隈を見ても、ギフテッドネスに対して適切なサポートがないがゆえに、メンタルなどに変調が生じ、好きだったはずの学習にさえ支障をきたしてしまったという例をやはりいくつか確認した。「神童も二十歳過ぎれば只の人」になってしまうのだから特に何もする必要がないということはない。むしろ逆だ。「神童も二十歳過ぎれば〜」現象が起きてしまうことがもったいないと思う気持ちが少しでもあるのなら、学校教育の共同体主義的な側面を薄めるべきだ。共同体主義はマジョリティにとっては対して苦しいものではないかもしれない。だが、マイノリティを圧殺する効果を持っていることは忘れてはなるまい。もし共同体主義的な側面を学校教育から取り除くことが不可能なのであれば、せめて何らかの配慮が必要だろう。
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