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おっと地平線が真ん中にきちまった、とおどけた素振りでカミンスキーのカメラが地平線をフレームの底へ追いやるラストのハッピーエンドは、そいつを支配しろ、そうすれば世界はおまえのものだという神託を受けたサミー・フェイブルマン(ガブリエル・ラベル)が、スティーヴン・スピルバーグというその名前自体が映画史をなす怪物として生まれ変わる瞬間を謳いあげてみせて、自伝というよりも映画とは衝突と均衡の苛烈な反発であるというマニフェストの独白であったように思うわけで、キュアロンの『ROMA』やブラナーの『ベルファスト』とは半ば言い訳のような郷愁や感傷の不在において決定的に根本を違えている。あなたは何より衝突=CRASHに魅入られているのねとサミーのオブセッションを看破した母ミッチ(ミシェル・ウィリアムズ)は、それゆえサミーの通過儀礼の生贄として差し出されることとなるのだけれど、“起きたことのすべてに意味がある(Everything happens for a reason)”という彼女の言葉はカメラの暴力的ともいえる即物性の翻訳にも思えるわけで、『リバティ・バランスを射った男』がその活劇にしのばせたジョン・ウェインとジェームズ・スチュアート、ヴェラ・マイルズの三角関係は、やがて父バート(ポール・ダノ)をジョン・ウェイン、ベニー(セス・ローゲン)をジェームズ・スチュアートとして母ミッチをめぐる関係をサミーの潜在から引きずり出すこととなり、前述した神託を授けたのがジョン・フォードその人であったことを思ってみれば、やがて芸術と家族がおまえを引き裂くだろうというボリス叔父(ジャド・ハーシュ)の予言めいた言葉もむしろ好ましい呪いをサミーに補強したように思うのだ。しかしカメラとフィルムが自分の中で交錯した瞬間にゆらめくデモニッシュな光と影の正体を見極め手なづける術を知らぬサミーにとってそれは忌むべき呪いに他ならないにしろ、彼のフィルムに捕えられた母はそれゆえ家を去り、同様に彼のフィルムに捉えられた少年は嗚咽しつつクラスメートを叩きのめして立ち去っていくその姿に彼は禁忌めいた愉悦を感じたのではなかったか。だからこそ、かつてロバート・ジョンソンがクロスロードで出会った悪魔と契約したように、神にして悪魔ともいえる存在と邂逅したサミーがその闇の先にこそ光差すことを確信するラストに多幸と万能が溢れ出たのだろう。母と妹たちが出て行って今は父子2人が暮らす手狭なアパートメントの中、あるシーンで穏やかに悄然とたたずむバートのまるでかげろうのような影が壁に映るショットの残酷もまたスピルバーグの揺るがぬ一面であることは言うまでもなく、わたしは映画がおそろしいことを誰よりも知るからこそライオン使いたり得るのだと、150分の閒それを語るこの映画の真夜中の独白のような息づかいを過去の漂泊と振り返るにはあまりにも血が脈打ち目がぎらついていたのだった。