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阪神『死のロード』は昔の話…今はドームが多い『極楽ロード』?負け越しスタートも現役時代の”文春砲”に負けなかった指揮官が『Vロード』へと導く

2024年8月12日 06時45分

阪神・岡田監督

阪神・岡田監督

◇コラム「田所龍一の岡田監督『アレやコレ』」
 高校球児に甲子園球場を明け渡して約1週間が過ぎた。この間、岡田阪神は長期ロード中。昔は「死のロード」と呼ばれた。2週間以上、本拠地の大阪には帰れず、ずっとホテル住まい。選手たちは遠征先で遊びすぎたり、体のリズムを崩したりで、この期間になると成績を大きく落とした。だから「死のロード」と呼ばれるようになった。
 逆にその期間を負け越さずに乗り切ると…。21年ぶりのリーグ優勝を果たした1985年を見てみよう。8月6日のヤクルト戦(神宮)に始まり→中日戦(平和台)→巨人戦(後楽園)→広島戦(広島)→20日からの大洋3連戦(横浜)で終わり。この間、13戦7勝6敗。
 あるOBはこう指摘した。「ずっと遠征に出っぱなしというのは辛い。ホテルのベッドではなかなか疲れも取れない。それに当時はまだドーム球場がなかったし、ナイターとはいえ暑くてなぁ。それに比べると今の選手たちは極楽ロードだよ」。
 確かに今年のロードは8月2日のDeNA戦(横浜)→ヤクルト戦(神宮)→広島戦(京セラD大阪)→巨人戦(東京D)→中日戦(バンデリンD)→ヤクルト戦(京セラD大阪)→23日からの広島3連戦(マツダ)まで。なんと1週間ごとに帰阪(京セラD大阪での試合)。これでは「長期ロード」とも言えない。しかも9日の広島戦から4カード連続のドーム試合。まさに「極楽ロード」だ。
 選手たちは遠征先でどんな生活をしているのだろう。担当記者によると「コロナの時期は外出禁止。選手たちは部屋でゲームをしたり、ネットを観たり」。コロナ自粛が解除されて外出する選手も出てきたが「昔の選手のように豪快に羽目を外す選手は少なくなった」という。
 85年の6月下旬のこと。ナゴヤ球場で記者たちに取り囲まれた岡田が頭を抱えていた。聞けば、当時流行っていたスクープ写真週刊誌(「フォーカス」「フライデー」のFF誌)に“激写”されたという。芸能人のような「不倫写真」ではなかったが、知人のオカマちゃんのマンションから朝、出てくるところをパチリ。
 岡田の説明によれば、横浜での大洋戦(デーゲーム)が終わった後、知り合いのオカマクラブに出かけた。帰りかけるとその店で一番美人のオカマちゃんが「私が男に変身するところを見てみない?」と誘われ、マンションにまでついていったという。「しもたわ。あの時、そのまま帰ったらよかったわ」と言っても後の祭り。
 ―陽子夫人には連絡したんか
 「めちゃめちゃ、怒ってた。お母さんも私も恥ずかしくて外に出られない!って」
 ―そらそうやろ。そんな趣味があるとは思わんもん
 「ないよ。ない。オレは女一筋。なぁ、新聞で『岡田は女好き』と書いといて。あれ、それも変やな」
 ナゴヤから帰阪した岡田は実家の「玉造」に戻るのに、言い訳を考えながらJR環状線を1周したという。
 そんな騒動があってもその年の岡田は打率・342、35本塁打、101打点―と阪神の「ARE」に大きく貢献した。そんな豪快な男が監督を務めているのである。広島に1勝2敗。まだまだ本当の勝負は先。巨人を叩いて「極楽ロード」だ。
 ▼田所龍一(たどころ・りゅういち) 1956(昭和31)年3月6日生まれ、大阪府池田市出身の68歳。大阪芸術大学芸術学部文芸学科卒。79年にサンケイスポーツ入社。同年12月から虎番記者に。85年の「日本一」など10年にわたって担当。その後、産経新聞社運動部長、京都、中部総局長など歴任。産経新聞夕刊で『虎番疾風録』『勇者の物語』『小林繁伝』を執筆。
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