元々、海龍は通常の潜水艇だった

開発は、極秘に進められました。極秘に建造された「海龍」の存在を知っていた人がいます。

佐藤守良さんは当時、海軍省の特兵部で、「海龍」に関する極秘文書を目にしていました。

海軍省「特兵部」で勤務 佐藤守良さん
「何て言ったらいいのかな…悲壮な気持ちです。誰だって死にたくないですからね。それなのに死んでいくというのは、鬼も泣くような気持ちになりました」

防衛研究所には、海龍について数少ない資料が残されています。

戦後、アメリカ側に提出された図面の先端部には『爆発物』の文字が。ただ、元の図面には、「燃料タンク」としか記されていません。元々、通常の潜水艇だった海龍は、戦況の悪化で特攻兵器に作り替えられていたのです。

広島県呉市の「大和ミュージアム」。ここに「海龍」が展示されています。

終戦の4か月前から、224隻が造られた「海龍」は結局、出撃命令が出ることなく、終戦を迎えました。

「海龍」の生みの親・浅野中佐は戦後、こう振り返っています。

「私のような一技術者が『國のため』と思って捨身になって奮闘した結果がこれであった。何が國のためであり、何が國民のためになるかを判別することが科学技術者にとっても第一の問題である」

(TBSテレビ「つなぐ、つながるSP 科学が変えた戦争 1945→2024」8月11日放送より)