マスキュリズム運動開始当初から男性差別として批判されてきた代表的なものの一つとして、男性だけに課せられる「兵役」がある。

 兵役は、欧米では男性の男女平等派(マスキュリスト)に批判されてきた。日本では現在徴兵制はないが、過去において、また現在の自衛隊においても兵役はやはり男性が強制的に背負わされてきた。兵役は男性にとって「権利」でも「権力を生み出すもの」でもなく、なくしていくべき男性差別である。

 兵役における男性差別は大きく二つの問題を抱えている。一つは、それが男性の生命権の軽視であること。二つには、それによって戦争責任が男性にだけ被せられがちだということである。

命を使い捨てられてきた男たち

 男性は性別という理由のみで国によって徴兵される。志願制であっても、戦闘員はほぼ必ず男性になる。そしてそこで命のリスクを負う。もし国が黒人のみ、ユダヤ人のみ、同性愛者のみ、女性のみ、あるいはその他のカテゴリーを理由に徴兵すれば、それが虐殺であると気づくだろう。

 男性は常に戦争において命を使い捨てられてきた。これがもし女性にだけ課せられる国家による負担であったら、フェミニズムやジェンダー学は間違いなく不当な女性差別だと主張するだろう。欧米や日本のフェミニズムは「国家や男性が女性に強制的に子供を産ませることは差別である。“産む/産まないの自由、自分の身体権の自由”が女性に確保されないのは女性差別である」と糾弾してきた。それは正しい。しかし徴兵制においては、男性に身体権の自由はないのに「男性差別」と認識されることは学術上これまでは滅多になく、逆に「男性の権力」としてまるで男性が望んでいるかのように片付けられてきた。

 男性は人類が誕生して以来、社会の性役割によって強制的に戦わされているのであって、望んでいるのではない。国や共同体が危機にさらされたときや、危機にさらされるかもしれないと予測したとき、ジェンダーで社会化された男性側に選択肢はほぼない。戦争に反対したり、兵役に反対した男性は「臆病者」や「売国奴」として唾を吐かれ、戦争に行けば「戦争を起こした加害者」として責められる。ファレルの言葉を借りれば、「なぜ私たちは兵役に参加していない政治家を臆病者として責める一方で、戦争を起こしたとして男性を責めるのだろう」。右派も左派も、そのダブルスタンダードを指摘しない。

 男性が兵役を望んでいるわけではない。あらゆる国で起きる徴兵反対運動などはよい例だ。こうした運動が社会によって弾圧された場合(社会というのは男女の集合体なので)「男によって」弾圧されたとは言えない。社会の構成員として女性側にも、男性側を徴兵してきたジェンダー社会化の加害者としての面がある(性役割としての女性差別に対して加害者としての側面が男性にあるのであれば)。

 女性に対する不当な性役割の強制が女性差別であるように、男性に対する不当な性役割の強制も男性差別である。現在ジェンダー学に存在するのは、基本的には女性の人権が担当のフェミニズムだけなので、兵役のような男性差別についてはなかなか糾弾しない。

「戦争は男が起こした」?

 二つ目の問題点は、戦闘員が男だけで構成される場合、戦争をまるで男側が起こしたようにイメージされてしまうことである。「戦争は全部男が起こした。男女において女性は平和的だが、男性は暴力的だ」という男性差別的(セクシズム的)言説や、「罪のない女性と子供が犠牲になった」(罪人は男性である)という報道が生まれてくる。男女の投票行動によって誕生し、男女の世論でコントロールされている政治家や政府によって戦争が引き起こされる。女性に罪がないなら戦争に行かされた男性にも罪はないし、男性に罪があるなら女性にも罪があるだろう。罪がないのは判断能力がない子供だけである。

 イラク戦争などで、アメリカ兵がイラク人を殺したというニュースを聞いた時、アメリカ男性が殺しているかのようにイメージされる。しかし実態は、2003年のイラク戦争における開戦支持率は男女でそれほど変わらない。男性の78%が支持したのに対し女性は74%である。ちなみに1991年の湾岸戦争開始の支持率は男性87%に対し女性は74%だ。いわば、アメリカの「男と女」がイラク市民を殺したのだ。しかし兵役に行かされるのが若い男性たちであるため、彼らは無理やり戦争に行かされた男性差別の被害者にもかかわらず、男性が殺しているかのようなイメージがつきまとう。

 男女で起こした戦争は男女で責任を取らなくてはならない。戦争賛成反対に関わらず男性だけを強制的に徴兵させて、女性は戦争に賛成した者も戦争に行かず、最終的に「民間」の男女が死んだら「罪のない女性が巻き込まれた」(今はこの表現は減ってきているが)などと言わせてはならない。

 歴史的に見て、男性の戦争の責任や性質は批判されることはあっても、女性の戦争における行動や態度、性質は批判されにくい。

「戦争に行かない男とは結婚しない」

 西洋を含めたあらゆる戦争のパターンについて、自分はこんな仮説を考えている。

 その国の男女両方が経済的利益、または安全確保のために戦争をしたがる。社会の生存のためだ。「男なら戦え」「男なのに情けない」といったジェンダーのステレオタイプにより、男性が社会の生存のために戦争に行かされる。勝てば男女両方の利益。負ければ男性(の軍人)が悪く、女性は罪のない被害者。そして男性だけが戦争を起こした者として責任を取り、女性は罪なき被害者として責任は取らない。

 これの一つの分かりやすい例がアメリカの南北戦争である。この戦争において、男性が戦争を煽り、女性は平和主義者だったのだろうか。

 イメージとしては、勝ったのは黒人奴隷の解放を掲げて勝った北部の男女、負けたのは頭の固い南部の男性、と思い浮かべやすい。しかし、実際に南部の女性が戦争反対主義者、もしくはおとなしい意志のない存在であったわけではない。

 南部の男性たちの徴兵反対運動は、南部の女性たちの「戦争に行かない男とは私たちは結婚しない」キャンペーンにより、強力なダメージを受けた。その後、南部の徴兵反対運動は挫けてしまう。

 なぜ南部の女性たちは戦争に賛成したのか? なぜ男性を戦争に行かせたがったのか? なぜ戦いを煽ったのか?

 答えは、南部が北部に負ければ、「男女ともに」経済力を失うからだ。黒人奴隷が解放されれば、南部は利益収入源を失い、「男女ともに」経済的不利益を被る。経済力が下がれば収入も下がり、おいしい食事やおしゃれな衣服、装飾品、子どもの教育費など、すべての質が下がる。これは男女両性が被る不利益である(逆に、勝てば男女両方の生活水準が上がるかもしれない)。女性側に、戦争に賛成し、煽るメリットは男と同等にあるのである。

 南部で徴兵反対運動をした男性たちは「男のくせに情けない」「意気地なし」「とても結婚相手にできない」と罵倒されたが、この後、南部が戦争に負けると、戦争で戦った南部の男たちは悪者とされた。そして数十年後にアメリカのフェミニストたちから「男たちの暴力」と呼ばれた。

 平和な時代になると、それまでの戦争の全責任は性別として男全体に負わされ、性別として男は戦争主義者で暴力的で悪、女は平和主義者で思いやりがあり善とされる。しかも男性は兵役で実際に暴力のための訓練を受けるため、市民生活に戻っても暴力をふるいやすくなる。この繰り返しだ。

「男女平等」な兵役への流れ

 しかし、現在の国際社会はジェンダー平等としてはいい方向に動いている。

 特に画期的だったのは男女平等先進国、ノルウェーの徴兵制の男女平等化だ。2015年に女性も平等に徴兵するという法案が成立し、早ければ2015年から実施される。

 北欧でも男性は進学率が女性より低くなる傾向が出てきていたが、兵役は無関係ではないだろう。男性だけが若い時期に何年も兵役に取られ、軍隊で非人間的扱いを受けている間、女性は大学で勉強できるため進学率に差がつくのも当然だ。そして男女平等派の男性たち(マスキュリスト)や一部のフェミニストたちが、男性だけの徴兵は不当だと何度も主張してきて、現在がある。

 兵役があるその他の先進国もノルウェーを見習う可能性はあるだろう。アメリカでも最近は、女性を戦闘員として参加させることを合法にするように法改正がされており(2013年)、女性の現場における指揮官も海軍で誕生した。

 これら欧米の動きは主に二つの流れによって促進されている。一つはフェミニズム。フェミニズム側は、指揮官などの軍隊における女性の高い地位が欲しいのだ。指揮官に就きたければ当然、兵役にも参加しなくてはならないし、戦闘地にも派遣される必要もある。

 二つ目の流れはマスキュリストたちの「兵役が男だけに課されるのは男性差別だ」という声。明らかな生命権を侵害するセクシズムとしてずっと反対しており、その声が通るようになってきた。何度も訴訟している。

 兵役は男女平等に違反しているという主張はアメリカでも早くから出てきている。例えば、マスキュリズム映画として有名なのは90年代の「GIジェーン」だ。軍人の有名キャラクターであるGIジョーの女性版で、女性が軍隊に入って男と同じ状況下に置かれる映画である。男性が軍隊で受けるような仕打ちが全く同じように主人公の女性に与えられ、最後にはそれを「克服し」、一人前の兵士になる。

 「『フェミニズム映画』だと思ってみたら、フェミニズムじゃなかった」と当時のフェミニスト学者は言っていたがそれは当然のことだ。男性差別反対派が作ったマスキュリズム映画だからだ。「軍隊は男が好きで行っている? 男の権力? そう思うならどうぞやってくれ。アメリカ社会に男性差別などないって? じゃあ同じ仕打ちを受けてみたら」という悲痛な映画である。いかに男性も性差別の抑圧を受けているかを告発して、「女性も戦場に送れ」という映画なのである。

 これはアメリカの90年代の男性の反応としては当然だ。日本だと現在ちょうど、アファーマティブ・アクションや数値目標が広まり始めたが、アメリカでは90年代前半までには実施されている。男性差別解放の動きは女性の解放と連動する。

 米国でフェミニズムはどんな小さなことでも女性差別は許さず、また強制的な女性への性役割は許さない。米国では、軍隊から帰ってきた男性たちが職業に優先的に就けるようにする施策に対しても「女性差別」という主張さえされた。何の補償も特典もなく無償で男性に兵役という人生を損なう負担を受けろということだろうか。

女性戦闘員が増えれば戦争への抑止力になる?

 先進国共通で私が大事だと思うことは、軍隊を持つ/持たない、戦争賛成/反対にかかわらず、戦争の責任が男女平等になるようにすることだ。日本にも自衛隊がある。自衛隊などの戦闘員は何十年後かは分からないが、アファーマティブ・アクションや数値目標などによって最終的に男女半々にしていくべきだろう。現在、女性自衛官の割合は5%前後だが、これからも増えていくだろう。そして司令官も国防大臣も男女半々にすべきだし、なっていくだろう。国際社会は実際にこうした方向に向かっていくと思われる。

 前述したように、ノルウェーで徴兵制が2015年から男女平等になり、女性も徴兵対象になった。全く同じ条件で戦闘に参加するところまでいくかは微妙だが非常に大きな進歩である。同国では防衛大臣も法案設立時は女性であり、閣僚も約半分は女性、管理職も男女半々近くにしてきている。

 当たり前だが、女性に不利なところだけでなく、男性に不利なところも公平にしていかなくては男女平等ではない。それをしなければ単なる男尊女卑の逆の女尊男卑になるだけである。男尊女卑はフェミニズムが追い出しているが、女尊男卑は男性側が追い出さなければなくならない。この両者がともになくなった時、女性差別も男性差別もなくなり平等な社会になるのだ。

 現在生まれてきた子供たちが、男に生まれたというだけで暴力を社会化して強制され、その戦争の罪を着せられ、男にすべての罪があるという状態は消し去らねばならない。

 この連鎖を止めるためには、男性人権派の視点から考えても兵役の半分を女性にするのが一番なのである。選挙権の半分を有している状態で、女性は戦争を望んでいなかった、全部戦争は男(男の政府だろうと、男の権力だろうと、パトリアキー家父長制だろうと)が起こしたとはもう言うことはできなくなる。

 問題は、根底にある「社会を保護しろ」という社会の生存のニーズが男女両性に課してくる性役割が見過ごされていることだ。戦争の責任は男女半々であるべきだ。そして殺して保護するという性役割も男女が共に社会化されるべきだ。

 生産的な面を言えば、たぶん兵士の半分が女性になれば、戦争はぐっと減るだろう。

 まず女性の中のタカ派はリスクなしで無責任に戦争を煽れなくなる。これは抑止力として働くだろう。

 さらに、まだまだ男性が死ぬよりも女性が死んだ方が「かわいそう」に思えるというジェンダーを人類は克服しきれていないので、たぶん女性が戦闘員の方が戦争の悲惨さがより感じられやすくなるだろう。それが抑止力になるかもしれない。これは男性差別反対派としては残念なことだが、現状はしかたがない。

 社会の生存のために人殺しの性役割を男性に強制し、その暴力の責任を男性だけに負わせるという男性差別を今世紀中になくさなければならない。そうすれば戦争自体が減る可能性があるし、それができるのがマスキュリズムなのだ。

 (この記事は日経ビジネスオンラインに、2015年4月20日に掲載したものを転載したものです。記事中の肩書きやデータは記事公開日当時のものです。)

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