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わかちがきのいくつかの問題点

わかちがきのための単語のみわけかた」 で 紹介 した 服部 四郎 の 「附属語と附属形式」 の 原則 で いちおう 単語 を みわける こと は できる と して も、 実際 に は これ だけ じゃ わかちがき に まよう こと も でて くる。 たとえば ながい 複合語 の ばあい と か が そう だ。 これ に ついて は だいたい は 点字 の わかちがき で いう 「自立語内部の切れ続き」 を あてはめる こと が できる だろう (点字のわかちがき」)。

点字 の ほう じゃ この 原則 は 文節 式 と は べつ の もう ひとつ の 原則 って かんがえてる みたい だ けど、 単語 式 と して かんがえる ばあい は、 これ も 単語 で わけてる って いえる ん じゃ ない か と おもう。 ながい 複合語 は、 ひとつ の 単語 に なった 複合語 って いう より、 英語 の 分離 複合語 と おんなじ よう な、 自立語 が ただ ならんでる もの って かんがえれば、 「自立語内部」 って いう よう な こと じゃ なくて、 あく まで 単語 で わけてる こと に なる。

点字 の やりかた だ と、

3拍以上の自立可能な意味の成分は区切り、2拍以下の副次的な意味の成分は続けることを原則とする。

ただし、2拍以下であっても、独立性の強い意味の成分は、区切った方がよい場合もある。

って こと に なってる ん だ けど、 東大 式 の わかちがき に ついて 説明 してる 柴田 武 『Wakatigaki no Naze』 (日本のローマ字社) って いう 小冊子 に は これ に ついて、

2つの部分がつながった場合,全体が8字母以下であれば続けて書く。

先に来る部分が2拍で,次が3拍以上,あるいは4拍以上の場合は離して書くとしてもいいかもしれない

って いう ふう に かいて ある。

この あたり の こと も ふくめて、 わかちがき に は 正書法 と して きめる しか ない 部分 も あって、 『Wakatigaki no Naze』 で も、

分かち書きは,ルールさえ決まれば,すべて解決するかというと,そういうものではない。どちらでもルール違反ではないということがある。

分かち書きについては『正書法辞典』の形で示さないと,すべての疑問に答えることはできない。

って いってる。 だ から そう いう こと は いろいろ ある ん だ けど、 単語 式 の わかちがき だ と 「まよったら きれ」 って こと が いわれてる から、 とりあえず は そう したら いい ん だろう。 『Wakatigaki no Naze』 も 「できるだけ短く切る」 って いう 方針 を とってる。

で、 ほか に いくつ か 問題 に なる 点 に ついて すこし かんがえて みる こと に したい。

「なくなる」 の わかちがき に 関連 して 服部 四郎 は 「分ち書きについて」 の なか で nakunari wa suru ga/nakunari mo sita ga って いう 例 を だして、

「死ぬ」「失せる」という意味の「なくなる」も一つの単語であると認められる.

って いってる。 naku wa naru ga/naku mo natta ga なんて いいかた は なくて、 「なく」 と 「なる」 の あいだ に ほか の 単語 が はいらない から、 「なくなる」 は これ で ひとつ の 単語 だ って こと だ (わかちがきのための単語のみわけかた」の「原則Ⅱ」)。

この こと は 点字 の わかちがき で も いわれてて、

形容詞の連用形に続く「なる」は補助動詞であるから前を区切るが、物や人が「なくなる」の場合は、消滅を表す複合語であるから続けて書き表す。
(『点字表記法 2001年版』日本点字委員会)

って こと に なってる。 つまり 形容詞 の 連用形 の あと の 「なくなる」 と か は 「なく」 と 「なる」 に わかれて、 「サムク ナク ナル」 「…デワ ナク ナル」 って なる ん だ けど、 「アノ ヒトガ ナクナッタ」 「オカネガ ナクナッタ」 と か の 「なくなる」 は きりはなさない (点字 を かたかな に おきかえた)。

『Wakatigaki no Naze』 に は これ と は ちがう やりかた が かいて ある。 まず、

人がなくなった(死去した)とき,多くの人は nakunatta と一続きに書いてきたようである。そして,「お金がなくなった」のときは naku natta と分けて書いてきたのではないだろうか。

って いってる ん だ けど、 この 区別 は 服部 と も 点字 と も ちがう。 服部 も 点字 も この ふたつ は おんなじ で、 ひとつ の 単語 だ って かんがえてる。 でも 『Wakatigaki no Naze』 に かいて ある こと が その とおり なら、 ローマ字文 の ほう じゃ この ふたつ を 区別 して きた って こと な ん だろう。 たしか に 「うせる」 って 意味 の 「なくなる」 は もともと の 意味 の まんま だ けど、 「しぬ」 って ほう は 意味 が すこし かわってる から、 この ふたつ の 区別 を する こと も できる。

で、 『Wakatigaki no Naze』 は こう いう 区別 を やめて 全部 naku naru って きりはなして かこう って 提案 してる。 東大 式 は、 それ より まえ の 田丸 式 と ちがって、 わかちがき で 意味 の 区別 を あらわそう と は して ない (結果 と して 意味 に よって わかちがき が ちがって くる ばあい も ある けど)。 だ から これ だって 全部 おんなじ に すれば いい って こと に なる。 だいたい 「なくなる」 を 意味 に よって 区別 する に して も、 区別 の しかた に ちがい が ある わけ だ し、 区別 が わかり にくい ばあい だって ある だろう。 だ から 全部 naku naru に する って いう の に は 賛成 だ。 「しぬ」 って 意味 の ばあい で も、 それ は naku naru の 熟語 と して の 意味 だ って かんがえれば いい ん だ から、 nakunaru って いう 単語 に しなくたって いい だろう。

東大 式 の ローマ字 は、 かな ひと文字 の 助詞 が ふたつ つづく ばあい は、 その ふたつ を つなげて も いい って こと に なってる。 とく に 「には、にも、では、でも、とは、とも」 は そう する こと に してる みたい だ。 これ に ついて 「分ち書きについて」 に は、

助詞(てにをは)が二つ以上続く場合も各々の間を離して書くべきである.

同じ助詞がいつも同じ形で現れるようにする方が,習い易く読み易い.

って かいて ある。 『Wakatigaki no Naze』 で も こう いう もの を つなげない で ni wa、ni mo、de wa、de mo、to wa、to mo って きりはなす 方針 を とってる。 この サイト で つかってる わかちがき で も そう してる ん だ けど、 それ は 単純 に 単語 式 って こと を 基本 に してる から だ。

これ に 関連 して 「分ち書きについて」 に は、

ただし,二つの助詞の連結と,それと同じ形の一つの助詞とを区別しなければならない例が少しあるが,それはむずかしい事はない.たとえば,「物に」「物で」の意味の「のに」「ので」は,二つの助詞の連結である(…略…).これに反し,「故に」の意味の「ので」,「にも拘らず」の意味の「のに」はそれぞれ一つの助詞である.ゆえに
  ii node,   siroi node,
  ii noni,   siroi noni,
のように続けて書くべきである.このような「ので」「のに」は,「は」や「も」が続くことはないので,二つの助詞の場合とはっきり区別がつく.【補説.ただし,「ので」の方は,acui no to cukareta no to de;……のような場合があるから,no de と分けて書くべきである.】

って かいて ある。 『Wakatigaki no Naze』 の ほう は これ も 全部 きりはなす やりかた だ。 この サイト で も きりはなす ほう に してる。 「ので」 「のに」 を 国文法 で 接続 助詞 なんて いってる こと が ある けど、 これ だって ひとつ の 単語 じゃ なくて 熟語 って こと で いい だろう。 とにかく 意味 に よって わかちがき を かえる の は 実用 的 じゃ ない。

さら に 「分ち書きについて」 に は 「二つの助詞の連結と,それと同じ形の一つの助詞とを区別しなければならない例」として、

「でも」も一つの助詞と認むべき場合と,二つの助詞の連結である場合とある.

この二つの区別は,あまりはっきりしないことがあるから,「に於いても」の意味の「でも」,および「も」を除いてもそのまま文として成立つ場合の「でも」に限り de mo と分けて書き,その他の場合はすべて demo と書くのが実用的であろう.

って かいて ある。 自分 で も この 区別 で わかちがき を しばらく して みた けど、 結局 どっち な の か よく わかんない こと が おおくて、 この 区別 は ちっとも 実用 的 じゃ ない って おもった。 これ だって 全部 きりはなせば いい と おもう。 国文法 の ほう で ひとつ の 品詞 みたい に いってる 「でも」 が ある けど、 これ も 熟語 で いい じゃ ない か。 って いう か、 わかちがき して ない から その へん の こと が あいまい に なってる わけ で、 わかちがき してたら、 あと から それ に あわせた 文法 が できる はず だ。

この サイト の 単語 式 わかちがき は 『Wakatigaki no Naze』 と おんなじ よう に こう いう 助詞 は 全部 ひとつ ずつ きりはなしてる けど、 かな ひと文字 の 助詞 ふたつ を くっつける やりかた が 特別 よく ない って おもってる わけ で も ない。 ローマ字文 だったら 助詞 ふたつ を きりはなした ほう が いい と おもう けど、 かな文字文 なら くっつける ほう が いい の か な って おもわない で も ない。 ただし 「ニワ、デワ、デモ、トワ、トモ、トノ、カモ」 なん か の ばあい、 こう いう ふう に 助詞 を ふたつ くっつけちゃう と 「庭、出羽、デモ、とわ(永遠)、友・共・供、殿、鴨」 と か の 名詞 と おんなじ に なっちゃう (「現代仮名遣い」 なら 「には、では、とは」 だ から、 この みっつ は これ に は あてはまらない こと に なる けど)。 その こと を かんがえる と、 かな文字文 で も やっぱり くっつけない ほう が いい と も おもう。 でも とにかく くっつける ん だったら、 それ は それ で 全部 くっつければ いい わけ で、 「のに」 と か 「でも」 を 意味 に よって はなしたり つけたり する って いう の は 実用 的 じゃ ない だろう。

「ます」 と 「たい」 に ついて は たいてい yomimasu、yomitai って いう ふう に 動詞 に くっつける。 これ は 「附属語と附属形式」 の 原則 から して も そう なる。

自立形式につくというだけでは,附属語と認めるわけには行かない.

同一の職能の,1種類の自立語のみにつくから,附属形式と認められる.

yomumai,yomuna(禁止); yomimasu,yomitai などの -mai,-na,-masu,-tai なども同様に附属形式であると考えられる。

つまり -masu と か -tai と か は 動詞 に しか つかない から 付属 形式 だ って こと だ。 それ で も 服部 は わかちがき と して は masu と tai を きりはなす こと に してて、 脚注にも、

yomi masu,kaki masu と分けて書く方がよいというのは実用的見地による.

って かいて ある。 「分ち書きについて」 で は その へん の こと を 説明して、

思いきって,連用形に接尾する enclitic word すなわち附属語,或いは語尾をすべて離して書くことにした.

このような分ち書きを用いると,ローマ字文が非常に読み易くなる事を知った.それはまた,学習をもやさしくするはずである.

私は,将来のローマ字の正字法が,恐らく上に示したように離す方に一定するであろうと思う.

masu,tai,……のような附属語(或いは語尾)を離して書くと,最初は異様に感ずるかも知れないが,慣れれば決して読み誤ることはない.それらが enclitic forms であるためである.

上のような分ち書きをきめる決心をするきっかけを与えてくれられたのは,柴田武氏である.氏は私の
  kaki-nikui,kaki-yasui,……
に対して
  kaki nikui,kaki yasui
を主張されたので,私は熟考の結果,上の結論に達した.当時,氏は
  kakimasu,kakitai,……
は,まだこのように続けて書いておられた.

で、 その 柴田 武 『Wakatigaki no Naze』 に は こう かいて ある。

 われわれの仲間の一部に
 ari masu ………………(1)
のように masu を離して書く人がある。明治以来の伝統にはない新しい試みである。

「咲いた」を saita のように続けて書くほど根拠は強くないが,ari masu もまったく無根拠として退けることもできない。

この 小冊子 は 最近 の もの で、 服部 の 論文 は 1949 年 の もの だ から、 直接 服部 の こと を いってる わけ じゃ ない ん だろう と おもう けど、 服部 の こと な の か も しれない。

たしか に 「ます」 が ついた 動詞 は けっこう ながく なっちゃう こと が ある から、 きりはなす の は いい か も しれない。 「ます」 と 「たい」 に ついて は 「附属語と附属形式」 に むすびつき の ちがい に ついて かいて ある。

/-ru, -ro, -re-ba/ という形式は,/ʼokima˥su, ʼokita˥i/ の /-ma˥su, -ta˥i/ よりは附属性が一層強いといえる.なぜなら,後者は /naŋara, na˥sai/(本論文 §5. 1. 1. で「附属語」と認めた)のつく結合形 /ʼoki/(即ち /ʼoki˥-/ に非ず)と同じ形の形式 /ʼoki-/ に結びつくので,多少附属性が弱く,前者すなわち /-ru, -ro, -re-ba/ は附属形式 /ʼoki˥-/ につくから附属性が強い.ただし,/-ma˥su/ と /-ta˥i/ とを較べると,前者は /ʼokima˥su, ʼakema˥su/ のように /-ma˥su/ の形に一定しているが,後者は /ʼokita˥i, ʼaketai/ のようにそれのつく形式によって自身のアクセントが /-ta˥i-tai/ と入れ替るから,後者の方が前者より附属性が強いと言えよう.

つまり 「おきる、おきろ、おきれば」 の 「る、ろ、れば」 より 「ます」 と 「たい」 の ほう が むすびつき が よわくて、 さら に 「たい」 より 「ます」 の ほう が むすびつき が よわい って いってる。 この こと から する と 「ます」 を きりはなして も 「たい」 は くっつける って やりかた も かんがえられる と おもう。 ただ 連用形 に つく もの の うち 「たい」 だけ くっつける ぐらい なら 全部 きりはなしちゃった ほう が はなし は 簡単 か な。

連用形 に つく もの と して 「そう (だ)」 って いう の も ある。 これ は 「分ち書きについて」 の 例文 と して は でて こない けど、 服部 の やりかた は 連用形 に つく もの は 全部 きる って いう ん だ から、 これ だって きりはなす ん だろう。 『Wakatigaki no Naze』 に して も 「ます」 を きりはなす たちば で は 「そう (だ)」 も きりはなす って かいて ある。 でも アクセント を しらべる と、 どう やら 「たい」 と おんなじ みたい だ から、 「たい」 と おんなじ むすびつきかた って こと で、 「ます」 を きりはなして も、 「そう (だ)」 は 「たい」 と いっしょ で、 くっつける って やりかた も ありえる と おもう。

「ます」 は 「まゐらす (まいらす)」 が 変化 した もの らしい。 そう する と 「ます」 が つく かたち は もともと 動詞 + 「まゐらす」 って いう 複合 動詞 だった こと に なる。 古文 の 複合 動詞 は まだ ひとつ の 単語 に なって ない から きりはなす けど、 現代文 の 複合 動詞 は ひとつ の 単語 だ から くっつけて かく (日本語の複合動詞」)。 ただし 現代語 の 複合 動詞 も きりはなして かく ひと も いる。 「ます」 を きりはなす の は それ と おんなじ こと か な、 と も おもう。 でも 「ます」 が むかし 「まゐらす」 だった ころ は、 「まゐらす」 が ついた 複合 動詞 は 全体 で ひとつ の 単語 だった わけ じゃ ない から、 「ます」 の ばあい は その まんま 全体 で ひとつ の 単語 に ならない まんま 「まゐらす」 から 「ます」 に なった って 解釈 すれば、 現代語 の 複合 動詞 と 「ます」 を おんなじ あつかい に しなきゃ いけない って こと に は ならない だろう。

複合 動詞 に ついて は 「分ち書きについて」 に は こう かいて ある。

複合動詞の語幹には,随分長いものがあるから,途中にハイフンを用いた方がよいものもある.

  -hazimeru, -hazimaru
  -cuzukeru, -cuzuku
  -owaru
をいつもハイフンでつなぐと決めるのなどは適当であろう.覚え易いからである.それに,これらと同じ形(アクセントは除く)のしかも意味もほぼ同じ自立語の動詞がある.すなわち,
  kaki-hazimeru   hanasi-hazimeru
  kaki-cuzukeru   hanasi-cuzukeru
  kaki-owaru     hanasi-owaru
などのように書くと読み易い.前に挙げた長い語形も,この分ち書きの方針に従えば,
  okonaware-hazime masita
  hataraki-cuzuke masita
となるから,よほど読み易くなる.
 しかしながら,これらを
  okonaware hazime masita
  hataraki cuzuke masita
のように,ハイフンを用いないで離して書く人もあるが,それには私は反対である.何となれば,masita などは附属語であるが(或いは語尾と見るべきだと主張する人があるかも知れないが,どちらにしても,この場合の議論には差支えはない),hazime は複合動詞幹の一部と認められるからである.

なぜ か って いう と、

masu,masita,……などには,上に列挙した附属語(或いは語尾)の nikui,yasui,ii,yoi,tai,zurai,……が接尾し得ない.然るに,-hazimeru,-hazimaru,-cuzukeru,-cuzuku,-owaru などに終る形式には,これらが自由に接尾し得る.

この こと から も 「ます」 と 複合 動詞 の 後半 部分 に は ちがい が ある って こと に なる。

それ から 『Wakatigaki no Naze』 に は、

masu を離して書けば,tai (,tagaru) も
 Sonna hito de ari tai. ………………(5)
のように離して書くことになる。

って かいて ある けど、 tagaru の あつかい が 「分ち書きについて」 は ちょっと ちがう (『Wakatigaki no Naze』 も tagaru は カッコ に いれてる けど)。 服部 は 「連用形に接尾する enclitic word すなわち附属語,或いは語尾をすべて離して書くことにした」 って いってる から、 masu も tai も きりはなす こと に なる ん だ けど、 tagaru は くっつける。 tagaru は 「enclitic word すなわち附属語,或いは語尾」 じゃ ない から だ。

tai を切り離したから, kakitagaru, yomitagaru などの -tagaru も切り離すべきだという人もあるかも知れないが,私は反対である.
  kakitagari masu
  kakitagari nagara
  kakitagari gaci da
意味の関係上,上にあげた附属語(或いは語尾)の全部は接尾し得ないが,やはり語幹の一部と認められるからである.

つまり 複合 動詞 の 後半 部分 と おんなじ 理由 で 語幹 の 一部 だ から きりはなせない って こと だ。

複数 を あらわす 接尾語 つまり tati、ra、domo に ついて 『Wakatigaki no Naze』 で は 基本 的 に きりはなす こと に してる。 そう する と gakusei tati、gakusei ra、gakusei domo に なる。 これ に ついて 「あいだに他の語を割り込ませうるかどうかについては,それができない」 って こと で、 この 点 を きりはなす 理由 に は して ない。 この 「あいだに他の語を割り込ませうる」 って いう の は 「附属語と附属形式」 の 「原則Ⅱ」 に あたる もの だ けど、 これ って ちがう ん じゃ ない か な。 名詞 と 「たち」 と か の あいだ に ほか の 単語 が はいりこむ こと は ある。 たとえば 「学生たち」 に 対して 「学生さんたち」、 「佐藤たち」 に 対して 「佐藤さんたち」 って いう ん だ から、 すくなく と も 「さん」 が わりこむ こと が ある じゃ ない か。 この こと は 「分ち書きについて」 の 例文 に も でて くる。

  watakusitati  kodomotati  Tarô-tati
という書き方がよく行われているが,この方針で行くと,
  Tarô Kun-tati  Hanako San-tati
と書かなければならなくなって,少し変である.これはやはり taci を附属語と見て切り離した方が適当である.
  Yamamoto San ya Tanaka San taci ga
そうすると,
  watakusi taci  kodomo taci
となって読み易くなる.ra,gata,などについても,ほぼ同じことがいえる.

結論 と して は 『Wakatigaki no Naze』 も 「分ち書きについて」 も 複数 を あらわす 接尾語 を きりはなす って こと で は おんなじ だ。 この サイト で も そう してる。

ちなみ に 「分ち書きについて」 の 例文 で、 なまえ の あと の 「くん」 「さん」 を 「Kun」 「San」 って 大文字 で はじめてる けど、 これ は べつ に 大文字 に しなくて も いい ん じゃ ない か な。 それ と 「分ち書きについて」 で 「たち」 の ローマ字 つづり と して 「tati」 と 「taci」 が でて くる けど、 これ は ひと の かきかた を 引用 してる とき は 訓令式 の 「tati」 で、 服部 自身 の 文章 と か 例文 に は 新日本式 の 「taci」 を つかってる わけ で、 入力 ミス と は ちがう。

あと 連濁 に ついて は 「連濁したことばのわかちがき」 に、 「わが(子)」 と か 「すべき」 と か 「あくまでも」 みたい な、 現代語 に のこってる 古文 の いいまわし に ついて は 「古文のなごりのわかちがき」 に かいた。

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2008.09.21 kakikomi; 2012.09.29 kakikae

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