みなさん、こんにちは。
澤野大樹氏青森講演会主催
小野裕美子です。
さて、活字版原稿についての
お問い合わせがありましたので、
改めて紹介いたします。
澤野さんが綴る活字版原稿は、
その日の講演会のためだけに
書き下ろされる
世界で唯一の生原稿です。
本人でさえ、
何を書いているのか理解できないまま
執筆しているケースも多々あるそうです。
非常に不思議な「書かれ方」をしているのが
この「活字版原稿」です。
‟預言”とも思える驚くべき内容を
無意識で、まるで突き動かされるように
ただ綴っているだけなのだそうです。
執筆している時は、
書いている澤野さん自身も
それが何のことなのかわからないままで、
そのわからないままを
講演で話されることもあります。
トランプ大統領が現れる前から、
「ダイアナ妃の魂が
ニューヨークに転送されたのだから、
近い将来NYから瀬織津姫が現れるにちがいない」
と言っていました。
これこそまさに
「何だかわからないまま書いていた」
ということだと思います。
澤野さんの語る内容は、
後になって、
それも数年経ってから、
書かれた内容がそのまま
現実化していたりします。
澤野さん自身も
書いたことを忘れてしまっていますから、
周りの方から言われて
気付くことが多いとのことです。
なぜそのような書かれ方をするのかというと、
それは澤野さんが意図的にそうやっているのでは
ないようです。
そして澤野さんの信条は「無知の知」です。
今から2400年も昔に、
ソクラテスが提唱した哲学です。
「私はまだ何も知らないのだということを知る」
これが「無知の知」です。
多くの人は、
「私はこれだけ知っている」
ということを誇ります。
「私は真実を知ってしまったのだ」
となります。
あなたより私の方が知っている。
私は「真実」を知ってしまった。
だからこの真実を人々に伝えなければ、と、
自らがまるで「覚者」になったかのように、
「拡散」に奔走します。
このような状態について澤野さんは、
「もっとも唾棄すべき無知の極み」
だと仰います。
澤野さんは続けてこう話します。
知識、そして叡智というものは
フラクタルなのです。
知識、そして叡智というものに「到達点」、
つまり「ゴール」というものはありません。
「ゴールに着いた!」
と思ったその場所は、
次の段階、領域への「入り口」なのです。
もしあなたが
「私は真実を知った!」
と思ったのであれば、
それはフェイクニュースです。
これは冗談で言っているのではありません。
なぜならば、
あなたはまだ何ひとつ
「知って」などいないからです。
自分の限界、ゴールを
自分で定めてはならないのです。
未熟な自分によって
自分を勝手に規定しちゃダメなのです。
無限に広がる叡智の宇宙は、
それこそ無限なのです。
なのに多くの人は
「私は真実を知った」と過信する。
これを高慢といいます。
宇宙からすればこうです。
「あわわわ、あちゃーっ!
せっかくこれから
無限の叡智を注ぎ込もうとしてたのに、
なんで自分で勝手に
許容量を勝手に制限してしまうのかな?
送り込むことができなくなっちゃったじゃんかよ!!」
ってなります。
どうして己を「規定」しようとするのでしょうか?
「私」という存在、
「自分」という存在は、
ちょっと聞きかじっただけで到達できる
容易な山だったのですか?
ということです。
それは「人」のあらましを
甘く見ることでありますし、
「人」という存在の価値を貶める行為です。
「人は宇宙」、「宇宙とは私」であるならば、
人という存在の価値を貶めるということは、
宇宙の価値を貶めるということと
同義となります。
つまり、
「私は真実を知ってしまった」
と思うこととは、
己に対して「呪い」をかけることと等しいのです。
「私は真実を知ってしまった」
と思う華々しい人生の門出が、
じつはなんと
己を呪う儀式となってしまうのです。
「人」という存在、
そして、
「私」という存在は、
そんなに生易しいものではないのです。
つまり、私たちは、「我先に」と、
最新情報を貪るようなことをしてはならないのです。
もちろん自由意志というものがありますから、
私はそれを強引に止めることはできません。
私たちはつい
「最新情報」や「裏情報」に飛びつきがちですが、
それよりも前に、まず、
「自己規定の解除」をしなきゃならない。
「自分が自分だと思っている自分は
自分じゃない」ということです。
すべて「ひとつ」である「ヤハウェ」から
自ずと分かれた存在を
「自分」と言いますから、
そもそも「自分」という呼称自体が
宇宙との決別を意味しているのですけど、
そこまで細かく言ったら
意地悪だと思われてしまいます。
「自己規定の解除」
この作業を
「アラハバキ」と私は呼んでいます。
しかし多くの人が
この作業を拒絶します。
みんな「己の無知」を
肯定したくありませんから。
こんな単純なことですら
拒絶するのですから、
「新しい世界」
「未来の世界」
「次の価値観」のことなど
わかるはずがありませんよね。
「アラハバキ」の体験は
まさに苛烈です。
これまでの、今までの人生の
かなりの部分を一度をキャンセルし、
一からやり直し
というレベルでそれはやってきます。
これを受け容れることができますか?
っていう話です。
ほとんどの人がそれを拒否します。
「私はあくまで参考程度なので」とか、
「ちょっとどんなものかと
覗いてみただけなので」と言って、
ほとんどの人が
「見なかったこと」にします。
大宇宙の叡智、直観、
アイデア、ひらめき、
ずば抜けた独創的な個性、
画期的な開発、
抜きん出た才能というものは、
「私はまだまったく何も知りません」
という、強烈な意思表示の者の下に
もたらされるのです。
しかし、ほとんどの人は、
「すべてのことを知りたい」
と決意してスピリチュアルの世界に
足を踏み入れているわけですよね。
つまり、動機と結論が
真逆になっているということなのです。
強固なセキュリティが掛けられているのです。
「真実を求める者には
できるだけ真実はもたらされないように」
という真逆のセキュリティが掛けられている。
これはヤハウェによる
最大級の「優しさ」なのですけどね。
ではどうすれば良いか?
これはテクニックも存在しないし
裏技もありません。
素朴であれ、正直であれ、
純粋であれ、素直であれ、
謙虚であれ、冷静であれ、
己を常に俯瞰しておきなさいよ、
ということ、これだけです。
あなたがようやく「獲得」したと
思い込んだその「真実」が、
大宇宙を前にしたら
ただの塵に同じであるということを
痛烈に受け容れることが
「スタート」となります。
それは「ゴール」ではありません。
つまり「知った」ということには
何の価値もないということです。
いや、何かを知ったと思うことは
大切なことに思えますが、
それはまったくゴールとか
到達点とか悟ったとかでは
決してないということなのです。
あくまで次の領域への「入口」が
垣間見れたという段階です。
これ、できますか?
受け容れられますか?
できないでしょう。
「カモメのジョナサン」
のような心的領域に至ることは
きわめて困難なことです。
「私はまだ何も知りません」
という「恥ずかしい告白」を、
心の底から純粋に素直に、
宇宙に対して表明すること。
これが
「宇宙の無限の叡智」が注がれる
唯一の方法です。
どうしてこれまで
一生懸命セミナーに通って、
たくさんの本を読んで
ワークにも参加して
勉強してきたのに、
ここまで到達した私が、宇宙に対してなんでどうして
「私はまだ何も知りません」なんて
屈辱の表明をしなきゃならないのよ。
そういうのがイヤだから
これまで勉強してきたんじゃない。
って普通はなっちゃうわけですね。
「唯一の方法」と言っても
これはテクニックではありません。
宇宙はきちんと見ていますから。
その表明が純粋であるかそうでないかを。
それが純粋であるかそうでないかは、
本人が一番わかっているわけです。
私は宇宙なのですから、
そんな宇宙は
テクニックで誤魔化すことはできません。
宇宙がわかっているということは、
じつは本人がわかっているということですから。
ではどうすれば良いか?
先ほど申し上げましたよね。
「これまでの、今までの
人生のかなりの部分を
一度キャンセルし、
一からやり直す」のです。
この作業を私は
「アラハバキ」と言っています。
「アラハバかれる」というのは、
このレベルのことを言っているのですよ。
それは、興味本位とか
趣味の範疇では到達することなどできません。
しかし、
日々のそれぞれ各々の学業や仕事や
人間関係の中において、
この「アラハバキ」の作業が
きちんと行われるようになっている。
それができるように
生活の一番の基礎の部分に
それができるように
「設定」されているのです。
もちろんそれは
貧富の差も境遇の差も関係なくです。
だからこそ、人は「平等」なのですよ。
これらは政治的に
主張するものではないのです。
これはテクニックではありません。
素直に、純粋に、
正直に、謙虚に、誠実に、
そして何よりも「本音」で生きる事。
そして「私はまだ何も知りません」と
言えるだけの純粋さがあるかどうか。
たったこれだけなのです。
(澤野大樹)
講演会ばりのロングスピーチ、
ありがとうございました。
澤野さんが執筆する「活字版原稿」は、
それはA4判30ページ以上にもわたり、
俳優さんが脚本通りに演じるように、
その日の講演会は、ほぼ澤野さんが
活字版原稿のままをご講演されます。
その内容は、決して軽くはありません。
それどころかむしろ
かなり耳が痛いシビアなものばかりです。
丁寧に、しかし痛烈に、読み手の
イマジネーションを掻き立てられるもの。
それは唯一無比の作品なのです。
そして、
澤野情報に足を踏み入れたならば、
必ずといっていいほど
アラハバかれていきます。
アラハバキは一定のものではなく、
人の数だけあります。
その人が心の奥底に秘めて
封印している、あらゆるものが
表に露呈してきます。
しかもそれらは意図せずに顕れてきます。
隠し切れなくなった「わだかまり」が
「解放のカタルシス」というものを求めて
表に出てくるのです。
多くの方がこれまで持っていた
既存の思い込みや通念、
そして「こうあるべきだ」という
願望に立脚した個人的な意向や、
感情ベースで積み重ねられてきたものが
ことごとくアラハバかれていきます。
これは私が実際に経験し
いやというほど目にして
体感してきたことでもあります。
アラハバキの作用の本質とは、
「建前世界(三次元物質)の破壊」と同時に
「伏在し封印されてきた世界
(多次元世界)を引き上げる」こと。
逆もまたしかり。
突出したどちらか一方を抑制し、
封印されたどちらか一方を
押し上げる均衡作用のことを
「アラハバキ」といいます。
そしてそれこそが本当の
「岩戸開き」であると
澤野さんは仰います。
さらにそれは、
「愛」そのものでもあるのだそうです。
均衡をもたらす
アラハバキの作用のことを「愛」と言い、
「愛」とは惚れた腫れたの
「メイクラブ」のことではありません。
「愛」には「感情」が存在しません。
感情を加味した時点でそれは
「執着」へと姿を変えます。
世に起こる激烈、そして苛烈な事象も、
一部の領域にある視座から観察すれば、
それは紛れもない「愛」そのものであるということになります。
そしてそれは「個人」の中でも起こるのです。
人々にとって
コロナは弊害をもたらす害悪としか
考えられないかもしれませんが、
地球からしたら、
自然が一から再生され、
生命が活性化される福音そのもので
あるということなのです。
台風も「愛」
地震も「愛」
津波も「愛」
病気の「愛」
アラハバキは「愛」
そこに、巷間で取り上げられる
「愛」という優しさという感情、
喜怒哀楽は1ミリたりともありません。
ことに「病(やまい)」に関しては、
己と向き合うために
おしえてくれる大切な気づきと仰います。
「自己と向き合うため」に、
わざわざやってきてくれた「愛」そのもの。
感謝しかないのです。
私たちはこの「愛」によって
どれだけの発見や学びがあったかわかりません。
悩みを救ってくれるのが「愛」ではありません。
真の「救世主」ではないのです。
これはじつに深いですよ。
澤野さんが説く
「愛(アラハバキ)」が
これほどまでの深い意味があったとは、
改めて圧巻でした。
前置きが長くなりましたが
「活字版原稿」のお話はまだ続きます。
日々社会情勢は毎分毎秒、
刻一刻と目まぐるしく変化しています。
ですので、その時点での情報も
新しいものとして出されます。
あと特筆すべきことは
活字版原稿は、
レジュメではありません。
レジュメとは、
箇条書きで書かれた「要点集」です。
それとは違い
活字版は一冊の書籍と一緒。
それだけ完成されたものなんです。
澤野さんの講演会での
「発言」そのものなんです。
この「活字版原稿」というものは、
じつはこれまでありそうでなかった、
存在していなかった新形態だったのです。
「講演会と同時に
テープ起こしが完成している」という
摩訶不思議な史上初のものなのです。
(よって、レポートでもありません)
この活字版はデジタルデータではなく
現物の‟紙媒体”として発行されます。
デジタル社会において
なぜ現物の紙媒体なのかについて、
澤野さんはこう話されます。
私の直観、想念世界にある情報を
文字に起こしたものが活字版なんです。
インターネット世界は
非物質の多次元世界ですから
両者はきちんと
鏡を通して次元変換され
現物に投影させなければ
定着し辛いでしょ。
また、
デジタルデータは非常に脆弱なものです。
1000年後に残るのは
デジタルデータではなく
プリミティブな紙媒体、
つまりパピルスなのです。
TwitterもFacebookもYoutubeも、
停電したら終わりです。
でも「紙」だけは1000年後でも残ります。
ですので、
今という平時においては、
「どうして紙媒体なのか?」
と思うかもしれませんが、
じつはこれが最大の危機管理でもあるのです。
私たちは早晩、
このことを痛感することになると思います。
(澤野大樹)
ここで仰っているのは、
イギリス産業革命以前の世界に戻り、
元の本来の姿に戻る、
この元に戻るとは
原始時代の昔に戻るのではなく、
最先端の科学技術も加えての、
それらを経験した上で、
新しい本来の姿に
リニューアルされ取り戻されるもの。
加えてそれは
グローバリズムの終焉なのだと
澤野さんは仰います。
縄文時代は「霊性はMAX」でしたが、
「科学技術はゼロ」でしたね。
現在は、
「科学技術はMAX」ですが、
「霊性はほぼゼロ」へと
貶められてしまっていますね。
つまり、私たちはまだ
経験したことのない境地が
ひとつあるのです。
それは、
「霊性MAX」でありながら
「科学技術もMAX」という境地です。
霊性と科学技術が
高次元で均衡する世界です。
多次元世界と三次元世界が
均衡するという世界のことです。
霊性と科学技術が
50:50で均衡している境地です。
このことを私は
「半霊半物質」と言っています。
「半霊半物質」って透明人間になるとか
半透明になる世界のことではありません。
まだ私たちが見たことも
経験したこともない世界があるのです。
さて、
グローバリズムとは何であるのか。
それは、
グローバリズムというものの根源にあるのは、
南ユダ弥生のメンタリティです。
わかりやすく言うと、
見ず知らずの相手、与り知らない相手の人生に入り、
相手の記憶に侵入していくというやり方です。
「この人とどうしても仕事がしたい」
「この先生とどうしてもコラボしたい」
「この人と何とかして知り合いたい」
このように願うことはよくあることで
そして通常の範囲内であれば
とても良いことです。
そして、ならば、
それを実現するために自分を成長させ、
憧れのその相手に見合ったレベルにまで
己を成長させ
引き上げていく作業を行っていく。
これが
人が人として成長していくための
王道中の王道でしょうし、
そうあるべきでしょう。
しかし、
こういう王道作業を
「非合理的」であり
「めんどくさい」と
考える人もいるのです。
ならば、
「人工的にシンクロニシティを演出して
強引に関係を構築した方が、
遥かに早いし、
労力もかからない、合理的だ」
という考え方です。
こういう人に捕まってしまったら大変なのです。
彼らは結局
自分の利益のことしか考えていませんから、
あの憧れの先生とコラボをやったとしても、
その上澄みをすべて持っていくだけなのです。
つまり、
「あの人と仕事がしたい」
というのは方便であり、
つまるところ、
相手の持っている「富」のエネルギーを
吸い尽くし、己の利としたい
というのが本音でしょう。
これを世界規模でやっているのが
グローバリストでしょう。
本当の偶然、
本当の運命があるならば
大いに結構なのですよ。
しかし、
そういうのはなかなか起こらない。
でも、関係は持ちたい。我慢できない。
ならば、
強引に関係性をクリエイトしてしまえば
良いではないか、と。
すべて計算した上で、
偶然を装って近づき、
シンクロニシティを
「演出」していくやり方です。
これは良いことではありません。
なぜならば、
相手はそのことを知らず、
本当に運命の出会いであると
信じてしまっているのですから。
これは詐術であり騙しです。
人の心をそうやって
人工的に操作しようとするということは、
人を人と思っていないということですよね。
ならばそのようなことをする人とは
絶対に付き合ってはならないのです。
このやり方をかつての縄文は
弥生にやられたのです。
これは完全に
侵略者グローバリストの手口であり
メンタリティです。
この手口は乗っ取りであり、
侵略であり、
もっと的確に表現しますと
それはじつは憑依のことです。
(澤野大樹)
グローバリズムとは
侵略者の乗っ取り思想そのものであったとは、
ある意味、
シェイクスピアの戯曲
『ベニスの商人』を
彷彿とさせるものがあります。
これから、
トランプ大統領による
想像したことすらない
『世界同時多発アラハバキ』が巻き起こると。
誰の目にも明らかに
それを痛烈に
思い知らされることとなりましょう。
――さて、最後に澤野さんからひとこと。
この世でもっとも偉大な全能の全知とは、
己の「無知」を知るということ。
これ以外に、これ以上の「知」など、
存在しないのです。(澤野大樹)
画像出典: Wikipediaジャック=ルイ・ダヴィッド『ソクラテスの死』
死刑宣告を受けたソクラテスの裁判の様子 【原典:ソクラテスの弁明】
世にもすぐれた人よ、君は、アテナイという、知力においても武力においても最も評判の高い偉大な国都(ポリス)の人でありながら、ただ金銭をできるだけ多く自分のものにしたいというようなことにばかり気をつかっていて、恥ずかしくはないのか。評判や地位のことは気にしても思慮や真理のことは気にかけず、魂(いのち)をできるだけすぐれたものにするということにも気もつかわず心配もしていないとは。
と(ソクラテスは)こう言い、諸君のうちのだれかがこれに異議をさしはさみ、自分はそれに心を用いていると主張するならば、わたしは、その者をすぐには去らしめず、また、わたしも立ち去ることをせず、これに問いかけて、調べたり、吟味したりするでしょう。そしてその者が、すぐれたもの(徳)をもっているように主張しているけれども、じつはもっていないと思われたなら、わたしは、一番大切なことを一番粗末にし、つまらないことを不相応に大切にしていると言って、その者を非難するでしょう。
(プラトン著 田中美和太郎訳『ソクラテスの弁明』中公クラシックス)
――――――――――――――
澤野大樹氏青森講演会では、
過去活字版原稿を販売しております。
《活字版原稿をお求めの方へ》
「活字版原稿」は①からストーリーがずっと繋がって続いています。
順番に読んで行かないと理解できないどころか曲解し100%間違えます。
ですのでぜひ①からゆっくり時間をかけて順番に読み進んで行ってください。(澤野大樹)
活字版原稿は、
◾️澤野氏が自分の講演会のために実際に用意した生原稿をそのままの状態で皆さまにお届しております。
◾️講演会用に作成した講義内容が100%精妙に活字化され、本人が使いやすいように調整・丁合されたものであり校正や修正はされません。
◾️澤野氏から湧き出た直観のまま、できる限り手を加えることなく、敢えて青森という「鏡」を通して自然な形で残せるよう講師は努めております。
◾️毎回量は違いますが、A4版30ページから50ページくらいの簡易冊子形式となっております。
唯一無比の世界観をぜひご堪能いただけましたら幸いです。
活字版原稿のご用命は、
→こちらのお申込フォームより
お願いいたします。
―――――――――――――――
※講演会でもアナウンスしておりますが、
活字版原稿・講演会の内容はネタバレNGです。
SNSやYoutube、ブログ等に
その内容をアップロード、
引用・転載することはご遠慮ください。
同様に当ブログにつきましても
本文のスクショ・コピペ、内容の自己解説、
当方とは無関係の他リンク併用アップロードはご遠慮ください。
【著作権におけるご注意】
著作権は著作者の保護を目的として著作権法第21条〜第29条に定められています。
澤野大樹氏公式サイトINTUITION
――――――――――――――