下西 風澄

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下西 風澄
@kazeto
哲学を中心とした執筆。 「生まれ消える心─傷・データ・過去」(『新潮』2023.5)、「演技する精神へ─個・ネット・場」(『文學界』2023.6)、「ぼくは言語」(『群像』2023.8)、 「青空を見つめて死なない」(『ユリイカ』2024.4)他。 instagram.com/kazeto/?hl=ja
東京 文京区kazeto.jpJoined March 2008

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初の単著が出ます(12/14発売)。人間にとって「意識/心」とは何だったのか。ソクラテスから認知科学までの長大な、意識の物語を書きました。 下西風澄『生成と消滅の精神史─終わらない心を生きる』(文藝春秋社) amzn.to/3UNnI2B
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「主語がでかい」というtwitterでよく見る意見。「主語がでかい」のではなく、「述語が粗い」と言ったほうがいいと思っている。哲学だと「世界は」とか「存在は」とか最大級の主語を立てる代わりに、述語をいかに精確に論ずるかを試みて知を発展させてきた。主語の撤退ではなく、述語の洗練を。
「世界中どこの国の若者にも常に受ける物語の骨だけ取り出してみると、こんなものになる」をカート・ヴォネガットが語っていて、読んでみると完全に村上春樹だった。
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5億年ぶりにテレビを観るとやはり驚く。すべてが歌舞伎の世界だ。歌もニュースも、すべてが型と見栄切りで、しかもそこに感情を込める。これがジャパンなんだなとしみじみ。内面や思想は封印されたまま、形式を通じたコミュニケーションしか成立しない。
鳥の群れの飛行軌跡が見れる動画。鳥の種類によって全然違う。別様に飛んでいるというより、別の空間を認知して生きているのだろう。 [Illustrate Birds in Motion] bit.ly/1fngnyC
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教養というのは、知識がその本質ではなく、歴史や理論体系によって矮小な自己が否定される経験。生まれ持った感覚や、育った環境による慣習や常識、そういう生来の感覚が否定されて自己が変容していく過程こそ教養の本質なので、自分の感覚を強化するための知識は教養とは逆行する。
人文学で鍛えられる能力というのは、与えられたテキストを、正確に読解する(他者の自律性)、解釈する(他者と自己の境界)、応用する(自己の主張)、自己と他者の距離感の測定能力なのだろうと思う。ふつう人はこれをごっちゃにしてしまうので、これは技術なんだろう。
哲学者の著作を丁寧に読んでいくと、その人の思考の手順が徐々に自分の意識をハックし、世界がその人の見方で見えるようになってくる。読む、というの行為はその意味で、自己を一時的に失う危険な行為でもある。
幼年期のウィトゲンシュタイン。面影がありすぎるし、賢そうすぎて笑ってしまった。赤ちゃんの頃から、すでに哲学者の顔してる。
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物書きのコツは日記をつけることというポストが流れてきて思ったけど、自分の実感が強い人は理論的な本を読んで構造的に書くこと、知識量が多く理論書を読む人は日記のようなものを、というのが僕のオススメかもしれない。自分の傾向と離れたものを摂取すると、交わるところに面白さが出る。
ハイデガーが虫たちは「光のなかに墜落する」とか「呪縛されて存在する」と言っていたのはやはり直観に優れているというか言語的なセンスがあったというか。
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ナゾロジー@科学ニュースメディア
@NazologyInfo
実は未解決問題「虫が光に引き寄せられる理由」がついに判明! nazology.net/archives/125198 英ICLは長年の謎だった虫が光の周りに集まる本当の仕組みを明らかにしたと発表。研究によると虫たちは光に近づいているわけではなく、上下感覚喪失により光の周りに閉じ込められていただけだという
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危険な思想を持った哲学者は多くいるが、やはりプラトンが断トツだな。くじ引きで結婚を決める制度を作るが、実際は裏で操作するという発想がヤバイ。(ラッセル『西洋哲学史』)
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話題になってた村上春樹の記事を読んだ。作家が「分からない」とか「理由はない」と答えることが、「回答」ではないと思う人が文学を読むんだな。「解説、説明...手順の解明」だなんて。読書はサービスの消費ではない。読むという創造的な行為を自ら手放している。
コロナ禍で、公衆衛生から人口統計にいたる「生権力」が注目されるミシェル・フーコーですが、「医学と経済」を語った「医学の危機あるいは反医学の危機?」というテキストがあります。抜粋メモを作っていたのですが、いま読むに値すると思ったので公開してシェアします。
人文系の仕事の本質は、言葉というものの魔術性に真剣に向き合って取り組むことにあると思っている。人間が言葉によって苦しみ、言葉によって救われる生き物である限り。それは毒を喰らいながら解毒し続ける人体実験のような作業でもある。
エコーチェンバーはSNSの特性だと思われているが、それ以前におそらくは脳そのものの特性だと考えた方がいい。人間は古来より、不快な現実よりも、希望ある幻想を好む。
日本に思想がないのは、法や理念によってではなく、電車の時間を守るとか、挨拶や敬語が大事とか、ミクロなルールを守ることで秩序を維持するということをみんなが暗黙に理解してるからだろうな。マクロなルールは、危機以外は必要ない。現状維持には有効で、変革には不利。
カルト宗教で狂った母と、親米保守の元首相の悲劇的交差、という徐々に明らかになってきた事実によって、事件は単なるテロや右左の思想的問題を超えて、「家族」をめぐる近代化と戦後日本の問題の縮図のような意味を持ったかもしれない。
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だから教養というのは、知的能力よりもむしろ、そういう自己変容に耐えられる、精神の強さや心のゆとりに大いにに関係する。これはリベラルと保守の関係を考える上でも重要で、自己の信念を強化してくれる陰謀論は知的能力より感情や自我の未成熟の問題であって、知的に反論しても意味がない。
つまるところ、人間にとっての世界の半分は幻想(物語/想像力)で出来ていて、この領土のために、文学、哲学、思想、芸術など人文的なものがある。この土地が痩せると、世界は単なる現実に飲み込まれる。人文的なものは現実とは違うやり方で、別の世界を考え創る必要がある。
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要約すると、孤独な男が旅をして、金はないが知性はあって、精神の安らぎを求めている。女にモテてセックスをするが、情熱は持てずに結婚もしない。しかし世界は美しく、魔法にかけられている。それが世界で受ける物語のフォーマットだという。
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教養はその意味で自己肯定感を前提として成立する。自己肯定感がない状態で知識に触れると、とても自己否定する知には耐えられず、自己を肯定してくれる知識に吸い込まれる。「階級」や「分断」はこうした精神と環境から生まれるのであって、知的能力や経済力だけを基準にしては捉えられない。
昔から思っているけど、日本こそ「道徳」じゃなくて「哲学」を教えるべきだと思うな。世間が慣習的な道徳にあふれているのだから、教育するなら、そうした道徳を相対化する哲学を学んでこそ、その道徳の意義を理解することができる。慣れ親しんでいることと、理解することは全く違う。
知は、決断ではない。知は、疑いであり、躊躇いなのだ。知とは足早に歩くことではなく、足踏みして苦しむことなのだ。
「倫理」が高まる社会というのは、個人に「罪」を感じさせる社会でもある。しかし、罪の感情は想像以上に人間の精神を蝕んで支配する。そしてこの罪悪感に免罪符を与える者が権力を手にいれ、受け入れた者は依存する。これはキリスト教が世界を支配した根幹の戦略でもある。
宮崎駿の漫画史をポロッと語った言葉。要約力がすごいな。 「高度成長経済での過剰なストレスの捌け口として、マンガが最適だった。「アトム」で近代化に憧れ、「巨人の星」で根性を発揮し、はみ出た部分は「ガロ」で救済したのである。」(宮崎駿『出発点』)
人間の不幸のほとんどは、制御できないものを制御できると思い込んでしまうことにあるのではないか。仏教がとにかく執着を捨てよと言うのは、自我や欲望そのものじゃなく制御の幻想を捨てることだろう。
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なぜ、こうしたフォーマットが共感を呼ぶのか。村上春樹に限っていえば、都市的で匿名的な消費文化へと世界が以降しつつあることもある。しかしヴォネガットは、フォーマットの象徴をヘルマン・ヘッセに見ていて、ここにはドイツのホロコーストからの逃避があると見る。今僕たちはどこへ逃避するのか。
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逆に言えば、人文系の訓練を受けた人間は、絶えず過剰に自己と他者の距離を測り続けるから、これは一種の病でもある。ふつう人はもっと漠然と他者と接し、曖昧に関わる。
人文知は究極的にはプライベートな手紙やメモでも、歴史において参照され続ければそれが正しくても間違っていても知になる。科学知は誰もが検証できる形で公開されコミュニティに検証されて真偽のコードをクリアして知になる。このごく基本的な性質の理解はもっと認識されるべきだと思う。
人間はたくさんの幻想や夢や勘違いや妄想によって生きている。知性や論理によって、それを一枚ずつ剥ぎ取ることはできるかもしれないが、それらを剥ぎ取った後にいったいなにが残るのだろうかということは、考えておかなければならない。
科学知というのが「共同体の知」だということがあまり認識されていないのではないか。ある意味では人文知が(究極的には)個人の知であるのと違い、科学者「個人」の知は「科学的には」あまり意味がない。個人ではいくらでも何か言う人はいるが、それは科学者コミュニティの検証を経て科学知になる。
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学ぶということは、自分で考え思考することだと思いがちだが、実際は"いったん"自分の考えを捨てることだ。自分の慣れ親しんだ思考を、体系や著者にハックさせ、別のモードへと変わること。自己へ吸収することではなく、自己を失い他者へ委ねることが学びの始まりになければ何も変わらない。
僕は文学とか芸術の素晴らしいところは、どのような普遍化もされなかったプライベートな出来事や言葉が、歴史のなかで掬いだされて、共有や同意とは別のかたちで普遍化されていく力を持っていることだと思います。
今のお笑いと現代美術は似ている。大喜利力、傾向と対策、ナラティブの効果、キャッチーと狂気のバランス、インタラクションの距離感…。しかし逆に言えば現代美術の潜在的な需要をお笑いに取られているとも言える。これは超越性なき祝祭をどう作るかという日本の深い問題にも思える。
人間には誰しも「巫女」の部分があり、自分の意志とは無関係に、触れたものから情報をキャッチしてしまい、時に自我がハックされてしまうから、注意しなければならない。インターネットは巫女を量産する技術。オンラインである限り、僕たちは誰でも巫女になりうる。
人には流暢に話さなければならない状況がある。たとえば政治家や教師など多いかもしれない。ChatGPTなどで起こるhallucination(嘘をつく)はそれに似ていると思うことがある。とかく話すことが求められる場合、言語は真偽にかまわず空白を埋めることを優先する。
オンライン講義の難しいところは「本質しか」伝えられないことだと分かった。表情とか空間背景とか、雑音とか、現実では、いかに非本質的なものが本質を本質たらしめてるかを実感した。意味は、まわりに漂う無意味に支えられている。
理解できない他者を見たとき、まぁ理解できなくてもいいんだけど、とりあえず「人生それぞれいろいろあるよね」という理解不可能性の前提から出発するのが倫理の基本だと思う。なんらかの規範を当てて批判するのはその後。