これに関して、実は僕はあまり優しさとかいう感じで話しているわけでもない。どちらかと言えば、コミュニケーションの不毛さに気づかない知性への苛立ちのほうが強い。知的であるということを自負する人は、常に総合的観点からものごとを判断しないと、程度は違えど結局のところ同じ穴のムジナになる。 だから加えて言えば、僕は「包摂」のような考え方もいいと思っていない。たとえばケアの問題も、良心や公共性の方向で考えるのではなく、本当はもう少し欲望やアイロニーの問題として考えたい。そうじゃないとキリスト教的な弱者とそれに手を差し伸べる者の構図が抜けられず、その権力性をうまく制御するのは難しい。僕自身が良心や道徳とかが苦手(でけっこう自分がダメ人間という自覚がある….)というのもあるが、どちらかと言えば不条理問題として笑ったり、人間のどうしようもない業を認めたりする方向。セックス・ドラッグ・アルコホール的な世界をそれとして認める。 対話は知識の交換より世界観の交換なので、話し始める前に、なんかツッコんだり笑ったりとか、そういうのが大事かなと。すべてを真面目に扱ってしまうと必ずすれ違う。原理は共有できないし包摂できない。うまく言葉にできないが、真面目さとは別の、「まぁまぁ」という感じ。 自分の立脚する経験的な世界の外側を想像することが大事で、それはやはり文学を読むということになるのだと思うし、もっと言えばお笑いとかブレイキングダウンとか見て、学と教養の外側にある世界のリアリティをできるかぎり体感するというようなことでもあると思う。 馬鹿にするわけではなく、うまく笑いにするというのも技術なので。頑なに真面目に批判するよりも、まぁネタにしたり逆に自虐したりしながら、笑ってちょっとでも仲良くなるほうが大事というか。 人はまず、この人と話して安心だという感情にならないと本音で対話できないですからね。