渓流詩人の徒然日記

知恵の浅い僕らは僕らの所有でないところの時の中を迷う(パンセ) 渓流詩人の徒然日記 ~since May, 2003~

覚醒剤使用容疑 三原・やっさ祭り前実行委員長の男(39)を再逮捕

2024年08月08日 | open

覚醒剤使用容疑 三原・やっさ
祭り前実行委員長の男(39)
を再逮捕


つい先日殺人事件があった
ばかりの三原市。
今度は大祭りの元実行委員長

(現在住居侵入と窃盗で裁判
中)が覚せい剤で再逮捕。
三原の警察は忙しいなぁ~。
三原市という場所は決しての

どかな田舎町ではない。
かなりの犯罪が横行しており、
また、一般住民の交通マナー
も非常に悪い。三原市内で
信号の無い交差点で、停止線
で一時停止する車は見た事が
ない。また、右折車両はほぼ
100%に近い車がショートカ
ット右折をする。正面衝突し
そうになるので注意すると、

逆にからまれて因縁をつけら
れるのでスルーしたほうが
よい。そういう土地柄だ。
東京大阪の都市部を除く全国

の地方城下町と比較しても、
治安は良い町とはいえない。
明治以降の急激な工業都市化

により、広域からドッと人が
三原に集まり、江戸期とは異
なる土地柄に変化したのだろ
う。九州の炭鉱町の土地柄に
非常に気風が似ている。


広島県三原市の道路はこんな
感じ。
人口8万人。平成大合併により
一時期人口10万人を
超えたが、
現在はどんどん減少傾向を見
せている
地方の小さな城下町
だ。
三原市中心部のまちなみ
(広島県三原市)

この動画で映っている場所
の殆どが海上に城ができる
までは海だった。
町ができて450年の歴史しか

ない土地(土地が無かった)。
交通網整備で国道が開通し

たのは昭和30年代だった。
それまでは三原開闢以来、
前面を海、東西
北を山に囲
まれた陸の孤島
だった。
だが、そうした地形だから
こそ水軍出撃の城として毛
利一門は戦国時代末期にこ
この海上を埋め
立てて築城
して内陸部の山城から転住
した。

関ヶ原以降、備後国三原は
福島正則の所
領となり、そ
の後江戸初期
に紀州から浅
野家が入り明
治維新まで統
治した。
浅野家統治時代は、本城を

安芸国広島に置き、三原は
家老が城に入って治めた。
三原領内の石高は三万石。
広島藩全体では42万6000
石、広島藩は大藩だった。
三原の城勤めの家臣はすべて
浅野家の家中、つまり広島藩
士であり、三原藩とい
うもの
は存在しない。

江戸幕府の一国一条の令があ
るため、
三原は城ではなく要
害とし
ての城郭存続認可だっ
た。

戦国時代の城ゆえ天守は元か
ら無いが、本丸の
広さは日本
有数の面積を有
していた。
また城郭に張り巡らされた

二重櫓の数は32、城門は14
存在した。
城郭は全て海上に建築され
た。武家地は城内と北側の
陸地部分。西国海道(=街道)
沿いと城の東西に町家が建
ち並んだ。
武士を含めて三原の江戸期
の人口は1万人。
武士の人口は家老陪審、奉
公人含めて総人口の約1/3。
江戸は武士人口のほうが町
人よりもやや多かったが、
三原は地方ゆえか武士人口
のほうが少ない。
狭義における「三原」とは
現在の三原市の領域の事で
はなく、
城下町のみを指した。
これは昭和時代にあっても。
三原は戦国末期に出現最初か
ら「町」であった。

明治開始時の住所は廣島縣
御調郡
三原町三原。江戸期
の仮名では「みわら」と書
いた。
城郭は明治9年に解体され、

今は一部の石垣を残すのみ
である。

江戸期の三原城はこのよう
な佇まいだっただろう。
武士の多くは城内に住した。

(参考想像図)



慶應年間の備後三原城図。
二重櫓数32というのは、築城

完成当時としては破格の城だ
った。三原城は防衛面に優れ
た軍事要塞であり、水軍(海軍)
の軍船多数を出撃させる設備
の整
った海上城だった。




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