日本人が知らない「後期日中戦争」
太平洋で米国と戦争をしていたとき、中国戦線はどうなっていたか。「後期日中戦争」の著書がある、愛知学院大学准教授の広中一成さんに聞きました。【聞き手・須藤孝】 【写真】中国南部の市街地を行軍する日本軍兵士 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇なぜ「後期」 ――なぜ「後期日中戦争」なのでしょう。 広中氏 8年間の日中戦争が半分を過ぎたころに、太平洋戦争が始まりました。 私自身、盧溝橋事件や南京事件のような日中戦争の前半部分については事細かく話すことができても、「太平洋戦争の時の日中戦争」について聞かれると、うまく説明できない経験をしました。 太平洋戦争中の中国戦線に触れた研究はあっても、日中戦争全体のなかで取り上げられることが多く、後半に焦点を当てたものは少ないのです。 ――抜け落ちています。 ◆アジア太平洋戦争の枠組みのなかでは、真珠湾攻撃後は対米戦争に関心が行ってしまい、中国への関心が薄くなります。これは一般でも、研究者でも同じです。新聞の夏の特集も同じではないでしょうか。 中国での戦争が十分に描かれていません。あの戦争はなんだったかという議論をするならば、そこは埋めなければなりません。 ――15年戦争という言い方もあります。 ◆満州事変からとみると「15年戦争」となりますし、そうでなければ「8年戦争」となります。 しかし、「15年」か「8年」かの論争に戦争の後半部分は考慮されていません。いかに日中戦争がはじまったかは大事な議論ですが、その結果、後半部分への関心が薄くなっています。 太平洋戦争の開戦を基準に日中戦争をみると、太平洋戦争がはじまって戦争の相手が増えたことで、中国戦線の状況が変わります。太平洋戦争と日中戦争がどう関わり合ったかの議論がもっと必要です。 ◇大きな作戦も ――一般にはあまり知られていませんが、米国と戦争をしている時にも中国戦線で大きな作戦があります。 ◆中国戦線では蔣介石を屈服させることが目的でした。蔣介石のいる重慶には手が届かないわけですが、あきらめたわけではありません。なんとか重慶まで行こうといろいろと大きな作戦をやっています。 ところが、太平洋戦争の旗色が悪くなると、それに影響されてやらなくてもいい作戦をするようになります。 日本への空襲の基地となることを防ぐために、中国沿岸部の飛行場を攻撃しますが、蔣介石は奥地にいるわけですから、中国戦線の本来の目的からは外れます。太平洋戦争に中国戦線がひきずられている例です。 ――日中戦争は2国間の戦争ではないと指摘されています。 ◆「日中戦争」といいますが、対米戦争が始まる前から、双方の背後には欧米列強がいて、実は隠れた国際戦争なのです。太平洋戦争になれば当然、国際戦争の一部になります。前半ばかりみていると、国際戦争の部分がみえにくくなり、2国間の戦争のように見えてしまいます。 ◇日本は中国に敗北した ――一方で、特に華北では日本は中国に敗北したと強調されています。 ◆今もなお、日本は中国には負けていないと言う人がいます。1944年の大陸打通作戦では、南のかなり奥(広西省南部、貴州省南部)まで行っているので、負けていない部分もあります。しかし、特に華北での八路軍(中国共産党の軍隊)との戦いでは明確に敗北しています。 そのことをよく分かっていない人がいます。あらためて、負けたことをはっきり言っておく必要があると思いました。 ◇日本は中国人をどうみているのか ――なぜ今も「負けていない」という感覚があるのでしょうか。 ◆日中戦争では毒ガスや細菌兵器のような非人道的な兵器が使われます。細菌兵器は、731部隊が旧満州(現中国東北部)にあったので、使いやすかったのでしょう。毒ガスといっても実際は催涙ガスのようなもので、致死性のあるものは限られていました。作戦上の理由もあったでしょう。いずれにしても、無辜(むこ)の人民に被害を与えました。 背景には中国人に対する、人を人と見ていない感覚があります。下に見ているものには平気でひどいことができる、ということではないでしょうか。 暴支膺懲(ぼうしようちょう)という言葉があります。「暴れる支那をこらしめる」という意味です。中国人に対してはそういう発想なのです。それは今でも変わっていないのではないでしょうか。 そうしたことは、今、日中戦争を見る時にも影響しています。来年は敗戦から80年です。あの戦争はなんだったか、中国との戦争はなんだったのかということを、あらためてフラットに見るべきではないでしょうか。(政治プレミア)