宇野康秀。 | 塾講blog 
2006-04-24 15:35:42

宇野康秀。

テーマ:言葉・文章

文字通り「火中の栗を拾う」形でライブドアの支援に乗り出したことで、USENの宇野康秀社長は一躍時の人となりました。今週発売のビジネス誌、男性週刊誌、一般週刊誌でも、宇野氏の話題を扱うものが数多く登場しています。興味本位に取り上げた記事の中には、宇野氏の影の部分だけを掘り下げようする内容のものもありますが、いずれも新味に欠けるとの印象を受けました。

そこで、今回はあえて今から5年以上の前の宇野氏に関するビジネス誌の記事を紹介することにします。これほど世間の注目を集める以前に書かれた記事なので、その内容にも余計なバイアスがかかっていないと考えたからです。情報源は、『新千年紀の日本人-有線ブロードネットワークス社長 宇野康秀』(2000年11月4日 週刊東洋経済 146~149ページ)です。

変な少年だった。小学生のときから自分は起業家になると決めていた。小学3年生の作文に「ぼくは鉄道会社の社長になりたい」と書いた。

華僑の家に生まれた宇野は、商売人に囲まれて成長した。商売で成功した人間が偉い――何の抵抗もなく刷り込まれた価値観である。

宇野氏が華僑の息子であることに触れた週刊誌も見られましたが、現在は日本国籍を取得しています。

宇野自身は、29歳で日本に帰化した。無戸籍だと、子供が「宇野」ではなく妻の姓になる。それでは子供が可哀想だ。「日本に生まれ日本語しか話せない。日本人として生きているのに、選挙権はなかった。矛盾を感じ、頑張ろう、と思った。規制や既得権のために、本来、国民が受けられるサービスが受けられない。何とかしたい。そこからパワーが出てくる、というのはあります」。

ソフトバンクの孫正義社長も帰化した日本人です。WBCで日本代表を率いた王貞治氏は、帰化をしていないので中国籍のままです。これらの人々が今日の地位を築いた理由をその出自に求める論調もあるようですが、私にとってはさして意味のある分析ではないように思えます。

宇野氏は、学生時代も一貫して将来の起業を第一に考えて行動します。まさに三つ子の魂百までといったところでしょう。

中学生時代の愛読書は松下幸之助の伝記。高校に入ると、法律書を貪り読んだ。受験勉強はいっさいしなかった。藤田田の『ユダヤの商法』を読んで、はまった。よし外食産業をやろう。まず調理師学校に入ろう。父に鼻で笑われた。「アホか。そんな授業料なんか、ワシは払わん」。

で、方向転換。「事業を興すには準備がいる。仲間、資金をどうするか。大学の4年間のモラトリアムは準備期間としては最高じゃないか。TVで見たら、東京の大学生は学生企業をやっている。東京はすごい」。

学生時代は、学生企業の社員、企画系サークルの部長、大学を横断したサークル連合会の幹事と三足のワラジを履いた。すべて、将来の起業に照準を合わせた計画的な行動である。

「リーダーシップが自分のいちばんの欠点。それを克服するために、部長や連合会の運営をやった。何でそこまで計画的にやるのか。もしかして、しょうもない人生かな、と思うこともあるんですが」。

大学生時代のイベント・サークルを通して、「スーフリ」関係者との親交があったとの噂をスキャンダラスに報じる週刊誌もあります。確かに狭い学生サークルの世界では、そんなことがあったとしても不思議ではないでしょう。

但し、宇野氏本人がスーフリ的な悪行に手を染めていなければ、それもたいした話ではありません。朝日新聞社長の息子が大麻不法所持で逮捕 されたことが、当の社長の倫理観とは無関係であることと同じです。

起業志向の強い宇野氏は、卒業後の就職先として「起業学校」の異名をとるリクルートを選びますが、そのリクルートも本人の期待を満足させることはなかったのです。

最初に就職の内定をもらったのがリクルート。内定の日に、トイレで江副とばったり会った。「初めまして。実は私、将来、事業をやりたいと思っております。3年ほど勉強させていただければ、と考えております」。ブルブルッとやって、江副は「そうかそうか、宇野さんとこの子ね。しっかり勉強していってね」。

が、幻滅した。内定者としてバイトし始めた宇野の配属先は広報室。社員集会のイベントにン億円のカネをかける。江副さんがスピーチする演壇は500万円のヤツを米国から取り寄せよう。「マズイ。カネの稼ぎ方を覚えたいんであって、カネを使うことを覚えたいんじゃない」。

バブル華やかし頃のエピソードです。元々リクルートが大企業だからという理由で魅力を感じていたわけでない宇野氏は、ここで戦略的な決断をします。

リクルートの内定を取り消してもらったうえで、リクルートコスモスに入り直した。「不動産業は今、大きな変革期にある。不動産、金融、税務、都市計画。我々はモーレツに勉強している」。このPRビデオを見て宇野は決めた。全部が勉強できる。こんなところはほかにはない。

リクルートコスモスはいい会社だった。だから、焦った。自分が徐々に組織になじんでいく。こういうことか。いつの間にか、組織に埋没していってしまう、というのは。

学生企業の後輩で同じくリクコスに入社した鎌田和彦(現インテリジェンス社長)はある日、宇野に声をかけられた。「将来、どうする」。鎌田は「ま、リクコスの社長にでもなるよ」。「幾つで社長になれると思う。60で社長になっても仕方ないだろう。鎌田、一緒にやろうよ」。

こうして宇野氏は、25歳で遂に積年の夢だった起業を果たします。

創業したのが、インテリジェンスである。業種は、採用のコンサルティング。リクルートの基幹ビジネスへの挑戦だ。「真面目に中小企業をサポートしようとすると『手間ヒマかけてどうする、広告媒体を売ればいいんだ。5,000万円の予算で人が取れなければ、来年は1億円出すんだ』と。リクルートにはそんな風土があった。お客の立場に立っていない。そこを突けば、勝てる」。

父親の宇野元忠氏に創業したことを報告に行くと、「若造が思いつきで会社をやってうまくいくはずがない。恥ずかしいからやめてくれ」と、一喝されてしまいます。この事件をきっかけにして、それ以降親子は絶縁状態に入ります。しかし父親の猛反対をものともせずにスタートしたインテリジェンスも、最初の5年は決して順風満帆とは行きませんでした。

創業6年で売り上げ16億円。これじゃ、学生企業の域を出ない。苦し紛れに携帯電話の端末販売にも手を出した。結局、ブレークできないんじゃないか。転換点は95年、人材派遣業への進出だった。当時、すでに売り上げ400億円のパソナが業界に屹立していた。「9,000億円の市場でトップ企業が400億円なら、参入余地は十分ある」が宇野の判断。これが当たった。

鎌田の述懐。「最初の5年間、ヘドが出るほどやった。今のネットの奴らとは全然、全く違う」。インテリジェンスは創業以来、増収増益を維持している。「意地で増益維持。自分の給料を削り、電気代も節約する。宇野は辛抱するもの。夜2時まで働いて朝は必ず8時半に出る。朝が遅い会社って、最悪じゃない」

マスコミからは「ヒルズ族の兄貴分」と呼ばれていても、宇野氏のビジネススタイルにはネット起業家の錬金術とは一線を画する泥臭さが感じられます。このエピソードもその違いを物語る1つでしょう。

M&Aよりも内発的な成長を重視するサイバーエージェントの藤田晋社長のスタイルも、ヒルズ族とは異なります。そうした藤田社長のビジネス観の基本も、インテリジェンス時代に培われたのではないでしょうか。

インテリジェンスでトップ級の営業マンだった藤田は、入社1年で、退社を申し出た。「僕だったら、もっとうまく経営できるのに、と思った。宇野さんを見て、そんなに自分と変わらない。一刻も早く自分でやりたい、と」。

一般の感覚からは、鼻持ちならないこの男に、宇野は出資し、藤田が新会社のオーナーシップを保持できるようにカネまで貸した。おかげで、インターネットの広告代理店業のサイバーエージェントは、インテリジェンスの店頭公開より1カ月早く、東証マザーズに上場し、初値は仰天の1,500万円。

宇野が言う。「今も(インテリジェンスの中で)どんどん新しい会社が設立され、24~25歳の社長が誕生している。公開準備に入っている会社も何社かある」。ただし、光と影は、背中合わせである。

自身もリクルートコスモスを1年で退社して創業した宇野氏は、藤田氏の思いは十分すぎるほど理解できたのでしょう。藤田氏がサイバーエージェントを立ち上げ、そして苦境に陥ってからも、2人の関係は続きます。

ネット・バブルが崩れると、サイバーエージェントの株価は公開価格の九分の一に転げ落ちた。ヤフーの掲示板には「(藤田は)社長を辞めろ」「殺してやる」というエグイ文句が容赦なく打ち込まれた。

宇野は藤田に電話を入れた。「つらくないか。何でも相談してくれ」。藤田は10月から社長給与を返上した。本人は、返上はばかばかしいと思っている。給料を取らなければ、責任の取りようもないじゃないか。

「そうじゃない。そうすることが人の心を引きつけるんだ」。藤田は宇野の言葉に従った。優しさと計算。何より「新しいスタイル」を壊したくない。強い思いが、宇野にはある。

インテリジェンスの業容も拡大し始めたところ、病に倒れた父親の元忠氏から突然大阪有線放送の後継者に指名されます。当時同社に勤務していた長男を差し置いて、次男の宇野氏が選ばれたことに関しても、色々憶測があるようです。結局は、サラリーマン型の長男よりも創業者型の宇野氏が適任と考えられたのでしょう。

宇野は「創業者だけが偉い」と思っている。「二代目なんて恥さらしのようなもの」。それでも、要請を受けたのは、繰り返せば、8割は責任意識。もう1つは、父が、ついに自分を経営者として認めてくれたという「誇り」である。

「やりがいのある会社だから、お前も楽しい人生が歩めるぞ、と。何か、違うんじゃないかな、と思いながら聞いていましたけれど」。

こうして父親の会社を引き継いだ宇野氏は、父親の思いとは正反対に大胆な改革を推し進めます。

宇野は“創業者的に”大阪有線を継承した。父・元忠は「10年間は動くな」と言い残した。が、宇野は直ちに行動を開始した。「社会的に認められる会社にならなければならない。商売がどうのこうのより、それが最優先」。電柱の無断使用、道路の違法占有。この問題を最短、最速で解決し、「正常化」しよう。

無断使用の電柱を社員が一本一本数えて、写真を撮り、それを地図に落とし、電力会社と市町村に提出する。雨の日も雪の日も数え続ける。こんな作業がいつまで続くのか。こんなことをやっても、結局、認めてもらえないんじゃないか。「リーダー格の社員が辞めていく。これ以上、社員につらい思いをさせないでくれ。社長、もうあきらめてください」。幹部から宇野への直訴が相次いだ。

数え上げた電柱は、最終720万本に及んだ。正常化作業と並行して事業所の再編縮小、1万人の社員を8,000人に絞り込むスリム化も断行した。過去の不正使用料(一説に300億円)の支払い原資を捻出するため、やむをえない措置だが、宇野の元には藁人形が送られてきた。

郵政省・有線放送課長の吉崎正弘が言う。「(宇野の)誠意は最初から感じた。しかし、組織の長として180度の路線転換ができるのか。様子を見よう、と。一年かかかってやり遂げた。これは、本気だ」。

正常化が認められ、今年7月、宇野は晴れて第一種通信事業者の認可を得た。大阪有線の「ラスト・ワンマイル」が“公道”になったのだ。

大阪有線の建て直しには、短期的な収益を犠牲にしても、長期的なビジネスモデルの構築を優先する宇野氏のビジネス観が現れています。今回の投稿はやや宇野氏を持ち上げすぎたしまった感じもします。これも男性週刊誌の悪意に満ちた「あることないこと(ないことないこと?)」記事を読んだ反作用かもしれません。

AD

makki5555さんをフォロー

ブログの更新情報が受け取れて、アクセスが簡単になります

同じテーマ 「言葉・文章」 の記事

コメント

[コメントする]