いま注目される「弥助」、織田信長に召し抱えられた黒人は何者だったのか?
■ 弥助の現実的な強さが見える一文 つまり太田牛一は、ここで「(弥助は)26~7歳ぐらいで、牛のように全身が黒く、健康的であった。しかも力強さは、普通の人に勝る様子であった」と書いているのである。 なんのことはない。弥助はファンタジックに強かったわけではなく、普通の人になら余裕で勝てるぐらい強そうだったと、現実的なことを書いていたのである。 牛一が『信長公記』で誰か個人を「強力」と特記した例は、巻11における天正6年(1578)8月15日条「大相撲」シーンの「永田刑部少輔、阿閉孫五郎、強力の由」と書いてあるところだけだから、弥助もこれら無双の力士に匹敵するほど屈強な肉体を備えていたのだろう。 信長は初めて見た黒い肌の人間が日本人でも見ないぐらい屈強で、日本語もいくらか話せるようだったので、護衛に適していると思ったのだろう。ただ、実際にどれぐらい強かったのかは、戦績が何も伝わっていないので、よくわからない。 そこで我々の心を躍らせるのが、フィクションの仕事である。 異郷に流れ着いた孤独の勇者が、戦国時代トップクラスのウォーロードに気に入られ、日本の武士たちを相手に10人分の腕力をもって奮闘する姿は、どんな創作に繋げても絵になること間違いなしであるはずだった。
■ エンターテインメントは楽しむもの そうした発想から、弥助が活躍するゲームが製作されることは、歓迎するべき出来事だった。それなのに、その「正しさ」をめぐって、政治や歴史の問題を口論する展開など、誰が求めていただろうか? なかなか大変なことになったと思う。珍説を巧妙に広めた人々は罪深いが、これを無条件に持ち上げてしまった側はどうだろうか。そして、ここから取り返しのつかない溝が生まれたら、いったい誰が得をするというのだろうか。 ならばここで溝を生まないところに得をさせてしまおう。 戦国日本で弥助がカッコよく動いてくれるゲームを楽しみたいなら、ひとつの作品にこだわる必要などない。打ってつけの作品がある。歴史ゲーム会社の老舗コーエーテクモゲームスが提供する『戦国無双5』(2021)だ。 これこそ弥助を可能な範囲でリスペクトした日本製の歴史ゲームであると私は思う。 本作は従来のレギュラーキャラクターを一新したため、売れ行きは低調だったようだが、それでも無双ゲームとしての快適さはシリーズ随一といっていい。痛快アクション、気分のいい登場人物、味わいのあるストーリー、ここには全てが揃っている。 そして何より弥助をプレイアブルキャラクターにした世界初の歴史ゲームでもある。ここでの弥助は、《無双乱舞》のときに「士」、《無双奥義》のときに「侍」の一文字が大きく浮かび上がっているように、武士の精神を重んじる扱いである。だが、武士らしい武装と衣装と所作は整っておらず、心は武士だが、身は謎の異民族という印象が強い。大方の日本人はこの弥助を見て、何を思うだろうか。黒人への不快感や差別感を抱いたりはしないはずだ。 ■ 身分としての侍と美称としての侍 このゲームの弥助には、「身分としての侍」には似つかわしくないところもあるが、おのれを見失うことなく、信長や信忠に尽くす勇姿には、「精神としての侍」らしさが強く表されている。 弥助の面白さは、ここにある。 黒澤明監督の『七人の侍』や『用心棒』などでも「身分としての侍」と、「美称としての侍」が個別と概念として併存していた。これと同じように、見た目がそれらしくない弥助を、立派な「侍」として認めたくなるキャラクター造形がごく自然に噛み合っているのである。 無双シリーズのコンセプトは、「一騎当千の爽快感」にある。弥助で睨み合う必要はない。11月に日本語版が発売されるまでコーエーテクモゲームスの『戦国無双5』を楽しんでみたらどうか。みんな弥助で笑顔になってしまおう。 【乃至政彦】ないしまさひこ。歴史家。1974年生まれ。高松市出身、相模原市在住。著書に『戦国大変 決断を迫られた武将たち』『謙信越山』(ともにJBpress)、『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。書籍監修や講演でも活動中。現在、戦国時代から世界史まで、著者独自の視点で歴史を読み解くコンテンツ企画『歴史ノ部屋』配信中。
乃至 政彦