「極右」レッテルが見誤らせる欧州政治 「底流にあるのは階級闘争」

聞き手・石川智也

 右派は失速したのか――。7月7日に決選投票が実施されたフランス国民議会(下院、定数577)総選挙で、野党の左派連合が最大勢力に躍進した。左派メディアが「極右」と呼んで警戒した「国民連合(RN)」が過半数に遠く届かなかったことで、日本でも「最悪のシナリオは避けられた」といった報道がなされた。だが、フランス文学・哲学研究者の堀茂樹さんは「『自国第一』を掲げる勢力の伸長は今後も止まらない。『極右』とのレッテル貼りで本質を見誤らないほうがいい」と指摘する。

 フランスや欧州の政治の底流では、何が起きているのか。現象の背景を読み解いてもらった。

右派「国民戦線」は失速などしていない

 決選投票では左派の政党連合「新人民戦線」が182議席を得ました。一時は単独過半数をうかがっていた右派「国民連合(RN)」は共闘勢力を含めて143議席にとどまり、「失速」と報道されています。しかし現象を見誤るべきではありません。

 RNは解散前は88議席だったので、大きな勢力拡大であり、政党単位では第1党に躍り出ています。国民議会選は小選挙区での2回投票制を採っていますが、第1回投票でRNの候補は約300の選挙区でトップでした。これを見たマクロン大統領の与党連合は、3番手で決選投票に残った60人以上の候補を撤退させ、決選投票が行われた501の選挙区のうち200以上で新人民戦線と事実上の選挙協力を進め、「極右包囲網」を敷きました。その結果、決選投票でRN陣営の候補の総得票率は4割弱に達したにもかかわらず、前述のように143議席にとどまり、新人民戦線と与党連合はそれぞれ3割弱の得票率で182議席、168議席を得ました。

 選挙制度の結果とはいえ、1回投票制であればまったく違う結果になっていたわけで、RNに投じた人たちは「選挙を盗まれた」という意識になるでしょう。

 6月の欧州議会選でも、欧州連合(EU)に懐疑的な右派が躍進しました。RNは与党連合にダブルスコアの差をつけて大勝しています。

 右派は決して「失速」などしていないどころか、伸長しています。「極右」に決して政権を渡さないというフランス国民の意思が明確に示された、という見立ては、議席数だけに着目した一面的なものです。

 ではなぜ、「反移民」「反EU」「反エリート」的立場の右派が伸長しているのか。

労働者や「周縁部のフランス」が右派を支えている

 まず大きな契機として、欧州憲法条約の批准を問うた2005年の国民投票があります。これはEUの連邦制的性格を強めるものでしたが、左右の枠を超えエリート層や富裕層がこぞって批准を是認するなか、結果は55%の「ノン(否)」による否決でした。しかしその3年後、サルコジ政権下で、ほぼ骨子の変わらないリスボン条約が、国民投票を経ずに上下院合同の総会で批准されます。フランスの庶民はこの時、エリート層に対して決定的な不信感を抱きました。

 そのうえで、フランス政治と社会の底流で何が起きているのか、見ていきましょう。

 フランス政界は1960年代から約半世紀にわたり、保守派と穏健左翼の対立を軸に展開してきましたが、ここ10年ほどでどちらも失墜し、いまや3極化しています。その支持層を社会学的、人口学的に見ると、次のように分析できます。

 ①マクロン大統領や与党連合を支持する、新自由主義的、親EU的で現状維持派のブロックは、高学歴で富裕な高齢者層の集合体であり、首都と西部地方、ブルターニュ地方の都市部を中心に広がっている。

 ②新人民戦線の中心「不服従のフランス(LFI)」に集まる急進左翼のブロックは、エコロジー思想や多文化主義に親和的で、かなり高学歴であるが、経済的には不安定な青年層を中心とする階層横断的な集合体で、パリ郊外と、大きな地方都市に強い基盤を持っている。

 ③RNに期待する、国家アイデンティティーを重視する保守ナショナリストのブロックは、低学歴、低所得の働き盛りの庶民たちの集合体であり、東部を中心に全国の地方(地理学者クリストフ・ギリュイのいう「周縁部のフランス」)に根付いている。

 グローバリゼーションは、先進各国に経済的不平等と社会的不安定を発生させ、格差の拡大をもたらしました。米英に比べて比較的格差の小さかったフランスでも、グローバル化の荒波が襲い、「周縁部のフランス」では米国のラストベルト(さびついた工業地帯)同様、産業空洞化が深刻です。農業も、域外の安い農産物との競争を強いられ、EUによる自由貿易推進や環境政策の下、休耕の義務や化学肥料の削減といった様々な制約を受けるなど、農家にしわ寄せが現れています。

 こうした市民の不満や不安の受け皿になってきたのは、以前は左派でした。「周縁部のフランス」社会は、伝統的には、主にカトリック教会と共産党の生活ネットワークで構造化されていました。ところが1970年代以降、脱宗教と脱イデオロギーの流れでそれらは解体されます。そして現在、左派の大部分は新自由主義的なマクロン政権に順応し、労働者層の味方という側面を失っています。

新自由主義者や文化左翼は民主主義を見失っている

 LFIはEU統合やグローバリゼーションを批判し、格差是正を主張してきましたが、新人民戦線全体としては、哲学者リチャード・ローティの言う「文化左翼」化が否めません。従来のマルクス主義者が関心を持ってきた経済的不平等の解決よりも、エコロジー思想や、性的・人種的・民族的な属性を重視したアイデンティティー・ポリティクス、ポリティカル・コレクトネス(政治的な正しさ)を広めることを自らの新たな使命としているかのように見られています。かつての反ファシズム「人民戦線」とは異なり、新人民戦線は広く「人民」を背景にしたものではないということです。庶民階層や地方の支持は、圧倒的にRNに向いています。

 ウクライナ危機後、欧州では食糧やエネルギー価格が上昇、住宅も高騰し、市民生活を圧迫しています。また、移民と難民の流入規模は、シリア内戦を受けた10年ほど前の欧州難民危機と並ぶ水準にまで達しています。右派の「自国民の意思と利益を優先すべきだ」という訴えが庶民層に響いていることを、左派はもっと深刻に受け止めるべきです。

 RNなど右派の主張は「自国第一主義」「福祉排外主義」などと否定的に評されますが、国民国家とは本来、「包摂」と「排除」の双方の力学を持つのです。左派リベラルはその厳然たる事実を見ようとしないだけでなく、国境の壁を低くし、同胞=国民の線引きをあいまいにし、国家の役割を後退させることが理想かのようなビジョンを振りまいている。しかし、EUという超国家機構の単位で民主主義はいまだ成立していません。アメリカ合衆国(United States of America)は一つの国民国家ですが、政治主体となり得る「欧州人民」という集団は存在しない以上、「欧州合衆国」(United States of Europe)は非現実的です。

 ネーションという近代の同胞意識がなければ、意見の対立があろうとも少数派が多数派の正統性を認め、多数派も少数派の意思を尊重するという民主制の原理は機能しません。マクロン派のグローバリストも、文化左翼化した左派も、「人民の集団的自律」という民主主義の基本を忘れ、国民に選ばれたわけでもないEUのエリート官僚がブリュッセル(EU本部)で重大な決定をし各国の政策を縛ることを容認し、グローバル化から取り残され生活苦に陥る人々に寄り添っていない――。そうした不満を抱いた人たちが、まがりなりにも「国民」というまとまりを訴え、国家主権、国民主権を取り戻そうという右派を支持していることこそが重要です。RNが彼らを育てたのではなく、むしろ、そういう「見捨てられた」人たちがRNを、自らの声を代弁する「道具」にしていると見るべきです。

 RNの中には移民差別的な発言をする者もおり、これが攻撃される材料ともなっていて、確かに国民全体の信頼を勝ち得るには至っていない面もあります。しかし「極右」「排外主義」という評価は、本質を見誤らせるレッテル貼りです。

 数年前の「黄色いベスト運動」も、担い手は、地方で様々な職業に就く、ごく普通の中高年が中心でした。一部で暴力的な行為があったものの、基本的には「声なき大衆」が立ち上がった穏健な運動でした。RNを支持するような「周縁部のフランス」が声を上げ、主権者としての誇りを取り戻そうとした闘いがまさに黄色いベスト運動だったと、私は見ています。

国民国家の原点に立ち返るべきだ

 先進各国で「上下」の分断が進む理由は、左派も含めて高学歴エリートが新自由主義に順応し、民主的連帯に背を向けているからであり、そうしたオリガルヒ(寡頭政治)の傾向に対して、民主主義の失地回復はむしろグローバリゼーションに取り残された民衆層において生じています。それがしばしば「右派ポピュリズム」というかたちをとって表れているのです。

 黄色いベスト運動だけでなく、ブレグジット(英国の欧州連合離脱)を見ても、欧州で起きている現象はおおむねそう分析できます。移民の制限など国境の壁をある程度維持しようとしている北欧では右派がそれほど伸長していないことが、それを物語っています。

 フランスについていえば、LFIの半ば多文化主義的なイデオロギーとルペン派のナショナリズムは、相いれがたいでしょう。ただ、先ほど見た3極構造を、グローバリゼーションの「勝ち組」と「負け組」の層という、より階級闘争的視点から整理するなら、LFI支持層のうち下層の庶民とRNの支持層が、経済的危機感の共有から共闘する可能性は常にあります。

 国内で不遇感と疎外感を抱える人たちを包摂する労働、雇用、社会保障の政策を再設計し、彼らが社会的承認を得られるアプローチをしなければ、左派の本格的復権はないでしょう。

 国民国家における自由主義的かつ民主主義的な内政の役割は、国内に存在する社会的対立を見て見ぬフリをするのではなく、解消するのでもなく、むしろそのリアリティーを認めて、対話と交渉と妥協に置き換え、国民として一体感を保っていくことにあります。右派を支持する世論を「自国第一主義」「孤立主義」とレッテル貼りし、グローバリゼーションを礼賛するのではなく、国民国家の原点に立ち返り、そのうえで、それを前提にした真の「国際」協調を進めることが必要だと思います。(聞き手・石川智也)

堀茂樹さん

 ほり・しげき 1952年生まれ。専門はフランス思想史。慶応義塾大学名誉教授。東京日仏学院講師。訳書にアゴタ・クリストフ「悪童日記」、アニー・エルノー「シンプルな情熱」、ヴォルテール「カンディード」、エマニュエル・トッド「我々はどこから来て、今どこにいるのか?」など。

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この記事を書いた人
石川智也
オピニオン編集部
専門・関心分野
リベラリズム、立憲主義、メディア学、ジャーナリズム論
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    佐倉統
    (東京大学大学院教授=科学技術社会論)
    2024年8月5日9時56分 投稿
    【視点】

    明晰な堀氏の分析を読んで、パリ・オリンピックの開会式で感じた違和感の原因がわかり、腑に落ちた。あの一連の演出は、フランス革命が打ち立てた民主主義を、多様性や包摂性を取り入れて新しい時代に適合させようという意気込みを描いていたが、私には皮相的で表層的に感じられた。その原因は、社会の枠組になっている国民国家をどう扱うかについて、ほとんど触れていなかったからだ。堀氏は、国民国家のアイデンティティを素通りしていることこそが、現代世界の混迷の根源だと分析している。そこに触れずして民主主義のバージョンアップもなにもあったものではない。 一方で、スポーツのもつ、良くも悪くも集団への帰属意識を強化する力の強さを再認識させられるのもオリンピックである。だから台湾や香港が中国とは別の単位を作って参加する。そして日本の若者の多くがオリンピックに関心を持たない一因も、その表層的なナショナルアイデンティティの鬱陶しさにあるだろう。これは、国民国家に単純に回帰すればそれでよし、という状況でもないことを示している。国民国家を再確認しつつ、より大きな括りでの国際的な連帯も必須だろう。 いつかEU代表チームがヨーロッパ諸国民からの支持を得て結成され、オリンピックに参加する日が来るのだろうか。堀氏の分析によれば、そんな日は未来永劫来ないように思えるのだが…

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