富士とてんしさま

2月23日は「富士山の日」でもあったのですが、この日は新世界(ニューワールド)において不老不死の使徒と成り成られ、「福の神・ビリケン」となると睨んでいる方の御誕生の日でもある。

東宮殿下
お誕生日おめでとうございます!


富士山


世界皇帝に成られる方の候補として、悠仁親王、愛子内親王、東宮...等がいますが、人により「押しメン」が異なります。田村珠芳女史の場合は悠仁親王。しかし、オイラの場合は東宮イチオシなのです。
※註 「三択の女王」竹下景子氏に意見を伺いたいところです。

日月神示でいうところの「世界皇帝」とは生き通し(不老不死)の「てんしさま」のことですが、比定する理由として、年齢が50代の唯一の皇族であり、明治維新時に京都公家に「哀帝」と予言され、また、てんしさま誕生は富士山噴火と同時である故、このシンクロこそが、その最大の証かもしれない。
※註 上記理由以外にも、皇統奉公衆が担ぐ京都明治天皇の子・堀川辰吉郎とロスチャの血を引くオグラディッシュ・ハーマン(前田ゴロウ)の北朝系側(裏天皇)と「たすき掛け人事」で天皇の金塊「ゴールデン・リリー」の名義人を務めていると云われ、今度、その名義人は東宮殿下になりそうな雰囲気が濃厚。

現在の王家が田布施の朝鮮部落の相撲少年・大室寅之祐の子孫である大室天皇家だというのは鹿島昇の本に端を発した話ですが、これは本当なら現皇族に属するかたは「てんしさま」となる資格がないということにもなります。この噂も明治天皇の皇后を「皇太后」と呼び慣らし、南朝正討論を掲げ各地に散っていった後醍醐天皇の皇子を祀る神社を創建し、また現皇室が明治天皇の生母である中山慶子の墓参りを一切していないことからも噂の真偽は明白です。

しかし、実は天皇入替説は元宮内大臣の田中光顕氏の方が早いのです。

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■元宮内大臣田中光顕氏、明治天皇陛下すり替え告白
斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられまたが、やがて、私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。

現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました」と前置きされて、実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。

孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領有し、代々の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。

これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。

吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。

之が大政奉還明治維新の原動力となった。

明治天皇には明治維新になると同時に、『後醍醐天皇の皇子征東将軍宗良親王のお宮を建立してお祀りせよ』と仰せになり、遠州の井伊谷宮の如きは、明治二年本宮を造営せられ、同五年に御鎮座あらせられ、同六年には 官幣中社に列せられた。

而して御聖徳に依り、着々として明治新政は進展し、日清、日露の両役にも世界各国が夢想だにもしなかった大勝を博し、日本国民は挙って欽定憲法の通り、即ち明治天皇の御皇孫が永遠に萬世一系の天皇として此の大日本帝国を統治遊ばされると大確信するに至り、然も明治44年南北正閏論が沸騰して桂内閣が倒れるに至った時に於ても、明治天皇は自ら南朝が正統である事を御聖断あらせられ、往来の歴史を訂正されたのである。


(三浦芳堅著『徹底的に日本歴史の誤謬を糾す』から抜粋)
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これが幕末、急転直下、公武合体、尊王攘夷から尊王開国へ大きく転換した裏の背景。

「後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫」という方は、萩在住の南朝・満良親王末裔とされている大室弥兵衛の弟?・大室惣兵衛の息子の「大室虎助」。吉田松蔭はこちらの虎助を玉にしようとしていたが、伊藤博文を体長とした奇兵隊に参加している点や田布施に都落ちの七公卿が滞在した点で、田布施の大室寅之祐が東京明治天皇になったのでしょうね。
※註 この田布施・大室家は500年前に一度、皇統の断絶があったとされる。また、東京明治天皇である大室寅之祐自体も母親の連れ子であるという。二重に皇統とは断絶しているのです。

田中光顕の話は長州の釣りネタを信じての話でしょう。
裏話には更に裏があったというわけです。

まぁ、本当の明治天皇(京都明治天皇)の方も孝明天皇と中山慶子との間に出来たが死産し、人攫いつかって誘拐してきた男児とすり替えたともいいますので、実は、もう何んでもいいのですね。当て嵌めてしまえば、あとは「万世一系」の皇統譜という「家の芸」でなんとかなる。養子に迎えて家に入れてしまえば身分はOKというのは、昨今の原発ストレステストにも合い通じるものがある。豊臣秀吉も藤原徳子もこのお陰(摂関家の養子入り)で、高い身分へと転換可能だったのです。あとは大室天皇家も九条家(北朝の派閥)との結婚や、島津家との結婚のように、血縁関係を結び貴種化させれば辻褄が合ってしまうのです。

実に日本らしい、い、いや藤原氏らしいやり方です。

昔から、政局がある時には摂関家のそれぞれの派閥が玉(ぎょく)を擁立して、最終的には参議で天皇を決めてきたのですが、明治維新もこれと同じやり方。ただそこには昔から毒殺とか藤原家の十八番の「家の芸」もあるのだが、、、長年、このような方法を駆使し日本のトップ・エスタブリッシュメントに君臨してきたのが藤原氏であり、日本の皇統も「藤原氏の冠」となってくれる要件さえ整っていれば、捏造でも何でも良いというわけなのでしょう。

でも、オイラはこの「台風の目」のように空虚な皇統に「不老不死」「半霊半物資」という真のカリスマ性が備わることによって、トーラス構造へと至る可能性があると睨んでいる。これが○にチョンが入る時であり、KARAの『ミスター(ドーナツ)』でギュリを中心に輪になって踊ることとして暗喩されていることです。まぁ、その時は富士山も中央から噴煙を棚引かせたカルデラ山に変わっているが、、、

残る一厘は悪の中に隠してあるぞ
(日月神示 黄金の巻 第23帖)

コメント

コメント(2)
13

ヤタガラス

2012/02/24 01:08 URL 編集返信
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2012/02/25 23:01 編集返信
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