「参勤交代」は、江戸時代にあった制度のひとつ。徳川将軍家に対する軍役奉仕を目的とした制度であり、諸大名は1年交代で、江戸と領地それぞれに在住することが義務付けられていました。参勤交代により社会秩序が安定した他、文化の発展や交通の発達など、多くの利点があった一方で、諸藩は大きな財政難に陥り、結果として江戸幕府崩壊の一因になったとも言われています。
参勤交代
「参勤交代」が確立したのは江戸時代ですが、その原型は鎌倉時代の「大番役」(おおばんやく)と呼ばれる制度です。
大番役は、内裏・将軍の御所、及び市中における警固役のこと。諸国の武士が交代で鎌倉や京都に勤務していました。
室町時代になると、守護大名とその子息などは京都に置かれ、将軍に奉公するようになります。その理由は、守護大名の謀反を防ぐため。戦国時代になっても、各地の大名が家臣団を交代で近くに置くことがありました。
例えば「豊臣秀吉」は、「大坂城」(大阪城)や京都の「聚楽第」、「伏見城」を建てるたび、その近くに大名の屋敷を構えさせ、屋敷に大名の子息などを住まわせることで、実質的な人質としていたのです。
はじめに、大名の正室と嫡子は江戸に住む必要がありました。幕府へ人質を差し出すことで、忠誠を誓うのです。また、嫡子に国元中心ではなく、江戸を中心に物事を見る目を養わせる目的があったとも言われています。
参勤交代を行なう時期は、大名により異なっていました。偶数年に参勤する大名、または奇数年に参勤する大名に分かれていたのです。江戸に在住する期間は、原則1年。毎年、全国の約半数にあたる大名が江戸に在住していたことになります。
なお、参勤交代には例外も存在しました。江戸に常住している水戸藩や老中、若年寄(わかどしより)などの役職の者は、参勤交代をする義務はありません。また、江戸に近い関東の大名は、半年ごとに国元と江戸を往復した一方で、遠方の対馬藩は3年に1度、蝦夷地の松前藩は6年に1度と定められていたと言います。
参勤交代は、将軍への軍役奉仕と言う名目があったので、大名行列も軍事形式を採っており、その人数は石高によって定められていました。
例えば、100,000石の大名であれば騎馬武者10騎、足軽80名、中間(従者)140~150名ほど。10,000石の大名であれば、騎馬武者3~4騎、足軽20名、中間30名程度と言われていますが、これはあくまでも基準に過ぎません。参勤交代をする藩のほとんどが、家格や権威を誇示するために、大人数の供を引き連れて行軍したためです。
加賀藩の前田家では、4,000名による大名行列を行なったと言う記録があります。なお、行列の大半は雇った百姓や農民でした。国元を進むときは、豪華に見せるために大人数を動員しますが、国元を離れるとその人数は減り、本格的な旅がはじまると半数以下にまで減ります。そして、江戸に近づくとまた臨時で人を雇い、人員を増やして権威を誇示したのです。
一方で、これらの人件費や食費、衣装の提供などには大変な費用がかかりました。次第に各藩の財政を圧迫したため、幕府は大名行列の人数を減らすよう命じましたが、人数を減らすと言うことは「あの大名様の行列は人数が少ない。つまり大した藩主ではない」と言う偏見に繋がります。そのため、幕府の命令に従う大名はいませんでした。
駕籠
行列は、先頭の先払いが「下座触」(げざふれ)と言って「下に居(お)れ」や、「片寄れ」と叫びながら往来の人々を制します。
なお、時代劇などで度々見られる「下にい、下にい」と言う言葉は、徳川御三家(「水戸藩」、「尾張藩」、「紀州藩」)、及び御三卿(ごさんきょう:徳川氏のうち「田安家」、「一橋家」、「清水家」のこと)だけの下座触です。
次に「先箱」(さきばこ:正装が入れられた箱持ちのこと)、「槍持ち」、「徒士」(かち:下級武士)が付き、その後ろを「鉄砲隊」、「槍隊」などが続きます。藩主は駕籠(かご)に乗り、側近が駕籠脇としてその周りを囲んで警護しました。
また、大名行列は「槍」、「刀剣」、「鉄砲」といった武器だけではなく、旅に必要な生活用品も運搬したと言います。
「乗り換え用の馬」、「雨具」、「茶弁当」、「漬け物樽」、「風呂」、「トイレ」、「ろうそく」、さらには「囲碁」や「将棋」といった娯楽道具まで運んでいましたが、これは節約のための工夫。食事は、毒殺を防ぐためにお付きの料理人が持参の料理道具で用意します。
なお、食材のほとんどは旅先の土地で採れる野菜などを使いましたが、「米」、「水」、「塩」、「醤油」などは樽にいれて国元から運んでいました。
宿場町
参勤交代の大名が宿泊する宿場町の施設を「本陣」と言います。宿泊者の人数が多くて本陣だけでは足りない場合は、予備の宿「脇本陣」に宿泊しました。
本陣に泊まるには、それ相応の身分が必要でしたが、脇本陣は一般庶民も宿泊できたと言います。
なお、罪人が街道を護送されるときに限っては、本陣、及び脇本陣に泊まることは許されませんでした。
宿場町には、本陣が2~3つあるのが一般的です。また、最も多く大名行列に利用された街道は東海道で、146家が通ったと言います。次に多い奥州道は37家、その次は中山道で30家が通過しました。
大名行列の宿泊は、前もって「先触」(さきぶれ)と言う書状により伝達されます。それを受けた宿場は、約3ヵ月前から準備を開始し、行列が到着すると、本陣の前に「宿役人」(しゅくやくにん:宿駅業務の運営を行なう役人)や「町名主」(まちなぬし:町内の自治行政を担う役人)の他、「町年寄」(まちどしより:町役人の筆頭で、町の統制や代官業務などを行なう役人)が勢ぞろいをして、正装で出迎えました。
街道で大名行列に出会ったらどうするか。時代劇などでは、土下座して通り過ぎるのを待つのが定番ですが、土下座して迎えるのは一般的に将軍や徳川御三家の行列が来たときだけで、一般の大名行列の際は、通行の邪魔にならないように道の端へ寄るだけでした。
また、大名行列の前を横切ったり、列を乱したりすることは原則禁止。ただし、書状などを運ぶ飛脚や産婆に限っては、行列を横切ることが許されていました。
なお、大名行列が集中する江戸城面前では、行列のたびに待っていては日が暮れてしまうため、行列に「一ノ切り」や「二ノ切り」と言う道幅ほどの切れ目を作ることで、町民が自由に往来できるようにしたと言います。
ペリー来航
江戸時代の間、長く続いた参勤交代制度も、末期頃には衰退しました。そのきっかけは、1853年(嘉永6年)の「ペリー」による黒船来航。アメリカだけでなく、イギリスやフランスと外交するにあたって強力な軍備強化が必要となったためです。
防衛のためにも、参勤交代を3~4年に1度にして、大名達の負担を減らすべきだと言う意見が出ましたが、幕府はそれを認めませんでした。
その後、幕府は1862年(文久2年)になってようやく参勤交代の緩和を認めます。
御三家など、徳川家に近しい大名を除き、諸大名の江戸参勤は3年に1度、滞在期間も100日に短縮。また、大名が国元にいないときの藩士の数も減らすようにし、さらに江戸に置かれていた妻子が国元に帰国できるようになりました。
しかし、参勤交代緩和の影響で、思わぬ事態が起きます。諸大名の江戸屋敷による需要で生計を立てていた商人や職人の仕事が激減したのです。
大口の取引先を失った商人達の生活は困窮し、江戸の経済そのものも停滞して大不況を招きました。さらに、それは参勤交代の行列が通る宿場町や街道筋にまで波及していったのです。
人質の帰国などにより大名の自立性が高まるにつれて、次第に幕府の権威も失墜します。また、尊皇攘夷(そんのうじょうい:天皇を守るために外国勢を排除する思想)の嵐が吹き荒れると、上洛はするものの江戸に参勤しない大名が増加しました。
1864年(元治元年)、この事態に危機感を抱いた幕府は、諸大名に対して毎年の江戸参勤、及び妻子を江戸に置くよう命じます。しかし、このことは諸大名の反発をさらに買う結果となり、多くの大名は病気を理由に江戸参勤を拒否した他、妻子を江戸に送ることもありませんでした。
やがて、時代は倒幕へと動き、1868年(戊辰4年)からはじまる「戊辰戦争」を経て、明治新政府が樹立。大政奉還により大名は消滅し、参勤交代も歴史の中に消えていきました。