公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。ピアニスト、ワイン愛好家として知られ、各国に外交官として赴任した大江博・元駐イタリア大使に異色の外交官人生を振り返ってもらった。
「期限5分前に時計の針を止めて」
《1994年末から3年間、在米日本大使館で参事官を務めた》
日米通商摩擦が激しかったころです。半導体、自動車、タバコ、港湾、保険と、摩擦の種は尽きない。私は多くの交渉に参加しましたが、日本側の交渉の仕方に正直、大きな疑問を持っていました。
多くの場合、日本は交渉期限ギリギリまで、ほとんど譲歩をしない。「期限5分前に時計の針を止めて」との役人の独特の表現通り、交渉期限直前になって急にドドッ、と譲歩しました。国内の業界に対し、「ギリギリまで頑張ったものの、米国に押し切られた」という釈明のためかもしれません。しかし、交渉技術として効果的とはいえません。米側も「日本とはいつも期限ギリギリまで意味のない交渉が行われる。本当に時間の無駄」とうんざりした表情で語っていました。大使館から参加する私は交渉中、黙って聞いていることが多いのですが、米側責任者から交渉後、しばしば呼ばれ、「日本が最終的に譲れないのはどこか、教えてくれ」と言われたものです。「次の交渉で米側から出す米側案を作ってほしい」と言われたことすらあります。
〝大筋合意〟の本当の意味
《橋本龍太郎通産大臣(現経済産業大臣)とミッキー・カンター米通商代表部(USTR)代表との間で95年、自動車を巡る交渉が「大筋合意」に達したと発表された》
日本で「大筋合意」とは通常、交渉がまとまったという意味で使われます。その後、合意文書を最終的に確定する必要があるのですが、「大筋合意」に達したと言った手前、目立った形で米国とは交渉しにくい。「後は大使館でやってくれ」と言われ、米国と文言を巡り地道な交渉を余儀なくされました。
4人目の交渉人
《96年8月、カナダ西部バンクーバーで、10年間続いた日米半導体協定を終結させる交渉が閣僚レベルで行われた》
日本側は塚原俊平通産大臣、米側は、USTR代表から商務長官に転身していたミッキー・カンター氏が参加。私はカナダに出張して交渉に参加するよう、本省から指示されました。交渉の最終段階で、日米4人ずつの交渉が行われることになりました。
塚原氏、坂本吉弘通商審議官、渡辺修産業政策局長のほか、4人目として当然、通産省の担当課長が加わると思っていた。しかし、坂本氏から「内容は私たちが熟知している。課長がいなくても問題ない。発表文書を作ることになるため、条約課出身の大江君に入ってほしい」と言われ、私が急遽、加わることになりました。坂本氏は、私が条約課事務官時代から一緒に仕事をする機会が多かったことから、そうおっしゃったのでしょう。交渉に貢献でき、嬉しかったです。
ハンマーで日本車を破壊
《日米交渉が時代とともに様変わりしていると感じている》
私のワシントン駐在中、激しい摩擦のあった日米関係はある意味、今の米中関係に近く、公然と日本製の自動車がハンマーで破壊されたこともありました。
もっとも、「日本の自動車はけしからん」と言っている多くの米議員やスタッフが私用の日本車で議会に通うという笑い話のような話もありましたが…。日本車が優れているからこそ、ターゲットになったということです。半導体でも日本が圧倒的に強い時代。その後の日本の半導体産業の衰退を見るにつけ、内心、忸怩たる気持ちになります。
「日本叩き」から「日本無視」へ
日米交渉は当時、厳しいやり取り、ときに怒鳴り合いにまでなったし、交渉の種は山ほどあったものの、私が赴任を終えたころから摩擦がほとんどなくなりました。
「ジャパン・バッシング」(日本叩き)が「ジャパン・パッシング」(日本無視)へと代わり、「日本経済はもう少し頑張ってくれ」と言われるような時代となりました。
若い人たちは米側と〝切った張った〟の交渉をする機会が少なくなったのが実情。少し、かわいそうにも思います。こうした交渉があまり行われなくなったこと自体は悪いことではありません。しかし、厳しい交渉のトレーニングの機会が減っていることは残念でもあります。(聞き手 黒沢潤)
〈おおえ・ひろし〉1955年、福岡市生まれ。東京大経済学部卒。79年に外務省入省。国連政策課長、条約課長などを経て、2005年、東大教授。11年にパキスタン大使、16年に環太平洋戦略的経済連携協定(TPP)首席交渉官、17年に経済協力開発機構(OECD)代表部大使、19年にイタリア大使。現在は東大客員教授、コンサルティング会社「神原インターナショナル」取締役などを務める。