第3話 門外漢
愛用のソファベッドの感触が恋しくなり、朔夜は手を掻いた。しかしその感触は硬い畳のそれで押し返されて、じんわりと覚醒した意識が急速に現実に結びついていく。
曖昧に像を結ぶ天井。木目の模様が、さながら波紋のようにも目玉のようにも見える。寝ぼけ眼を擦りながら起き上がると、かけていたタオルケットがずり落ちた。開け放った窓から吹き込む涼しい風が、初夏の空気を撹拌して、また抜けていった。一晩中回る扇風機が、飽きもせず首を振っていた。
我が愛しの八畳間1Kアパート。家賃は駐車場代管理費込みで五万五〇〇〇銭貨。この程度のボロ小屋で給料の多くが吹っ飛ぶことを考えるとぼったくりもいいところだが、諸々の条件が程よく合致している物件がここしかないし、朔夜自身特に立身出世に興味がないので、住処など飲み食い就寝する巣穴程度にしか考えておらず、心底どうでもよかった。結婚の予定もないし、彼女もいないから見栄を張っても仕方ない。
彼の愛用の青いソファベッドの上には、一人の少女——月見里琴音が生まれたての子狐のように丸くなって眠っている。妖怪は眠る際は変化を解くらしいが、解いてない。まだそこまで警戒を解くわけにはいかないと思われているのだろう。いち忌術師としては、好ましい反応だなと思った。適度に他人を信用しない。生き抜く上で重要なスキルだ。
時計を見ると時間は八時半。帰ってきたのが三時過ぎで、その後すぐ眠ったので五時間ほど眠った計算になる。
朔夜は襖を開けてそこに置いてある衣装ケースから着替えを取り出すと、畳んでおいていたスーツを掴んでシャワールームに入った。
手早くシャワーを済ませようと朔夜は蛇口を捻って疲れを取るため四十三度の熱めの湯を出し、頭から被る。熱気を孕んだ慈雨が全身を強く叩き、意識が覚醒。若干くまが張っていた顔にも、活力が戻る。
シャワーを浴び終える頃には七割ほど本調子に近づいていた。
タオルで水気を拭って、スラックスとワイシャツに着替えて居間に行くと、琴音が起きていた。
「おはようございます」
「おはよう。眠れたか?」
「おかげさまで……」
「シャワー浴びて来い。……苦手なもんあるか」
状況と文脈、それから朔夜の視線が冷蔵庫に向いていることからその質問が指し示すのが食べ物と察したのだろう。
琴音は「ネギ類とアボガドと、コーヒーの類はダメですね」と言った。「一般的にイヌ科が食べられないものはダメです」と。
「わかった。シャワー出たら、飯にするぞ」
「あ、ありがとうございます」
「いっとくが、当番制だからな。明日はお前がやるんだ。なんでもいい、できないんならレトルトでもカップ麺でも」
「はい……」
若干気おされたように琴音が頷いた。いかん威圧的だったかと朔夜は思い、「悪い、口調が強すぎた。いかんせん一人暮らしだと——」と、そこで自分が言い訳していることに気づき、「なんでもない。悪かった」と言葉を濁した。
とはいえ朔夜も面倒な時は湯煎のカレーで済ませるタイプだ。他人の料理スキルにあれこれケチつけられるほどの男じゃない。
琴音が、昨日星羅から預かってきた他社員——朔夜を除けば唯一の社員だ——のお下がりを手に、風呂場に入る。
その間に冷蔵庫の中身をさっと見た朔夜は、今朝はチャーハンにしようと決めてにんじんとピーマン、椎茸、少し古いチャーシュー、卵を三つを取り出した。それから棚からレンチンのパックご飯を二つ。
野菜と椎茸を素早くみじん切りにして、チャーシューを大きめにカット。それらの野菜をたっぷりのごま油で炒め、、卵を落として米を落とす。木べらでガンガン叩くようにフライパンを振るい、塩胡椒と醤油で味を整えた。
皿にチャーハンを盛り付けていると、琴音がシャワーから上がる音がした。
朔夜はレンゲを乗せた皿を居間のローテーブルに置いて、モニターの電源を入れる。それからアンダーネットデバイスを操作するリモコンを弄り、ネットモフリックスというネット動画配信サービスに繋ぐ。
ニュース配信に接続し、それを流した。
「ということで
「ええ、
八十神玲奈、というシンガーソングライターの特集だ。二年ほど前にメジャーデビュー以来、新曲を出すたびに初週からバカみたいな売り上げを叩き出し、オリジナルランキング一位を取る化け物っぷりを見せつけている。
主に十代から二十代からの人気が高く、毒濁茶という曲も妖術廻戦というテレビアニメの主題歌だというから、尚更だろう。
朔夜は冷蔵庫から持ってきた麦茶の冷水筒からタンブラーに注ぎ、一口飲む。チャーハンにはまだ手を出さない。流石に少女一人待つ甲斐性くらいはある。
しばらくして、ビッグシルエットのストリート感がある、FOXとプリントされた黒地のシャツに、デニムパンツを履いた美琴が出てきた。今時の十代風の服装——なのだろうか。日に日に順調にオジサン化が進む朔夜にはわからない。
それにしても、あいつがこんな服を持ってたのが意外だ——と思う。もう一人の社員は、私服はおろか素性もよく知らないからだ。神社の家系の出、くらいにしか聞いてない。
「すみません、待たせましたか?」
「いや、ニュース見てた。……食べようか」
「はい。……いただきます」
「いただきます」
手を合わせ、いただきます。当たり前だが、誰もが行う食事への——生命への感謝。朔夜はレンゲを取って、チャーハンを掬って食べる。
我ながら悪くない味付けだと思っていた。若干薄味だが、朔夜自身は濃い味付けが好きだ。薄味なのは獣妖怪であろう琴音を慮ってのことである。獣妖怪は嗅覚と味覚が人間よりも獣に寄っているため、強い味付けや香料を苦手とするのだ。
「美味しいです」
「そりゃよかった」
お世辞ではないようだ。琴音の手は止まらず、うまそうにぱくついている。
ベランダに取り付けてある風鈴が鳴る。風流な光景——外が、コンクリートジャングルでさえなければ。
朔夜はフル稼働する扇風機の首振りがこちらに向くたびに涼気を感じつつ、チャーハンを食べ進める。
二人とも無言だった。それは決して重苦しい沈黙というわけではない。お互いに食事に集中しているのだ。
最後の一口を朔夜が飲み込むと、ネットニュースは気になる見出しを表示した。
『昨夜未明、郊外の廃工場で不審火か 青色の火の玉が複数乱舞 怪異事件と見て警察が現場を封鎖』
「瀧河さん、このニュースをどう捉えますか?」
「やんちゃな少年グループの犯行と見るか否かで意見は別れるでしょうが、私は怪異と見ています」
「その理由は、ずばり」
「怪火……まず、特殊な器具や薬品を使わずに青色の炎を生むということは困難です。ガスバーナーを用いたのなら、火の玉という形状にはならず、炎が噴射された状態で目撃されるはずです」
「なるほど確かに。これはつまり、鬼火や狐火の類というわけですね」
「そうですね。具体的な霊気圧などがわからない以上断定は避けますが、私は怪異事件の線が濃いと見ています」
素人が知った風なことを。
朔夜は内心吐き捨てた。
今時のカガクバンノーセツを用いれば狐火なんぞいくらで再現できるだろ、と、それこそ科学を知ったように思いながら、朔夜は茶を乱暴に飲み干す。
忌術師のことを、怪異のことを門外漢に知ったかぶられるのは好きではない。というより、あらゆる専門家はそうだろう。又聞きやらネットやらで聞き齧った程度のやつが、自分こそ万能の知識源! みたいな顔をしてきて寛大な心で受け止める専門家など、そうそういない。受け止めるふりが上手いやつならいそうだが、本心から受け入れるものは、まあいないだろう。
「怪火ですか」
「桜花町郊外の自動車工場跡……箱を隠した場所ってのは、そこじゃないんだな?」
「はい。私の隠し場所は——」
「まて、ここで言うな。相手が相手だ。盗聴でもされてる可能性を考えろ」
「それはさすがに……被害妄想がすぎるんじゃないですか?」
「匿ってもらえて気が緩んだか? スキャンダルを隠そうとする企業はなんでもやるぞ。名目上は皇国——神皇陛下が治められるお膝元だが、今この国で一番力を持つのは神皇でも皇室評議会でも、徳河将軍家率いる軍隊でもない。企業だ。経済市場という戦場を支配する企業が、この国で……ベルガ大陸で最強なんだよ。お前も社会に出れば、いやってほど痛感する」
「そう……ですか。わかりました」
「食洗機に突っ込んで、すぐ行くぞ。時間が惜しい」
朔夜はそう言って、端末の電源を落とすと皿を手にただでさえ狭いキッチンの半分を占有している食洗機にそれを突っ込んだ。琴音も食べ終わった皿をそこにいれ、朔夜に続いて秋雨荘二〇五号室を出た。
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