第2話 取引

 柏崎民間忌術師事務所はしんと静まり返っていた。

 ショートスリーパーの星羅は午前二時半を回ったこの時間でも起きているが、明らかに不機嫌だし、月見里琴音やまなしことねと名乗ったきり黙り込んでいる少女も明らかに訳ありで無言を貫いている。

 針のむしろとはこういう状況を指すためにある言葉なんだろうなと思いながら朔夜は電気ポットからマグカップに湯を注ぎ、インスタントのコーンスープを作ると、その上にチーズを振り掛けてから琴音の前に置いた。


「温まるぞ」

「あ、ありがとうございます」


 琴音はそう言って差し出されたマグカップをスプーンでかき混ぜ、とろけて糸を引くチーズを噛み締めながらスープを啜った。

 一体この子は何者なんだろう。視線だけで星羅を見るが、痩せすぎと言える彼女も肩をすくめるばかりだ。

 一般人ではないことはわかりきっている。問題はその背景だ。


「話せないようなことが理由で助けてくれと言われても、俺も困る。……それに、非合法なことにも手を貸せない。違法忌術師は同じ忌術師に狩られる対象だからな」

「そういうつもりじゃありません……ただ……」

「ただ……? 『私が妖怪だとも気づいていないような忌術師に依頼できることではない』、か?」

「……!」


 琴音がハッと息を呑んだ。

 気づいている——気づかないわけがない。微かに香る妖怪特有の匂いに、獣臭。気づくなという方が無理だ。一般人でも、勘のいいやつなら気づくかもしれない。

 朔夜は棚に置いてある香水瓶を取り出し、プシュ、と琴音の金髪にワンプッシュした。噴霧された消臭液が、少女にふりかけられる。


「失礼だなんて思わないでくれ。妖怪が人間の中で紛れて暮らす際に使う消臭剤だ。エチケットだよ。じゃなきゃ、変なやつに手ぇ出されるぞ」

「すみません……急いでいて、家に忘れてきて」

「いつからあそこにいたの?」


 その質問を投げかけた星羅は、おそらく人払いをした数日前からいたんだろうなというあたりをつけていそうだった。

 案の定琴音は「三日ほど前からです」と答える。


「どうやって飢えと渇きを凌いでた?」

「ビルに残された防災食で……」

「なるほどね。怪異が手を出さなかったのは妖怪の匂いを感じ取ってたからかな」


 だとしたらこの少女の妖怪としての等級は、相当なものと言えるかもしれない。怪異が恐れ慄くほどなのだから、二等級以上は確実。最低でも、一等級クラスだ。


「で、何をやらかしたの」星羅が聞いた。

 琴音は「実は……その……」と、語り始める。


 彼女は訳あって実家を飛び出し、バイトを掛け持ちして一人暮らしをする十八歳だった。今年で十九——高校は卒業しているので、少女というか青年だが、まあそれはいい。

 勤め先の芦川民間忌術師事務所の取引先に、誰もが知る大手優良企業・姫宮堂があるらしく、琴音はその姫宮堂の取引の現場——その護衛に引っ張り出されたという。妖怪としての実力を考慮したんだろうか。

 そこで彼女は、指定された倉庫の裏手で姫宮堂が、表立った取引を隠れ蓑に、明らかに怪しい取引をしているのを目撃。証拠を収めようと、エレフォンで現場を撮影してしまった。それが運の尽きだった。

 それがきっかけで追われる立場になってしまった琴音は命からがら逃げ出し、この燦月市さんげつし桜花町おうかちょうにまで逃げてきたが、追手はすぐそこまで迫っているという。


「えらい話ですね」

「本当なら聞かなきゃよかった案件よね」

「あのっ、どうか助けてもらえませんか! 本当に、死ぬ以外ならなんでもしますから……」

「年頃の娘がなんでも、なんて気安く言わないことだ。変態どもが聞けば今頃風俗送りだぞ、お前」

「っ……」


 それこそ年頃の少女には刺激の強い発言だが、嘘は言ってない。なんならその変態の慰み者になる可能性だってあるのだ。世の中には妖怪にしか興奮できない、正真正銘のど変態もいるのだし。

 朔夜は冷蔵庫からコーヒーボトルを取り出してタンブラーに注ぎ、一気に呷った。目が覚めるような苦味が、思考をクリアにする。


「依頼なら、受ける。お願いなら、お気持ちだけ表明して追い返す」


 星羅は冷たくそう言い放った。


「依頼です。いえ……取引です」琴音は気丈に言った。

「取引?」朔夜が語尾をあげて聞き返す。

「依頼を引き受けていただけるなら、私の妖怪としての労働力を提供します。今後発生する給料から、今回の依頼料を天引きしてください」


 なるほど弁が立つ。妖怪としての力を貸す——なるほど取引として、成り立っている。怪異が恐れるほどの妖怪を人員として確保できる忌術師事務所は、それがある種の一流のラインと言われているからだ。


「お願いします。……死にたくないです。助けてください」


 けれどもそんな打算よりも、最後に漏らしたその言葉の方が、朔夜の心を動かした。

 見過ごせるわけがない。朔夜は視線で、星羅にそう語った。

 彼女は逡巡し、頷く。


「わかった。あなたを雇うわ」

「じゃあ!」

「ええ。給料からしっかり天引きするし、妖怪として働いてもらう。忌術師事務所でバイトしてたならわかるだろうけど、この商売は命の安売りが基本。おまけにうちは人手がないから忙しいわよ。それでもいい?」

「はっきり、ブラックって言えばいいじゃないっすか」

「経営者にそれを言わせないで。——どうする、琴音ちゃん」

「やります! やらせてください!」


 星羅はにっこり笑って、


「じゃあ、取引成立。それで、空閑君は今の話を聞いて、どう?」

「動画を撮影したエレフォンってのが気になりますね。そいつを破棄するなり、いっそ罪を暴いちまうなりすれば追手もくそもない。大企業ならこれ以上のスキャンダルをって感じで、損切りして報復もしないでしょうし」

「お金で解決、って手もあるしね。これ以上はお互いやめましょうね、っていうある種の示談金。このままエレフォンを渡すだけだと目撃者である琴音ちゃんの口封じに打って出る可能性もある。何はともあれエレフォンか……琴音ちゃん、持ってる?」


 首を横に振った琴音は、「私でしか解術できない箱に入れて隠してきました。あれを持ってたらいけない気がして」と答える。

 気持ちはわからないでもない。なんせ大企業の不正取引の現場を撮影したものなのだ。危険な情報を内包した電子機器、そんなものを嬉々として持ち歩く神経は、普通の人間——に紛れて暮らしてきた妖怪——には、当然ない。


「データは削除してもいくらでも復元できると言いますし、信頼できるショップもどこにいけばいいのかわからなくて……」

「妥当な判断だと思う。ひとまずそのエレフォンを回収して、動画内容をチェックしましょう。それからはイリスに相談ですね」

「そうね。あのネットオタクならどうにかしてくれると思う。じゃあ、ひとまず琴音ちゃんは空閑君と行動」

「「えっ」」


 朔夜と琴音の声が重なった。


「社長、それは俺の家にこの子を匿うってことですか?」

「そりゃあそうでしょ。一人にしておいたら危ないし。あなたの家はここから近いし」

「社長の家は」

「私は戦えないし」


 それはそうだ。星羅は非戦闘員。せいぜい、護身術を身につけただけの痩せた女性である。素人に毛が生えたようなものであり、忌術師の襲撃に応戦できる道理はない。

 朔夜は顎を撫でた。琴音は「スミマセン……」と縮こまるようにして萎縮してしまう。


「仕方ない、か。つっても男が一人暮らししてる家だからなあ。デリカシーないとか思っても許してくれよ」

「はい、平気です。……多分」


 若干不安だが、まあいい。朔夜は一応の承諾を得たと見て、今後の方針を話した。


「社長、明日は事務所に寄らずにイリスに会いに行きます。いいですか」

「わかったわ。つなぎはこっちでつけておく」


 星羅はそう言って、長い黒髪をかき上げた。


「これは大仕事よ、空閑君。心してかかりなさい」


 朔夜は力強く頷いた。


「了解」

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