第1話 出会い

 夕方ごろから降り始めた雨は予報に反して勢いを増し、深夜一時を過ぎても降り止む気配はない。すっかり暗くなった夜道を一台のセダンが走り、ヘッドライトが雨粒と闇を切り裂いて通り過ぎていく。

 ワイパーが左右に振れ、フロント越しに運転手が、周りのビルの明かりに照らされて浮かび上がった。

 二十代半ばか後半くらいの青年で、ミディアムヘアを遊ばせている男である。瞳はカラーコンタクトでも入れているのか澄んだウルトラマリンの色を湛えていた。

 左手首には目と同じ色のミサンガをつけ、右腕にはエレウォッチ——エレクトリック・ウォッチと言われる、いわゆるウェアラブルウォッチ端末を巻いていた。

 服装はストレッチ素材の三揃い。彼はドリンクホルダーのカフェラテを掴んで、すっかり氷が溶けたそれをストローで啜る。水が溶け出して、薄くなった味はお世辞にも美味いとは言えないが、飲めるものはこれしかない。

 薄味すぎてカフェインの風味がするだけの水と言っていいそれに舌打ちし、エレフォンホルダーに取り付けたエレフォンが反応したのを見て、通話ボタンを押した。


 青年の名は空閑朔夜くがさくや。柏崎民間忌術師事務所で働いている、『忌術師きじゅつし』である。


 ハンズフリー通話。エレフォンの画面に痩せているが、よく見ればぞっとするほどの美女が映る。

 柏崎星羅かしわざきせいら——朔夜の上司、というか、事務所の社長である。


「空閑君、そっちはどう?」

「現場まで間も無く。社長、本当にここで怪異が見られたんですか? あたりは普通の飲屋街ですよ」

「酔っ払いが見た幻覚って言いたいの? 残念ながら事実よ。すでに二人の怪我人が出てる。そこに屯する不良連中だけどね。証言、現場検証の結果所轄の警察は怪異事件と断定したわ」

「等級は?」

「三。どんなに最悪を想定しても二」


 朔夜は人知れずため息をついていた。


「ま、いいですけど。……現場に人はいないんですね?」

「ええ。人払いは済んでる。廃ビルだからときどき半グレが屯してるっていうけど、そこはもう自己責任でしょう。命を捨てたいやつの尻拭いなんてしてられない。忌術師はあくまで怪異事件の祓葬ばっそうのためにある。

「ごもっとも」


 アクセルを踏み込んで、雨風を切り裂く。

 ナビ通り丁字路を左に曲がると、廃ビルが見えてきた。近くには工事開発現場もあり、曰くここは霧谷禁足地と言われる曰くつきの土地であるという。

 禁足地というのはこの裡辺りへん皇国だけでなく、世界各地に見られる曰くのついた土地だ。

 迷い込んだら出られない、神隠しに遭う、悪霊が棲んでいる——その伝承は様々だが、そこを無理に開発したりすると、祟りが降りかかるのだ。


 この世界には妖力、魔力——総称して霊力と呼ばれる摩訶不思議な力がある。

 その全容は謎に包まれ、生命力とも関わりがあるとされるが、その辺りは未だブラックボックスである。


 何はともあれこの世には人智を超えた力が働き、機能している。それだけは事実で、禁足地とはまさにその好例と言えた。

 そんな禁足地に片足を突っ込むように建てられた廃ビル。そこのテナントの経営が傾くのも然もありなん——という気は、しないでもない。


 車を工事現場の脇に止め、朔夜は雨の中傘もささずに降りた。

 雨滴が髪をつたい、垂れていく。朔夜はまなじりを強くし、ビルを見上げた。

 見上げる五階建てのビルは、不気味に佇んでいる。そこから感じる、いやにねばつく生暖かい空気に、朔夜は唇が乾いていくのを感じた。

 あたりだ。ここには、怪異がいる。

 朔夜は周囲の目を気にする必要はないと知るや、颯爽とビルの周りのフェンスをよじ登り、中に入っていった。

 敷地内は雑草が好き放題生い茂り、打ち捨てられた発電機と投光器が置いてある。解体作業の最中に、ここを放棄したのだろうか。工事の最中に、よからぬことが——下請けの企業が倒産したとか——起きたのだろう。


 ビルの中に入ると、湿気たカビのにおいが充満していた。打ちっぱなしのコンクリートの廊下に、当時のものと思われる段ボールや木製パレットが置かれ、嫌な気配は上の方からしている。

 気配は拡散していない。一点に集中している。おそらく発生した怪異は一体。単独で三、二等級ということはそれなりの怪異と見ていいだろう。

 やれやれだ、と思いながら朔夜は階段を登っていく。


 壁の広告や貼り紙は、最も新しい日付でも二年前のもの。自販機も撤去されずにガワだけ残っているが、当然販売機能なんて働いていないし、よしんば小銭を入れて機能したところで、買う気などわかない。

 やがて、四階のオフィスに入った。

 広々としたそこは、なんらかの金融企業が入っていたらしいと社長から聞いている。随分と悪徳な——まあ、裏の会社だったという。

 それゆえに負の情念が溜め込まれ、怪異が発生した——そう考えられていた。


「よう」


 朔夜は、社長椅子に腰掛けるそいつに声をかけた。

 朽ちたスチール机の、破れてほつれた革張りの椅子に座る大男。上背は、ゆうに二メートルはあるだろう。

 そいつは机に投げ出していた小槌を掴んで、立ち上がった。スーツには金糸であしらった蔦模様の紋様が刻まれ、サイズ的に狐か何かの毛皮のファーを首に巻いている。外から差し込むネオンに照らされた、裏の金融企業のボスに相応しい様相だ。

 顔には、口以外にパーツがない。のっぺらぼうの、金融会社社長。人を騙し、弱みに漬け込む歪んだ強者の面貌が、そこにあった。。

 その口の角が吊り上がり、白い歯を剥いて笑った。


 直後、朔夜は右手で刀印を作り、振った。

 放たれた青色の霊力弾が、怪異の肩口に命中。しかし、びくともしない。


「ちっ」


 嚆矢となった一撃を皮切りに、怪異が小槌で手元の机を殴り飛ばした。

 ぐわん、と机が宙を舞い、飛んでくる。


「ふざけんなよ……!」


 朔夜は横っ飛びに転がって、圧殺されるのを回避。肝を冷やしながらすぐに立ち上がって、霊力属性を切り替えるために右手首を捻る。

 射撃属性ではダメだった。なら、次は散弾だ。

 朔夜は掌に凝縮した霊力を、怪異に向けて放った。数発の弾丸が指向性を持って放たれ、怪異の腹をぶち抜く。

 ぶん殴られたようにたたらを踏んだ怪異が、口を歪めて黒ずんだ、紫色の血を吐いた。


「よし……!」


 効いている。霊力散弾で抵抗力を削っていけばいいわけだ。

 怪異は苦痛を紛らわすように、その怒りを付近の机にぶつけた。またしても飛んできたそれを散弾の霊力弾で弾き飛ばし、朔夜は小槌を持たない左腕側に回り込むように、時計回りに移動しながら霊力散弾を発射。

 ズガン、と音を立てて散弾が怪異の脇腹を穿つ。さらに一発、今度は頭部に叩き込んだ。派手にぐらついた体が、近くの机にぶつかってもつれ、倒れ込んだ。


「安月給で大怪我するわけにはいかねえんだ、とっとと祓われてくれ」


 抵抗力が削がれたと判断した朔夜は、懐から札を取り出して怪異に投げつけた。そして、すかさず両手で印を結んで霊力を注ぎ込み、祓葬を試みる。

 怪異が、わずかに残った抵抗力で足掻いた。だが、朔夜が流し込む霊力には勝てず、全身を震わせ、断末魔を上げて霧散していく。

 ザアッと霧になって消えたそいつに、朔夜は大きな息をついた。


 等級は、三等級といったところだろう。二等級忌術師である朔夜なら、問題になる相手ではないが——こんなものが生まれるということは、この金融会社は相当な恨みを買っていたんだな、と思えた。

 朔夜は静かになった室内で、深呼吸。比較的余裕だったとはいえ、死を覚悟した場面もあった。まさか、机を殴り飛ばしてくるなんて思うわけがない。

 数回大きく呼吸をすると、加速していた心拍も落ち着いてきた——と、


「あ……」


 奥の社員キッチンから、がたりと音がして、少女の声が聞こえた。

 一体何事かと朔夜はそちらへ歩き出す。まさか、迷い込んだ人間がいたのか。

 キッチンに入ると、一人の少女が隅に縮こまり、震えていた。


「ひっ」

「あ、……あー……落ち着いてくれ。俺はおまわりさん……じゃあないが、別にここを根城にする不良ってわけでもない。そんなことする歳でもないしな」


 朔夜は今年で二十七になった。もうそんな遊びをしている年頃ではないし、世間的にも認められない。なにより自分自身で惨めだと思う。


「ええと、つまりなんだ。君を保護し——」

「あなたは……忌術師?」

「……そうだ。君は? どこからきた?」


 少女はわずかに逡巡したのち、意を決したように言った。


「あの、お願いです! 死ぬ以外ならなんでもするので、助けてください!」


 それは、誇りも尊厳もかなぐり捨てた、心からの懇願だった。

 朔夜は唐突なことに虚をつかれ、思わず「あ、ああ、わかった。わかったから落ち着いてくれ」と、そう答えてしまうのだった。

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