2021.10.13 (Wed)
わたしたちは自らの望みによって滅びるのかもしれない話
人類全体がどんどん排他主義になっていった (ただ自分たちが没落しただけのことを別のなにかのせいにしだした) とき、「太陽の円環」の名を与えられたウイルスが現れ、人類の望みを手伝うかのごとく、各々のコミュニティを徹底的に隔絶した。
わたしたちは、となりの国に渡るだけでもかんたんなことではなくなった。ついでにウイルスは人類を絶滅させかねないくらいやる気に満ち溢れていて、こちらの話を聞いてくれるわけでもなかった。
という笑い話。
「『気に食わないから』という理由で他者を排除するものは人に非ず! なぜならわたしがその態度を気に食わないからだ!」というのもだいぶ笑える話である。鏡に向かってこのセリフを吐いているのなら立派にホラーである。
「唯一なる神」をバックに背負っている連中にとって、謙虚になるのはそんなに難しいことなのか。
(もしかしたら、近頃お暴れあそばされているフェミニストどもを見てのつぶやきなのかもしれないけれど、その嫌悪、不快感、憤り……すべてがフェミの攻撃理由そのもので、どこも変わらねーというwww)
信仰はすばらしいものだろうが、この「異教徒は死ねば良い!」みたいな思い込みだけは早々に乗り越えなければならないと思う。
2021.10.13 (Wed)
行うは難し の話
なにか偉そうなことが標榜されているが、「ネトウヨwww」さまのいう「良識」とは、保守的・封建的な価値観からはみ出すようなものではない。
すこし前に池上さんの某番組でタリバンを扱っていた。
そのなかで「良識的な」イスラム社会において、家族以外の前で女性が肌を見せてはいけない理由を「イスラムは女性を大切にする宗教だから、女性を守るために必要」なのだと説明していた。(逆にタリバンは「男性の方が偉い」と考えているから女性を抑圧するのだ、とも)
この「一般的な」イスラムの考え方を否定するつもりはない。
しかし、この宗教的な「思いやり」すらも煩わしく感じるイスラム女性がいるとして、結局、そのコミュニティは宗教と一個人、どちらを尊重するのだろうか。
西洋人のように振る舞うのは「良識」が許さないと思うが、だったら彼女は「悪」なのか? 神は彼女を裁くか?
(一方で、イランの「金持ちの」子女が、大きなスキーリゾートで西洋人そのままの格好で乱痴気騒ぎをしていたのも思い出した)
まあ、それはどうでも良いのだけれど。
誰も彼もが「自由が大事」とか軽々しくのたまっているが、「真の自由」や「本質的な芸術」は、思わず目を逸らしたくなるような不都合さや、怪物的な苦痛を伴って現れることがある。それらは大衆を慰撫するためだけに存在しているわけではないから。
だからわたしたちは、それこそ「自由な」こころで物事を捉えなければならないのだ。そしてそれは決して容易くないのである。
それにしても、ノーベル賞ですら意味があるのかと疑われている時代に、安易な「権威付けゴッコ」(ナントカ賞は経歴に箔をつけるだけ)はほんとうに寒い。
止めてほしいわ。
2021.08.25 (Wed)
「人間に想像力なんてなかったのです!」の話
『仮面ライダーセイバー』、本編完結。
平成シリーズ一期の頃にはあまり聞かれなかったようなキレイゴトが多いなあ、という印象が常に気になった本作。
コメディに振り切ったことで好評な『機界戦隊センカイジャー』と比べると、もしかしたらコロナ禍の状況ではシリアスなドラマは作りづらいのではないか? とも疑っていたのだけれど、クライマックスの展開が熱すぎたので、すべて吹き飛んだ。
(それと、横田真悠さんが本編にも出演してくれたので、それだけでニ十点は加点。MBS ドラマ『ホームルーム』での不良役が神カワイイのだ)
とにかく、最終決戦は皆、観たほうが良い。特に創作をやっている人、まさにフリーノベルゲームを制作しているような人には刺さると思う。
第46話の飛羽真とストリウスの問答は、創作で行き詰まったときに、いつでも観返してほしいレベル。
仮面ライダーシリーズは、序盤で示された方向性が後半に進むに従ってまったく別の道に逸れることに少なくないが、「物語」というキーワードを最後まで維持できたのは良かった。
それにしても、宇宙のはじまりから終わりまでのすべては「全知全能の書」にあらかじめ記されていて、人間は書の内容をなぞっているだけ。だから、実は「人間に想像 / 創造力があるわけではない」という設定は、人類総クリエイター時代の現在を皮肉っているようで、興味深かった。
まあ、『セイバー』のメッセージと、NaGISA のクズ老人に代表されるフリーノベルゲーム・コミュニティのひとたちがいつも語っていることと、冷静に考えるとなにが違うのだ、ともいえるわけだけれども。
平成シリーズ一期の頃にはあまり聞かれなかったようなキレイゴトが多いなあ、という印象が常に気になった本作。
コメディに振り切ったことで好評な『機界戦隊センカイジャー』と比べると、もしかしたらコロナ禍の状況ではシリアスなドラマは作りづらいのではないか? とも疑っていたのだけれど、クライマックスの展開が熱すぎたので、すべて吹き飛んだ。
(それと、横田真悠さんが本編にも出演してくれたので、それだけでニ十点は加点。MBS ドラマ『ホームルーム』での不良役が神カワイイのだ)
とにかく、最終決戦は皆、観たほうが良い。特に創作をやっている人、まさにフリーノベルゲームを制作しているような人には刺さると思う。
第46話の飛羽真とストリウスの問答は、創作で行き詰まったときに、いつでも観返してほしいレベル。
仮面ライダーシリーズは、序盤で示された方向性が後半に進むに従ってまったく別の道に逸れることに少なくないが、「物語」というキーワードを最後まで維持できたのは良かった。
それにしても、宇宙のはじまりから終わりまでのすべては「全知全能の書」にあらかじめ記されていて、人間は書の内容をなぞっているだけ。だから、実は「人間に想像 / 創造力があるわけではない」という設定は、人類総クリエイター時代の現在を皮肉っているようで、興味深かった。
まあ、『セイバー』のメッセージと、NaGISA のクズ老人に代表されるフリーノベルゲーム・コミュニティのひとたちがいつも語っていることと、冷静に考えるとなにが違うのだ、ともいえるわけだけれども。
2021.08.20 (Fri)
android ユーザーによるアプリゲームについて の話
だれもフリーノベルゲームについて述べていない。
個人制作のノベルゲーム作品でも、商業ゲームに近づけた証としてか「全シナリオ読了まで十時間以上!」を謳ったりすることがあるが、たしかにこのプレイ時間は「ハイコスト」である。
SNS 上では数十秒の動画が大流行り。YouTube の動画で十分程度ではあっても、テンポを極限まで切り詰めて先鋭化している。
この高い瞬発性に慣れてしまって、100 分の映画はおろか三十分のアニメ・ドラマですら冗長に感じる一般人からしてみれば、超長編ノベルゲームなど拷問に等しいだろう。(つまらない日常描写が多ければ多いほど、なおのこと)
このような時流と併せて考えてみると、商業ノベルゲームはもう娯楽として成立しないね廃れちゃうね当然、というのは、なるほど得心がいく。
……のだが、このクズ老人、世間知らずが過ぎるのか、この短い tweet になにが書かれているのかさえ理解できないから、主観的・脳内俺ワールドにむりやり変換して「フリーノベルゲームアゲ」しているのだから、ほんと怖いんですけど。
いうなれば「超主観話法」。いいねしている連中も文盲なの?
廃れるといえば。
android ユーザーのわたくし、スマートフォンでゲームを遊びたいとなると「Google Play ストア」を頼るわけだが。
最近、「基本無料アプリゲーム」でおすすめの大半を占めるのはいわゆる「大陸」系、つまり韓国・台湾・中国のデベロッパが提供するゲームばかりなのだ。
(以下、それこそゲームについているレビューを大量に読んだ上で推測した私見であることを断っておく)
そしてその「大陸系」、どうやら「ゲームを売っている」わけではないようである。
つまりは「集金装置」というか、美麗なヴィジュアルや日本の人気声優さんたちを出演させることにすこしだけ力を入れて、開発費プラスアルファを稼ぎきったら、早々とサービス終了に向かう……というタイトルもなくはないらしい。
そこまで露骨な売り逃げではなくても、基本は「Pay to Win」、課金しなければゲームとして成立しないことがままあるそうである。
(あるいは「おま国」と呼ばれる待遇、大陸版と比べて日本語版のゲームバランス・ガチャバランスが厳しく調整されることも多いとのこと)
そしてなにより恐ろしいのが、「そんな大陸系ゲームでも、国内デベロッパ産のアプリゲームよりかは、まだマシな出来」とレビューされてしまう現状である。
このままいくと、基本無料アプリゲームの市場も、遠からず閉じていくことになるかもしれない。
それにしても、ストアのレビューを読むのはおもしろい。もちろん、呪詛めいた罵詈雑言も多いが、そのように書き込まなければ浮かばれない思いがあるのだろうと考えると、ちょっとだけ他人さまの気持ちが理解できるような気がするからである。
ただ、実際に DL してみようという意欲は殺がれるけれど。
2021.08.20 (Fri)
「君とぼくでセカイ系」から「我思う。故にセカイあり」になった現代 の話
「感想 / レビュー / 批評」にもいちおう定義があったのだな。
わたしも、特に詳しく調べようとせず、ぼんやりと大別していただけなので、そこは反省。
しかし、それにしても客観ベースの批評は「だれかを不快にさせる・傷つける」かもしれないが、主観ベースのレビューなら「大丈夫」というのは、やはり不可解である。
つまりこれが「概念『社会』が消失した現代」なのだろうか。
思い返せば、平成にはすでに「電車内でも平気でメイクをする女性」のような、旧来的にパブリックとされていた場の意味が弱まり、まるで自宅の部屋のようなプライベート空間として置き換えられる、一種の逆転現象はあった。その変化が令和の大インターネット時代になって決定的に完成したのか。
2000 年代のはじめでは、まだインターネット世界は「セカンド・ライフ」と呼ばれ、いちおうは現実社会の副次的な存在とされていた。「学校・職場ではパッとしない自分でも、ネットの世界では人気者になれました!」というような扱いで、「リアル / ネット」の二面性はあれど、あくまで「軸」は現実社会にあった。
それから二十年を経て、概念「社会」は消失し、仮想・下位と呼ばれていたインターネット上のプラットフォームだけが現実になったのであろうか。
(そう考えると「迷惑行為動画」などはまさに、撮影者にとっては動画のなかで表されているものが「リアル」であって、ファースト・ライフのほうはただの舞台装置、裏に回れば書き割りやハリボテ程度の現実感しかないのだろう。ある意味で「旧来的な価値観に囚われていない」のである)
そのような時世にあって、市井の人々は自分の信じたいもの・心地良いものを追求し (自分らしさ)、その対極にあるものは容赦なく廃絶し (ハラスメント)、それこそが正しいのだと疑わなくなった。
しかもそれは「わたしが信じたいものに合わせて (巷に溢れる) エビデンスをビュッフェ風に取捨選択・カスタマイズする」という、いわゆる理論武装のレベルではない。
むしろ、「わたしはこう信じる。その (わたしの) ためにこのエビデンスは存在している」とすらいえるのだろう。主観がすべての客観的根拠を超えるのである。
そして、その「超主観」を持つ人間が多数を占める環境では、「わたしはこう思う!」よりも「客観的な見地から申しますと……」のほうが不誠実に受け止められるのかもしれない。まるで、文明人が未開の地の呪術を見るまなざしのようなものだ。
だが、それは例えばタリバンが「イスラム女性に人権なし (宗教法は文化的進歩に勝る) 」と宣言したのと、どこが違うのであろうか。
なんとも寒々しい……という感覚すらも飲み込んでいく、わたしたちの新たな現実である。
2021.08.19 (Thu)
自分だけは自由で健全なつもりなのだものなあ
なぜか皆、「多様性、多様性」と気軽に口にするけれど。
おそらく、「みんなが好きなものを (外部から差別や排除なく) できるだけ多く平等に寄り集めたもの」をイメージして「多様性」と呼ぶのだろうけれど。
実際に多様性を担保したいのなら、「自分が最も嫌い、憎むもの」あるいは「社会的に悪とされているもの」までもを含めて、各々が受け入れないといけないわけである。
それこそ上記 tweet にある「わたしは (他人さまの) 性癖全開の作品を好まないがその作品が存在することを認める」、もっといえば「フリーゲームはこうあるべきものだ、という相手の意見を認める」のが多様性の第一歩ではないのか。
仮に、これらを「誰かを不快にさせるから」「意見の押し付けだから」という理由で排除するのなら、それはただの検閲である。
申し訳ないが、わたしには NaGISA の頑固じじいや情緒が女々しい制作者たちに、多様性なんて獲得できるとは思えない。
というか、そもそも個人の「こうあるべき論」の、なにがいけないのだっけ?
2021.08.19 (Thu)
むしろ、主観しかない
若者が公衆電話で連絡を取り合っていた時代ならともかく、この情報社会において、自分の読みたいもの・読むべきものを自力で見つけられないヤツは、なにをいくら読んでも無駄である。
「レビューwww」を読んでからはもちろん、だれかが提示したリストから作品をピックするだけでも、それは結局「体験のアウトソーシング」、その確認作業でしかない。
もちろん、現実には詳しい他人さまからの教えを請うことは大事だが、他人に頼りすぎる人間は、別の趣味を持ったほうが良い。
つまり、クズ老人のやっていることは、純朴なマヌケにツボを売りつけるようなものなのである。
それに、そもそも嗜好の細分化と個人の孤立化が進んだこの時世に、ある作品を不特定多数にリーチするように伝搬するというのは、時代と噛み合っていないのではないか。
確かに、YouTube や SNS ではより多く人を集められたものが強者であるが、フリーノベルゲームにおいてはその限りではない。
瞬間的なバズよりも、数百年後の時代であっても読む意味があるかどうかが物語の真価なのだから。
逆をいえば、たったひとりの胸に響きさえすれば、どんな駄作であってもそれだけで浮かばれるというものであろう。
2021.08.18 (Wed)
自分の運命に立ち向かうことと、他人を蔑ろにすることは別物である
インターネットの登場による次世代メディアの台頭(特に情報伝達のスピードの高速化)、あるいはかれこれ数十年にも渡る日本国の経済的不振によって、マスメディアは売上を大きく落とし、「貧すれば鈍す」、カネがなければ力も感度も衰えるのが人の世の常。
というわけでこんにち令和、新聞やテレビ、出版、音楽等々、旧来的なマスメディアは軒並み瀕死状態になったとさ。
一方、上記 tweet のクズ老人、旧来マスメディア (の特にテレビ?) を憎みすぎるあまり、情報源にいまいち乏しいのか、現実に対する認識が世間から見るからにズレまくり、多分に偏向している始末。
それにしても、東京五輪に関する発言には腹が立った。
COVID-19 の蔓延という未曾有の危機にあって、大規模な国際イベントの開催を中止することは、感情的にも合理的にいっても、当然の帰結ではないか。
五輪をなにがなんでも開催しなければならない理由はない。違約金についてどれだけ脅されようが、さっさと中止を決断して、五輪に割かれていたすべてのリソースを感染症対策に回す道はあったし、それが政治の役目なのではないか。
それを、開催中まで反対というのは「自分が気にいらないものは排除しないと気が済まないのか?」とは。
要するに、「単なる個人的な好みや思い込みで (天下国家が取り決めたイベントに) 反対しているのだろうおまえら」と言っているわけである。これは (イデオロギーの対立うんぬん以前に) あまりにも他人さまを馬鹿にしているではないか。
国民の生命(つまりは、クズ老人やそのかかあや田舎のばばあ)よりも、五輪の盛り上がりのほうが大事というのは (おのれのナショナリズムをひとときでも慰撫したかったのかは知らないが) どう考えても狂っている。ホームレスを見殺しにするのとは桁が違う。
それなら、クズ老人のいう「立派な考えの中学生」とやらが「世界中でたくさん COVID-19 で人が亡くなっているのに、五輪を開催していいの?」と罪悪感に苛まれたとして、クズ老人はどう声をかけるのか。「風邪と大差ないから問題ない」とでも言うのか。そんなごまかしでこどもが騙せるか。
まあ、ホッカイドウと呼ばれるあの島が、地球外のどこか他所の惑星に存在しているのだとしたら、話は別だが。
(それにしても、実際はすでに大した力も残っていない連中に対して、「あいつらは国民を騙している! すべて嘘! 危険だ!」と喚くのは、結局のところ、旧来マスメディアの持つ権威性をネガティブな方向に過大評価しているだけなのではないか、と思えてくる。
ここまでくると QAnon めいた陰謀論である)
そしてなによりクズ老人が気色悪いのは、「マスメディアよりも国家権力のほうがよほど多くの (あるいは暴力的な) 嘘を吐く」ことを完全に無視しているところだ。
確かに、日本の野党はもはやゾンビだし、わたしも民主党の分党騒ぎのときは「いや、いっぺん解党して全員いちから出直せよ。ぬるいんだよ」と思ったが、政権与党も大概だぞ、という。
思うにクズ老人、「キリスト教においては神さまがすべて正しい」ように、現実の巨大な権威・権力 (唯一神は信仰においての絶対権力) もまたすべて正しいと盲信しているのではないか。
山口県下関は自民党大国なのだそうだが、それを差し引いても、ちょっと異常である。(個人的に、政治勢力にそこまで肩入れする感覚が理解できないのだが)
とはいえ、わたしは信仰を持つ人がクズ老人のように頭脳がマヌケだとは思わない。
著名な学者や作家がすべて無神論者なのかといえばそんなわけはないし、信仰と客観的・科学的態度は両立する。
つまりは、クズ老人がただ幼稚なのである。
それなwww
これが自戒のことばなら、尊敬もできるのに。
志茂田もとんちんかんなこと言ってたそうで、類友ですか? という。
2021.08.17 (Tue)
だからなに?
物書きの最大の才能とは、「にんげん」を的確に捉えるその感性なのだと思う。
自分自身や他人、異性、年齢や立場の異なる人、聖なる人、悪しき人、この世界に生きる様々な人々の内にある、習慣や常識のベールの奥に隠された「にんげん」を掴めなければ、言語や時代を超えて、読み継がれる作品を生み出せないだろう。
一方、NaGISA のクズ老人、個人的な悩みはたくさんあったのだろうけれど、「にんげん」について真剣に考えたり、悩んだりしたことがないように見える。
だからことばが軽く薄っぺらいのだ。
彼にとって人間とは、自分の頭のなかにあらかじめ築かれた世界に配置され、役割が永遠に固定されている登場人物のように映っているのではないか。つまり、そこあるはずの「にんげん」を感じられていないのだ。
だから一面的なすがただけを見て「あれは駄目。これは善い」とかんたんに仕分けをする。したり顔で小学生にも通用しない論を説く。
そもそも、自分がどれだけ人間についての理解があるのか考えたこともないのだろう。自分の無知が恐ろしくなることもないのか。
もちろん、例えば故郷で家業を継ぎ、「お商売をがんばるぞ!」と一生懸命な人に「にんげん」がどうなどはまったく意味のない話かもしれない。
しかし、一応「他人さまになにかを伝えたい」と努力している人物が、こんなに浅はかで良いのか。
浅はかなのに自信ばかり身につけて、その空虚なことばにまた引っかかる人もいる。
地獄か。
ちなみに「感動をありがとう!」現象もきちんと学問で説明できるらしいよ。難しすぎてわたしには良くわからないけれど。
2021.08.17 (Tue)
時代に的確に順応できるのも大きな才能である
ある人が言っていた。
この令和は公私でいう「公」の部分、すなわち「社会」が消失した時代になった、と。
しかし、平成の世を長く生きてしまった、あたまの固いおいぼれのわたしには、概念「社会」が消失したとはどういうことなのか、まったくイメージができないでいる。
しかし、このクズ老人が良く言うフリーノベルゲームに関するあれこれ、あるいは、例えば特撮ファンの集まりの場でたまに目にする、上記 tweet のような否定的意見を否定する「みんなちがって、みんないい」的な振る舞いこそが消失の証左なのではないかと感じた。
つまり、「公・社会」というコミュニティを構成する人間それぞれをつなぐ共通認識としての「軸」が消失すれば、客観的な「評価」も同時に失われ、後に残るのは主観的な「個人の感想」だけになる。
もちろん、作品の出来の良し悪しといった客観的評価は厳格に残酷に存在するわけだが、それを受け取る「社会」を失った人間には、まるで宇宙人の言語のように理解不能なのだ。
こう考えると、クズ老人が「すべてのフリーノベルゲームは尊く『評価不可能』なのだ!」と口走ったことや、プレイヤーがどれだけ客観的なエビデンスを積み上げ、細心の注意とともに示したとしても、制作者に意味もわからずキレられることがある、このどうにも埋めようもないすれ違いのことがすこしは理解できるようにならないだろうか。
そして、評価が消え感想しか存在しない世のなかになって、皆さんのいう「多様性www」が担保されるかといえば、実際は「わたし / その他」にすべてが分断され、「敵 / 味方」の単純化によって憎しみ合うだけの皮肉。
怖い時代である。ポジティブな発言以外は黙殺するべきとは。
それにしても「ド田舎北海道とパートナーとイエスさん」が世界を占める総てであろうクズ老人には難しすぎて理解できないのだろうが、一生に一度あるかないかの大イベント……それなのに準備段階から常にゴタゴタ。開催日が近づいてもグダグダ。東京はアツスギル。あれだけがんばったのに結局、会場のどこにも観客のすがたはない。そしてなによりコロナがどこかに行ってくれるわけでもない難重苦の状況にあって、どうにもやりきれず乗りきれない……と感じる人がいても、どこもおかしくない。
そしてもっといえば、開会式に端を発するいくつかの「やらかし」にかこつけて関係者数名を社会的に抹殺したくせに、そんなことはケロッと忘れて「金メダル感動しました!」とか五輪を大いに満喫しているヤツがいるとしたら、そいつのほうが不貞腐れている人の万倍は狂っている。
2021.08.17 (Tue)
地獄に堕ちろクズ
これが曲がりなりにも福祉・医療に携わっていた人間の発言なのかと戦慄する。
確かに、事前に叩き潰すこともできず、開催直前になって言い訳がましくデモを行っていたのを目にしたときは情けない限りだったが、当然、東京五輪は中止すべきだった。
コロナ対策とのニ本柱が無理ゲーであることは「小学生でも」理解できる。そして全力で取り組むなら感染症のほうだろう。
コロナ禍と呼ばれる時代のなかで。
我らが日本国の首都・東京はすでに、明らか生命の危機に瀕するレベルの COVID-19 の重症患者しかほぼ入院できなくなっている。
(つまり事実上の「コネなしの貧乏人は死ね」)
さらに専門家曰く、「症状の軽かった人のほうが後に長い後遺症に苦しむ場合がある。だから若い人も慢心せず最大限に注意してね」だそうだが、それならいくらワクチンで (一時的に) 症状を抑えられたとしても、それだけではまったく「安全安心」とはいえないではないか、という。
(そもそもワクチンの副作用が遠因で亡くなっている方は必ずいる。しかし、そうなっても「明確なエビデンスがない」という理由で、うやむやにされる運命にある)
だいたいが、「五輪関係者のなかにラムダ株保有者がいたわー、ゴメンネ☆」というごまかしを厚生労働省がやっているのだぞ。
このような破廉恥野郎にメンタリストさんを諌める資格はない。おまえの発想はさらに上の「人殺しの理屈」である。
上記に示した現実社会の諸々を無視したうえで、権力に飼われた老チワワのごとくズレまくった「良識www」を吠えたてる「この人でなしこそが真っ先に死ぬべき」だとわたしは強く感じるわけだが、どうか。
2021.04.23 (Fri)
ここまでの『ショート・ショート・ショート100』
ここまでの『ショート・ショート・ショート100』は。第二十四話。
「報告書 SSS100」。
やっとまともなホラー作品が登場して嬉しい。
ただ、そもそもこれは『ショート・ショート・ショート 100』のなかの一篇であり、しかも素直にあたまから読み進めている人は、すでに 80 ものエピソードを体験済みなわけです。
つまり、例えこのエピソードのなかでどのような「現象」が起ころうとも、それは演出以外の何物でもないと誰でも直感するわけで。
いうなれば「タネがわかりきった手品」「犯人を知っているミステリ」とこのエピソードはおなじであって、まあ、怖がりの面ではほとんど効果がなかったというか。残念。
これがもし、ゲーム内要素のアンロック演出として登場していたら、まだ面白かったのかもしれませんが、そういう気が利くものでもありませんね。
「最高の蛇足」。
「あとがき」を題材にして小咄を書くのがショート・ショートであって、ただ持論を会話形式に置き換えて垂れ流しても面白くもなんともないだろうと思って、著者を見てみると……という。
かみさまはいじわるだね、才能の割り振りにおいては。
「報告書 SSS100」。
やっとまともなホラー作品が登場して嬉しい。
ただ、そもそもこれは『ショート・ショート・ショート 100』のなかの一篇であり、しかも素直にあたまから読み進めている人は、すでに 80 ものエピソードを体験済みなわけです。
つまり、例えこのエピソードのなかでどのような「現象」が起ころうとも、それは演出以外の何物でもないと誰でも直感するわけで。
いうなれば「タネがわかりきった手品」「犯人を知っているミステリ」とこのエピソードはおなじであって、まあ、怖がりの面ではほとんど効果がなかったというか。残念。
これがもし、ゲーム内要素のアンロック演出として登場していたら、まだ面白かったのかもしれませんが、そういう気が利くものでもありませんね。
「最高の蛇足」。
「あとがき」を題材にして小咄を書くのがショート・ショートであって、ただ持論を会話形式に置き換えて垂れ流しても面白くもなんともないだろうと思って、著者を見てみると……という。
かみさまはいじわるだね、才能の割り振りにおいては。
2021.04.23 (Fri)
ショート・ショート・ショート100 百日行 #82
082 「最高の蛇足」 17/20
物語とは、時代を語り得る言語である。
そして、その言語が後世に伝わるほどの普遍性を持つかどうかは、またひとつ上のステージでの話である。
しかし人間、短い一生のなかでなかなかあたまのなかが変わるわけもなく、それゆえに、自らの初期衝動が普遍性を持つのだと勘違いしてしまうのかもしれない。
それで、十年も二十年も前の作品をリメイクしてみたりするのだろう。傍からすれば、未来がないようにも見える。
蛇足に「良いもの」などない。
というようなことを、自分なりにわかりやすく噛み砕いて伝えると、母は嫌な顔をした。
そのアニメつまらないよ、と暗に言っているからだろうか。
原作『ショート・ショート・ショート100』 (斧度:★☆☆)
2021.04.14 (Wed)
ショート・ショート・ショート100 百日行 #81
081 「報告書 SSS100」 17/20
わたしは<時間を止められる>ようになった。
正確には<反転して未来から飛んできた時間の矢>を掴まえられれば、そこで時間は静止する。
これはわたしの感覚としてのもので、他人からは絶対に観測できないだろうが、体験的事実として<時は止まる>。
そして、ここが重要なのだが、静止状態から解放された時間の矢には、ある種の加速が見られた。
数分程度では勘違いに近いくらいの微々たるものだったが、仮に何日か、いや一週間ほど矢を掴まえ続けられるのなら、そこでなんらかのブレイクスルーが起こせるかもしれない。
まったく、自分ごとながら、なんて研究のしがいがあるのだろう。
友人からは気が狂ったと思われているかもしれないが。
原作『ショート・ショート・ショート100』 (斧度:★★☆)
2021.03.26 (Fri)
ここまでの『ショート・ショート・ショート100』
ここまでの『ショート・ショート・ショート100』は。第二十三話。
「勇者の力」。
「独りで悩まないで周りに相談してみれば、案外、上手くいくかもしれないよ」という教訓か、いかにもゲーム的な用語をこれでもかと散りばめて笑いを誘いたかったのか、いまいち良くわかりませんが。
あるいは勇気の話か。
「生とは」。
タイトルだけ見たとき、「これは『せい』なのか『なま』なのか」と感じたけれど、どちらの意味でもあったという。
まあ、それは置いておいて。
海外のドラマや映画の軽妙な会話がなぜ面白いのかといえば、それはわたしたちの日常会話がほとんどつまらないからであり。
ということを再認識させてくれたエピソードでした。
もうすこし長くて丁寧に書いてあれば、また印象が異なるかもしれない。
「勇者の力」。
「独りで悩まないで周りに相談してみれば、案外、上手くいくかもしれないよ」という教訓か、いかにもゲーム的な用語をこれでもかと散りばめて笑いを誘いたかったのか、いまいち良くわかりませんが。
あるいは勇気の話か。
「生とは」。
タイトルだけ見たとき、「これは『せい』なのか『なま』なのか」と感じたけれど、どちらの意味でもあったという。
まあ、それは置いておいて。
海外のドラマや映画の軽妙な会話がなぜ面白いのかといえば、それはわたしたちの日常会話がほとんどつまらないからであり。
ということを再認識させてくれたエピソードでした。
もうすこし長くて丁寧に書いてあれば、また印象が異なるかもしれない。
2021.03.26 (Fri)
ショート・ショート・ショート100 百日行 #80
080 「生とは」 16/20
例えば、母親しかいないわたしと両親とも揃っているクラスメイトでは、住む世界が違う。
僻みでもなんでもなく、そう思う。
特に、母の新しい恋人をどうしても好きになれないわたしは、「思春期を過ぎて、いまでは仲良し父娘」のような美談も、まったく現実味がなかった。
大人とは、ただ居心地が悪いだけの人たち。
するといつのまにか、自分と似たような境遇の子ばかりが周りに増えていった。
そうやって、わたしのちっぽけな運命が、コンクリートのように固められ身動きが取れなくなるかのようだった。
小さな世界、とはいうが、横たわる隔たりの溝は深い。
原作『ショート・ショート・ショート100』 (斧度:★☆☆)
2021.03.10 (Wed)
ショート・ショート・ショート100 百日行 #79
079 「勇者の力」 16/20
海を越え空を越え、社会は互いに結びつき、世界の密度はつやつやと光る砂団子のようにギュッと高まった。
すると次第に、人々の息は浅くなり、その心は細切れの孤独に投げ込まれた。
そこにヒーローはいない。
ヒーローとは、ある共同体の利益のために、最大限その身を捧げる人のことだから。
ひとつになった世界のなかで、帰属意識もすっかり薄らぎ、ただ生きるままに生きているわたしたちには、もうヒーローのかたちを思い描くことすらできない。
ヒーローの不在とは、ただわたしたちがなにかを失ったことの証明でしかなかった。
変わったといえば、それだけなのだ。
原作『ショート・ショート・ショート100』 (斧度:★☆☆)
2021.02.26 (Fri)
ここまでの『ショート・ショート・ショート100』
ここまでの『ショート・ショート・ショート100』は。第二十二話。
「最下の頂点」。
どうしても「首絞め合うも多生の縁」(#21) との対比を思ってしまった。
いきなりマジックが好きとか言い出したり演説ぶったり、唐突にも感じるけれど、このエピソードはカードゲームの「大富豪 / 大貧民」から着想・発展したのだな、と理解できれば、なんとなく納得。ルールを知らない人にとっては良くわからない部分もあるが。
でも、7 のフォーカードとエピソードナンバーとが合わされば、ラッキーが二倍でおめでたいですね。
「君だけの物語」。
最近「マス (大衆) ではなく個に向けて書け」とわたしも考えていたので、なぜか共感。
もちろん、おはなしそのものには、予定調和を逸脱しないつまらなさが大ではあるけれど。
このエピソードが百篇目なら、最も美しかった気がしますね。
「最下の頂点」。
どうしても「首絞め合うも多生の縁」(#21) との対比を思ってしまった。
いきなりマジックが好きとか言い出したり演説ぶったり、唐突にも感じるけれど、このエピソードはカードゲームの「大富豪 / 大貧民」から着想・発展したのだな、と理解できれば、なんとなく納得。ルールを知らない人にとっては良くわからない部分もあるが。
でも、7 のフォーカードとエピソードナンバーとが合わされば、ラッキーが二倍でおめでたいですね。
「君だけの物語」。
最近「マス (大衆) ではなく個に向けて書け」とわたしも考えていたので、なぜか共感。
もちろん、おはなしそのものには、予定調和を逸脱しないつまらなさが大ではあるけれど。
このエピソードが百篇目なら、最も美しかった気がしますね。
2021.02.26 (Fri)
ショート・ショート・ショート100 百日行 #78
078 「君だけの物語」 16/20
売春は、最も古い職業だという。
セックスは生物の根源だし、人間だれにでもできる行為だ。
だれにでも、とは、それを売るしかどうにも転がらない人間がいつの世にも存在している、ということでもある。
しかし現代。
わたしたちは、自分の人格や生活までもを売らなければならなくなった。
インターネットや SNS が発展し世に広く浸透したおかげで、人類すべてが情報を発信できるようにはなった。
そうやって有名になったり、大金を稼いだり、あるいは自分の出自をロンダリングしたりすることを羨ましがるように、わたしたちは誘導されているかのようだ。どこかのだれかの見えざる手によって。
わたしにとっては、古い商売一等賞よりも、そちらのほうがよほど悲しい。
人間、性を売ることを、それも仕事だと誇ることはできる。けれど、自分そのものを資源として消費する世の有様を、どう納得すれば良いのか。
だから、わたしは透明人間のように生きることにした。
自らをブランディングし、高く売りつけることに熱狂している社会に抗うには、すがたが見えないかのように振る舞うしかない。
これがわたしの目標。
原作『ショート・ショート・ショート100』 (斧度:★★★)
2021.02.17 (Wed)
ショート・ショート・ショート100 百日行 #77
077 「最下の頂点」 16/20
戦後日本の学校教育とは結局、市場経済という戦場に動員する兵隊を育成しているだけのことだった。
障害者や飛び抜けて特異な才能の持ち主があきらか、学校に居場所がないのも当然だ。
教育の場で望まれる人間像とは、多様性や独自性など持たない、ただ自己実現という名で偽られた奴隷的奉仕を疑問もなく行える者なのだから。
わたしたちは錆びつきガタがきた社会と呼ばれる複雑な機構の時計を動かすための細かい部品。繊細で精密ではあるが、尊ばれ労われることはない。
が、しかし。こんなものはわたしに一切、関係のない話だった。
いま、わたしは身を隠そうとしている真っ最中。
原因は、男を盗った盗らないという、あまりにもありふれていて、それでいて当人はどこまでも忘れずに追いかけてくる、メンドくさいアレ。
しかも、いいがかりのとばっちり。これも良くあるー。キスすらしてないー。
男の愛情を奪い合って殺し合いまでするのが女という生き物なのだろうが、一ミリも興味がない男のために、わけわからんネットニュースでなまえとブスな写真を晒されるのはゴメンだ。
そうだ、このまま東京まで逃げてアイドルになろう。ちやほやされて楽に稼ごう。
嗚呼、学校辞めて良かった。
原作『ショート・ショート・ショート100』 (斧度:★★☆)