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神風ライダー(伝説のジョッキー列伝)

 
  神風ライダー
~伝説のジョッキー列伝~


ここは世界中に実在した伝説の騎手たちの記録を記したアーカイヴスです。
続々と更新・追加予定。ごゆっくりとご覧ください。
 

〜騎手になるためには?〜

騎手になるためには、騎手免許の試験に合格する必要がある。

騎手免許の試験を受けるには、競馬学校の騎手過程に入学して勉強しなければならない。

その騎手過程の入学条件は、中学卒業以上で、「20歳以下(地方競馬)」あるいは「20歳未満(中央競馬)」となっている。

しかし、18歳以上の合格者はほとんどいない。

実際、高校の卒業を待って入学試験を受けるのでは遅いといわれている。

できれば、15歳か、16歳、遅くとも17歳までに競馬学校の入学試験を受けなければ、騎手になるのは難しい。

ただし、競馬学校に入学できなくても、厩舎に就職し、調教や騎乗を習い、騎手免許試験を受けるという方法はあるが、

競馬関係の法律や馬に関する学問まで独学で勉強するのはかなり苦難を極める。

競馬学校は、中央競馬と地方競馬のそれぞれに設置されている。

中央競馬が「JRA競馬学校(千葉県白井市)」で、

地方競馬が「地方競馬教養センター(栃木県那須塩原町)」

JRA競馬学校は3年間、地方競馬教養センターは2年間通うことになる。

入試倍率は、どちらも10倍前後と狭き門。JRA競馬学校に合格する方が難しいといわれている。

 

《騎手になるための基本的条件》

年齢・学歴は中学卒業以上で20歳未満。
視力は裸眼左右0.8以上(眼鏡、コンタクトレンズの使用は不可)。
体重は46.5キロ〜44キロ以下(生年月日により異なる)。
これらの条件を満たした者だけが競馬学校騎手課程に入学できる。
騎手課程在籍期間中は年齢区分毎に上限体重が指定され、

いかなる理由であっても、この体重を超過することは認められていない。

なお、卒業時の上限体重(指定体重)は、全生徒一律47.5kgとなっている。

 


〝古代ローマの神騎手〟
●ディオクレス
ディオクレスは、イベリア半島生まれ。
24年間で4257回にも渡り戦車競走の御者として出走。優勝2900回、2着861回、3着576回、受賞4着1回、着外1351回、重賞競走92勝。
上記の成績を上げ、9頭を100勝馬へと導いた。


〝真のモンキー乗り〟
●サリー
三重県伊勢市有滝町にある、伊勢乗馬センターで飼われている猿の騎手。
当センターを管理する橋爪軍児氏の手で育てられた猿で、ほかにもキューピー、ハッピーと2頭の猿もいるという。


 

〝ロボライダー〟
●エレクトリック・ジョッキー

米国はデビット・クマエ氏の発案品。特許も取得されたという。
遠隔操作を可能とし、本当に馬を操作する事も可能。
実際にレースでも使用され、票を投じられた事もあった。
作成したのはテネシー州のチャールズ・マクヴィノム氏。



〝世界最古の
  シマウマライダー〟

ロスチャイルド男爵

 
ヴィクトリア朝時代の高貴で、類まれなる技術を持っていたという。その技巧はシマウマすら掌握するほどだった。4頭のシマウマを手玉に取り、バッキンガム宮殿へ貨車を引かせて参上したという逸話も残されている。
シマウマで競馬もしたらしいが、公的記録として残されておらず、どんな競走記録だったのかは定かではない。また、その4頭のレーシング・ストライプたちがその後どんな経緯を辿ったかについても不明である。

 

🔵髭もじゃのサンタクロースのような騎手

サミュエル・クラックネル (1847 – 1933) 

サミュエル・クラックネル騎手は1847年、11人兄弟の7男として英国ノーフォークに生を受ける。

生後4ヶ月の時に家族と一緒にオーストラリアのアデレードへ移り、この豪州の地で騎手を務めることとなる。

サムは非常に小柄な男で、身長は約147cm(4フィート10インチ)、脹脛(ふくらはぎ)は約15cm(6インチ)しかなかった。

サムは常に赤い髪を伸ばし、シャツの第二ボタンまで長い髭を生やしていた。

ある新聞報道では次のように綴っている。

…「ウイニングポストを通過するとき、彼の真っ赤なひげが風になびく姿は忘れられない光景です」

サムは冗談で「髭の差で勝ったよ」と言うことも多々あったという。

鎌倉時代の不敗騎手
  こますけのぶ
狛助信
鎌倉時代の説話集。橘成季(たちばなのなりすえ)編。1254年(建長6)成立。20巻。
その巻の15・第481話に記されている幻の名手。
当時の競馬(くらべうま)にて無敗を誇っていたらしく、大変な名声を博した名手だったという。
ある日の競馬に勝利した直後、門の閂(かんぬき)に頸を引っ掛け、あえなく命を落とす。


〝2年で14,000マイルを走破〟
福島安正
  “バロン福島

これは『世界記録集』にも展示済みの偉大なるホースマンの記録である。
福島少将はベルリンから日本まで、約14,000マイルを走破したと伝えられている。
これは騎馬を通じての人類の走行距離としては史上最長距離を誇るもの。
マイナス60℃の環境時も耐え抜いての歴史的偉業であった。
その強靭なる精神と謙虚な立ち居振る舞いから〝サムライ・ロングライダー〟として崇愛されている。
ちなみに…走破した14,000マイルをキロ換算すると…

22,526Km!

メートル換算すると…

22,526,000m!!

信じ難い伝説の騎手がここ日本にいた…。
ちなみに騎乗した馬たちは、その後天皇家へと献納されたという。

 

 

〝真・伝説の名手〟
大野市太郎

横浜根岸に端を発する明治競馬における、日本人騎手の草分け的存在にして、

真の伝説の騎手と称えられる存在が彼、大野市太郎である。

「イチ」の愛称で親しまれ、44歳まで現役を続けた。

神奈川県出身で、1876年、明治9年のデビュー。

ちなみに、根岸競馬における日本人第1号は松村亀吉、もしくは久保田太郎とも言われている。

最大のライバルは神崎利木蔵。この二人が近代日本競馬の黎明期を引っ張った。

 

 

〝アルバイトで騎手を務めた警官〟
ウォルター・ロクストン

明治初頭に来日。警官として神奈川県警に雇われの身となった彼は、

1880年(明治13年)~1885年(明治18年)にかけて、

当時、春と秋に三日ずつ行われていた横浜競馬に騎手として出場している。
また1884年(明治17年)には、上野不忍池で行われた共同競馬に日本人騎手へまじり、

ただひとりの外国人騎手として出場したと、史実に残っている。
さらに、明治15年10月31日の横浜競馬では、全9レースのうち、合計5レースを彼が勝っている。
「春秋二回の競馬の時、職務を休んで競馬の騎手をしたい。

それを認めてくれるなら月給が今の2/3以下でも結構」と語っており、

余程の競馬好きであったことは間違いない。

 


〝見習いのまま
リーディングジョッキー〟

村口繁一
わずか28年でその生涯を閉じた薄幸の伝説騎手。
村口騎手は大正4年5月2日に生を受け、小倉の坂本勇次郎厩舎に所属でデビュー。偉業達成は昭和16年のこと。平地で12勝・障害で30勝を上げ、なんと見習い騎手でリーディングに輝いてしまったのである。
しかし、翌年の10月4日、阪神競馬4日目第八競走に騎乗した彼は、2周目の第三障害で落馬し、昏睡状態に陥ってしまう。その10日後、彼は目を開くことなく、この世を去ってしまったのであった…。
JRA創設前の偉大なジョッキーの話である。



〝義足の騎手〟
高橋政治郎
彼、高橋騎手は富山の山村出身。小学校卒業と同時に上京し、馬術に明け暮れた。戦時中は乃木大将が騎乗する馬の調教に従事していたが、安田伊左衛門の呼びかけにより競馬の世界へと足を踏み込む。
片足を失ってしまったのは、大正4年7月に起きた落馬事故が原因と推考されている。
義足になってからの活躍は足を失う以上のもので、想像を絶する血の滲む努力が彼を支えていたものと思われる。全国にファンがおり、引退後も調教師として日本競馬に尽力した偉大な人物である。



〝明治・大正時代
欧州で大躍進を遂げた
   日本人騎手〟

赤石孔
彼こそが欧州仕込みの伝説の日本人騎手であり、ヨーロッパ流モンキー乗りを日本へと持ち込んだジョッキーなのである。
赤石騎手は明治27年11月13日、福島市生まれ。福島中学2年時修学後、騎手募集に応募し、ヨーロッパへと単身乗り込んだ。英国、フランス、ドイツ、オーストリア、チェコと、
競馬の本場の舞台に身を投じ、肌で当時最高レベルの競馬を体感。
昭和2年に帰国し、当時の根岸競馬へと新風を吹き込んだ。
鞭持ち替えの早業は「一鞭千両」と称えられたという。
昭和14年まで根岸で騎乗。300戦36勝、
2着35回、3着34回の成績を残した。



〝昭和期の米国
100勝以上上げた若者

仲村直己
彼は1944年に生まれ、米国へ留学。サンフランシスコに身を置いていたが、
当地の競馬に魅せられ、ついには騎手となってしまったという。
1970年から騎乗し、1975年の5年間で1435戦134勝という成績を上げた。
この134勝という記録は武騎手の記録をも遥かに凌駕するもの(武豊が本腰入れて5年アメリカにいれば十分に更新可能だろうが)。
しかし、その後の消息は不明ままである。


〝伝説のばんえい騎手〟
中西関松
  

ばんえい競馬界の伝説の騎手・中西関松氏(故人)は、戦前から各地の草ばんばで手腕を発揮していた。競馬大会があると聞けば、馬を引き連れて出かけて行った。
昭和22(1947)年に旭川でばんえい競馬が始まったときには、これぞ自分の進む道と悟り、騎手の道を本格的に歩み出すが、しばらくは山仕事も続けていたという。
騎手専業になったのは昭和40年代(65年~)ごろ。
中西氏のそもそもの仕事は運送業。騎手になってからも、レースのない期間は馬とともに山へ入り木材運びをしていた。当初はみな兼業騎手だったという。
その後、30年近くも名騎手としてばんえい競馬をもり立てた。初期の記録がないため定かではないが、通算2000勝は上げただろうといわれる。後継の育成にも力を注ぎ、教えを受けた騎手や調教師が今も現役で活躍する。



〝ミスターばんえい〟
金山明彦

史上初めてばんえい騎手として通算3000勝を挙げ、「ミスターばんえい」と呼ばれ、ファンに愛された。通算成績は19712戦3299勝うち重賞88勝。ばんえい競馬最高峰のレースである『ばんえい記念』を6勝した。1999年に調教師試験に合格し、同年末に騎手を引退した。
 

〝益田から世界へ吹いたカミカゼスタート

道川満彦

日本国外で活躍する日本人騎手のパイオニア的存在。

騎手課程受験に失敗したため、翌年益田市の実家に戻り、1974年に益田競馬場・高橋勇厩舎よりデビュー。

以後1988年まで益田競馬のトップジョッキーのひとりとして活躍した。

しかし、地方の弱小競馬場ゆえに賞金水準が低いことから、トップジョッキーでも年収は400万円前後にとどまり、妻が共働きしなければ生活が成り立たない状況にあったため、1980年代に入ると日本国外への移籍を視野に入れるようになる。

これには益田競馬関係者らから抵抗を受けたが、「他地区の地方競馬への移籍はしない」ことを条件に、1988年、移籍に必要な無制裁証明書(クリアランス)の発行を受けることに成功し海外へと拠点を移すことになった。

1988年までの地方競馬通算成績は5585戦1033勝。

1989年にマレーシアに活動拠点を移すと、初年度にマレーシア・シンガポール地区(当時はひとつの競馬地域を構成していた)のリーディングに輝く大活躍。その発馬の鮮やかさは「カミカゼスタート」と称されるほどだった。

その模様は風の便りか日本へも口伝され、同年5月には同じ島根県人という関係もあったのだろう。シンガポールを訪問していた竹下登首相(当時)の激励を受けるにあたっている。

順風満帆な騎手生活がようやく訪れたかに見えたが、八百長の噂が立てられ、道川も関わっているという濡れ衣を着せられてしまう。

この名誉毀損に憤慨した道川は裁判を起こし勝訴。ところが、この一件以降、道川騎手は精彩を欠くようになっていく。

その後、日本へと戻り、JRAの騎手試験を受験。以後1994年まで計3回挑戦するが、結果はいずれも不合格であり、中央競馬の騎手として凱旋するという道川の夢はかなわなかった。

1994年6月、地方競馬全国協会から地方競馬では初となる短期騎手免許を交付され、高知競馬で騎乗。

その後騎手を引退してマカオ競馬で調教師への転身を図るが、管理馬が思うように集まらず、1996年インドのハイデラバードで騎手に復帰するも、結局騎乗機会には恵まれず、1997年12月14日にアラブ首長国連邦のアブダビで騎乗したのを最後に騎手を引退した。

 

 

怪人と言われた謎深き古の名騎手〟

ハーレー・B・コリンス

昭和20年代、根岸、上野で活躍した騎手。「怪人」とまで言われたが、

波乱万丈の生涯を送った。
父はポルトガル人。母方が判然としないが、白人と南海人種の混血?あるいは香港生まれの英国人?
だったと伝えられる。容貌は日本人風だったという。
横浜生まれ(南清に生まれ、その後横浜へ来た)という諸説もある。
メール新聞、ヘラルド新聞など新聞社に勤めた後、騎手に転向。
御下賜を受けるほどの活躍をするも、度重なる怠惰、背信行為により
騎手職を免除される。
その後は火災保険金詐欺疑惑を起こし、神戸、上海と転々と渡り歩く。
明治37年ロシア人女性を伴い横浜のホテルに宿泊中に露探容疑をかけられ逮捕されてしまう
重禁固11年で服役するも、特赦により39年4月出獄。

しかし、明治40年2月27日天津駅で爆裂薬を所持しているところを見つかり逮捕された。

 

 

〝「こっぺーさん」の愛称で親しまれた大正期伝説の外国人騎手

H・W・コッフェー
大正期の日本で大活躍したオーストラリア人の名騎手。名前の綴りは“Coffey”と書く。
明治41年秋、C・ダウン氏が*ホートニップ(プリンスチャーレー)を輸入した際に同行し初来日。
来日前には1906年のアスコットヴェールSをアントニウス号、1907年のQTCセントレジャーをイングルウッド号で制覇している。
1905年のメルボルンカップではで2着もあり、本国オーストラリアでもその腕は確かなものを誇っていた。

大正時代当時の日本における騎乗技術では完全に群を抜いて突出していた。
 


〝日本競馬史上初となる
  初騎乗&初勝利
  &JRA初の外国人騎手

ロバート・アイアノッティ
JRA史上初となる外国人騎手かつ、史上初となる初騎乗初勝利の偉業を達成した幻の騎手が彼、アイアノッティである。
日本でのデビューは1955年。イタリア系のアメリカ人で当時21歳。
日本に来た理由は1953年に徴兵され、日本に駐留する部隊に配属されることになったため。
母国では16歳で見習い騎手となり、フロリダのとある競馬場を舞台に招聘されるまで、約4年の活躍。通算1200戦414勝の成績を収めていた。
日本在住の間に体重を7Kg以上も増やしてしまったことを受け、日本で騎乗することを決意。知り合いだった矢野幸夫調教師に相談し、矢野調教師の元に馬を預けている馬主たちが身元引受人となることを同意。日本中央競馬会も矢野調教師の申し出を受け、アメリカジョッキークラブ側へも話を通し、アメリカ領事館との間で3年の契約を結んだ。さらにJRAは農林水産省へと外国人騎手の出場を認めるよう省令の改正も申請した。
こうした働きかけを受け、無事免許皆伝。除隊後は矢野厩舎で住み込みながら働き、初騎乗の時を待った。
こうして迎えた1955年3月5日、東京競馬場の第一レース。騎乗馬タジマオーは1番人気。出遅れるものの、道中から早くも先頭を奪い、一気の加速。10馬身ほど引き離し、そのまま逃げ切り勝ちを収めた。
しかし…これが最初で最後の勝ち鞍となってしまう。JRA通算成績はわずか22戦1勝。どうしてこの一年のみのキャリアで身を引いたのか…いまとなっては謎のままである。

 

 

JRA史上初の短期免許甲府の外国人騎手〟

マイク・ベネツィア
日本中央競馬会の発足以後、外国人騎手として初めて短期間の騎乗許可を得て騎乗した騎手。

日本では「ミカエル・ベネジア」と表記されていたこともあった。

ニューヨークのブルックリンで生まれ、ベルモント競馬場を主戦場として騎手を務めた。

米国では25年間で通算2313勝を挙げ、デビュー初年には1日6勝を記録、翌年には192勝を挙げ、ニューヨーク地区の人気騎手として活躍した。その人柄から、騎手仲間や記者からも慕われていたという。

日本では1974年の1月から3月にかけて、関東を主戦場として騎乗し、25戦2勝という成績を残した。

当時、日本ではまだ短期免許交付という制度は存在せず、JRAが特別に騎乗許可を与えてのものだった。

なお短期免許交付制度は1994年から始まり、その第一号はリサ・クロップ騎手。

日本を去った後は引き続き米国・ベルモントを中心に騎乗を続けていたが、引退を決めた後に騎乗したレースにて不慮の事故に遭いこの世をさってしまう。NY競馬協会では彼の業績を称え、1989年よりマイク・ベネツィア記念賞という賞を設け、ニューヨーク地区の騎手や記者、ファンなどの投票を集め、スポーツマンシップとシティズンシップの模範となる騎手を表彰している。

 


〝カタツムリでも
     勝たせる男〟

フレッド・
   アーチャー
  

1857年1月11日、イングランド領チェルトナムのセントジョージ病院に生まれる。
1867年、後にセントサイモンも手懸けることになるマシュー・ドーソン調教師の下、騎乗訓練を積み、1868年12歳でデビューし、1870年障害競走で初勝利。
覚醒したのは1873年を迎えた頃で、17歳の若さでクラシック優勝。勢いそのままにリーディングジョキーの座まで勝ち取り、1876年には当時としては超常絶する200勝を達成し、若干20歳の若さでクラシック完全制覇を達成。
あまりに驚異的な勝率に〝The Tinman〟(金の男)の異名で賞賛され、ついには「アーチャーが乗ればカタツムリでも勝てる」とまで吹聴されるほどになる。
1883年にはドーソン氏の姪・ヘレン夫人と結ばれ、幸せの絶頂に立つと、勝利数はさらにペースアップ。577戦241勝という、信じ難い数字まで叩き出す。ところが不幸にも長男が出産直後に亡くなり、長女出産の際にはヘレン夫人まで命を落としてしまう。これ以降、アーチャーには暗い影がついまわるようになるが、騎乗技術はなんら陰りなく1885年には年間246勝の金字塔を打ち立てる。英国三冠もオーモンドで成し遂げたが、178cmの長身がゆえ減量に煩悶し、ついには体調不良、腸チフスと様態を悪化させてしまう。苦難と幻覚との闘いの果て、拳銃を咥えて引き金を引いてしまうのだった。29歳の若さだった。



世紀の名手
史上唯一人の【ナイト】

ゴードン・
  リチャーズ

1904年5月5日、英国はシュロップシャーのドニントンウッドで生を受ける。幼少時より家で飼われていたポニーに跨り、7歳になる頃には家族をポニーで送迎するまでになっていたという。
15歳を迎えるとジミー・ホワイト氏の下、本格的に鍛錬を積み、1921年にレスター競馬場で初勝利し、1925年には118勝もの勝ち鞍を上げて自身初のリーディングを獲得。
1944年には英国競馬史上初の3,000勝騎手となったものの、どうしてもダービーが勝てない。それは世界の七不思議の一つと揶揄されるほどであった。その一方で、歴史的大活躍を評価され1953年、騎手として初めて【ナイト】の称号をエリザベス女王から授かった。これが幸運を呼び込んだのであろう。同年勲章授与の一週間後、はじめてダービーに優勝した。騎乗馬はピンザ。
通算で4,870勝し、26回リーディングジョッキーになった、史上最も偉大な騎手と断言していいだろう。



〝伝説の名手、
ダービー9の世界記録〟

レスター・
    ピゴット

英国バークシャー出身。調教師であた父の影響を受け4歳から乗馬をはじめ、12歳でデビュー。
身長173cm(騎手としてはかなりの長身)が災いし、減量で苦心するが、奇抜な騎乗スタイルを次々と披露し神懸かった騎乗を見せるものの、厳重注意を度々受けてしまっていた。
しかし、溢れる才能を全開に18歳でダービーを優勝すると、1964年から8年連続でリーディングに輝き、全盛期を迎えると、ダーリア、シャーガー、ニジンスキー、アレジッド、サーアイヴァーら歴史的名馬を駆り世界を股にかけて席巻した。
母国英国のザ・ダービー9勝をはじめ、英国クラシック30勝、フランスのクラシック8勝、アイルランドのクラシックを16勝。59歳まで現役で活躍し、4大陸、35カ国で勝利を挙げた伝説の騎手。冷静沈着かつ、正確無比の騎乗技術、完璧なまでに乗りこなす。
まさに20世紀英国最高のジョッキーである。
そんな彼も1985年には鞭を置き調教師へと転身。しかし脱税をしたがため3年の実刑判決を受けてしまうことに。ところが、ここからが驚異的で、1年の服役後、なんと騎手へと復帰し、わずか10日後にGI優勝という奇特な偉業を成してしまうのであった。



〝米伝説の名手にして、
 米国史上最高の騎手
アイザック・バーンズ・マーフィー

1861年4月16日生まれ。没年1896年2月12日。1955年、米国競馬の殿堂入り。
米国伝説の黒人騎手にして史上最高の名手と呼ばれる神格的ジョッキー。
ケンタッキー州フランクフォート出身。
11年間騎乗し、生涯成績1412戦628勝。史上最高の勝率44%を記録した。
この記録は米国においていまだ更新されておらず、もはや破ることは不可能の記録の一つとされている。
ケンタッキーダービー三連覇、そしてケンタッキーオークス&ダービー&クラークHを
同一年に制覇した史上唯一の騎手でもある。
ニックネームは“Colored Archer”。これは同年に活躍した同じく英国のレジェンド騎手フレッドアーチャーに
端を発するものである。
肺炎により命を落とし、ケンタッキーホースパークのエントランスに亡骸は移された。
彼の隣には米国伝説の最強馬マンノウォーが眠る。
1995年には、年間最高勝率を誇った騎手へ表彰されるアイザック・マーフィー賞が創設され、
アーリントンパーク競馬場では彼の名を冠したアイザック・マーフィーハンデキャップが創設されている。

 

〝神の領域〟
 〝19世紀最高の勝率5割騎手
フランク・ジャービス

1872年(?)、英国デビューし、アスコットを中心に多くの勝利を上げ、

6年間を英国で過ごす。

その後、スペインへ。この情熱の国にて勝率5割という神の領域の数値を積み上げる。

1884年にソブラル伯爵、1887年からはビジャメホール公爵と契約を結び、

専属騎手として活躍した。

マドリード大賞を3連覇し、1889年からはギレルモ・ガーベイ厩舎へ移る。

当時の新聞の予想箇所には「本命はジャービスの乗る馬」と何度も掲載されたという。

しかし、1891年のサラゴサ競馬場で馬が転倒し落馬。意識不明の死の淵を彷徨う。

奇跡的に復活し、能力も衰えるかに見えたが、1897年には67戦32勝という

驚異的成績を残している。1896年からはトヴァール公爵の所有馬の手綱を取り活躍。

1901年にはまたもマドリード大賞優勝。その年の11月25日に再度、酷い落馬により重傷を負い引退する。


〝時代に翻弄された伝説の
  アフリカ系黒人騎手
ジミー・ウィンクフィールド

1882年4月12日生まれ。没年1974年3月23日。2004年米国競馬の殿堂入り。
1898年16歳で騎手デビューするも4頭の発馬機による事故が原因で、
たった1戦で騎乗停止となってしまう。1900年に復帰し、
以後1903年まで米国で騎手を務め、1904年からはロシアで騎手となる。
ケンタッキーダービーを1901年1902年と連覇した他、
ロシアにおいて歴史的大活躍。ロシアダービー3回、ロシアオークス5回、
モスクワダービー2回、ワルシャワダービー2回、皇帝賞3回という
空前絶後の成績を極寒の地で上げ、生ける伝説となった。
ロシアにおいてリーディングジョッキーを3度獲得、
1917年にロシア革命が起きると今度はフランスへ拠点を移し、
サンクルー大賞、ドーヴィル大賞、ユージンアダム賞などを勝利。
2,500勝以上を上げ、50歳で引退。調教師としても成功を収め、
1974年に亡くなるまでパリ郊外のメゾンフィラットの農場で
余生を過ごしたという。

 

 

〝19歳の若さで全米リーディングに輝くも、

       その表彰式直後に死亡した悲劇の名手〟
アール・デュー

19歳の若さで全米リーディングの座を獲得しながら、表彰式の日に殉職した悲劇の名騎手。

1921年に生まれ、騎手であった父の影響を受け、騎手を志す。

1937年にシカゴを拠点としてプロとして騎手生活をはじめる。この時でまだ若干16歳。

即座に頭角を表し、ニューオリンズにてリーディングを獲得し、1939年までトップを守り抜いた。

1940年には287勝を上げ、全米リーディングに輝き、翌年の2月には、リーディングジョッキーの表彰と記念の金時計の授与式が当時の主戦場となっていたアグアカリエンテ競馬場にて行われた。そして、その授与式後の第6レースに騎乗することになった。

しかし、その競走において騎乗馬が直線半ばで故障し、落馬したところへさらに2頭の馬が激突。

頭蓋骨骨折による脳内出血の為、救急車で運ばれたが、車中で絶命。わずか20歳の若さで全米のトップ騎手に上り詰めながら、表彰式当日の事故による死は、悲劇としか言いようのない、あまりにもショッキングな出来事であった。

彼が無事であったなら、どこまでその成績を伸ばしたのであろうか。

代表的騎乗馬はミオランド号(写真の馬)。生涯成績50戦18勝2着10回、ポトマックH、サンファンカスピトラーノH(2回)、ニューイヤーH、サンアントニオH、サンパスカルHなどを制した。

 


〝南米伝説の黒人騎手〟
●イザベリーノ・
"ネグロ"・ディアス
 

1858年に隣国ウルグアイのビラデラウニオンで生まれ、15歳ごろにモンデヴィデオにて競馬界に入り長く騎手兼調教師として活動した。黒人奴隷の末裔であったが、彼の卓越した才能が身を助け、馬主からファンから絶大な支持を獲得し、歪んだ骨格から“リゴレット”の愛称で親しまれた。
1885年にアルゼンチンの有力馬主らに誘われてブエノスアイレスに渡ると、1889・1890年と2年連続で首位騎手を獲得。1891年には名馬カモスでアルゼンチン・ウルグアイ両国のインテルナシオナル大賞(現、カルロスペリェグリーニ大賞とホセペドロラミレス大賞)を制覇した。1892年にはその手腕を請われブラジルのリオデジャネイロでも活躍。翌1893年からはアルゼンチンに専念し、1893・1894・1898・1899年と首位騎手を獲得し多くの主要競走を制覇した。



〝史上初の1万勝騎手〟
ジョルジ・リカルド
  
1961年9月30日、ブラジル・リオデジャネイロ生まれ。
競馬一家に生まれ、自身も騎手を志す。
アルゼンチンと地元ブラジルに拠点を置き、次々と勝ち星を量産。
2008年1月9日、アルゼンチンはサンイシドロ競馬場にて世界初となる10,000勝を達成。
デビューは1976年で、1982年にGI初制覇。そしてブラジル競馬における25年連続リーディングという大記録を打ちたて、現在も活躍中。

"リカルジーニョ(Ricardinho 小さいリカルド)"の愛称で知られるリカルド騎手は、世界最多勝記録を再び打ち立てることを騎手生活の最大の目標としていたが、近年は深刻な病気と怪我に悩まされてその達成を阻まれていた。

 

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世界最多勝利の変遷
※≪≫内の年数は前記録を破った年代。

≪2006年12月1日≫
ラッセル・ベイズ(米国)
史上2人目の1万勝

≪2003年4月≫
ラフィット・ピンカイJr.
(パナマ)が9530勝

≪1970年9月≫
ウィリー・シューメイカー
(米国)が8,833勝

≪1956年≫
ジョニー・ロングデン
(米国)が6,032勝


4,870勝
ゴードン・リチャーズが記録。

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琉球伝説名手たち


瀬名波のイリヤラ
屋良朝乗

読谷が生んだ天才騎手。紺色の着物と袴をまとい、二尺五寸(約76cm)の鞭を手に自在に馬を手繰ったという。


与那嶺ターリ
⇒北谷村、現在の嘉手納町で無敗を誇ったという。

幸地タンメー
⇒馬上から、しかも走らせた状態で地面のカンザシをすくい上げたという逸話を残す名手。
嘉手納町出身だったという。


上謝名ブッセーカナヤッチー
⇒今帰仁の豪傑。三国志に登場する関羽の生き写しと絶賛されていたらしい。



女性騎手の歴呈◆

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●ポール・カライ
ハンガリー出身。第78回ハンガリーダービー(芝2,400m)を67歳という高齢で制した。
かなり異色の経歴の持ち主で、プロボクサーになるがジョッキーへと転身。リーディングジョッキーの座に立ったかと思いきやハンガリー動乱のため米国へと亡命し、ダービージョッキーの夢は断たれたかに見えた…いや、それなら米国で騎手になっちまえと、米国のジョッキーに本当になり、1718勝を上げる大活躍!
ところが今度は八百長事件に巻き込まれ、罪無きまま服役することとなってしまう。不運にも米国競馬界から追放され、民主化された祖国へと帰還。
そんな波瀾万丈な騎手人生の果てに待っていた栄光は、夢にまで見た母国のダービー制覇だったのであった…。
ちなみに彼にダービーの栄冠をプレゼントしたのはロドリゴ。生涯成績38戦11勝、他にはハンガリーセントレジャー(芝2,800m)などを制した歴史的名馬。


 
〔世界史上最年長のダービー制覇ゴールの瞬間〕


〔参考記録〕
日本では明治9年生まれの坂東角太騎手が昭和9年春の札幌・騎乗速歩に騎乗。
地方競馬では昭和3年生まれの海方昭三騎手が平成4年の樹氷賞をティーボイスで勝利。
翌5年にはアラブの蔵王賞をルビーキャップで勝利。

日本最年長騎手
山中利夫


62歳012年7月15日、第7回金沢競馬2日目第1競走の騎乗を最後に現役を引退した。
元春木競馬のリーディングジョッキー。金沢競馬所属。
2012年5月7日の第1レースにてブライアンズメテオ号に騎乗し見事勝利。これにより、最年長勝利記録を更新。

 

〔参考記録〕

大西関五郎騎手 71歳で勝利。

明治26年生まれの騎手で、第二次大戦前に記録されたものとされる。

 

世界史上最年長勝利記録

エメテリオ・グスマン

72歳
2018年3月5日、南米チリのサンティアゴ競馬場の一般競走(ダ1,000m)の13頭立てのレースで、単勝10番人気18.5倍のラガパチョサに騎乗。1番枠から手綱を押して先手を取り、直線に入ってからリードを広げ、後続の追撃を半馬身差でしのいで勝利を飾った。

「12歳で馬にひと目ぼれした」と語り、15歳の時にデビュー。この勝利時で58年目のキャリアで1000勝というから驚かされる。

負傷で一度は引退したが、2013年に現役に復帰。地元の競馬ファンの間では、“ドン・エメテリオ”の愛称で親しまれているという。

※米国ではフランク・アモント騎手69歳(75歳まで騎乗)で勝利。フランスではジェラルド・ギレルモ騎手が記録した64歳が最年長勝利記録として残っているが、70歳を超える騎手の公式戦の勝利はこの騎手の例しかない。


【世界史上最年長騎乗記録】

リーヴァイ・バーリンガム

83歳

米国はカンザス、アイオワ、ネブラスカ州にて

24歳から騎乗を続けていた。

 

障害レースの最年長記録も…
ハリー・ビーズリー
83
アイルランドの障害戦コリティアン・プレートにて、モーリーという自分の持ち馬に自ら騎乗したという記録がある。

ビーズリー騎手はアイルランドでは名の知れた障害騎手4兄弟の一人で会った。
1891年にはグランドナショナルも優勝している。
そんな彼がこの記録を作ったのは1935年 6月10日。
自分の持ち馬であるモーリー(牝)に騎乗し、アマチュア騎手のためのレース、『コリンティアン・プレート』に出走。

結果、5頭立ての4着と健闘している。


【世界最長寿騎手記録】
騎手を務めた人物の史上最長寿者は英国の…

フォークナー
104


102歳で馬に乗ったという記録も持つが、この時の落馬で大怪我を負ってしまう。驚くべきことに32人の子供がおり、皆競に関わる職に就いたというからすごい。英国のアップルフォートで静かに暮らしていた世界最長寿の騎手である

 

🟢片腕の80歳ジョッキー

D.K. Babbitt

〔バビット氏の活躍を伝える新聞記事。(引用:『The Chanute Daily Tribune』Chanute Kansas・Fri, Oct 8, 1915 Page1)

1915年10月8日の時点で80歳を迎えていた繋駕速歩競走のドライバー。

バビット氏は、不幸にも左手を失ってしまっており、

なんということか、半世紀の間も片腕のみで競馬に臨み、

競走を続けてきた伝説的騎手(ドライバー)。

 

【世界史上最年少競馬騎乗記録】
ジミー・テイラー

10歳

1939年、英国競馬において正式に騎乗ライセンスの

交付を受けた少年騎手で、初めての騎乗レースは

キャタリック・ブリッジ競馬場でのレースであった。

〔『Daily Independent Journal』(Sat, Nov 01, 1958 ·Page11)に掲載されたジミーの記事。風刺絵の右はジミー。左は同時代に世界最年長騎手であったリーヴァイ・バーリンガム騎手。83歳まで公式競馬で騎手を続けた。ジミーのデビュー時、彼は80歳であった〕

 

真・最年少記録

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9

 

南アフリカにて記録される。

しかし、競馬ではなく馬に騎乗したという括りにするとさらに上があり…

 

世界史上最年少騎乗記録

2歳8ヶ月 

2013年8月9日、モンゴルにて世界最大の馬のパレードが

行われた際記録されたもの。

 

【世界競馬史上最小騎手】

ウィリアム・ヘンリー・クラーク

116cm、22kg、15歳

〔これは馬を引く子供の写真ではない。立派な一人の騎手の引き姿だ。英国ヨークシャー州ミドルハムのジョージ・アームストロング厩舎の見習い騎手であったウィリアムは子供のような見た目とは裏腹に頑強で腕の立つ騎手であったという。『Border Morning Mail』紙、Albury, New South Wales, Australia Tue, Jun 22, 1948 · Page 12より

 

真?世界記録

(世界競馬史上最低の騎手体重)

18.14kg

〝タイニー〟というニックネームで知られる

キッチナー騎手が1841年のチェスターカップ騎乗時に記録。

キッチナー騎手の平均体重は約21kgであったという。

このレースのために3kg近くも一気に減量したということになる。

(『The Nelson Evening Mail』 Nelson, New Zealand・Mon, April 23, 1877 Page4より)

 

次位

マスター・ジェームス・ヘネシー

116cm、25kg、11歳

米国ミズーリ州のセントルイスにて1900年代初期に務めていた少年騎手。

 

(参考記録)

年代不明、NYハーレム競馬場にてデヴィッド・テニーという機種は

20kgしかなかったという。

 

次々位

ワシントン・ハリソン・ブリュッセル

127cm、27kg、13歳

1900年代初期、米国NYにて騎手を務めていた。

〔ワシントン・ハリソン・ブリュッセル騎手の立ち姿の写真。『Border Morning Mail』紙、Albury, New South Wales, Australia Tue, Jun 22, 1948 · Page 12より

 

大人の騎手の最小騎手は・・・

ウェイン・ジャムトガード

124cm、39kg、22歳

米国はニュージャージーのガーデンステートを主戦場に騎乗。

車を運転していると度々停められ、少年の車窃盗犯ではないか?と

尋問される事があったという。

 

【世界競馬史上最長身長騎手】

マヌート・ボル

231cm

〔『The Sun』Vincennes, Indiana · Monday, October 20, 2003より〕

元NBAでセンターも務めていた選手であった

マヌート・ボルは、2003年10月、選手を引退し

騎手を志し、インディアナ州競馬委員会から

正式に騎手免許を交付され夢を叶える。

ホッケー、ボクシングの経験も得て

競馬界参入という超異色の経歴。

母国スーダンへ、バスケ・ホッケー・ボクシング

そして競馬で得た賞金を寄付していた。

 

元から騎手の最高身長騎手は・・・

アンソニー・ビンガム・ミルドメイ卿

(アマチュア障害騎手)

193cm

1940年代に英国の新聞が英国一の

高身長騎手として報じている。

 

平地競走のプロ騎手(元から騎手)の

最高身長騎手は・・・

スチュアート・ハンター

188cm

(『The Weirton Daily Times』Weirton, West Virginia・Fri, Nov 22, 1963Page14より)

スチュアート・ハンター騎手は、1960年代の

米国にてウォータフォードパーク競馬場を

主戦場として活躍した騎手。

平地競走の競馬かつ、生粋のジョッキーとしては

世界最高身長の騎手だったと思われる。

日本競馬では西谷誠騎手の174cmが最高身長。

その他の記録としては、

ばんえい競馬の林義直騎手の191cm
最低身長は、黒澤愛斗騎手の135cm
二人が並んだら親子のようでしょうね(笑)。

 

【世界4大ダービー優勝騎手】

◇世界四大ダービー◇

①英ダービー

②ケンタッキーダービー

③フランスダービー

④アイルランドダービー


スティーヴ・コーセン(米国)
英ダービー⇒1985年 スリップアンカーで優勝。
ケンタッキーダービー⇒1978年 アファームドで制覇。
愛ダービー・仏ダービー⇒1989年 オールドヴィックで勝利。

 

【世界ダービー最年少優勝騎手】

11歳 ホセ・ヴィエラ

(ウルグアイの少年騎手)1884年アルゼンチンダービー

 

15歳 アロンソ・クレイトン

(アフリカ系米国人騎手) 1892年ケンタッキーダービー

 

15歳 ジェームズ・パーキンス

(アフリカ系米国人騎手) 1896年ケンタッキーダービー

 

※英ダービーは18歳が最年少記録。当時見習いだったレスター・ピゴット騎手が1958年、ネヴァーセイダイで優勝。

 

【世界ダービー最多連覇騎手】

7連覇 A.チェリク ガジダービー(トルコ) 2014〜2021年

5連覇 F.レゴーリ 伊ダービー 1919〜1923年

4連覇 セルヒオ・バスケス チリダービー 1979〜1982年

3連覇 スティーヴ・ドノヒュー 英ダービー 1921〜1923年

 

 

【三連勝&三連続レコード記録】
※騎乗したレースを三連勝、そしてその三戦すべてでレコード勝ちするという珍記録。

伊藤勝吉(日本)
※昭和4年10月6日に記録。


【見習い騎手で一日5連勝】
岡 潤一郎(日本)

◆1989年 6月18日札幌競馬場の4Rから8Rにかけて勝利。

ちなみに単勝転がしを元手100円で成功させた場合、配当が330万を超えていたという。
その将来を非常に期待されていたジョッキーだったが1993年1月30日、京都競馬7Rでオギジーニアスに騎乗した際に落馬。

意識不明の重体に陥り、同年の2月16日、帰らぬ人となった。享年24歳の若さだった。
 

【生涯1戦0勝の騎手】
◇「一生涯でわずか1戦、しかも大差のシンガリで1頭も馬を交わすことなく去っていったプロ騎手」◇

人生は上手くいくことばかりではない。狭き門を潜り抜けてプロにったとしても、そこには数々の試練が、巨壁となり立ちはだかる。
折角プロフェッショナルの騎手免許を手にしたにも関わらず、たった1戦で諦めてしまったジョッキーがいる。しかも稀少な女性騎手だったからこそ、なんとも口惜しい。

「もぅマジ無理ィ!勝てないから私やめるぅ~!」

…なんて女子高生のような、あまりにも放擲な理由にも似た理由で辞職してしまった。

もちろん、上記のようなふざけた発言ではなかったのだが…。
その詳細を記そう。

この伝説(?)のジョッキーは、大井の三坂博厩舎に在籍していた澤江鮎美騎手がその人。

 

澤江鮎美騎手
生涯成績:1戦0勝


<1987年7月27日 大井第3競走 エドサンホマレ号 結果12着>
出遅れではなかったがいいスタートでも無く、無事にゲートを出た彼女であったが、1400という短距離戦だけに新人でダッシュをつけられなかったことは致命的だった。
ポジション取りの激しい最初のコーナーですでに最後方。勝負どころから徐々に離されてしまうものの、直線で懸命に追い始めた。しかし、馬を動かせるほど、自身に余力が無かったようで、殿り負けを喫してしまう。ほろ苦いデビュー戦となった。検量所前で下馬したときにすぐ”初騎乗”の印象を取材した記者のとったインタビューでは、次のように述べている。

「大井競馬場の直線が本当に”長いなあ”と実感しました。だって追っても追ってもゴールに辿り着かないんだから…」

息も絶え絶えに彼女は答えたという。

それから数ヶ月して彼女は忽然と姿を消してしまう。周囲からは「澤江が男と逃げた」という噂が立ったのだが、真相は、騎手はあきらめたが、馬が好きなので馬からは離れられないという理由で、
厩務員さんと、馬輸送をやっている東都輸送の社長の、宮城にある牧場に転職したというのが事の顛末であったという。
騎手生涯で一頭も馬を抜けなかった彼女。しかし、そんな彼女も現在、結婚して幸せに暮らしているという。

折角、騎手免許を取得したのにたったの一戦で自分に見切りをつけてしまった潔さ(?)…。
人生ってわからないもんだよなぁ…。



〔実は同じようなジョッキーがもう一人いる。37戦して0勝2着もたったの2回という成績で姿を消してしまった植谷美奈子騎手。…実にもったいない…。〕

 

その他未勝利で終わったジョッキー一覧

氏名所属性別初騎乗通算騎乗1着2着3着連対率複勝率
小岩 俊 騎手  愛知 1988年1月17日290123.45%10.34%
志村 勇司 騎手船橋  0000
中谷 久幸 騎手北海道男 1986年10月1日39    0 0 3  0.00%7.69%
佐藤 春仁 騎手岩手1977年4月24日130040.00%30.77%
岩本 考二 騎手高知1974年4月22日701014.29%14.29%
岡森 弘章 騎手愛知2007年4月17日160000.00%0.00%
佐賀野 昭人 騎手金沢2003年10月5日1010241.98%5.94%
高橋 翼 騎手船橋2003年4月28日450306.67%6.67%
木村 園夏 騎手浦和1997年1月19日30010.00%33.33%
相馬 巧治 騎手岩手1996年4月21日40000.00%0.00%
阿部 幸一郎 騎手川崎1995年10月7日40000.00%0.00%
埴谷 美奈子 騎手益田1989年6月20日21706182.76%11.06%
菊池 公三 騎手ばんえい1979年4月27日110020.00%15.38%

 

しかし!

世界にはレースに出走する事無く、競馬直前で騎手の道を断たれてしまった騎手もいる。

 

◇「一生涯でわずか1戦、デビュー戦で落馬してしまい道を断たれた薄幸の騎手」◇

 

キャスパー・ハーウッド騎手

 

騎手としてのデビュー戦で落馬。それもレース中では無く、スタート前の輪乗りの時のに落馬。

1953年の5月16日、英国エプソム競馬場の第二レースの4歳馬による下級条件戦でそれは起こった。

メフィストフィリーズという牝馬に騎乗してのデビューとなったハーウッド騎手であったが、

この牝馬の名前通り(馬名の意味がゲーテのファウストに出てくる悪魔)の不運をもたらす。

雲の影に驚き、動転し前のめりになって暴れたところで、ハーウッド騎手は落馬。

骨盤を骨折し、騎手として絶対必須の前傾姿勢を取る事はおろか、歩く事さえままならぬ程の重傷を負う。

騎手人生は断たれるも、俳優として成功を収めたハーウッド氏。

1973年、映画『ウィークエンド・ラブ』で英国におけるアカデミー賞に当たるGBA賞の助演男優賞を受賞。

この記者会見を見たエプソムジョッキークラブが、彼へのお祝いとしてエプソム競馬場での騎乗機会をプレゼント。

1974年の6月19日、エプソム競馬場にて、メフィストフィリーズの曽孫に当たるブルートパーズという6歳の牡馬に跨り、向こう正面からスタートし、盛大な拍手に送られながらゴールイン。

「キャスパー・ハーウッド騎手、トップでゴールインしました。優勝タイムは20年と一ヶ月と3日でございます…」

という場内アナウンスが流れたという。

 

 

【死亡しながら優勝した騎手】

 

フランク・ヘイズ騎手

1923年2月、米国はNYはベルモント競馬場にて起きた事件。

スウィートキス号に騎乗したヘイズ騎手は、不幸にもレース中に心臓発作を起こし、死亡してしまう。

しかし、騎乗姿勢を変えず、手綱も握りしめたまま、死亡後も騎乗を続行。

スウィートキスは彼の魂が乗り移ったかのごとく激走し、見事優勝を果たす。

しかも、このレース障害レースだったのだから驚きである。

どうやら最後の障害を跳んだ時、急性心臓発作でこの世を去ったようだった。

頭差で勝利し、ゴールを過ぎて数百メートルをキャンターで駆け、

ヘイズ騎手は馬上から崩れ落ちた。これが彼の唯一の勝利となった。

スウィートキス号はレース後出走せず、〝スウィートキスオブデス〟

(「死の甘いキス」)と改名されたとされる。

 

【1日で平地・繋駕速歩・障害の3鞍を勝った騎手】

 

稲葉幸夫騎手

 

これは昭和九年、12月1日、土曜日の中山競馬場で樹立された珍記録。
達成したのは稲葉幸夫(元騎手・調教師)氏。
記録の内容がまた凄まじく、第2競走の平場がアラブの競走(資料1参照、1,600m)で5馬身ぶっちぎり。
第5競走の繋駕速歩競走(資料2参照、5,000m)が圧倒的1番人気馬を大差、

2着馬を8馬身置き去りにしてのレコード勝ち。
そして最後の障害競走(資料3参照、2,600m)が、障害では非常に珍しい単走という、

現代競馬では到底なしえない境遇を取り巻いての記録達成。
アラブ競馬は現在、極限られた一部の競馬場でしか開催されておらず、繋駕速歩は完全に廃止。

これだけでも日本競馬では永遠に達成不可能な怪記録である訳であるが、全鞍5馬身以上ちぎり、

しかも障害が単走という舞台設定は、もう二度と起こりえない状況ではないだろうか。


[資料1]


[資料2]


[資料3]

 

【兵役に服役しながら世界一を獲得した騎手】

S.ブーランジェ騎手

ロンシャン競馬場開設100周年を迎えた1957年、これを記念しアベイユドロンシャン賞、ムーランドロンシャン賞が創設された。

この年の凱旋門賞に優勝したのが53倍の大穴となっていた地元フランス馬のオロソ。

本馬に騎乗していたのが軍服姿の兵役中の若手騎手であるS.ブーランジェ騎手であった。

この騎乗のため、1日だけ休暇が許されたのだという。

 

【たった1日で3つの競馬場で勝利を挙げた騎手】

ジェンナ・ジュベール騎手

米国の女性騎手ジュベール騎手がこの偉業を24歳の若さで記録。

2009年の5月14日、ピムリコ競馬場、ペンナショナル競馬場およびチャールズタウン競馬場においてそれぞれ1勝する快挙。

3つのレースを制するのにあたって、同騎手は220マイル(約354 km)を車で移動し、さらにレースで約2マイル半(約4 km)騎乗したことになる。

ジュベール騎手のこの記録は、ピムリコ競馬場でクロエズソング(Chloe’s Song)に騎乗し第2競走に勝った午後1時40分から始まった。同競馬場での他の2レースは着外となってしまったが、彼女はその後92マイル(約148 km)を移動し、ペンナショナル競馬場で午後6時47分に第1競走をプローヴミーギルティ(Prove Meguilty)で制した。そして今度は128マイル(約206 km)を移動し、チャールズタウン競馬場で午後11時6分にカヴァーマイシックス(Cover My Six)で第9競走(最終レース)を制した。

 

双子騎手

有名なのは柴田大知・未崎騎手であるが、

世界ではこれまで3組の双子騎手が活躍している。

3組の双子騎手
騎手名活動期出走数勝鞍ステークス勝鞍収得賞金
ドニー&ロニー・メッシュ1993-20092557334192047613万4423ドル
(約76億1344万円)
ジェシー&ジョエル・キャンベル1995-2009167652054844296万8721ドル
(約42億9687万円)
マット&マイケル・ストレート2008-0950558072万8050ドル
(約7281万円)
2009年3月24日現在

 

最も重い騎乗停止処分を受けた騎手

12年間騎乗停止

ダレン・イーガン騎手

2016年の2月8日、BHA(英国競馬統轄機構)が"見習騎手へ、"負ける方への賭け"に関与する

八百長事件を起こしたとして、12年間の騎乗停止処分を科した。

この事件は“競馬界に大きな衝撃を与える事件"として扱われた。

イーガン騎手は2015年11月、ギャンブラーのフィリップ・ラングフォード(Philip Langford)氏と共謀して不正を行ったと裁決された。2013年7月にラングフォード氏が負ける方に賭けた2頭の馬を減速させたと判断されたのだ。ラングフォード氏はこれにより5万ポンド(約800万円)以上を手に入れたという。

イーガン騎手は、BHAに対して「どうしてもお金が必要だった」というEメールを送信しただけで、不正への関与について一切言い訳をしなかった。

懲戒委員会は不正を証明する報告書にこう記している。

「この不正は、

(1) 競馬界に大きな衝撃を与えた。

(2) 両者によって徹底的に隠ぺいされた。

(3) 両者に多額の不正利益をもたらした。

(4) イーガン騎手はラングフォード氏の負ける方への賭けを的中させるために2度にわたり騎乗馬を減速させた」。

イーガン騎手は、2013年7月12日にインペリアルスピリット(Imperial Spirit)、その4日後にトレゲレス(Tregereth)に騎乗し、これらの馬の能力を十分に発揮させなかったと判定された。ラングフォード氏のベットフェア社(Betfair)のアカウントは、トレゲレスが出走した翌日に停止された。そして、ベットフェア社とベットダック社(Betdaq)のエクスチェンジ賭事において

同氏がイーガン騎手の騎乗馬が負ける方に83万8,870ポンド(約1億3,422万円)を賭けて、5万3,560ポンド(約857万円)の利益を得たことが明らかになった。八百長の扇動者とされたラングフォード氏は競馬界から永久追放された。少なくとも15年間は、この処分の解除を求めることはできない。

英国で最も将来を嘱望されていた見習騎手の1人であったイーガン騎手は、2012年に47勝を挙げたが、鎖骨骨折のためにリーディング見習騎手のタイトルを逃していた。

 

【これは酷い!騎乗停止でなく免許取り消しでもいいありえない騎手】

・ゲートに入ろうとしない馬に砂をかける…R・ダシルヴァ騎手→騎乗停止1日。

・ゲートに入ろうとしない馬の脇腹を殴る…D・カボシュ騎手→14日間の騎乗停止。

・予後不良になった馬に鞭とダートの塊を投げつける…V・カレロ騎手→14日間の騎乗停止。

 この愚行を行なった愚か者はもう一人おり、J・ローズ騎手がその一人。こちらは30日間の騎乗停止。

・レース中に騎乗馬に鋭利なものを刺す…R・チャパ騎手→9ヶ月間の騎乗停止。

・レース中に電気ショック装置所持(2回)…R・チャパ騎手→2回とも5年間の騎乗停止。

 

【冒険家になった騎手】

リチャード・ダンウッディ

元障害リーディング騎手のリチャード・ダンウッディ(Richard Dunwoody)氏は、2008年には南極点までの48日間におよぶ673マイル(約1,077 km)の徒歩旅行を敢行し、2009年には1,000時間で1,000マイル(約1,600 km)を歩き、2017年には日本列島の最南端から最北端までの2,000マイル(約3,200 km)を徒歩で縦断した。

さらに、2018年には北朝鮮の平壌マラソンにも挑戦。なぜそこなのか?の問いに、

「北朝鮮に行ったことがないので、どのようなものか見てみたいと思っています」と述べた。

しかし、自分の興味本位のためだけにこのような冒険を繰り返している訳では無い。

負傷騎手基金(Injured Jockeys' Fund: IJF)とエボニーホースクラブ(Ebony Horse Club ブリクストン)のためにできるだけ多く資金を集めることが彼の隠れた目的。目標額は2,500ポンド(約38万円)。

 

〝日本馬術の父・乗馬の神様・昭和の馬将軍〟

遊佐幸平

日本における馬術、乗馬においてこの道を志す者は絶対に知っておくべき存在。

伝説中の伝説、日本馬術の神、〝The Godfather of Dressage〟…それが遊佐幸平である。

昭和天皇の乗馬の師であり、その桁違いの技術と馬術についての知識・見識・総管的観察眼は〝神の領域〟のものであった。

 

【略歴】

遊佐幸平は明治16年(1883)7月25日、馬産地であった宮城県鳴子町生まれ。

仙台幼年学校を経て明治37年に陸軍士官学校16期卒。翌38年に少尉任官。騎兵第8聯隊に配属された。
その後、新設の騎兵第17聯隊に転属、日露戦争では北部樺太に上陸。

武勲をたて功五級金鵄勲章授与。独立第13師団長から個人感状を受けた。
明治42年陸軍騎兵学校馬術教官。大正3年フランス・ソミュール騎兵学校留学。
騎兵学校では教官室の前を通る学生は、遊佐の名前をもじって「遊びさゆくべえ」と聞こえよがしに大声をかけていったくらい慕われた。
昭和10年陸軍少将。11年宮内省主馬寮嘱託(主に昭和天皇の御乗馬相手)、12年軍馬補充部本部長。13年予備役編入。14年満州国馬政局長。

この間、昭和3年の第9回オリンピック・アムステルダム大会に選手、監督として出場、その後、第10回ロスアンゼルス大会、第11回ベルリン大会、戦後も講和条約後に国際舞台に復帰した日本の馬術監督として第15回ヘルシンキ大会、第16回ストックホルム、第17回ローマ大会で日本馬術選手団監督として選手を引率、昭和39年の第18回東京オリンピック大会でも日本馬術選手団総監督。オリンピックには計6回出場も出場している。

 

戦後は民間馬術の普及に尽力し、皇居・東御苑にあったパレス乗馬倶楽部で指導に当たり、昭和天皇も教え子の一人で親しかった。「昭和の馬将軍」、あるいは「昭和の曲垣平九郎」の異名をとった。

 

昭和30年紫綬褒章。馬術連連盟顧問。
昭和41年11月25日、83歳で死去。

 

著書・訳書、「遊佐馬術」、「馬狂放談」、「フィリス氏の馬術」、「シュテンスベック氏の馬術」など。

 

逸話と伝説

〜信じがたい逸話〜

遊佐幸平は「馬術の神様」と云われるだけあって、馬を見る眼は鋭く、大家の描いた絵画とて嘘は見逃さなかった。馬の歩法にありえない描写をした狩野探幽や横山大観の絵を前に、

「もちろん、絵には気韻とか生動ということがあって写実ばかりではゆかぬ点もあろう。しかし研究に徹した人は、写実即写意たることが可能であろうと思う。自然と正反対のことを描いて、これが写意であるという必要もないように思う。ドラ・クロアやドガ、セェリーエ、メソニェーとか、また古いところでイタリアの有名なウェンシーなどの絵にも、ウソは決して無い」

と言ってのけた。

 

〜驚愕の伝説〜

馬に乗り2日間で480km走破

遊佐幸平がエンデュランス競技(長距離耐久レース)で勝利した、2日間で480キロを走破した記録は空前絶後のものだ。

エンデュランス競技は、1人の騎乗者が同一馬に乗り1日80キロないし160キロを走るものだ。もっとも有名なレースにはアメリカ西部シェラネバタ山脈の岩地を24時間で160キロ走るテヴィスカップがある。また5日間で400キロを走るオーストラリアのシャザーダ・レースがある。レース中、レース後に馬体保護の観点から獣医の厳重な馬体チェックがあり、跛行などがあればただちに失格になる。

この過酷なレースが日本でも行われていた。騎兵学校教官時の遊佐幸平もアラブ系の雑種、「早形」とともに参加して優勝している。

そのコースたるや東京をスタート、高崎(群馬)〜軽井沢(長野)〜和田峠(同)〜諏訪(同)〜甲府(山梨)〜笹子峠(同)〜小仏峠(神奈川)〜八王子(東京)を経てふたたび東京に戻るというもの。中山道を行き甲州街道を経て戻ってくるコースで、途中には幾つもの難所の峠がある480キロの長距離だ。これを2日半で走破した。これほどハードな長距離レースは今後とも考えられないが、このレース後の余力検査で人馬とも無故障で元気だったという。

 

戦後、日本馬術の父として

戦後、遊佐幸平は皇居の宮内庁主馬班や代々木の中野正剛の自宅近くにあった東方会馬場で馬に乗っていた。

中野正剛は政治結社、東方会を主宰していた言論人で、終戦前東條英機首相を批判して自決したが、隻脚ながら大変な馬好きで邸内に四十間に十五間の埒馬場(らちばば)を作り、近所に家を探してきて遊佐幸平に住んでもらうとともに、宮内省主馬寮から人材を派遣してもらい丸抱えにして、乗馬に熱中した。片足で障碍飛越や代々木の原で襲歩をこなすほどになり、昭和16年の興亜馬事大会やに天覧馬術に出場するほどだった。

戦後の日本の馬術界は学生馬術出身者が主で、騎兵学校で鍛えら世界の一流どころと五分に渡り合えた騎兵学校出身選手のレベルとは大きくかけ離れていた。こうしたことから、

「現在の日本馬術の実力を端的に申し上げると世界の一流からはかけ離れ、オリンピック競技に至っては、参加することに意義があると申しても過言ではないでしょう。第10回ロサンゼルスオリンピック最終日に10万を越えるメーンスタジアムの観衆を前に夏空に翻った日章旗の栄光からは、遥か遠く歴史のかなたになっております。西君、私を・・・日本を助けてくれ・・・」

と嘆いたという。

 

 


勝負服

中央競馬
中央競馬JRA)では馬主ごとに服色が定められている。服色の登録は馬主が行い、勝負服そのものは、競走馬を預託している調教師が所有と管理を行う。一部の騎手の中には騎乗回数が多い馬主の勝負服を所有・管理しているケースもある。

勝負服の製作場所
制作メーカーは福島県福島市にある合資会社河野テーラー


 
▲〔河野テーラーで作られた勝負服たち〕

勝負服の登録
勝負服の登録は馬主登録と同時に行うか、所有馬が初めて出走する直前にJRAに登録する。使用できる色と柄は競馬施行規則に定められており、柄についてはその寸法について明記されている。

使用できる色
白・黒・赤・青・黄・緑・桃・水色・紫・薄紫・鼠・海老・茶13色で、胴と袖それぞれ地色と模様に1色ずつ、合計4色まで使用できる

使用できる胴の柄
無し(1色のみの使用)・一本輪・二本輪・三本輪・一文字・帯・山形一本輪・山形二本輪・山形三本輪・山形一文字・山形帯・菱山形・襷・十字襷・縦縞・格子・元禄・ダイヤモンド・うろこ・井桁絣・玉霰・星散・蛇目散・銭形散の中から1種類を使用できる。
※帯と山形帯については最近ではほとんど使用されていない。

使用できる袖の柄
袖の部分は胴とは別の色を使用でき、柄も別に定められている。左右で同じ柄を使用する。「無し(1色のみの使用)・一本輪・二本輪・三本輪・山形一本輪・山形二本輪・山形三本輪・菱山形・縦縞・格子・元禄・ダイヤモンド・うろこ・井桁絣・玉霰・星散・蛇目散・銭形散」の中から1種類を選択する。

 
特殊な柄
鋸歯形(胸から肩にかけて使われる柄であり、胴の柄はこれ以上使えず、袖の柄は「一本輪・二本輪・三本輪」しか使用できない)

   
▲〔鋸歯形の勝負服。ディープインパクトやキングカメハメハで有名な金子オーナーの勝負服として広く知られている〕

勝負服の変更
服色変更の申請があれば何度でも変更が可能である。過去には変更した翌週に元に戻した事例もある。

勝負服の抹消
馬主登録が抹消されると勝負服の登録についても抹消される。抹消された勝負服は抹消日から60日間は使用できないが、抹消馬主の相続人であれば同じ勝負服を使用することができる。

特殊な事例

勝負服が未登録のまま
     馬が出走した場合

JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色と袖の色が白で、枠番の色(1枠は水色)の斜縞が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく1・2枠が薄紫、3-8枠が黒となる。

 
勝負服を用意できなかった場合
JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色と袖の色が白で、枠番の色(1枠は水色)の斜縞が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく薄紫となる。競走馬の調教師に対して過怠金(1万円)が課せられる。競馬開催中に発覚した場合は、文字放送において告知を行う。

 
中央競馬馬主登録を
  受けていない馬主の
 競走馬が出走した場合

JRAより勝負服が貸し出される(1競走1頭につき使用料500円を徴収)。貸し出される勝負服は、胴の色が白で枠番の色(1枠は水色)の四ツ割が入り、袖の色が白で枠番の色(1枠は水色)の一本輪が入る。同枠の2頭がともに未登録の場合は馬番の大きい方は白ではなく薄紫となる。枠番の色が導入される以前の貸し出し用勝負服は、当時の写真を見ると、胴と袖の色が別々(色は不明)で、胴の右胸の部分に馬番が縫い付けられたものを使用していたようである。

海外馬が出走した場合
日本では登録が認められていない装飾の勝負服を着用して出走することができるが、帽子は枠の色の物を着用する。

地方競馬
地方競馬(NAR)ではホッカイドウ競馬の一部のケースを除き、騎手ごとに勝負服が定められている。これは騎手服と呼ばれるシステムで、所属競馬場やあるいは同じ地区の競馬場の他の騎手と同じものにならないように、騎手が色や柄を登録することになる。

デザインが騎手ごとのものであるため、基本的には騎手本人が色柄を選択する。他地区の有力騎手や中央競馬や海外の有力馬にあやかってその勝負服と同じデザインを登録している騎手や、一門で共通の柄を用いていたり、師匠である調教師が騎手時代に用いていた勝負服のデザインを弟子である騎手が受け継ぐなどということも見られる。

その他、中央競馬と地方競馬の勝負服で異なる点として、中央競馬では使えない色や柄が地方競馬では使えることもある。例えば、橙色は中央競馬で勝負服の色には使用できない(一部を除く)が、地方競馬では使用できる。

中央競馬の騎手が地方競馬場に指定交流戦のために遠征し、その遠征馬の他に一般戦などで地元所属の馬に騎乗する場合については、基本的には枠順に合わせた色の勝負服がJRA所属騎手用とし用意される。ただし、兵庫県競馬(園田、姫路)では、元兵庫所属のJRA騎手である岩田康誠が地元所属馬に騎乗する場合、馬券を購入する地元の競馬ファンの混乱防止の観点から、地方競馬時代に使用していた服色の勝負服を着用している。また、岩田康誠以外の元地方所属だったJRA騎手が騎乗する場合、地方所属時代の勝負服をイメージできる色の貸し服を着用する(小牧太:緑・内田博幸:青など)。武豊はこれらに該当しないが、ゴールデンジョッキーカップに招待されることが多いということもあり、ピンク色の勝負服を着用する。

   
▲〔武豊騎手オリジナルデザインの勝負服〕

同様に南関東地方競馬でも、2008年3月より騎手の取り扱いについて変更を行い、中央競馬に移籍した元南関東地区所属の騎手について、中央所属馬に騎乗する時以外は地方競馬当時の服色での騎乗が可能となった。これは大井競馬場のトップジョッキーであった内田博幸が中央競馬に移籍したことに伴って行われた変更である。また川崎競馬場では、2011年から「一定の基準」を満たしたJRA所属騎手については、各自がデザインした勝負服の着用を認めることとした

海外
日本の中央競馬と同じく、馬主ごとに勝負服が定められている。デザインについては日本より自由度が高く、日本で認められていない色や柄、装飾などが用いることができる。また、文字の挿入を認めている国もある。


ベージュ・ダークブルー・ダークグリーン・エメラルドグリーン・ライトグリーン・ガーネット・オレンジ・白・黒・赤・青・黄・緑・桃・水色・紫・薄紫・鼠・海老・茶 ほか


無地・エポレッツ(肩章)・ストライプ(縦一本)・ブレセス(縦二本)・ストライプス(縦縞)・ホローボックス(枠)・ホープ(一本輪)・ホープス(三本輪)・シェブロン(V字一本)・シェブロンズ(逆V字三本)・シームス(縫目)・サッシュ(襷)・クロスベルツ(十字襷)・クロスオブロレーヌ(ロレーヌ十字)・チェック(元禄)・ディアブロ(鼓輪)・ディスク(円盤)・サークル(輪)・クォータード(四ツ割)・ハァヴ(胴左半分・右袖)・スター(星)・スターズ(星散)・ダイヤモンド(ダイヤモンド一つ)・ダイヤモンズ(ダイヤモンド散)・トリプルダイヤモンド(菱山形)・スポッツ(玉霰)・ラージスポッツ(玉襷)・トライアングル(逆三角形)ほか

上記の柄の他に馬主独自の意匠が認められる場合もある(主にアメリカ競馬)。

 

 

帽子


日本競馬において競走時に装着する帽子は、1957年以前、勝負服同様、登録する義務があった。帽子がヘルメット仕様に替わったのは、1957年のこと。その前年にダービーにてエンメイ号の落馬事故あり、その際に阿部正太郎騎手が重傷を負ったことがきっかけと言われている。また1953年の国営競馬時代に年間に4人もの騎手が尊い命を落としていることが発端とも言われている。中央競馬会の関係者は騎手を守る為の打開策を検討し、米国の競馬雑誌『サラブレッドレコード』にヘルメットの記事を見て導入に踏み切ったという。
ここで、出走馬の識別を容易にするために連勝式の枠番別に帽色を決めようということに。
この時に決められた帽色は以下の通り。


1枠 

2枠 

3枠 

4枠 

5枠 

6枠 水色


※(当時は6枠制)

一方、地方競馬では一足早くヘルメットを導入。1953年1月27日に東京、神奈川、埼玉、群馬、千葉、茨城、栃木、長野、山梨の1都8件で構成する関東地方競馬組合が、騎手服の導入とともに枠番別の帽色を決定した。この6枠制の色は、1枠から白、黒、赤、青、黄、緑。つまり地方競馬では6枠制のときから現行の色だったのだ。これが地方競馬に浸透していった。

1963年 8枠連勝複式制導入

中央競馬では1~6枠は以前と同色で…
新たに7枠=茶色。8枠=黒と決定された。
この8枠制、当初は東京・中山・京都・阪神のみでの採用だった。ほかのローカルでは平均出走頭数が6頭を下回る状況だった為で、8枠にする意味がなかったのである。
(全競馬場での8枠制が実施されたのは1969年。)

 

これに対し、地方競馬側は8枠連複制を導入した際、中央競馬会との間で帽色の統一について話し合いをしようと歩み寄り、会議を行っている。中央競馬会からは理事2名、地方競馬側からは1名の計3名が出席してのものだった。このときに中央競馬会が強く反対したのが"黒"の使用だった。縁起が悪いという理由からだったそうだ。しかし地方側の代表は、「スタンドから一番遠い位置からでも、容易に色を識別できることが最重要。そのためには一目で識別できる黒は絶対に外せない」と真っ向から対立。代案を提示できなかった中央側に対し、地方競馬側は3ヶ月の準備期間を取り、色彩学の専門家に話を聞き、欧米に専門家を派遣したりするなど研究を重ねた。

その結果、従来地方競馬で使用していた6枠の色に、7枠は橙、8枠は桃というのを足して会議に出した。その結論は67年1月の「優駿」に記載されている。

「正月の中山、京都の両競馬から従来の連勝番号別色別帽を地方競馬と統一し、ファンの便宜をはかるため次のように変更になった。なお、第2色、第3色は従来通り四つ割、八つ割の染分帽を使用する。
1白、2黒、3赤、4青、5黄、6緑、7橙、8桃。」

こうして現在の帽色が決められた。

現行の帽色

1枠 

2枠 

3枠 

4枠 

5枠 

6枠 

7枠 

8枠 桃



帽色配色の起源
帽色の配列の
由来・起源は競輪にあるという。
昭和23年に競輪が小倉で初めて行われたときのこと、自転車に番号札を付けただけではどうも判別がしにくいので、当時の小倉市役所(現在は北九州市)の職員が良い工夫を考えていた。
たまたま暦を見て「一白、二黒……」という陰陽五行説にヒントを得たのだという。ただし、それをアレンジして決めたために陰陽五行説と微妙に一致しない。他の競技はこれに倣って色を付けたため必然的に同じ色になった。
当初、競輪は6枠までで、7枠と8枠は後に競輪が他の競技に合わせて、色を決めたとのこと。ちなみに9枠は紫になる。

 

染め分け帽

同じ枠に同馬主の馬が入った場合は、帽子の色も勝負服も同じことになる。それでは見分けが付かない場合もあるため、大きい数字側の馬に騎乗する騎手が染め分け帽と呼ばれる色が2色に分かれた帽子を着用することになっている。また17頭か18頭立てで行われるレースは7枠および8枠に3頭ずつ入るようになっているが、もし3頭全て同じ馬主の馬が入った場合は、最も大きい番号の馬の騎手が交互8つに色が分かれた帽子を着用することになっている。また、2番目に大きい番号の騎手は前述した4つ分けの染め分け帽を着用する。ただ8つ分け染め分け帽は滅多に見られず、2013年8月10日の第2回新潟競馬5日目第11競走で8枠制になってから初めて使用されている。

多頭出しの珍記録

【史上最多多頭出し記録】

 

9頭出し

 

2017年8月5日(土)の新潟競馬場、第2レース、2歳未勝利戦(直1,000m、16頭立て)で記録された。

(有)ミルファーム所有の9頭、ラテンリズム、ナターシャ、ピカピカ、モッポサン、スプンタマンユ、カーネーション、オマツリサワギ、ドゥルガー、パリモンマルトルが出走。結果はドゥルガーの3着が最先着。

それまでの記録もミルファームによるもので、2016年8月6日、新潟競馬場、第2レース、同じく千直のレースで8頭出しだった。

 

出走全馬同一馬主となったレース】

 

9頭立て全9頭同一馬主

 

2013年7月27日の盛岡競馬場にて行われた第1レース、9頭立てで、全馬(有)ホースケアの所有馬だった。

 


レコード
      あ
 

史上最多勝、世界最多勝はお分かり頂けたと思うので、その他の記録をご紹介!


通算最多騎乗数
※日本記録



  〝40201

桑島孝春
船橋の生んだ、地方競馬史に残る名ジョッキー。
ロッキータイガーと臨んだジャパンカップでは、世界の皇帝シンボリルドルフの2着と奮起。
その際に見せた風車ムチは今でもファンの語り草だ。
晩年は“くわじい”の愛称で親しまれ、多くのファンに愛された。


通算勝利数※日本記録

※〝大井の帝王〟的場文男騎手が2018年8月12日、大井競馬第5競走を、

 シルヴェーヌ号(1番人気)で優勝し、地方競馬通算7152勝を達成。

 佐々木竹見騎手が保持していた地方競馬通算最多勝記録を更新。

 ゆえに的場文男騎手引退後に日本最高記録として最更新致します。


  〝7151

佐々木竹見
地方競馬が世界に誇る伝説の“鉄人”。
川崎競馬所属で数々の名勝負を繰り広げた。
この記録は今後そう破られそうにない。
写真は7,000勝のゴール写真。
そして…


デビュー当初の貴重な写真がこれである。


  年間最多勝利数

日本記録
524勝

この記録は2006年にウチパクこと内田博幸騎手がマークしたもの。
その内訳は地方463勝、中央61勝。

世界記録
598勝

こちらも日本では馴染み深い豪腕ケント・デザーモ騎手が記録。
米国にて1989年に打ち立てたものだ。ちなみに2312鞍に騎乗。

 

真・世界記録
770勝

カナダはケベック州の繋駕速歩競馬のドライバーであるエルベ・フィロン騎手(1940年2月1日生。)が1986年に記録。

1953年から1987年に掛けて騎乗し、14,783勝を上げた騎手。

 



 世界史上最多勝率

.440
4割4分。
すなわち勝率44%。


米国伝説の騎手アイザック・バーンズ・マーフィー騎手が記録。
1412戦628勝。
現在米国の最高勝率騎手に与えられるアイザック・マーフィー賞は、
彼の名を取ってのもの。
日本のレジェンド、武豊の全盛時の記録を持ってしても2割4分。
この記録がいかに凄まじいものかが、窺い知れよう。




  障害最多勝利数


  〝428

本田昌雄
1933年~1960年の、わずか27年間の間で記録された。
障害レースの現在の数から見ても、ほぼ更新不能な記録と言える…のかもしれない。


  障害世界最多勝利数

 〝4,106

トニー・マッコイ(イギリス)

1992年3月26日から2014年4月26日までの12年間で達成。
なお障害における年間史上最多勝記録289勝(2001~2002年に記録)、最優秀障害騎手最多受賞(1996年の創設から2014年まで19回連続)もマークした英国が誇る、伝説にして史上最高の障害ジョッキーである。


  女性最多勝利数

日本記録
626勝

宮下瞳
騎手が地方・名古屋競馬を中心として紡ぎ上げた金字塔。
公営競馬のみで、海外での勝利は含んでいない。


▲〔宮下瞳騎手〕

世界記録
3,158

ジュリー・クローン騎手が1980年~1996年にかけて記録した女性史上最多勝記録。
この記録が破られた時は、それはそのまま歴史的女性騎手の登場を意味している。






  1日最多勝利数


   〝

これは日本が世界へ誇る天才騎手・武豊がマーク。
全盛期の彼の神懸り的騎乗ぶりはもはや〝伝説〟だ。

 

ルメール騎手も8勝を記録している。

2019年8月4日(日)の1回札幌4日開催にて、 クリストフ・ルメール騎手が開催日1日8勝および開催日1日9連対を記録。

いずれもJRA最多タイ記録で、 1日8勝は自身2度目、 1日9連対は自身3度目のことであった。


しかし…
上には上がいる!


世界記録

  〝9勝

※2場跨いでの1日における記録。


この偉大なる記録は、デットーリ…ではない!
米国のクリス・アントリー騎手によって1987年10月31日に記録されたもの。
この日、アントリー騎手はアケダクト競馬場で午後に一気の4勝を上げ、意気揚々と競馬場を後にすると、ナイトレース開催のメドウランズ競馬場へと乗り込み、5勝をかっさらう。
1日に2場で騎乗するという荒業…ある意味反則的(笑)なアグレッシヴ精神を発揮したことにより、ここに偉大な記録が生まれたのであった。

 

真・世界記録
9勝

※1場のみ1日のみでの記録。

 

スペイン伝説の名騎手ヴィクトリアーノ・ヒメネス騎手が記録。

スペインの競馬場ではなく、1924年から1929年まで、シーズンオフの際にエジプトで騎乗していた際に成し遂げた偉業。

カンパメント・デ・ラ・リネア・デ・ラ・コンセプシオン競馬場にて10レース中9レースに勝利して記録。

▲〔ヴィクトリアーノ・ヒメネス騎手〕


参考記録
1日全レース優勝・
    11戦11勝


この幻の記録はなんと日本で達成されている。
大正時代の佐賀競馬で活躍していた川田若彌騎手が、戦前の春木競馬にて達成したものとされている。


  1日最多騎乗数

 〝18鞍

この記録は2007年の7月30日、アルゼンチンはサン・イシドロ競馬場にて達成された。
この日は通常より多い開催ははじめて試みられ、グスタボ・カルベンテ騎手が全レースに騎乗する快挙を達成した。
残念ながら未勝利に終わってしまったが、今後破られることのない記録の一つとなりそうだ。
この金字塔が打ち立てられた件に関し、世界一の名手ランフランコ・デットーリも「信じられない。ロボットのようだ」と感嘆の声を上げている。

 



   世界最多連勝記録

 

14連勝

ティム・モッカシン騎手 (カナダ)

2001年8月24日、カナダ中西部サスカチュワン州のマーキスダウンズ競馬場(サスカトゥーン市郊外)にて三連勝。

翌25日には全7レース完勝。その後6日間の開催休みを経て、9月1日のナイトレースで第1R~第3Rを勝利。

第4レースを出走取り消しで欠場し、第5Rを本命のイントリケートスティッチ号で逃げ切り勝ちを収め、

世界最多、14連勝の世界新記録を打ち立てた。

 

それまでの世界記録は1933年に英国のG.リチャーズ、1958年にローデシアのP.ストローベルらが記録した12連勝。



その他記録一覧

項目騎手名記録備考
通算最多騎乗数桑島孝春40223回地方通算40201回
通算勝利数佐々木竹見7153勝中央2勝
障害最多勝利数本田昌雄428勝1933年 - 1960年
女性最多勝利数宮下瞳682勝地方626勝、韓国56勝
年間最多勝利数内田博幸524勝2006年 地方463、中央61
重賞最多勝利数武豊445勝

現役、JRA316勝、地方108勝、海外21勝
(GI 113勝、GII / GIII 332勝)

※2017年7月9日時点。更新中。

障害重賞最多勝利数白浜雄造17勝現役、JGI 2勝、JGII 7勝、JGIII 8勝
年間重賞最多勝利数武豊23勝2005年達成 GI6勝・GII6勝・GIII11勝
1日の最多勝利数武豊8勝現役(2002年12月7日記録)
複数日の連続勝利数鮫島克也10連勝現役(2007年3月3,4,10日記録)
1日の騎乗全機会勝利数渡辺博文7戦7勝2001年5月28日福山競馬場
赤岡修次2009年12月20日高知競馬場
最多連敗数折笠豊和810連敗2005年10月21日 - 2013年5月20日
年間最多獲得賞金額武豊44億1404万2000円2005年
通算最多獲得賞金額武豊730億2624万5500円2013年12月20日現在
最年長GI級競走勝利岡部幸雄53歳361日2002年10月27日 天皇賞・秋
最年少GI級競走勝利武豊19歳236日1988年11月6日 菊花賞
最年長重賞競走勝利岡部幸雄54歳30日2002年11月30日 ステイヤーズステークス
最年少重賞競走勝利川島正太郎17歳297日2008年8月18日 クラスターカップ 交流重賞競走
連続年度JRAGI競走勝利武豊23年連続1988年 - 2010年
連続年度GI級競走勝利武豊30年連続1988年 - 2017年、更新中。
最高齢出走山中利夫63歳4日2012年7月15日 金沢競馬場第1競走

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