定例会見で記者からの質問に答える斎藤元彦知事=7月30日、兵庫県庁(撮影・長嶺麻子)

 「ケミカルと同じや…」。宮城県に着任後、初めて石巻市魚町に立った時、そう思った。

 兵庫県知事に就くよりも5年以上も前のことだ。2016年1月24日付朝刊。斎藤元彦は神戸新聞に、このような書き出しの寄稿文を寄せている。当時の肩書は宮城県財政課長。総務省から出向し、2年前から同職に就いていた。

 寄稿では、神戸の地で祖父が終戦後、裸一貫でケミカルシューズの製造業を営んできたこと。その家業が阪神・淡路大震災で壊滅的な打撃を受けたこと。東北の被災地の光景が震災直後の神戸と重なって見えたことなどがつづられ、ふるさとへの思いで締めくくられている。

 「腰が低くて、礼儀正しい。およそエリート官僚らしからぬフットワークの軽さと、人当たりの良さがあった」

 この頃、親交のあった本紙記者はそう振り返る。

 斎藤は、職場の総務省から歩いて10分ほど離れた場所にある国会記者会館に、ふらりと顔を出した。報道各社の記者たちと雑談し、国政や地方の情勢などの情報交換をしていく。本紙記者は回想する。「そんな総務官僚は初めてだった。今考えると異色の官僚だった」。国会議員とのネットワークも広く、議員会館でも顔を合わせたという。

 一方で、政治家への志は隠そうとしなかった。

 「私の元彦っていう名前、元兵庫県知事の金井元彦さんから取ったんです」。先の記者が冗談がてら「いつか斎藤さんも兵庫県知事になるんでしょう」と水を向けると、ふふっと笑って否定しなかった。

 斎藤が大阪府の財政課長だった20年ごろから付き合いがあるジャーナリストの松本創(はじむ)も「東北(宮城県)の出向時代も含め、在阪記者からも軒並み評判がいい。好人物だったが…」と戸惑いを口にする。

 松本は複雑な思いで行く末を見つめている。

 「あの時の彼のイメージと、今の疑惑が結び付かない。取材先と、部下に見せる顔は違ったのもしれない。どちらが本当の彼だったのか」

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 「知事のパワハラは職員の限界を超え、あちこちから悲鳴が聞こえてくる」。七つの疑惑を指摘した元西播磨県民局長の男性は告発文書にそう記した約2カ月後、停職3カ月の懲戒処分を受けた。そして、7月7日に姫路市内で自死した。

 知事選で推薦を受けた自民党だけでなく、3年間一緒に働いてきた県職員の労働組合などからも事実上の辞職を求められ、斎藤は四面楚歌(そか)の状況だ。それでも「県政を前に進めるのが私の責任の取り方」と強く辞職を否定する。

 県庁は今、かつてない瓦解(がかい)の危機に直面している。8月1日に就任3年を迎えた斎藤。戦後最年少の兵庫県知事は何をもたらしたのか。

(敬称略、兵庫県政取材班)