欲望と認識

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人間の認識は欲望が背景にある。たとえばアイスクリームを見て食べたいと思う。こういう欲望的な認識である。味覚障害・嗅覚障害の人がいるとして、食べ物の味や匂いがまったくわからないとすれば、「アイスクリーム」は認識できないかもしれない。コロナで味覚障害・嗅覚障害になった人なら、過去の体験でアイスクリームの美味しさを知っているかもしれないが、そうではなく、生まれつき味覚・嗅覚を欠いているとしたら、アイスクリームをアイスクリームとして認識できないのである。美人を見て勃起するとか、ブスを見て吐き気がするとか、そういうのも欲望的な認識である。われわれは無生物として認識しているのではなく、生々しい肉体をもった生き物として認識している。人間にとっての価値である。美人・ブスというのも宇宙の真理ではないだろうし、人間的な欲望の物差しである。音が美しいとか、うるさいとか、それも人間の聴覚であろうし、音波を音として脳内で再生する機能ゆえのことである。あるいは、一万円札をもらって喜ぶというのは、猿だとありえないから、文明社会的な欲望となるだろう。一万円札を一万円札として認識するのは、ただの算数ではなく、欲望的な認識である。チラシが風に舞っていたら無関心だが、一万円札が舞っていたら血が湧き上がるだろう。快/不快でないものは存在しないわけではあるまいが、やはりわれわれの認識というのは、この人間世界において味わって位置づける行為なので、われわれの欲望のアンテナに引っかからないものは存在しているのか存在してないのか曖昧である。
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