岡美穂子先生かく戦えり10日間の記録(再々々のあっち方向の投稿、話題が逸れてるのでここで終了とします)リプはお気に入りのXしか拾えてない(チェリーピッキング)ので一見プラスのイメージですが、拾えてない残りの99%は批判のリプです。7/29からXを再開、堪え性の無い人の特徴です。問題はそんな個別のことではないのでは、要は自身の関係する論文や書籍の研究不正(創作、流用…)疑惑をロックリー氏を擁護する事で打ち消したい。岡氏の仕事はロックリー氏に公の場で釈明するよう諭すことだと思うのは私だけでしょうか
@ashenfox 本人が調子に乗り、世界的なトレンドも偶々相乗して、有名人になられましたが、それでも日本人はゲームの宣伝が出るまで気づかず、関心も持っていなかったはずです。
2024-07-20 17:06:44@mei_gang30266 先生の仰ることも、大変よくわかるのですが、インタビュー動画で言ってることがとんでもなさすぎて先生が擁護なさるような人物に見えないのですが。 パリ使節団の玉木三弥が弥助の子孫である可能性がある、と言ってみたり・・・ メディアの問題というより氏の身から出たサビのような・・・
2024-07-20 16:56:17@tashiroangel @maruirin @11112222tomoko @laymans8 一度だけ回答します。「十分に長い時間戦った後 aly esteve pellejando hum grande pedaço 」と書かれており、その後に明智の家臣が近づきと続くので、「最後」というのは、そういうことです。
2024-07-20 16:56:06平山優先生が本気で参戦なさったようなので、とても有難い。金子拓さんも別メディアで参戦準備しているとのこと。私が反論しているロックリーさんの言説は、「本能寺の変の後の弥助」部分なので、すべてを否定する必要はない。メディアが彼を持ち上げすぎたのは、メディア側の問題が大きい。
2024-07-20 16:48:31@mei_gang30266 @maruirin @11112222tomoko @laymans8 この質問に答えて頂けますでしょうか 「最後まで戦った」と表現されましたが最後とはどのような定義だったのでしょうか 捕らえられたわけでもなく討ち死にでもなく、説得に応じて投降したわけですが 私はこれを途中で戦いを止めたと解釈していました どうかこれだけお答えいただければと思います
2024-07-20 16:47:38@maruirin @11112222tomoko @laymans8 はい、それが正しい理解です。急いで英訳を作成したので、見落としました。
2024-07-20 16:19:37@11112222tomoko @maruirin @laymans8 写真のトリミングで前の一行が見えないだけです。良く読めましたね。 pic.twitter.com/acK6NOhhSg
2024-07-20 16:11:12@maruirin @mei_gang30266 @laymans8 ポルトガル語の原文には、先生が英訳された「At the request of the Padre Visitador」という表現は含まれていません。したがって、「パードレの要請により、信長に残されたカフル人が、信長の死後に信忠の館に向かい、そこで戦った」という内容は原文にはありません。
2024-07-20 16:04:32@11112222tomoko @mei_gang30266 @laymans8 AI翻訳は参考にならないことがあるのでおいといて、『その要望』を出したのは信長じゃないですか? 信長がぜひにと要望したので、過去、そのカフレ(弥助)を信長の元に残したんですよね。
2024-07-20 15:44:49この問題を追いながら既視感がつきまとっていた。自分で「専門知」と書いてみて、はた、と思い出した。わりと最近あった『土偶を読む』問題と、規模は異なるが構造的には似ているのだな。『土偶を読む』の内容はさておき、私は「集団私刑」はやめろ、とどこかに書いて、批判をいただいたのだった。
2024-07-20 12:34:16昨日この件と全然関係なくNHKの人と面談。NHKのドキュメンタリーは、史料にないことは、状況証拠を何重にも積み上げないと、番組に入れてはいけない、ということで意見は一致。「史料」から出せる歴史の面白さは山ほどある。それをハンドルする専門知は、やはり尊重していただきたいところ。
2024-07-20 12:03:11@kakei_mikoto 「秀忠」→「信忠」でしょうか?いずれにしても「伝えた」という記録は書かれていません。単にそちらへ移動したと書かれています。 数年後ではありません。この史料の原文は、1582年11月5日(西暦)ですので、4カ月と2週間ほど後でしょうか。
2024-07-19 23:48:39@ShogunateThe As I am one of the contributors to the New Cambridge History of Japan (forthcoming), you can trust my expertise. However, if I express my own opinions here, people might attack me. Therefore, please allow me by just quoting historical sources translated in English.
2024-07-19 23:05:53Reposting due to the nature of google translate, I don't want to mix up the original intent of the post. Still quite interesting to hear more voices chime in. x.com/mei_gang30266/…
2024-07-19 22:44:24戦国時代の「侍」の定義が曖昧であるというのは、日本史研究では一般的な認識のはずです。その上で、主と共に「刀を持って最後まで戦った」のであれば、私は「侍」と言ってよいと思います。過大に脚色しなくても、あるがままの姿で、彼の存在は稀有だったと言ってあげたいです。史料屋のひとりごと。
2024-07-19 21:14:25@Ubi1721606Ubi ポルトガル語はほぼネイティブです。先学の翻訳は参考にしても、必ず手書きの原文を確認して、自分で翻訳しています(それが生業なので)。現在日本語で読めるものは、1598年にイエズス会が編纂して活版印刷に付したものが翻訳底本で、省略箇所が多いため。
2024-07-19 22:36:16@mei_gang30266 谷口氏の研究では、弥助は武士や侍どころか、正式な家臣でさえなかった。 権威主義的論法ですが、先人の研究成果を、感情や感覚だけで覆すのは…… 現在の権威者である岡先生のお立場からの呟きは、非常に重いことをご自覚いただきたいです。
2024-07-19 22:28:49@mei_gang30266 岡美穂子准教授は日本語訳された物を参考にされていますか?それともポルトガル語が出来るのですか? 私は見かける日本語訳がどれくらい正確なのかよく分からなくて…
戦国時代の「侍」の定義が曖昧であるというのは、日本史研究では一般的な認識のはずです。その上で、主と共に「刀を持って最後まで戦った」のであれば、私は「侍」と言ってよいと思います。過大に脚色しなくても、あるがままの姿で、彼の存在は稀有だったと言ってあげたいです。史料屋のひとりごと。
2024-07-19 21:14:25これは1582年11月5日付のルイス・フロイスの『日本年報』で、該当部分は、当時京都にいたカリヨンという神父の報告です。本能寺の変が起こった日の朝からのかなり詳細な記述があり、かなりリアルです。
2024-07-19 21:08:22しばらく来ないと言ったが、丁寧に専門的な知識を求められると回答せずにいられない性質なので、立ち寄ってしまった。弥助が本能寺の変の日に、信長と一緒に居て、信長の死後、信忠のところへ行き、最後まで刀を持って戦ったことは、イエズス会史料にはっきり書かれています。
2024-07-19 21:00:57@KM0158 @laymans8 ヴァリニャーノがリスボンからインドへ行く途中に、モザンビーク要塞に立ち寄り、その司令官に挨拶に行った際に、支援金と共に、3人の奴隷を受け取り、2人をリスボンのイエズス会修道院に送って、1人を手元に残した、と書いてあるからです。
2024-07-19 20:28:01@laymans8 最後に原文画像を貼っておきます。a catana とcafreにマーキングしておきました pic.twitter.com/CMP4Ek0cqv
2024-07-19 20:14:23@mei_gang30266 @laymans8 ありがとうございます。 ご多忙なのは重々承知しておりますが、なぜこの画像が「たぶん弥助に初めて会った時」とするエビデンスとなるのか解説をお願いできないでしょうか? お手数おかけしますが、ご検討のほど何卒宜しくお願いいたします
2024-07-19 19:54:53
まとめを更新しました。
自分の倉庫から火が出たのでとりあえず水掛けたけど、倉庫の中身が禁水性物質だったのを忘れていて更に炎上してるって感じですね