満州事変以後、戦時中の日銀保有シェアは最大でも14%弱
まずは、満州事変以後、高橋財政(高橋是清蔵相が実施した財政政策)下で日本銀行による国債引受が実施されていた時代の国債保有を図1で確認してみよう。

日本銀行は、大蔵省から直接国債を引き受けていたのだから、さぞ大量の国債を保有していたのではないかとの想像力がはたらくが、さにあらず。
日本銀行のシェアは、最大でも1941年末の14%弱に過ぎなかった。日本銀行は、引き受けた国債を民間金融機関に順次売却していたからである。引受額のほとんどは、時間をかけつつも9割以上が民間で消化されたのである。
つまり日本銀行は、一時的な国債のキャッチャーに過ぎず、数カ月程度で、その大宗は民間金融機関等に売却されていたため、日本銀行の保有シェアはそれほど高まらなかったのである。
しかも戦時末期の1944年度末にかけて、同シェアは低下しており、戦況の悪化とともに大量発行される国債は、日本銀行ではなく、大蔵省預金部(財政投融資改革前に存在した資金運用部の前身)による引受や、民間金融機関への割当により消化されたのであった。1943年度の預金部は国債残高の4分の1以上、銀行等は3分の1以上を保有していた。
一方、家計(個人等)は、報国国債などを直接購入したほか、郵便貯金や銀行預金へも資金を配分していたため、金融機関を通して間接的にも国債投資をしていたと言えよう。1930年代前半には、約3分の1のシェアを占めたことから、個人による国債消化という経路は、戦前期に非常に有力なものであったのがうかがわれる。
この歴史的事実から見れば、現在の日本銀行は、国債を直接引受けているわけではないものの、戦時をはるかに上回る保有シェアになっていると言え、戦時と比較すれば、現在の日本銀行偏在の国債保有が異常に見えてくるはずである。