屈強な男の心がへし折れる瞬間からしか摂取出来ない栄養がある。
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──あれからどれほどの時間が経ったのだろうか。
尊敬する師範からポケモンの新たな可能性であるメガシンカを後世に伝える継承者の任を受け継ぐという長年の夢に破れ、更には自分にメガシンカに必要な「ポケモンと心を通わせる才能」が致命的に欠けていることを嫌というほど実感させられた俺は、彼の前で子供のように泣きじゃくった。
仮にも武術家を自称する20歳の男が、これまでに積み上げて来た自身の評価や信頼だけでなく、人として持つべき恥や外聞すらも投げ捨てて慟哭していたのだ。
この時ほど、俺は自分という人間が如何に未熟で惰弱な存在だったのかということを痛感したことはない。
俺がそのような脆弱な心しか持たない人間だったから「ポケモンと心を通わせる才能」に欠けていたのか?
はたまた、単純に俺の努力や鍛錬が足りなかったが故に師範から借り受けたキーストーンが反応してくれなかったのか?
その答えは今となっては誰にも分からない。
ただそんな俺にも唯一分かっていることがあるとすれば──。
それはこの時点で俺には師範から継承者の任を受け継ぐ資格も、相棒のチャーレムをメガチャーレムにメガシンカさせる才能もないということだけだった。
そうして涙も枯れ、心の中で荒れ狂っている怒りや悲しみ、嘆きといった感情が虚無で塗り潰された頃。
未だその場から立ち上がれずにいた俺の目の前に静かに座り込んだ師範は、そのまま昔してくれたように俺とチャーレムの頭を交互に撫でた後、普段のそれとは比べものにならないほど優しく、穏やかな声音でこう言った。
「ワシは確かにお前を継承者に選ばなかった。しかし、お前の人生はまだ始まったばかりだ。人生という名の道は無数に存在し、ワシから継承者の任を引き継ぐこともその一つでしかない。──だからのぅ、ハマギクよ。お前がワシに恩を感じ、それをワシの後を継ぐことで返してくれようとしてくれるのは嬉しいが、お前はお前の道を、お前の為すべき道を行きなさい」
そんな師範の──義父殿の優しく諭すような声を聞いた瞬間。
既に枯れ果てたと思っていた涙が、俺の双眸から再び滝のように流れ落ちていったのだった。
その後、師範から借り受けたキーストーン付きの籠手を返し、改めて彼に礼と謝罪の言葉を伝えた俺は、そのままチャーレムと共に道場側の自室に戻ることにした。
一晩中体を酷使し、叫び声を上げ、年甲斐もなく泣き腫らしたことで、今の俺は相当に酷い姿になってしまっているからだ。
このような情けない姿のまま午後からのコルニの指導にあたるなど恥以外の何物でもない。
せめて自分のことを慕ってくれる妹弟子の前くらいでは格好のいい人間のままでいたい──そのように考える程度の冷静さが、この時の俺にはまだ残っていたのだ。
当のコルニが何時ものような無邪気さと快活さを前面に押し出した笑みを浮かべながら俺に声を掛けてくるまでは。
コルニがこうして夜も明けて間もない時間に外を出歩いているのは決して珍しいことではない。
元々がアクティブな性格の持ち主であったことや、カロス地方でも爆発的に広まっているローラースケートにかなり嵌まっている彼女は、俺の指導を受ける傍ら、時間がある時にはこうしてスケートの練習をしていることがままあるのだ。
それ以外にも、俺が昔から彼女に対して「日々の鍛錬以外でも体を動かすことを忘れるな」と言い聞かせてきたのも、彼女がローラースケートというスポーツに嵌まったきっかけなのかもしれないが。
だからこそ、そんな彼女がヘルメットやプロテクターを付けた状態で俺の前に現れたのは何ら不思議なことではないのだ。
しかし、そのタイミングが最悪だった。
今コルニの目の前にいるのは、見るからにボロボロな自分より5歳も年上の兄弟子。
特に彼女前では弱音を吐いたことも、ましてや涙なども一度も流したことのない年上の男が、その相貌を真っ赤に腫らした状態で自分と向き合っているのだ。
そのような常ならぬ兄弟子の姿を見た彼女は、次の瞬間には俺の想像と寸分変わらぬ表情を浮かべながらこのような言葉を掛けて来た。
彼女は言った。
「どうしたのお兄ちゃん。何か辛いことでもあったの?」と。
そして、彼女は続けてこうも言っていた。
「何か悩みがあるなら聞くよ?あたしに何が出来るってわけでもないけど、それでもお兄ちゃんが苦しい思いをしているのなら、あたしはその苦しみを分かち合いたい」と。
……優しい子だ。
祖父である寡黙な師範とは違い、その可愛らしい顔に浮かぶ表情はまるで万華鏡のようにころころと変わるが、それでも誰かの傷付いた心に優しく寄り添い、倒れ伏した者に何の見返りを求めることなく手を差し出せるその精神性はまさに瓜二つである。
そんな彼女の根底にある優しさや慈しみに満ちた心に気付いていたからこそ、師範もコルニを次代の継承者に選んだのかもしれない。
普通の人間なら当然そのように思うのだろう。
だが、この時の俺には、そんなコルニの気遣いに満ちた言葉や、その言葉の節々から感じる彼女の優しさすらもが煩わしかった。
止めてくれ。
そんな優しい言葉と態度で俺のことを気遣わないでくれ。
これ以上俺を惨めな気持ちにさせないでくれ。
そもそも、お前に一体何が分かるというんだ?
知ったようなことを言うな。
何を言ってもお前が俺の気持ちを理解出来るはずがない。
いや、理解出来ていいはずがないんだ。
何せお前さえいなければ──。
俺はこんな惨めな思いをすることはなかったのだから。
そういった思いが堰を切った水のように自身の胸中にあふれ出した瞬間──俺はそんな自分の醜さに絶望した。
ただ純粋にこちらを心配してくれるコルニに対して妬みや嫉み、そしてそれ以上に醜いどす黒い感情を抱いてしまったことを自覚した瞬間、俺は俺という人間に心の底から絶望し、そしてそれ以上に失望してしまったのだ。
大切な妹弟子に、俺のような何処の馬の骨とも分からないような男のことを兄と慕ってくれる彼女にこのような醜い感情を吐き出しかけてしまった人間に、師範から継承者の任を受け継ぐ資格などないと断じながら。
そうして、未だにこちらを心配してくれるコルニに大丈夫だと伝えた俺は、少しだけほっとした様子でローラースケートの練習に出かけていった彼女の後ろ姿を見送った後、一度自室のシャワーで自身の体に張り付いた不快な汗を洗い流し、衣服を清潔なものに着替えてから改めて師範の部屋を訪れた。
しかし、それは彼に再度継承者の件で自分の願いを聞き入れて貰うためではない。
寧ろそれとは逆で、俺は自分の中で性懲りもなく燻り続けている継承者への未練を断ち切るために彼の元を訪れたのだ。
そして、少しだけ驚いた様子で俺を出迎えてくれた師範に向かって、俺は開口一番にこう頼み込んだ。
「次代の継承者であるコルニとそのパートナーであるルカリオの力を確かめるため、何よりあの子達の中に眠る素質の有無を見極めるため、何卒彼女達と模擬戦を行う許可をいただきたい。──これが、俺の最後の願いです」
そんな俺の言葉を聞き、数秒の沈黙の後に小さく頷いてくれた師範の浮かべていた苦悶の表情を、俺は一生忘れることはないだろう。
──翌日の早朝。
お目付役を買って出てくれた師範同席の元、俺とチャーレム、そしてコルニとルカリオの2人と2匹は、普段からお互いの技と心を磨き合っている道場の中央で静かに向かい合っていた。
その目的は勿論、俺達と彼女達とがこの場で模擬戦を行うためである。
尤も、前者は次代の継承者に選ばれた妹弟子とそのパートナーの力量を見極めるための真剣勝負、対する後者は何時も自分を指導してくれる兄弟子とのポケモンバトルという具合に、この模擬戦に対する認識には大きな隔たりがあったわけだが。
そのような相反する想いを抱えたままに刻一刻と迫る決戦の刻。
今更言及するまでもないことだが、師範が立ち上げた我流武術の教えに「待った」の概念はない。
そこにあるのは、「互いの全身全霊をもって雌雄を決するべし」という非常に分かりやすい教えのみである。
そんな質実剛健を地で行く師範の教えが俺は大好きで──それと同じくらい、俺はそんな彼の教えに縛られていた。
そうして道場の中央で礼を互いに礼を交わしあった後、最後に俺は、俺とチャーレムの目の前で楽しげにウォーミングアップの仕上げに取りかかろうとしているコルニとルカリオのコンビに向かってこう言った。
「今日こそはお前達の全力で俺を超えてみせろ」と。
すると、そんな俺の言葉を受けた彼女は何時も以上に明るい笑みを浮かべながらこう答えた。
「勿論!今日こそはあたしとルカルオのコンビネーションで、お兄ちゃんとチャーレムを超えてみせるよ!」と。
そんな兄弟子冥利に尽きる彼女からの答えを聞いた瞬間、俺の心はかつてないほどのざわめきに満ち満ちていた。
向かい合う両者、次第にピリついていく道場内の空気。
そうして道場の壁に掛けられた時計の秒針が時を刻む音や、互いの口から漏れ出る僅かな呼吸音すらもがやけに大きく聞こえるようになった時──。
「始めィッ!!!」
師範の口から放たれた裂帛の声を合図に、模擬戦の火蓋が切って落とされた。
試合そのものは俺とチャーレムがコルニとルカリオを圧倒する形で進んでいった。
それはそうだろう。
何故なら彼女達にポケモンバトルのいろはを叩き込んだのが俺なら、そこから更に発展した高度の試合の進め方やトレーナー同士の駆け引きを教え込んだのもまたこの俺だったのだ。
これまではそのような情報アドバンテージを活かしたバトルをすることは殆どなかったのだが、この可愛い妹弟子とそのパートナーポケモンが本当に師範の後を継いで次代の継承者を名乗るに足る者達なのかを見極めるため、俺とチャーレムのコンビは苛烈に、そして情け容赦なく彼女達を責め立てて続けた。
無論、そんな俺達の苛烈な攻めに防戦一方になるほどコルニのルカリオのコンビも未熟ではない。
最初こそ普段とは比べものにならないほど激しい攻撃を仕掛けてくる俺とチャーレムに驚いた様子を見せていた彼女達だったが、それも時間が経つに連れて徐々に落ち着きを取り戻すと、次第に俺達の攻撃をいなしながら反撃の機会を伺う姿すらも見せ始めたのだ。
この対応力の高さは流石は近代武術の傑物である師範の孫娘とそのパートナーといったところだろう。
同時に、そんな彼女達が積み上げてきた数多の経験の一部に俺からの指導という名の思い出が含まれていると考えるだけで、何とも誇らしい気持ちになってくるのだから不思議なものである。
しかし、だからこそ俺は負けられなかった。
負けたくなかった。
例え実の両親の顔どころか名前すらも知らない雑種犬のような俺でも、努力次第で血統書付きの天才に勝てると信じていたから。
例え尊敬する師範から「才に欠ける」と断じられた俺でも、これまでの人生で積み上げてきた経験全てを総動員すれば今にも俺の前を行こうとする天才に追いつけると信じていたから。
そんな一種の強迫観念にも似た思考に支配されそうになりながら、俺は努めて冷静にチャーレムへ指示を飛ばし続け、コルニとルカリオが仕掛けてくる反撃の手を悉く潰しながら確実に彼女達を追い詰めていった。
そして、チャーレムの繰り出したほのおのパンチを急所に受けて堪らずその場に膝を付いたルカリオにとどめを刺すため、俺が相棒に最後の指示を出そうとした──その時である。
「負けないでルカリオッ!」
──不思議なことが起こった。
コルニの懸命な呼びかけに応えるかのように、彼女のパートナーであるルカリオは、その姿をメガルカリオのそれに変えてみせたのだ。
それも、メガシンカに必要なトレーナーのキーストーンや、それぞれのポケモンに持たせるべきメガストーンの力も借りず、完全な二人だけの力で。
そんな奇跡のメガシンカをこの土壇場で成功させたコルニとメガルカリオの姿を見た俺は、自身の顔に皮肉めいた笑みを浮かび始めていることを自覚しながら小さくこう呟いた。
「──最初から分かっていたさ。所詮師範に拾われた雑種に過ぎない俺が幾ら努力したところで、師範の血を色濃く継いだお前には絶対に敵わないってことくらい」
だが、俺は同時にこうも思っていたのだ。
「ああ……これで漸く、俺の中に残っていた継承者への未練を断ち切ることが出来る」と。
そして俺は──コルニとの模擬戦に、負けた。
不断の努力も、生まれついての才能には決して敵わない。