幕府はどのようにして攘夷実行に向かっていったのか?幕府を追い込む長州藩と土佐藩、家茂の上洛と大政委任の否定
■ 将軍家茂の上洛と大政委任の否定 このころの京都は、天誅と称する暗殺が横行し、幕府の権威などはあったものではなかった。幕府は京都守護職を創設し、その治安維持に努めることになった。そこで、初代守護職に任命されたのは、会津藩主の松平容保であった。そして、疾風怒濤のように吹き荒れた即今破約攘夷運動は、文久3年(1863)春には、その沸点に達した。 この間の朝廷は、破約攘夷(通商条約を破棄して攘夷を実行)を主張し、かつ、将軍家から政権を取り戻す天皇親政を求める即時攘夷派の廷臣によって、朝議が乗っ取られていた。さらに、国事掛、国事参政・寄人という政策機構の創設、学習院による言路洞開および出仕制度による尊王志士の取り込み、御親兵という軍事力の常備が図られていた。 このような不穏な空気の中、将軍家茂は3月4日に上洛し、孝明天皇に拝謁して、これまで通りの大政委任を奏聞した。これに対し、天皇自身はそれを望んだものの、即時攘夷派に与する関白鷹司輔熙は、征夷大将軍はこれまで通りとしながらも、国事については、直接諸藩へ沙汰するとの勅書を渡したのだ。 将軍上洛によって、奉勅攘夷(勅命を謹んで受け、攘夷にまい進すること)は確認されたものの、大政委任は事実上否定され、委任されたのは征夷大将軍としての職能にとどまった。つまり、将軍の役割は国政全般ではなく、攘夷実行に限定されたのだ。攘夷以外の国事は、朝廷より沙汰するというもので、大政委任をすべての範囲で欲していた幕府とは、自ずと齟齬が生じた。
■ 攘夷期限の確定と方法の曖昧さ また、攘夷そのものについても、その期限や策略に関して、幕府から具体的な奏聞はなく、しかも征夷大将軍を委任した朝廷が、攘夷に関しても勅命を発した。そのため、これ以降、朝廷・幕府それぞれから命令が発せられる、政令二途が先鋭化して諸藩を悩ませ、中央政局を混乱させる主因となったのだ。 攘夷実行の期限については、幕府はその明言を拒みつづけた。しかし、4月20日、追い詰められた家茂は、5月10日と奏聞するに至った。しかし、当初は朝幕ともに、「襲来候節ハ掃攘致シ」(「上洛日次記」)と布告しており、まさに襲来打払令である。 たしかに、期限は明示されたものの、文字通り解釈すれば、外国から攻めてきた場合は、打ち払うことを命じており、単なる通船はその対象とならないはずである。しかしながら、その策略については、依然として曖昧であった。 次回は、鳥取藩による攘夷実行とその後の対応について、詳しく紹介するとともに、結果として、その事件が無二念打払令にまで発展し、政令二途が先鋭化する事態に至った経緯を追ってみたい。
町田 明広