先日、和歌山県は橋本市恋野のチューリップ畑に行った記事を書いた
のですが、その恋野から西へ10分ほど走れば「向副 (むかそい)」
という地区があります
その向副の高野山へと繋がる国道371号線を高野山方面に走っていると・・・
こういう「織田秀信公ゆかりの地」と書かれた説明板が立っています
織田秀信は、あの織田信長の嫡男「信忠」の子で、信長嫡孫。
明智光秀が起こした「本能寺の変」にて祖父信長、父信忠がともに亡くなり、
その後、羽柴秀吉の後見で織田家の家督を継ぎます。信長の後継者を
決める清須会議では後継者争いで優位に立とうとする羽柴秀吉に結果的に
利用されてしまいます。その後、岐阜城主となります。
【織田秀信終焉の地の石碑】が立ちます
関ヶ原の戦では西軍につき敗れ、高野山に送られます。
高野山では僧侶になる修行をしたそうですが、なにぶん高野山を攻めよう
とした信長の孫になるので、かなり冷遇されたとも、もしくは追放されたとも
いわれてますが結局、高野山から下山し向副に移り住みます。
織田信長の嫡孫が、紀州橋本で住み、歴史の片隅で静かに生涯を終えたという
のも意外です。もし本能寺の変がなければ、おそらく天下を治めた織田家の三代目
として輝かしい未来が待っていたかもしれません
その『織田秀信公終焉の地』を散策してみます
道路から少し高い位置にあるので上がります
けっして広く大きな史跡ではなく、小さなお堂とお墓、石碑があるだけです
【善福寺旧跡】
織田秀信が高野山から下山して入ったとされる「善福寺」
現在は同じく向副にある観音寺と合併してるそうで御位牌もその
向副観音寺に安置されてるそうです。
【織田秀信顕彰碑】
善福寺旧跡の少し上に【織田秀信墓所】があります
【織田秀信墓所】
自然石が置かれてます
【善福寺井戸】もありました
【武将印】って言うのかな~
織田秀信、幼名「三法師」 1605年7月死去、享年26歳
織田秀信公墓所(終焉の地)はここ
今回はこんなところです
ではまた次回に