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2024.7.1

マユンキキ インタビュー。私が作品をつくらなくてよい世界にするために(前編)

アイヌであることで経験する出来事を起点に、それを徹底して「個人」の観点から分析して作品にするアーティスト、マユンキキ。彼女は、東京都現代美術館で開催中の企画展「翻訳できない わたしの言葉」(4月18日〜7月7日)で、展示室を訪れる観客一人ひとりにも「その人自身」の認識を問いかける仕掛けを導入している。作品の背景にある考え、そして近年の先住民をめぐる言説に感じることとは? 会場のベッドの上で、彼女の経験を通訳として、そして友人として共有する田村かのこが聞いた(記事は前後編)。 *本記事は『美術手帖』2024年7月号(特集「先住民の現代アート」)のインタビューを未掲載分も含めて再構成したものである。記事は8月1日からプレミアム会員限定公開。

聞き手・構成=田村かのこ 撮影=池田宏(⁑を除く) 編集=杉原環樹、三澤麦

マユンキキ。「翻訳できない わたしの言葉」展(東京都現代美術館)の会場につくられた、マユンキキの自室を模した展示室にて
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足を踏み入れるまえに

田村かのこ(以下、田村) まずは、いま私たちがいる東京都現代美術館で展示中の《イタカㇱ》(2024)の話から聞こうかな。映像作品が2点と、マユンさん自ら「展示品」として存在することもある自室のような空間で構成されていて、観客は部屋に入る前に、「パスポート」にサインするよう促される。このパスポートの着想は、2023年に二人でオーストラリアに滞在したとき、フッツクレイ・コミュニティ・アーツ(以下、フッツクレイ、*1)のプロデューサー、ダン・ミッチェル(*2)さんに見せてもらった「Wominjekaパスポート」(*3)から得たものだよね。

マユンキキ そう。先住民主体の音楽フェスの入り口で非先住民の観客に対して配られるもので、自分が何を知っているか、どういう心持ちでフェスに参加するのかを自問自答するための質問が書かれている。しかも、運営側はその答えをチェックするわけではない、というのがとてもいい。自分が何を知っていて何を知らないかを、自分で確認するってすごく重要だなと。

「翻訳できない わたしの言葉」展(東京都現代美術館)の展示風景より、マユンキキの展示室前に置かれたパスポートのコーナー

田村 人にチェックされるより覚悟を問われる感じがするよね。フッツクレイのパスポートはオーストラリア先住民についての知識を問うものだったけど、今回のパスポートはマユンさん個人と関係を築くため、と書いてある。

マユンキキ 私の作品だから、大きな枠組みに対しての知識というよりは、私がその相手と関係を築くうえで知っていてほしい、考えてみてほしい、と思う質問に絞った。「アイヌ」を対象にしてしまうと、責任が取れないし、大きな主語では語らないと決めているので。それに、自分の部屋に誰でも招き入れたりしないでしょう? だから、たとえ答えがノーだったり、これまで考えたことがなかったりしても、私からの問いかけに対して一度立ち止まって考えてくれる人に入ってきてほしいと思った。そういう人なら私も安心して対話ができるし。

田村 マユンさんが観客と直に向き合うこともある今回の展示のしつらえは、美術館という守られた場所だからできるとも言っていたね。

マユンキキ うん。いま、アイヌであるというのは、日々身の危険を感じるということ。あちこちでヘイトスピーチが横行していて、SNSを開かなくても見えてしまったり、聞こえてしまったりすることが多い。とくに北海道では目に見えるかたちでアイヌへの差別がたくさんある。不特定多数の人と向き合う今回の構成は、東京の美術館だから実現できた。これを例えば北海道の美術館でやってくださいって言われたら、たぶんまだ怖くてできない。なぜそんなに怖くて辛いのかというのは、全員に理解されなくてもいいけど、パスポートで一回止められるのはどうしてなんだろう、と思ってもらう必要はあると思っている。私が公に何かをするときっていつでも怖いから。

パスポートにはマユンキキと関係性を築くための質問として、「私はアイヌが日本の先住民族であることを知っている」など、観客自身の認識を尋ねる項目が並び、サイン欄がある。自分の回答を提出する必要はない

田村 パスポートを持って入る部屋の外には、マユンさんが写真家の金サジさんや私とそれぞれ対話する映像が流れているね。マユンさんは映像作品をこれまでにも何点かつくっているけど、いつもマユンさんがほかの人に話を聞くスタイルだよね。

マユンキキ 自分ひとりでできることって本当になくて。誰かに何かを聞いていくことで、初めて自分の思い悩んでいたことが見えてきて、やりたいことがはっきりしていくから。そういうふうにしかつくる技量がない。金サジさんやかのこと映像のなかで話した内容も、べつに普段から二人と話していることだけど、それがすごく重要で。外ではなかなか話す機会がないけど、多くの人がそのことを知っていれば、もうちょっと生きやすくなる人がいたり、他者に対して慮(おもんぱか)ることができるようになったりするんじゃないかと思っている。

田村 映像の編集も人に一任しているね。

マユンキキ そう。インタビューを撮影してもらったら、最終的な時間だけ指定して、編集箇所は映像担当者に任せる。ここを使ってくださいとか、何を伝えたいとかは一切言わない。これまでの作品は全部そうしている。文章にして出すときも、文章の編集者に任せる。私が手を入れちゃうと、すごく作為的なものにしかならないし、コントロールしたくなっちゃうから。だから他者に、信頼している仲間に全部を託す。

《Itak=as イタカㇱ》(2024)より、映像「言葉をめぐる対話 サジと」の展示風景。マユンキキと在日韓国人三世の写真家・金サジが、本来自身の第一言語になりえていたかもしれない言語を学ぶことについて語り合う

田村 でも、内容はすごく個人的なものだよね。

マユンキキ うん、でも超個人的なことってじつは、誰しもが思うことと通じているんだなって思うの。私の話は、あくまで北海道で生まれて、家庭環境とかいろんな状況や背景があったうえで生きているアイヌの女としての個人的な悩みじゃない? それは誰ともかぶらないように思うけど、実際はすごく普遍的な話で。全然違う属性の人が思い悩んでいることと共鳴したりする。生きづらさをどう解消していくかとか、悩みをなくすために何をしているかとか。何かを代表して言うよりも、共感を得やすいのかもしれない。

つねに個人を想像する

田村 展示品に個人的な解説を書くということもやっているね。

マユンキキ 博物館の収蔵品に付いているキャプションは、収集した人の視点で書かれていることが多い。例えばアイヌの民具に、どこで何年に収集されて、なんと呼ばれていたってだけ書かれていると、過去の遺物にしか見えない。でも本当は、誰かにとってすごく大切で、思い出深いものだったかもしれない。だから世界の博物館に収蔵されているアイヌ関連のものの解説文を、私の言葉で上書きするというプロジェクト(*4)をやっている。私が個人的な思い入れを示すことで、アイヌはいまも昔もこれからも生きていて、博物館で見るようなものたちをいまもまだ大事にしている人がいるのだと伝えたい。

 今回の作品では、私の持ち物全部に解説を書いた。誰でも手に入るような、本来キャプションなんか付いていないものだから、一見すごく違和感があると思う。でも例えば、このまま100年経って、この展示が博物館に収蔵されたら、違和感もなくなるでしょう。でも、100年経たなきゃそうならないのはおかしい。過去にならなくても、それぞれのものに価値はあるし、それに関わる人の存在も絶対あるはずだから。それに気づくための装置としてのキャプション。誰の家にもあるかもしれないようなもの一つひとつに、すごく向き合って、見た人が、あ、大事なものなのかなとか、こういう思い出があるのかな、という想像につながることを書こうとしたの。

展示室に置かれた、マユンキキが愛着を持つ持ちものたち。展示品にはそれぞれ、マユンキキとそのものとの個人的な関係を記したキャプションが付されている。画面中央にある複数の熊のぬいぐるみが通称「クママツ」

田村 ただのモノじゃなくて、パーソナルな持ち物だと思える。

マユンキキ 鑑賞者も、誰かの個人的なものであると認識すると、不思議と主語が大きくならないのよね。これまで自分の思っていたイメージが、ちょっと崩れるきっかけになるのかも。自分が思い描いていたアイヌ像は、もしかしたら違ったかもしれないとか。そうやって「アイヌ」とか、集団的な呼称から引き離すことで、大きな枠組みに対しての働きかけになるし、博物館で人がものを見る視点を変えられるのでは、と思って。だからこの部屋の展示はたぶんここだけでは完結できなくて、この先、人が博物館で他の展示品を見たときに、なにか作用するのではと期待している。

クママツたちについてのキャプション。英語表記は自動翻訳による

田村 マユンさんの部屋にある個人的なものと、世界中の博物館にあるアイヌの民具とが対になって、作品として成立する感じがする。だってアイヌだけじゃなくて、先住民の展示品となっているもの、大英博物館とかに入っているようなものって、ほとんどすべて、もとは誰かが手でつくった個人の持ち物で、個人の部屋に置いてあったわけでしょう。そう考えると、鳥肌が立つ。

マユンキキ しかもその持ち主たちは、博物館に飾ってくれと頼んでもいないし、それについて語ってもいない。その人たちが自らの意思で、これをここにぜひ飾ってくださいってお願いして、自分たちがそれに対してどう思っているかを解説に書いているなら、まだいいと思う。選択して置いているから。でも、選択できていないことが問題。

 パスポートを書いてもらって、入るかどうかを選択するとか、ここに土足で入るっていう選択をしてもらうのも同じこと。私は普段生きているなかで、土足で踏みにじられている、と思うことが多い。でも、それを怒りたくない。「土足で入っていいんですか」って聞いてくれたら、「あ、大丈夫ですよ。土足でどうぞ」って言えるし、聞いたほうも、その先自分が土足であることを気にしないでここを踏める。そういうなにか、一個一個の仕掛けみたいなものをたくさん散りばめておいて、あとでどこかのタイミングで、あのときのあれはこういうことだったのかも、みたいになったらいいなと思っている。

田村 自分自身も展示品となって来場者と会話をしているけど、それはやってみてどうだった?

マユンキキ 私がこの場にいると、すぐ集団カウンセリング場みたいになるの。悩みを抱える人たちが集まってきて。でも、それはすごくありがたい。私とまったく違う出自を持った人が作品を見て、自分も同じことを思ったことがあったんですとか、自分がそれに悩んでいたことに気付けました、とか言ってくれる。その人にとっては直接的に同じことじゃないはずなんだけど、私の映像作品を見ることで、自分を振り返る契機になっているなら、すごく尊いと思って。

マユンキキの展示室の風景。自室を模した「セーフスペース」としての空間に、作家にとって大切な様々なものが並ぶ。展示室のベッドの上には、会期中、マユンキキや彼女が信頼する友人らが滞在し、訪れた鑑賞者と言葉を交わす

田村 弱さを出してもいいと思えるのかもね。

マユンキキ うん。あとは、このことで悩んで、解決しようとあがいてもいいんだ、と思えるとかね。本当は何かやらなきゃいけない、向き合わなきゃいけないと思っているようなことでもさ、悩んでいていいって言われるだけで、楽じゃない?

田村 マユンさん自身も、いつも悩んでいるしね。

マユンキキ そう。そんなことでウジウジしないで、と言われるようなことであっても、いや、だって辛いんだもん、もう嫌なんだもん、ってちゃんと言いたいから。言える世界のほうが優しいでしょ。

なぜ表現するのか

田村 美術表現を始める前は、そういう抱えさせられている気持ちはどうしていたの?

マユンキキ 抱えていた。いまよりもっとウジウジしていた。私はもともと美術を見るのがすごく好きで、自分でつくろうなんて一度も思わなかった。印象派が好きで、モネが好きで。これまで何千人という人が、モネの絵を後世に残そうと尽力した結果、私も見ることができるという事実にすごく感動して。だから現代のものよりも、たくさんの人の気持ちが込められて残された古い作品を見るのが好きだったし、そういうものだけ見て生きていたかった。でも、そうはいかないじゃない? 現実って。だから、現代美術もどんどん見ていくようになっちゃって。

田村 困ったね。自分で作品をつくるようになったのは、ブルック・アンドリュー(*5)との出会いがきっかけ?

マユンキキ そうね。「シドニー・ビエンナーレ2018」で片岡真実さん(キュレーター、森美術館館長)がディレクターになったとき、ブルックは参加アーティストの一人で、北海道にアイヌのことをリサーチしに来ていて知り合った。その後にあちこちを回るというから、せっかくだからご案内しますよと言って、冬だったけど、ばあちゃんに形見分けでもらったアミㇷ゚(アイヌの着物)を着て、シヌイェ(アイヌの伝統的な文身・入れ墨)を描いて待ち合わせをした。そうしたらそれを見たブルックが「マジ最高」みたいに言ってくれて意気投合して、旭川や北海道博物館に一緒に行く道中ずっと、ブルックと話したの。真実さんが通訳してくれながら。それで入れ墨を自分で入れている映像の話をしたら、「それを作品の一部として使わせてくれ」となって。そのあとビエンナーレの会期中初めて一人で海外に行って、ブルックの映像作品が流れている前で、1曲歌うというパフォーマンスをやった。まったく英語もわからないなか、よく頑張ったと思うわ。ブルックがずっと助けてくれていた。

 そして、その次のシドニー・ビエンナーレでブルックが芸術監督になったとき、マユンの考えていることは絶対作品になるから、何かつくれって言われた。

第22回シドニー・ビエンナーレ「NIRIN」(シドニー現代美術館、2020)における、マユンキキと池田宏(写真)《SINUYE: Tattoos for Ainu Women》(2020)の展示風景 Photo by Zan Wimberley(⁑)(*6)

田村 どう思った?

マユンキキ できないよと思った。私、音楽しかやってないし、美術好きだからやりたくないと思って。でも、「どうにかするから。マユンに出てほしいんだよ、僕は。君の考えていることは、ちゃんと表に出すべきだ」みたいに、なかば強引に後押ししてくれて。

 それで結局、私は入れ墨の研究をしていたから、それはちゃんと現代美術の文脈に乗せられるんじゃないかと思って、プロジェクト・コーディネーター​​の細川麻沙美さんに手伝ってもらって、かたちにした。それが2020年。

田村 やってみてどうだった?

マユンキキ 最初は分からなかった。これが作品になり得ているのかも。でもブルックがさ、芸術祭の来場者が絶対誰も見逃さないような場所に展示してくれちゃって。見てくれた人が、すごく素晴らしい作品だったって、たくさん声を掛けてくれて。英語は何を言っているか分からないけど、とにかく褒めてくれていることだけは分かって。それが衝撃だった。

田村 音楽をやっているときは、そういう自分のもやもやしたものとか、悩んでいるものを表現するっていう気持ちではないの?

マユンキキ うん、音楽は楽しいだけで済んじゃうでしょう。もちろん、考えさせるものもたくさんあるけど、とりあえずノリとか好みとかだけで、盛り上がれちゃうじゃない。だからそこでは、私の悩んでいることを表現できなかった。とくに私はアイヌの伝統歌をやっているから、自分で手がけた音じゃないし、個人的な思いは邪魔になるんじゃないかと思って。アイヌを代表することになっちゃうから。

Ikon Gallery(バーミンガム)での個展「SIKNURE–Let me live」(2022)のオープニングで行われたMayunkiki & Surge Orchestraのパフォーマンス風景より Photo by Tegen Kimbley(⁑) Courtesy of Ikon Gallery
Photo by Tegen Kimbley(⁑) Courtesy of Ikon Gallery

田村 音楽はマユンさんにとって、印象派の楽しみ方に近いということだね。いっぽう、現代美術の文脈での表現活動は、2020年のシドニーをきっかけに、いまいろいろ展開していっているでしょう。それは自分ではどうとらえている?

マユンキキ ずっと悩んでいる。作品つくるのは毎回苦しいし、楽しくない。でも、日々嫌なことが起きたときに、よし、これも作品にしてやるぞ、って切り替えることができるようになったから、それは少し楽かな。いままでは、ただずっと抱えていたから。

「SINRIT シンリッ アイヌ女性のルーツを探る出発展」(CAI03、2021)に出品された、マユンキキの父、母、姉、義兄、幼なじみという彼女にとって身近な5人にインタビューした作品《SINRIT シンリッ》。「シンリッ」とはアイヌ語で植物の根や、祖先という意味を持つ。マユンキキと出会う前と後の人生、それぞれとの関係性や、マユンキキに何を望むかなどを質問していくことで、一人の人間像が浮かび上がる 写真提供=マユンキキ(⁑)

田村 シドニーのあと、2021年に札幌で初めて開いた個展(「SINRIT シンリッ アイヌ女性のルーツを探る出発展」、CAI03​​)では、ご家族との映像作品も制作していたよね。家族との作品は、どういう思いでつくったの?

マユンキキ 美術作品をこれからもつくり続けるかどうか悩んでいたの。家族との作品をつくれたら続けよう、と賭けみたいな気持ちで挑んだ。これからもつくっていくなら、まず自分のことをまるっとさらけだそう、と。ルーツの話は、やっぱり一番重要だから。でも結局、家族や親友に、私という個人についての話をしてもらったところで、アイヌのことって外せないの。私がアイヌやめたいとか、アイヌから抜け出したいとか思ったところで、絡みついてきてしまうということが、映像にはっきり現れていた。

「SINRIT シンリッ アイヌ女性のルーツを探る出発展」(CAI03、2021)の展示風景より 撮影=マユンキキ(⁑)
「SINRIT シンリッ アイヌ女性のルーツを探る出発展」(CAI03、2021)の展示風景より 撮影=マユンキキ(⁑)

みんなで重いものを持つ

田村 アイヌであることから逃れられない、ということが、マユンさんの苦しみのもとでもあるし、作品の原動力にもなっているよね。そうなると、作品をどう見てもらうのがいちばん理想? 女性アーティストの作品を「女性」ありきで評価するな、というように、作品は作品で評価されるべきというのが定説だけど、マユンさんの作品からアイヌを引き剥がして「純粋に作品を評価する」ことは難しいでしょう?

マユンキキ 「アイヌの」って言われることは、しょうがないと思っている。いまは過渡期だし。アイヌの作家ということでしか、選ばれていないだろうと思うことのほうが多いし。でも、それは甘んじて受けるって決めている。甘んじて受けて、でもちゃんと評価される作品をつくる。

田村 きれいごと言わないで、腹割って話してくれたら引き受けるとも言っていたよね。

マユンキキ そう、はっきりと「この展示に一人、先住民入れときたいんっスよ」って言ってくれたらやる。

田村 でも理想は?

マユンキキ 本当は作品つくりたくない。

田村 作品をつくらなくていいのが理想?

マユンキキ そう。作品をつくらなくてよい世界にするために、作品をつくっている。

田村 ということは、アイヌであるってことと関係なくマユンさんの作品を語れる状態になったときには、マユンさんが作品をつくる必要がなくなるということ?

マユンキキ そう。こんなことをわざわざ作品にして主張しなくても、ほかの人に知ってもらわなくても、当たり前になっているといいなと思うから。私の作品が、50年後に誰かに見られたときに、「ああ、この時代はこんなことわざわざ言わなきゃいけなかったんだね」と思われる世界になっていてほしい。例えば、誰でも話す言語をいつでも選択できる、というのが当たり前になっていたら、わざわざサジさんやかのこと映像であんな話をしなくていいでしょう。本当なら自分の第一言語はこの言語だったはずなのに……みたいに感じることの苦しさを多くの人が分かっていれば、たぶん私もサジさんもこんなに悩まなくていいはず。でも、いま作品をつくることで、この時代はこんなふうに見せなきゃいけなかったんだ、まだ理解がなかったんだ、という証拠にはなると思っている。

《Itak=as イタカㇱ》(2024)より、映像「言葉をめぐる対話 かのこと」の展示風景。マユンキキと、彼女の英語通訳兼コラボレーターとして活動する田村かのこが、英語という覇権的言語を意図的に選択/非選択することの意義や、「通訳」という立場で現場に関わりながら、自身の当事者性に向き合うことについて語り合う

田村 主にマジョリティの側、悩まなくていい側の人たちが、もっと知っていてくれたらっていうことだね。

マユンキキ そう。いつも言うけど、多様性って、それまで3割の人が超重いものを持っていて、7割の人が持たずにいられたものを、7割の人にも渡して、全員でちょっと重いものを持つみたいなことでしょう。たぶん全員がちょっとモヤっとした気持ちになることでしか、多様性は得られない。みんながハッピーとかないの。

 これまで気づかずに過ごせていた人たちが、私とかサジの話を聞いて、いままで自分は知らないで済んでいたからその分持つよ、みたいに重たいものを一個でも持ってくれれば、少し軽くなる。作品を一個つくると、ちょっと軽くなる。でも、作品をつくらなきゃいけない状態である限りは、ずっと重い。

田村 そういうことに気づいてもらうために美術作品をつくることは、アクティヴィズムや提唱活動とはどう違うの?

マユンキキ 私は運が良くて、発表の機会を与えてもらえているから。与えられている限りは、美術でやってもいいんじゃないかと思っている。これまで本当に、アクティヴィズム的なことってやりたくないと思っていたけど、主張しないとか、抵抗しないのは、もう無理なの。よく美術とか音楽に政治性や主張を持ち込むな、みたいに言われるけど、そんなこと言うのは日本だけ。とくに先住民の作家なんかさ、もうそれでしかない。自分たちが抱えさせられてきたものに対する抵抗を、作品で示している。それは当たり前なのに、私はそれが当たり前じゃない国で育って、その国の言語を話しているから、もうちょっと人々が主張するために、音楽も美術もあっていいのだと言いたい。

*1──メルボルン郊外のフッツクレイにあるアートセンター(1974年設立)。先住民、障害のある人、LGBTIQA+​​、文化的・言語的に多様な背景を持つ人など、すべてのコミュニティの人々の、文化の創造者としての価値が認められることをヴィジョンに活動する。「ファーストネーション・ファースト」というポリシーを掲げ、先住民のアドバイザリー・グループを設けるなどの取り組みも行う。マユンキキと田村は、公益財団法人セゾン文化財団の交流事業として、2023年と2024年の2度にわたって同施設を視察。現在も交流を続けている。
*2──Dumawul and the Djaara Corporationシニアクリエイティブ戦略プロデューサー。先住民族ワジュク・ヌンガー​​と、アイルランド系およびスウェーデン系​​の複数のルーツを持つ。フェスティバル、サーカス、演劇、音楽、パブリック・アート​​などのプロデューサーとして30年以上に渡り活動し、2019年にフッツクレイ・コミュニティ・アーツに着任。2024年4月の退任まで同施設で先住民文化プログラムを手がけた。ダン・ミッチェルに関しては、田村による以下のインタビューも参照されたい。「ダン・ミッチェル 先住民や移民のコミュニティとの対話を促進する フッツクレイ・コミュニティ・アーツ」Performing Arts Network Japan​​、2023年3月9日​​(​https://performingarts.jpf.go.jp/article/6856/​​)
*3──フッツクレイで2010年から開催されている先住民主導のイベント「Wominjeka Festival」で、非先住民のゲストや観客に配布されるパスポート。「あなたがいま住んでいる土地のアボリジナルの人々に、何が起きたのかを知っていますか?」「今年の1月26日に行われる侵略の日の行進に、昨年よりも5人多く友人や家族を連れて来られると思いますか?」などの質問が並び、その下にサイン欄がある(1月26日は、イギリスから到着した第一船団[ファースト・フリート]が1788年1月26日​​に入植を開始したことにちなむ国民の祝日[オーストラリア・デイ]だが、先住民からすればオーストラリア大陸への侵略と先住民への迫害が始まった「侵略の日」[Invasion Day]であり、近年、祝日の日付の変更を求めるなどの抗議運動が広がっている)。
*4──マユンキキがライフワークとして継続的に行うプロジェクト。世界の博物館に収蔵されているアイヌの民具や着物などと、それに付随する解説文をリサーチ。展示の際には、博物館から借りてきた収蔵品と、マユンキキや彼女に近しい人が作ったもの、もしくは普段から使っている同じもの(博物館にある作者不明の着物と、マユンキキが祖母から形見分けでもらった着物など)を並べて展示し、博物館にもとからある解説文と、マユンキキ自身がそのものに寄せる個人的な思いやエピソードを書いた新たな解説文を並べて提示する。
*5──アーティスト。1970年シドニー(オーストラリア)生まれ。現在はメルボルンを拠点に活動。先住民族であるウィラドゥリとナンナウォル(「ン」は小さい「ン」)、およびケルト​​のルーツを持つ母と、ケルトとユダヤのルーツを持つ父のもとに育つ。個人のアーティストとして支配的な文化や歴史観に対抗する作品を制作するほか、先住民主導のシンクタンク 「Powerhouse-galang」や、「保護」「 継続的な敬意」「癒し」を焦点に先住民的方法論の研究や実践をサポートするコレクティブ「BLAK C.O.R.E.」​​など、​​先住民のための場づくりも精力的に行う。芸術監督を務めた2020年の第22回シドニー・ビエンナーレ「NIRIN」で、マユンキキにアーティストとしての参加を依頼。アート分野での活動への道を開き、その後も交流を続けるなど、マユンキキのメンター的な存在でもある。主な個展に「Brook Andrew: The Right to Offend is Sacred」(ビクトリア国立美術館、2017)、国際展への参加に「シャルジャ・ビエンナーレ15」(2023)、「第60回ヴェネチア・ビエンナーレ」(2024)など。2023年にAudain Prize for the Visual Artsを受賞。ブルック・アンドリューについては、『美術手帖』2024年7月号(特集「先住民の現代アート」)での田村かのこによる作家解説も参照されたい。
*6──写真クレジット=Mayunkiki with photography by Hiroshi Ikeda, SINUYE: Tattoos for Ainu Women, 2020. Installation view for the 22nd Biennale of Sydney (2020), Museum of Contemporary Art Australia. Commissioned by the Biennale of Sydney with generous support from Open Society Foundations, and assistance from NIRIN 500 patrons. Courtesy the artist. Photograph: Zan Wimberley.

「マユンキキ インタビュー。私が作品をつくらなくてよい世界にするために(後編)」はこちら。


2024.7.30

コレクターミュージアムの意義とは何か?
UESHIMA MUSEUM館長・植島幹九郎×彫刻家・名和晃平

今年6月、渋谷教育学園敷地内(東京)にオープンしたUESHIMA MUSEUM。館長の植島幹九郎は、2年ほどの間に680点あまりの作品を収集してきた注目のコレクターだ。圧巻のコレクションを体験できるこのミュージアムのなかでも存在感を放つのが名和晃平の作品。今回は植島が名和を対談相手に迎え、その作品やコレクターがミュージアムをつくる意義について語り合った。

文=中島良平 撮影(*除く)=稲葉真 編集=橋爪勇介(ウェブ版「美術手帖」編集長)

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名和晃平との出会い

──UESHIMA MUSEUMのエントランスで最初に来場者を出迎える作品が名和晃平さんの《PixCell–Deer#40》です。植島さんはなぜ名和さんの作品を購入されたのでしょうか?

植島幹九郎(以下、植島) 私はアート作品自体、2016年にニューヨークのマリアン・グッドマン・ギャラリーでゲルハルト・リヒターの作品を見て興味を持ち、それから少しずつ購入するようになりました。当時、日本有数のコレクターであり、精神科医である高橋龍太郎氏のコレクションに関連する本を買ったり、2017年に熊本市現代美術館で開催された「高橋コレクションの宇宙」展を見に行ったりするなかで、名和さんの作品に大きな衝撃を受けたんです。インパクトがあり、高橋コレクションのなかでもとくに憧れの作品という位置付けでした。そして2022年の2月に本格的にコレクションを始めることになり、いま当館の1階に展示している《PixCell–Deer#40》(2015)を購入する機会に恵まれたという経緯です。

展示風景より、手前が名和晃平《PixCell–Deer#40》(2015) *

──植島さんは中学生の頃からずっとアインシュタインと物理が大好きだったそうですが、理系分野への興味が名和さんのコンセプトとシンクロするような感覚があったのでしょうか。

植島 そうですね。高橋コレクションのなかでも、私が直感的に名和さんの作品に惹かれた理由が、実際にお会いして、名和さんの物理への興味が作品に反映されているというお話を聞いてからわかりました。人間の視覚や光などをテーマにした名和さんの作品が、私自身の興味につながったようです。

名和晃平(以下、名和) 僕も子供の頃から科学の分野、とくに物理や天文学がすごく好きでした。それで、アインシュタインやコペルニクス、ガリレオなど科学系の本をよく読んでいたので、アートとサイエンスの分野への興味には隔たりがありませんでしたね。

地下1階の展示風景 *

──名和さんの作品から感じられる、物理や工学などへの視点は幼い頃に育まれたものだったのですね。

名和 僕が大学で彫刻を学んでいた頃は、モダニズムのなかですでにひと通りの造形表現が試し尽くされて、もう造形で行える表現はない、「造形は終わった」という風潮がありました。そこで、たんに造形を生み出して見せるのではなく、すでに形があるものを別の状態に変換するアプローチや、造形が生まれてくる過程もしくは素材そのものの扱いに独自性を持ったことができないかを考えました。それが例えば「PixCell」シリーズなのですが、あれは剥製をはじめとした既存のモチーフを用いて、その表面をレンズで覆うことでオプティカルなエフェクトをかけ、映像性を帯びたオブジェクトへと変換するというコンセプトで制作しています。作品を構想していた1990年代は、ちょうどインターネットが普及し始めた時期でもあったので、情報化の波が押し寄せる社会の中で、イメージをどのように作品に取り入れるか、高度情報化時代の記念碑的な作品が残せないかということも考えていました。

オラファー・エリアソンの《Eye see you》(2006)を見る名和と植島
2階の展示風景より、アンドレアス・グルスキー《Bangkok Ⅸ》(2011)

──ミュージアム1階、入口正面突き当りの壁に《PixCell–Deer#40》が展示され、2階の展示室の奥の方では《PixCell-Sharpe’s grysbok》(2023)も見ることができます。

植島 2022年に1階の作品を購入し、そのあとにスタジオにお邪魔する機会をいただきました。そこで、レンズを通して変化する光彩を放つ作品に魅了され、昨年夏のアートフェア「Tokyo Gendai」で購入しました。今回のコレクション展では、最初に1階で半身の鹿の作品を見て、ほかの作家の作品も楽しんでいただき、2階にたどり着いたら、今度は全身のグリスボック(アフリカ南東に生息する小型のカモシカの一種)で光彩の変化も表現された作品をご覧いただけるということで、異なる名和さんの表現の展開を味わえるようにこのような順序で展示しました。

展示風景より、名和晃平《PixCell-Sharpe’s grysbok》(2023)

名和 2階の展示室には、ルイーズ・ブルジョワさんの作品も展示されていましたが、私が2005年にアジアン・カルチュラル・カウンシル(ACC)の支援でニューヨークに滞在した際に、ルイーズ・ブルジョワさんのお宅に伺って、自分のポートフォリオを見てもらう機会がありました。条件はひとつだけ、「チョコレートをお土産にもっていくこと」でした(笑)。彼女は93歳にも関わらずとても眼光の鋭い方で、パラパラとポートフォリオをめくりながら、鹿の「PixCell」の写真で手を止めました。「この作品は絶対に続けなさい」とひと言おっしゃって。そのときの経験は、自分が鹿の制作を続けるひとつのきっかけにもなりました。

植島 すごいエピソードですね! 私のコレクションのテーマは「同時代性」で、存命の作家を中心にコレクションしていて、こうしてアーティストの方とコミュニケーションを取れることは大きな楽しみのひとつだと思っています。いまのような名和さんのエピソードが伺えるのは貴重ですし、作家の方の考えを知ることで、さらに作品への興味が深まることがよくあります。

名和 私も尊敬するアーティストが大勢いますが、UESHIMA MUSEUMの展示を拝見して、そうした方々の作品が身近にあるのは素晴らしいことだと感じました。やはり作品からエネルギーをもらえますし、アーティストの多様なヴィジョンを共有して提示する場をつくるという、コレクターとしての重要な役割を担われていると思います。

《PixCell-Sharpe’s grysbok》(2023)の前で

「Keep collecting」

──植島さんは蒐集した作品を展示する“ギャラリー”をつくる選択肢もあったと思うのですが、研究や教育といった要素との関わりが求められる“ミュージアム”を開館されました。その意図を聞かせていただけますか。

植島 コレクションを本格的に開始し、アーティストやギャラリストの方々にお会いすると、アートが購入されても展示されずに倉庫に行ってしまう、そのまま売られてしまうこともある、という話を聞くことが何度かありました。アートはやはり、皆さんに見ていただいて、どう感じてもらえるかというところに価値や意義があると思います。なので、植島コレクションを立ち上げた頃から、購入作品を撮影し、日本語・英語・中国語の3ヶ国のキャプションをつけてホームページとインスタグラムで公開してきました。また、自分のオフィスや運営を支援するクリニックなどにも作品を展示していますし、昨年はオークションハウス「フィリップス」の東京スペースや、京都のアートフェア「Art Collaboration Kyoto」でもコレクション展を行いました。

 そんなときに、私の母校でもある渋谷教育学園の学園長から、同園が運営するブリティッシュスクールが麻布台ヒルズに引っ越すという話を伺った際に、私のなかで話がつながり、学校法人の敷地内という教育の場にミュージアムが立つことは、非常に意義深いことなのではないかと考えました。現代アートがこの場で一般公開され、積極的に社会と関わっていく。教育や文化という切り口から、アートの価値を社会に還元していける。そう考え、美術館というかたちで開館することを決めました。渋谷教育学園の渋谷と、私が卒業した渋谷教育学園幕張の生徒たちが来館するプログラムを先生方が考えてくださっているので、学生たちの感想を通してこちらにも気づきが生まれるでしょうし、新しい視点が得られることはとても貴重だと思っています。

UESHIMA MUSEUM外観 *

名和 作品発表の場が増えることはアーティストにとってもありがたいことですし、教育的な効果は、若い世代のキュレーターやコレクター、そしてアーティストに対しても必ず生まれるはずですね。拡張し続けるコレクションとともに展示の構成が変化していくことは、いまという時代と、社会の情勢がリアルタイムで反映される場となるでしょうし、こんなに短期間でミュージアム化へ踏み切るのは、世界的にも例のないコレクターの蒐集姿勢だと思います。倉庫に眠らせておかず、また、自宅に展示するだけでもなく、コレクションをミュージアムで一般に公開することは、街を訪れた人たちとアートを共有するということですよね。現代アートにはインタラクティブな作品も多いので、子供たちにとっては美術の教科書としての役割も担って、中世の名画を知ることとは異なる新しい知覚体験が生まれます。本や雑誌、ネットなどで画像を見るだけではなく、目の前にある本物の作品を見て、直接体験できる場があるのは素晴らしいことです。

植島 空間や作品がなく、キュレーションする機会を得られない若手キュレーターも多くいらっしゃると聞いているので、そうした方々にも場を提供していきたいです。コレクションから一緒にテーマを考え、フロアごとにキュレーションしていただくなど、そうした機会は教育的な意味でも重要だと思っています。

植島幹九郎

──名和さんは、アーティストにとして、コレクターはどのような存在であってほしいと思いますか。

名和 植島さんのコレクションがどんどん変化を続けているように、アーティストとして私自身も制作を続けている過程にいます。つねに動き、変化を続けている。コレクターの方々には、そのことを理解していただき、ともに歩んでいく仲間として共感し、サポートしていただけるととても心強いです。私は大勢のスタッフに支えられて制作していますが、発想の根源は個の意識のなかにありますし、いつの時代もアーティストのクリエイションというのは孤独に陥りがちです。そういうときに、同時代を生きて同じ空気を吸い、同じものを見ているコレクターの方に見守っていただけると、勇気をもって新しい表現にもチャレンジができる。モチベーションの支えになっていただくことが、とても嬉しいですし、ありがたいです。

名和晃平

──いわゆる公立美術館に作品が収められていくのとも、コマーシャルギャラリーで作品が展示・購入されていくのとも違うかたちで、アートが展示される場をコレクターの方がつくられているのは、世界的に見ても珍しいことだと感じられます。

名和 日本ではバブル期あたりから、いわゆる「ハコモノ行政」と呼ばれるように、地方にたくさん美術館を建て、印象派やモダニズムの作品を膨大な資金を使って購入し、所蔵する文化がありました。そのようなかたちは作品の最終的な終着点であり、墓場であると揶揄されていました。しかしこのUESHIMA MUSEUMは、つねにアクティブで、アクチュアルであり続ける形で、従来の美術館のフォーマットとは大きく異なりますよね。2年という短期間で本格的な蒐集をして開館に辿り着いたということには本当に驚きましたが、植島さんが今の世界を巡り、植島さんの感性に引き寄せられた作品がこうしてコレクションになっているわけですから、これから先どのようなダイナミックな展開をされるのか、とても楽しみにしています。

植島 先日、原美術館の創設者で理事長の原俊夫さんとお会いする機会があったのですが、会った瞬間に「Keep collecting」と言われました。「コレクションを止めることなく、アップデートし続けなさい」「進化が止まったらコレクションを没収します」と(笑)。時代が変わっていくので、その変化に合わせてアーティストの感性や表現の変化を追い続けるようにという意味だったと思っています。そうした温かい言葉を関係者の方々に掛けていただいていますし、自分自身もそうしてアップデートを続けることが楽しみなので、色々なかたちで社会との関わりを考えていきたいと思います。


2024.7.30

建築家✕学芸員の対話でひも解く「ポール・ケアホルム展」(パナソニック汐留美術館)の魅力。田根剛✕川北裕子

パナソニック汐留美術館で開催されているデンマークのデザイナー、ポール・ケアホルムの仕事を振り返る「織田コレクション 北欧モダンデザインの名匠 ポール・ケアホルム展 時代を超えたミニマリズム」。本展の見どころについて、会場設計を担当した建築家・田根剛と、担当した同館学芸員の川北裕子に話を聞いた。

聞き手・文=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長) 撮影=手塚なつめ

会場にて、パナソニック汐留美術館学芸員・川北裕子(左)と建築家・田根剛(右)
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──パナソニック汐留美術館で開催中の、デンマークのデザイナー、ポール・ケアホルムの仕事を振り返る「織田コレクション 北欧モダンデザインの名匠 ポール・ケアホルム展 時代を超えたミニマリズム」。本展の会場設計は建築家・田根剛さんの担当です。まずは企画を担当した学芸員の川北裕子さんに、田根さんに依頼した理由を聞かせてもらえればと思います。

川北裕子 田根剛さんに依頼するきっかけは、本展学術協力の椅子研究家・織田憲嗣(おだ・のりつぐ)氏の打診からでした。その打診を踏まえたうえで、改めて田根さんに会場構成を依頼する意義を考えました。田根さんといっしょにお仕事をするのは今回が初めてでしたが、これまでの田根さんのお仕事についてはよく存じていましたし、とくに弘前れんが倉庫美術館をはじめとした、場所の記憶を掘り起こして未来へとつないでいくその手つきは、私にとって共感を覚えるものでした。

 今回の展覧会は、ポール・ケアホルムというひとりのデザイナーの仕事をわかりやすく紹介するだけではなく、その思想の背景を感覚でとらえることができる展覧会にしたいという思いがありました。その体験性を創出できる会場のためには、田根さんが適任だと考えたのです。

田根剛 展覧会は歴史的/学術的な研究を下敷きに展開されるものだと考えています。今回も、川北さんとともにケアホルムの研究を進める、検証ができる環境をつくるという観点で会場を設計しようと思いました。

建築家・田根剛

──本展は展示室の最奥まで行ったあと、また同じ動線を入口まで戻るという斬新な構成がなされています。田根さんはパナソニック汐留美術館という会場をどのようにとらえ、この構成にたどり着いたのでしょうか。

田根 私の最初の印象は「難しいミュージアム」というものでした。その難しさというのは、公共性の観点から来場者の体験をどのように設計するのか、という難しさです。展覧会に行こうと思い立ち、汐留のビルにたどり着き、エスカレーターを上って美術館にたどり着ける、都心で生活をする忙しい人たちが立ち寄る場所です。ここでケアホルムというひとりのデザイナーの人生を見せるための環境をいかに整えることができるのか。それが重要だと考えました。

 私にとって会場の設計というのは音楽の作曲に近いんです。イントロがあり、リズムやテンポやメロディがあり、ドラマチックな展開もあれば静寂もあって、それらをどうつなげていくのか、ということをいつも考えています。今回の展覧会では、入口と出口を同じ場所にする、一度最奥まで行ってからまた入口へと戻って来るというこれまでにない動線の設計にしました。展覧会を前と後ろから2回見るという体験を通して、ケアホルムの人生を来場した人の記憶や心に残るものにしようというチャレンジです。

展示風景より、第2章「DESIGNS 家具の建築家」

──いっぽうの川北さんは、パナソニック汐留美術館の学芸員として、本施設でどのように展覧会を行うのか、つねに考えてこられたと思います。川北さんは本館をどのようにとらえて会場をつくっていらっしゃいますか。

川北 私は当館に来てもうすぐ3年になりますが、いままで試行錯誤の連続でした。どんな展覧会でも、会場に入ったらそこに日常の延長線上にあるものとしての非日常があってほしいと思っていますし、そこからまた日常へと戻っていくということが展覧会の体験としてとても大切だと考えています。ただ、当館は自社ビルの中にあるということもあり、そういった空間演出をするためには工夫が必要です。

 いっぽうで当館の魅力のひとつに、コンパクトであるがゆえに作品との距離が近く、観客と作品が親密な関係を築けることが挙げられると思っています。それを日常と非日常との接点として最大限に活かして、来る前と後でその人の目の前の景色が少しでも変わるきっかけになれば、という観点で会場設計を考えています。

パナソニック汐留美術館学芸員・川北裕子

田根 私は会場設計について「こうしたい」という意見を川北さんに伝えるのですが、川北さんは学芸の立場から学術的な根拠を示しつつ、実現に向けて働きかけてくださいました。

 例えば、今回の展覧会では、展示什器の下や解説パネルの下などに空間を設けて、できるだけ会場に開放感を出すように工夫しています。ケアホルムの椅子を展示する台座も、作品を見下ろすのではなく横や下からもじっくり見てもらうために高めの台座の上に載せ、壁面と片足だけで支えて下部に空間をつくっていますが、その上に椅子というそれなりに重量があるものを数点載せるのは、安全面でも充分な考慮が必要ですし、決して簡単なことではない。それに対して川北さんは作品保護のことを考慮したうえで「やってみましょう」と決断してくださった。こうした学芸員の立場からの協力があったからこそ、今回のような思い切った会場構成が実現できたわけです。

川北 学芸の立場からしても、建築家ならではのご提案をいただき、視野を広げてもらえました。空間や構造についての知識はもちろん、人とものとの距離感についていつも考えていらっしゃるので豊富な知見をお持ちですよね。学芸員は作品の保全を第一に考えますが、いっぽうで鑑賞体験を高めるという観点で奇譚のない意見をくださる。結果的に作品の魅力を伝えるために、私たち学芸が望んでいることをより掘り下げてくれる提案を田根さんはしてくださいました。

会場にて、田根剛と川北裕子

──本展の白眉ともいえるのが、ケアホルムの初期から晩年までの家具デザインを年代順に約30点紹介している第2章「DESIGNS  家具の建築家」ですが、黒のモノトーンで展示室をまとめるアイデアは新鮮でした。先ほど川北さんがおっしゃっていた「非日常」が体現されているような空間に仕上がっていますよね。

田根 普通に考えたら面積的に展示できない量の椅子を、会場でどのように見せるのか腐心した結果、展示台を縫うようにジグザクに進む部屋の構成となり、歩く量を増やしました。そのうえで展示室を黒で統一し、スポットで椅子を照らして明暗をはっきりさせることで、物理的な説得力を持たせようとしました。

川北 家具が並ぶだけでは無機質になりすぎるということで、椅子研究家の織田憲嗣さんの言葉を断章にして流しています。まるで椅子やテーブルが話しかけてくるような音声は、作品のディテールにクローズアップした写真や映像や、ケアホルム自身の言葉とともに空間に豊かさを与えているのではないでしょうか。

展示風景より、第2章「DESIGNS 家具の建築家」

──ジョルジュ・ルオー(1871〜1958)の作品を常設展示している、パナソニック汐留美術館のアイデンティティとでも言うべき「ルオー・ギャラリー」にケアホルムの椅子を展示し、来場者が実際に座りながら絵を鑑賞できるという試みも驚きました。

川北 当館での私の担当は工芸・デザイン分野ですので、絵画のコレクションに直接関わることは少ないのですが、ルオーは館の根幹ともいえるコレクションなので、それをどのように見せていくのかということは私もつねに考えています。

 ルオーを楽しみに当館に来場いただく方も多いのですが、同時に若い世代のなかにはルオーを知らない方が増えている印象があります。新しい世代にいかにコレクションの醍醐味を伝えていくのか、ということは館の課題のひとつでもありました。そこに田根さんの「ケアホルムの名作椅子に座ってルオーの名画を見られるようにしたらどうでしょう」というご提案があり、今回の貴重な機会が実現しました。

 実際にケアホルムの椅子に座って、そのデザインの価値を体験してもらうこともできますし、ルオーの魅力を再発見することもできる。本展に関わってくださった様々な方の意見と協力が合わさった結果生まれた、当館初の企画展と常設展が一体となる素晴らしい試みになっていると思います。

「ルオー・ギャラリー」にて、田根剛と川北裕子

──最後に、本展覧会を訪れる人に、おふたりからその魅力を伝えていただけますか。

田根 ケアホルムは本当にミニマルの極みまで到達したデザイナーだと思いますが、その精神を育んだのはデンマークの社会が持つ受容力だったのだとも感じます。ケアホルムはそれを内面化していた存在だということに気づかされました。その時代や社会から生まれた「本物」のデザインの力を体感してもらいたいですね。

川北 今回の展示は、身体的にケアホルムのデザイン哲学を体感できるように設計しています。会場を往復することで、ケアホルムの考え方が体にすっと入ってくる、そんな体験をしてもらえると嬉しいです。

展示風景より、第2章「DESIGNS 家具の建築家」

2024.7.23

「フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線」(SOMPO美術館)の魅力とは。世界最大級のロートレック紙作品のコレクター夫妻の言葉

19世紀末フランスを代表する画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864〜1901)の展覧会「フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線」が東京・新宿のSOMPO美術館で9月23日まで開催中だ。ロートレックの紙作品の個人コレクションとして世界最大級となるフィロス夫妻のコレクションによって構成された本展。このコレクションと展覧会の魅力を夫妻に聞いた。

聞き手・文=安原真広(ウェブ版「美術手帖」副編集長)

会場にて、左からポール・フィロス、ベリンダ・フィロス
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 19世紀末フランスを代表する画家、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレック(1864〜1901)の、おもに紙による作品を集めた展覧会「フィロス・コレクション ロートレック展 時をつかむ線」が東京・新宿のSOMPO美術館で9月23日まで開催されている。本展はロートレックの紙作品の個人コレクションとして世界最大級となるギリシャ人コレクター、ベリンダとポールのフィロス夫妻によるフィロス・コレクションによって構成。このコレクションがいかに形成されたのか、夫妻に話を聞いた。

一大コレクションが築かれるまで

──本展ではとにかく膨大な数のロートレック作品が並んでおり、コレクションの潤沢さに驚かされます。夫妻が最初に手に入れたロートレックの作品はどういった作品だったのでしょうか。

ベリンダ・フィロス いまとなっては、どれが最初のコレクションだったのかは思い出せません。ただ、憶えているのはそれがポスターだったということ、そしてそれを買うために努力しなければいけなかったということです。当時を思い出すと、そのときの感情が様々に蘇ってきます。当時はまだ若く、そしてお金もありませんでした。ですから、何を買おうか、たくさんの思いを巡らせ、最初のコレクションを買ったはずです。

展示風景より

──そのような小さな一歩が、やがて今回の展覧会で見られるようなロートレックの人生を振り返ることができる膨大なコレクションとなっていったわけですね。回顧展ができるように体系的にコレクションするという方針はどのように決めていったのですか。

ポール・フィロス コレクターはふたつのタイプに分かれると思っています。アートのコレクションというのは、数の問題ではないですよね。例えば2作品を持っているだけでも、それはコレクションと呼べます。多くのコレクターがこのタイプだと思います。

 私たちはそうではないコレクターでしょう。作品数が増えてくると、網羅的に持っているということが重要だと思うようになりました。ただバラバラに好みに応じて収集するのではなく、作品一つひとつがつながりを持つようにコレクションをしなければいけません。それを目指してコレクションを構築していくわけですが、 しかし集めていく過程である作品と作品のあいだに空白があることに気づいてしまったりします。その空白を埋めるために、また作品を買わなければならない。

 この作業を続けた結果、300点を超えるまでに作品数が増えたわけです。 しかし、それでもまだ空白は発生し続けます。そのギャップを埋めるための作業がこれからも必要になっていきます。

展示風景より

──完成品からポスターや油彩画の習作、簡易的なスケッチまでをまとめて紹介する本展ですが、今回の展覧会で美術館に貸し出す作品はどのように決まったのでしょうか。

ポール 私たちのロートレックのコレクションというのは、通常9つのクレートのなかに入って保管されています。各クレートは、ロートレックの人生を網羅的に伝えるための絵画が入っているので、そのなかの1作品を別のクレートに移すということはできません。だから、コレクションを貸し出すときに私たちが行う作業というのは、この9つのクレートのなかから1つを選ぶということです。そのうえで、美術館側がどのように展示するのかを考えるという手順を踏んでいます。

展示風景より

ロートレックの魅力をすべての人に

──5章構成でロートレックの生きた時代そのものをいまに伝えるような本展ですが、実際にコレクションが展示されている様子を見て、どのような感想をお持ちになりましたか。

ベリンダ 前回、私たちが自分のコレクションを見たのはイタリアでの展覧会でしたが、すでにそれは7年前のことです。私たちのコレクションは多くの方の人気を集めていますので、色々な美術館から引き合いがあり、世界中を巡回していたので、なかなか家に帰って来ることができないんです(笑)。

 さらに、すべての美術展に私たちが足を運べるとは限りません。つまり、今回の展覧会は私たちにとって7年ぶりにコレクションに再会できた展覧会でもあったのです。寂しいと思っていたので、改めてこのコレクションの魅力にふれることができる素晴らしい機会となりました。

展示風景より

──今回の展覧会は、とくにドローイングの点数の豊富さが魅力的で、ロートレックの躍動感ある線を感じることができました。おふたりにとってのロートレックの魅力とはどのようなものなのでしょうか。

ポール ロートレックのドローイングで顕著なのは、あまり多くの線を必要としないというところでしょう。少ない線で人物や動物の動き、そして感情を表現することができています。それこそが、私がロートレックのドローイングに惹かれる点です。

ベリンダ そしてドローイングは即時的な表現です。まさにアーティストが何かを描くとき、その頭のなかにあったものの表出といえるでしょう。それもまた魅力です。

展示風景より

──ほかに、おふたりが考える本展の魅力があれば教えてください。

ポール 本展については、会場での解説文にも多くの努力を注ぎました。解説文を来場者の方に読んでいただくことで、作品に関するより多くの情報を知ることができるはずです。本展をより深く楽しんでいただくためにも、来場者のみなさんにはぜひキャプションをじっくり読んでいただきたいと思っています。

ベリンダ 私たち夫婦の来歴そのものとでも言うべきコレクションが、来日しています。ぜひこの機会に多くの方に会場に足を運んでいただき、ロートレックの魅力に触れ、そして彼の人生について学んでほしいです。

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