今回の学習

第3章 近世社会の形成と庶民文化の展開

鉄砲の伝来

日本史監修 東京大学史料編纂所教授 山本博文

歴史を語り合う茶屋、歴カフェ。
日本史が大好きな店員、小日向えりさんのもと、歴史好きの平野詩乃さん、市瀬悠也さんが集まってきました。

今回の時代は、16世紀中ごろ、戦国時代の終わりから安土桃山時代にかけてです。
日本が「群雄割拠」の戦国時代にあったころ、世界は大航海時代を迎えていました。
ポルトガルはインド・中国への航路を開き、スペインは世界一周を達成。
ヨーロッパのアジア進出が始まり、日本にはポルトガル人によって鉄砲が伝来し、南蛮貿易が始まりました。
キリスト教の伝来も、このころです。
日本は西洋の新しい文化に初めて触れることになったのです。
このような時代の変化を最大限に活用したのが、織田信長でした。
今回のテーマにせまる3つのポイントは「鉄砲の伝来と南蛮貿易」「キリスト教の伝来」「織田信長の統一事業」
信長はどのように日本を統一していったのか、背景と経緯をたどります。

鉄砲の伝来と南蛮貿易

えり 「今回はお茶うけをご用意しました。カステラとコンペイトウです。どちらも16世紀に伝わり、その語源はポルトガル語だといわれています。」

悠也 「コンペイトウって日本のものだと思っていたけど、違うんだね。」

えり 「ポルトガルで砂糖菓子を意味する“コンフェイト”が語源っていわれているんだよ。織田信長もコンペイトウが大好きだった、という逸話が残っているんだよ。16世紀、日本に入ってきた外来語はほかにもあります。例えば、テンプラ、カボチャ、ボタン、雨の日にかぶるカッパ、カルタ、シャボンとか。」

1543年、ポルトガル人を乗せた中国の船が「種子島(たねがしま)」に漂着しました。
このとき、ポルトガル人が持っていたのが
「鉄砲」です。

その複製品で威力を試してみると、厚さおよそ1mmの鉄で出来た”かっちゅう”を貫通しました。
このとき、日本は戦国時代。
各地の戦国大名は、鉄砲という新しい武器を手に入れようとしました。
これに応えたのが、商工業都市として発展した堺(さかい)の商人と鍛冶職人です。
鉄砲の部品の大きさや形などの規格を統一。
分業で製造して、最終的に組み立てるという方式を考案しました。
これによって大量生産を実現したのです。

日本に鉄砲をもたらしたポルトガルの商人は、その後、毎年のように日本に来港。
1584年にはスペイン船も来航し、貿易を始めました。
当時、日本ではその船を南蛮船(なんばんせん)と呼び、彼らを「南蛮人(なんばんじん)」と呼びました。
南蛮人との交流を描いた「南蛮屏風(びょうぶ)」には、上陸したばかりのポルトガル人の一行が描かれています。
金の刺しゅうが施され膨らんだ赤いズボン。
肩掛けマントにビロードのチョッキという派手な南蛮ファッションは、当時の日本人にもてはやされました。

ポルトガルやスペインを相手に行った貿易を「南蛮貿易」といいます。
南蛮屏風には、南蛮船からさまざまな品物が降ろされている様子が描かれています。
日本は中国の陶磁器や生糸、絹織物などを輸入しました。
日本から輸出されたのは銀でした。
日本の銀は人気が高く、中国では法外な高値で取引されました。
ポルトガルやスペインは日本と中国を取り持つ貿易を重ねることで、大きな利益を得ることができたのです。


えり 「種子島に漂着したポルトガル人は、どうして中国の船に乗っていたんですか?」

山本先生 「実はそのポルトガル人は、倭寇(わこう)の船でやって来ているんですね。」

詩乃 「倭寇って海賊の船だよね?」

悠也 「日本人の海賊だった気がする。」

山本先生 「そう、室町時代は日本人を主体とした海賊でした。それが戦国時代になると中国人が主体になるんです。明は海禁(かいきん)政策をとっていて、貿易を禁止したんですね。貿易を禁止しても海の近くに住んでいる人は貿易をする方がもうかるので、非合法に貿易を始めるわけです。その中には、ある所に行って略奪したりする海賊行為もやっていますし、普通に商売もやっているわけです。いろんな所に持って行ってもうけている。」

「ポルトガル人はヨーロッパからやって来て、中国のマカオに本拠地を作りました。東アジアの貿易圏がわかっていないので、倭寇を道案内にしていろんな所に行ったんですね。つまり、ポルトガル人の貿易とは、すでにあった倭寇の交易ネットワークにのって貿易圏を広げていったんですね。」

詩乃 「あれ?でも南蛮屏風に描かれていたのは南蛮船だったよね?南蛮船で直接日本に来ていたわけじゃないんですか?」

山本先生 「種子島に漂着して鉄砲を売って、日本はいい貿易相手だっていうのがわかってくるわけです。そこで、マカオのポルトガル人たちは自分たちの船で日本にやって来て、次第に貿易を行うようになるわけですね。直接やった方がもうけが大きいですからね。」

キリスト教の伝来

えり 「その南蛮貿易と一緒に伝わってきたのがキリスト教です。

スペイン出身の宣教師「フランシスコ・ザビエル」は、1549年、鹿児島に来航しキリスト教を伝えました。
ザビエルはカトリックの一会派であるイエズス会に所属していました。
イエズス会は宣教師を貿易船に便乗させ、アジアでの布教を進めていたのです。

ザビエルを保護した戦国大名の1人が大友義鎮[よししげ(宗麟/そうりん)]です。
宣教師を保護することによって南蛮貿易を盛んにしたいと考えたのです。
宗麟はやがて洗礼を受けキリスト教に改宗しました。
このようにキリスト教に改宗した大名を「キリシタン大名」といいます。

ザビエルに続いて来航した多くの宣教師は、キリシタン大名の手厚い保護を受け各地で布教を行いました。
そして南蛮寺と呼ばれる教会や病院などを建設します。
宣教師が作った病院は、内科や外科、伝染病患者の隔離病棟もある施設で、誰もが無料で最新の医療を受けることができたのです。
こうしてキリスト教は、九州をはじめとして、武士や民衆のあいだに広まっていきました。

大友宗麟などのキリシタン大名は、イエズス会の宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノのすすめを受け、ヨーロッパへの使節を派遣することにしました。
「天正遣欧使節(てんしょうけんおうしせつ)」です。
大友宗麟をはじめとするキリシタン大名たちの血縁者などから4人を選抜。
彼らは13歳ほどの少年たちでした。
2年の歳月をかけてローマに渡った4人は、1585年、日本人として初めて時のローマ教皇、グレゴリウス13世と謁見(えっけん)しました。
遠方からの来訪に対し、教皇は感激の涙を流して迎えたといいます。
遣欧使節はヨーロッパ中で評判になり、4人をたたえる記事が出版されました。
4人の少年たちは、日本が独自の文化を持った文明国であることを、ヨーロッパに知らしめたのです。

えり 「キリスト教はなぜ急速に日本に広まっていったんだと思う?」

悠也 「新しい物にひかれたのかな?」

詩乃 「戦乱の世の中で、救いを求めたのかな?」
 
山本先生 「そういうことも広まった理由の1つではあると思うんですね。当時いわれていたのは、キリスト教は布教をするために学校を作ったり病院を作ったりするんですね。そういう所に行って信者になると、病気が治ったり生活ができるようになったり、そういうことがあって口コミで広まっていったようです。」

「史料にはそういうふうに書かれていますが、いろんな考え方があると思うので、なぜだろうというのを大切にして、歴史を考えていくのが大切かもしれませんね。」

織田信長の統一事業

えり 「西洋からさまざまな物や文化が入ってくる中で、時代の変化を最大限に利用したのが、『織田信長(おだのぶなが)』でした。」

織田信長は、「桶狭間(おけはざま)の戦い」で今川義元率いる2万5,000の軍をわずか3,000の軍で破り、その名を全国にとどろかせます。

信長はいち早く海外に目を向け、時代の変化を感じ取っていました。
身の回りに、日本に持ち込まれたばかりの南蛮渡来の品々を取り入れていきます。
上杉謙信に贈ったといわれるビロードのマントは、金の糸をぜいたくに使った南蛮由来の名品で、信長自身もマントを着用していたといわれます。
信長は海外との関わりを積極的に持ちました。

信長のひごを受けてイエズス会の聖堂も建てられ、南蛮の宣教師たちと何度も会見しました。
そのとき、地球儀を見て地球が丸いことを理解したというエピソードが残っています。
また、信長は天正遣欧使節に関わったヴァリニャーノが連れてきた黒人奴隷を気に入り、自分の側近にしました。
弥助(やすけ)と名付け、「いつか殿様にする」と厚くひごしたのです。

信長が積極的に軍事に取り入れたのが、当時の最新兵器、鉄砲です。
信長が目をつけたのは生産地の堺。
これを直轄地としたことで大量の鉄砲を手に入れました。
そのために利用したのが室町幕府の将軍です。

1568年、6万の兵を率いた信長は将軍家の「足利義昭(あしかがよしあき)」を奉じて京都にのぼります。
義昭は信長の助けを得て、15代将軍になりました。
その見返りとして、信長は堺の権利を手に入れたのです。
その後、信長は義昭を都から追放。
これによって1573年、室町幕府は滅亡しました。

1575年、「長篠(ながしの)の戦い」で信長は手に入れた鉄砲を最大限に活用します。
相手は武田勝頼(たけだかつより)率いる武田軍。
信長の領地に向かって侵攻を続けます。
東国最強を誇る武田軍を破ることは、信長にとって重要な課題でした。
信長は大量の鉄砲を巧みに使った集団戦法で武田軍を破ります。
このとき、信長が使った鉄砲は1,000とも3,000ともいわれています。

合戦に勝ち続けた信長は、天皇を迎え、大規模な「馬揃え(うまぞろえ)」という軍事パレードを京都で行います。
天皇の信頼を得た信長の全国統一は、あと一歩と思われました。

えり 「軍事力で、ほかの武将を圧倒した信長ですが、商人に自由な営業を認める経済政策も行っています。」

山本先生 「信長が行った経済政策の1つが、有名な楽市(らくいち)・楽座(らくざ)です。当時の市は、寺社の境内や門前で開かれることが多かったんです。ただ、ここに店を開くためには『座』という同業者組合にお金を払って参加しなければいけなかったのです。座は寺社などに場所代や、売上税に当たるようなお金を払わなければいけなかったのですが、信長は座や、そういう税をすべて廃止して、誰でも自由に市で商売できるようにしたんですね。これを『楽市・楽座の令』といいます。

「お金を払わなくても市で商売できるということで、多くの商人が出店します。そうすると、それを買う人たちもどんどん集まってきて、活況を呈するわけです。楽市楽座によって多くの商人が利益を上げるようになります。すると信長は彼らに上納金を課して、自身も多くの富を蓄えることができたんですね。」

詩乃 「商人にとっても信長にとっても、うれしい政策だったっていうことですね。」

えり 「新しい物をどんどん取り入れていって、古い慣習にとらわれずに革命を起こしていく。そういうところが信長のすごさですね。」

日本史なるほど・おた話~宣教師が見た日本

日本史のおもしろくてためになる話。
今回は山本博文先生に伺います。

山本先生 「16世紀にはザビエルをはじめとして多くの宣教師が日本にやって来ています。彼らが日本をどう見ていたのかを紹介します。ザビエルがイエズス会に送った報告書、そこから伺い知ることができるんです。悠也さんちょっと読んでもらえますか?」

悠也 「『大部分の人は貧しいのですが、武士もそうでない人々も、貧しいことを不名誉とは思っていません。驚くほど名誉心の強い人々で、ほかのなにものよりも名誉心を重んじます。』」

山本先生 「戦国時代だから、みんな戦っていて貧しいんですね。でも、貧しいということが不名誉だと思っていない。『日本人はたいへん盗みを嫌う』と言っているんですね。貧しいからといって別に恥ずかしいことじゃないから、そのためにほかの人の物を盗って豊かになろうとか、そういう感性は嫌われたということなんでしょうね。」

詩乃 「今日本で落としたサイフがほとんど返ってくるっていうのは、このときの精神がちょっと影響しているんですかね?」

悠也 「名誉心の強い人々って武士のイメージでしたけど、庶民の人たちもそういう心を持っていたんですね。」

山本先生 「ザビエルが驚いたのは、当然身分の高い人は名誉心が強いと思っていたけど、そうじゃない人々もみんな名誉心が強くて、恥ずかしいことはしないとか、みんなきちんとやっているので驚いたわけなんですね。」

えり 「ほかの報告もあるんですよね。」

山本先生 「日本の宣教の状態を監督するためにやって来た、アレッサンドロ・ヴァリニャーノという人の報告にこんなことが書いてあるんですね。詩乃さんちょっと読んでみてもらえますか。」

詩乃 「『彼らは悲嘆(ひたん)や不平、あるいは窮状(きゅうじょう)を語っても、感情に走らない。自らの苦労についてはひと言も触れないか、あるいは何も感ぜず、少しも気にかけていないかのような態度で、ただひと言それに触れて、あとは一笑(いっしょう)に付してしまうだけである。』」

山本先生 「自分の苦労や悲しさとかを人に訴えかけると、訴えかけられた人はなんとなく悲しい思いになりますね。そういうことをしたくないので、自分の苦労はずっと自分の中で処理してしまうというのが日本人の特徴だと書いているんですね。」

「東日本大震災のときの被災者の人のインタビューを見ても、本当にすごい被害を受けているのに、淡々と起こったことだけを述べていますね。泣き叫んだりしていなかったんですね。それはやっぱり、このころの日本人の態度というのが、今にも受け継がれているような気がしましたね。」


それでは次回もお楽しみに!