遊女や無宿人はどこへ 世界遺産めざす佐渡金山が置き去りにしたもの
記者コラム 「多事奏論」 オピニオン編集部記者・田玉恵美
インドでいま開かれているユネスコ(国連教育科学文化機関)の会合で、新潟県の「佐渡島(さど)の金山」を世界文化遺産に登録するかどうかの審議がある。
その前に会いたい人がいた。地元の佐渡市(旧相川町)が運営する相川郷土博物館の元学芸員で、2006~08年には館長をつとめた柳平(やなぎだいら)則子さん(76)だ。
自宅を訪ねると、段ボールに詰まった明治時代の古い資料を出してくれた。かつてこの街にいた遊女たちの「外出願」だ。身内の看病や自身の通院などのため出かけたいという内容が和紙に墨書きされている。
遊女と遊郭の主人らによる連名で、地元の警察署に提出された書類だという。生活に困窮したため遊女として登録したいと願い出る文書などもある。
数年前、地元の民家でふすまの下張りに使われているのが見つかり、柳平さんのもとに届けられた。「不要になった文書が警察から表具屋に払い下げられ、再利用されたんでしょう」と柳平さんは推測する。
鉱山労働者がたくさんいた相川地域には江戸時代から幕府公認の遊郭がつくられ、戦後まで営業が続いた。多いときには10軒を超える店が立ち並んだという。
働いた女性たちの多くは地元の出身だった。江戸から来た佐渡奉行は「佐渡で安いものは女と魚」と書き残した。13歳で客を取った、虐待されて死んだ。そんな記録も数多く見つかっている。
柳平さんらは、50年ほど前からこの街の遊女について調べ、郷土博物館で紹介してきた。常設展示のほか、特別展をやったこともある。この鉱山町を語る上で、避けることはできないテーマだと考えていたからだ。
「鉱山と人々の生活とのかかわりの厚みと深み。それがこの街の歴史なんです」と柳平さんはいう。
ところが今年5月に郷土博物館が耐震改修工事を終えてリニューアルオープンすると、遊女にかかわる展示はなくなった。
なぜなのか。佐渡市の担当者に理由を尋ねると、「江戸時代については市内に新設された別の展示施設が担当し、こちらでは明治以降について説明をすることですみ分けることになった。遊女の展示は江戸時代のものだったため、ここでは外した」のだという。
だが、江戸時代を担当している新しい展示施設でもいまのところ、遊女の説明は見当たらない。
置き去りにされた人たちは、他にもいる。
江戸幕府最大の汚点
江戸時代に江戸や大坂、長崎から佐渡へ強制的に送り込まれた若者らだ。その数は、幕末までの約100年間でおよそ2千人にのぼった。
家族から勘当されるなどして戸籍から除外され「無宿人」と呼ばれたが、なんら罪を犯していない人たちも含まれていた。
金や銀をとるための坑道は年々地下深くに及び、掘れば掘るほど地下水があふれ出る。採掘は水とのたたかいだった。
無宿人たちはここで、時に長さ3メートルほどのはしごを150本も伝って地の底へ下り、24時間交代でひたすら水をくみ出す水替(みずかえ)の仕事を強いられた。
観光客が行き交う鉱山近くの道路の脇にひっそりと追悼碑が立つ。無宿人たちが寝泊まりした小屋はこの近くにあり、常時200人ほどが暮らしていた。逃亡を防ぐために竹矢来で周囲が囲われ、外出の自由はない。外に出られたのは年に1度だったという。
重労働であるうえ、狭く暗い坑内は不衛生で、粉じんが舞って空気が悪い。坑内火災などの事故もあり、短命な人が多かったという。逃亡を図って死罪になった人も少なくない。
幕府の目的は、厄介者を追い払って都市部の治安を改善することだった。佐渡に送り込み、いつも人手不足で困っている水替作業をやらせればちょうどいい――。そんなふうに考えた幕府の駒として、多くの人たちが都合良く利用された。
作家の司馬遼太郎はかつて佐渡を訪れ、こう書いている。
「江戸幕府は、同時代の地球上のいろんな政府にくらべ、ほめられるべき点も多い。しかし最大の汚点は、無宿人狩りをやっては、かれらを佐渡の水替人夫に送ったことである」
江戸時代を生きた人たちの労働事情に詳しい戸森麻衣子さん(東京農業大非常勤講師)も、「罪を犯したわけでもない人たちまでがおよそ10年にもわたって拘束され、衣食代とわずかな小遣い銭だけで過酷な労働に従事させられた。後に解放された人もいたがわずかで、10年たたないうちに多くの人が亡くなりました。これは当時の日本中を見渡しても、ほぼ佐渡鉱山だけで起きたことです」という。
「佐渡で金銀の生産量が多かったのは一時期で、採算が取れない時期が長かった。にもかかわらず幕府が体面を保つために操業を止めることができなかった影響が大きかったと考えられます」
佐渡は忘れなかった
1987年に世界遺産になった南米ボリビアの「ポトシ市街」には、かつて大きな銀山があった。繁栄の裏で多くの先住民らが強制労働の犠牲になったことはユネスコのウェブサイトでも明記されている。
だが佐渡金山についての政府や新潟県の説明で強調されるのは、多くの金を生産したという華やかな側面ばかりだ。
「17世紀における世界最大の金生産地」などと研究者が首をかしげる誇大な表現をする一方、「この世の地獄」と言われた労働を担った人々への言及は見当たらない。鉱山を管理する三菱系の企業が公開している坑道内にわずかな説明があるだけだ。
世界遺産行政にかかわった専門家のなかには、「(無宿人を)観光(資源)として利用したために、佐渡というと無宿人や流人が多く、罪人が送り込まれて過酷な労働をするというイメージができてしまった」「実際には(無宿人の動員は)ごくわずかな時期だけ」だったなどと発言する人もいた。
日本政府がユネスコに提出した推薦書の中身は非公開になっている。佐渡金山をユネスコに推薦すべきかどうか審議した文化庁の文化審議会の議事録も公開されていないため、どんな議論があったのかもよくわからない。
無宿人や遊女のような立場の人たちは、どんな社会でもとかく忘れられがちな存在だ。だが、佐渡の人たちは決して忘れようとはしなかった。
鉱山近くの山中にある廃寺跡へいくと「無宿人の墓」がある。地域の人たちは50年以上、ここで無宿人供養祭を続けてきた。コロナ禍の最中でも途切れることはなかった。
今年も墓の前でお経を上げた瑞仙寺住職の青木錬誠さん(38)は、こう話す。「無宿人は、金山のいちばんの根っこの部分を支えた人たちです。世界遺産になるなら私もうれしいですが、陰の部分も含めてこそ価値があるのではないでしょうか」
鉱山を支えた声なき人々の足跡を今になってもたどることができるのは、地元が官民を挙げて丹念に掘り起こしてきた努力の結晶が残されているからでもある。
84年、地元の旧相川町は町史として無宿人と流人に特化した500ページあまりの資料集を刊行した。地元出身の毎日新聞記者で郷土史家の磯部欣三氏らが中心になって手がけたこうした仕事は、全国的にも自治体による歴史研究の貴重な成果だと評価されてきた。
その巻頭言で当時の和倉政三町長はこう書いている。「華やかさの陰に、人生のはかなさを身にまとった人々も、相川に送り込まれていることも忘れてはなりません」
世界遺産登録に向けて政府や自治体が突き進むなか、地元の長年の積み重ねは後景に退いている。
この鉱山町の歴史がこのまま一面的な物語に上書きされるとしたら、なんて皮肉なことだろう。(田玉恵美)
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- 【視点】
ついさっき「佐渡島の金山」の世界文化遺産登録が全会一致で決まったとの速報が流れた。これで日本の世界文化遺産は21件になるのだという。 おめでとうございます! それは良かったとして、なぜ世界遺産の登録にあたり、日本政府や関係機関は「盛る」のだろうか。盛ろうとするから、いきおい政治的な色を強く帯びるのに。 田玉さんが前回、やはり佐渡島の金山をテーマに書いた多事争論(https://digital.asahi.com/articles/ASS6G20K4S6GUPQJ01CM.html?iref=pc_rellink_01)に、東大院教授の遠藤乾さんが寄せたコメントを見て、その通りだと思った。 いわく「元政治家のお子さんとか、国の誇りをくすぐって何かをした気になる政治家とか」が突っ走ることで、「誰のためになるのか不明な事業になっている」と。 2015年に登録された「明治日本の産業革命遺産」と今回の佐渡は、まさにその典型と言えるだろう。 佐渡に関しては、地元・新潟の現地メディアの幹部が「負の歴史もかも何もみんな込み込みで登録してほしいのに、政府や地元の一部政治家がそれではいかん、と言うので困っている」とこぼすのを聞いて、驚いたことがある。 手あかにまみれたような、政治的な思惑をはね返すのは、こつこつと積み上げた研究や史料なのだと思う。今回の登録がむしろ、もうひとつの佐渡島の金山の事実に、強い光をあてる契機になることを願う。
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