「信長に仕えた黒人」である『弥助』について、海外だけでなく日本国内でも勘違いをしている人が多いようなので、それを纏めて解説しています。詳細ではないのでざっくりしたものですが。出来るだけ調査し一次史料の内容のみにしていますが、情報汚染も激しい案件ですので、時々、引っ掛かってることが判明し修正もしています。
Linkなどは自由にして構いませんが、調査して分かった内容を増やしていったり修正していったりしますので、変化はしていきます。

『弥助』武士説

今、弥助についての大きな1つに、「武士や侍であるか? それとも違うか?」があるかと思います。
結論から言えば、『弥助』は武士では無かっただろうと凡そで結論付いています。

言うなら「使用人」あるいは「側用人」、または「近習」でしょう。
「小姓」でも「中間」でもありません。

『家名』の存在

戦国時代の武士は、家名が重要なアイデンテティになります。
(この概念を英語で説明するのは難しいです。『家名』『名字』『苗字』『姓』『氏』は日本、それも戦国時代では意味がそれぞれ違うのですが、英語で訳すと全部「family name」や「surname」で訳されてしまうからです)

特に戦国時代は「正当性」が求められている時代でもあり、家名は大変に重要な存在です。それにも関係しているのですが、主従関係や知行(領地)や御扶持、全てに結びつきます。
この『家名』が弥助にはないのは、致命的に「武士ではない」と言う事になります。

当時の『家名』は現在の苗字とは扱いが大きく違います。
これを軽く見ている人がいるのか、「家名が無くても武士だ」という人を見掛けます。
『家名』
戦国時代において、『家名』というものは、武士身分にとってアイデンティティにもなっており重要な要素です。
『家名』は、単なる名前ではありません。
「主従関係」や「知行(財産)」と紐付けられているものであり、武士としての扶持も基本はこの「家名」によります(ですので、「家門断絶」というのは大変な話であり、養子をとっても存続させようとさせます。現代の苗字とはまるで重さが違うのが、戦国時代の『家名』です。戦乱時代というのは「正当性」が強く求められる時代であり、その「正当性」を表すのもこの『家名』です)。

家名を持たない者でも、武勇や功績によって主君に仕え、武士としての役割を果たすことがありました。
しかし、正式な武士となるためには『家名』を持つことになります。
戦国時代では家名を持たない者が武士になる機会も転がっており、当時だと主君に仕え、武勇や功績を挙げる必要がありました。そして、特に優れた武勇や功績を挙げた者には、主君から家名を賜り、更に知行や御扶持を与えられたりして、正式な武士となる事もありました。このいい例が木下藤吉郎であり、羽柴秀吉であり、豊臣秀吉ですね(江戸時代でも、才や実績で農民から武士になるなどはありますが、機会と言う面では戦国時代の方がありますね。命懸けですが)。

この『家名』がない事が、「弥助は武士とは言えない」という一番の証拠になります。
また、この『家名』は基本的に言えば主となる人物から賜るものです。
主従関係や知行に紐づけられていますので、出世などし立場が変わると家名を変える事も普通の事です。
『家名』の喪失が武士にとって大きな恥辱であり、社会的な地位を失うことを意味します。
また『家名』を持つことが、武士としての特権や義務を伴うことになりますし、婚姻や相続などの家族関係にも影響を与えます。

ネットなどを見ると、この『家名』を軽く見ている、"名字"と勘違いしている、という人も少なくないようですね。
日本における『家名』は海外にはない日本独特な考えなので説明がかなり難しい(英語で直訳すと『Family name』になってしまい意味が違う)のですが、『称号:Appellatio(ラテン語)』に近いでしょうか? Appellation は、ラテン語の appellāre(呼ぶ、呼びかける)に由来する言葉です。中世ヨーロッパでは騎士や貴族は、家名以外にも様々な『appellation』を授けられていましたが、これらのappellationは功績や名誉を表すものです。これは特定の土地や役職に関連するもので、単なる呼称としてだけでなく、騎士のアイデンティティや名誉を表すものでした。
『名字』
『家名』に比べると『名字』は軽くい扱いで、家名とは少し違いますがやはり系譜を表します。
明治になると『家名』は基本的に名字と一緒にされますが、華族などでは残ったりしました。
また、『家名』と『名字』が同じ場合もよくありますが、『家名』はないが『名字』があるというのもあります。
同じように苗字部分に使われていても、『家名』なのか『名字』なのかで武士と言えるかどうかが分かります。
自分で名乗ったりもありますが、基本的には主となる人物から賜るものです。

例えば、家康は『松平氏』というのが家名で、『徳川』というのが名字になります。
主従関係や知行などは『徳川』ではなく『松平氏』に繋がっているわけです。

実はこのいい例が『森蘭丸』です(実在していたのかは議論になってますが、最近、考古学的証拠が見つかっており実在の可能性が高いとなっています)。
この森蘭丸ですが、森可成の甥にあたります。
『森可成』は"森氏"という『家名』です。『名字』も"森"です。
ですが、『森蘭丸』の"森"は『名字』ですが、『家名』ではありません。
小姓を務めていた森蘭丸ですが、『家名』がありませんので厳密に言えば森蘭丸は武士ではありません("近習"や"側用人"という立場であるのは確かです)。「従五位下・左近将監」という官位を得ており、また周囲も「武士と同様に扱っていた」であっても、「武士」ではないのです。この関係は現代で例えれば、会社の「正規社員」と「不正規社員」に似ていると言えます。不正規社員がチーフになって正規社員と同様の待遇であっても、「不正規社員(戦国時代なら"武士と同様の扱い")」であるからと言って「正規社員(戦国時代なら"武士")」とは言えないというのと同じですね。
もし、もっと長く生き残り自身で家門を立て『家名』を得ていたら、森蘭丸は正式な武士になっていたでしょうね。

豊臣秀吉も、最初に名乗っている「木下藤吉郎」という名前ですが、この「木下」も『家名』ではなく『名字』です。「木下」という名字も拝領したものですが、やはり『家名』ではないので、武士とはいえないわけですね。

「武士である」ことと「武士と同様に扱われる」ことは、近いようでしっかりと分かれています
ですが、これを混同している人が結構いるようですね。
『姓』
今とは意味がかなり違い、『姓』は天皇家から賜るもので、古代の氏族制度における氏の名残です。
ですが、戦国時代で言うと弥助が居た時代、1581~2年ではほぼ廃れてtいます。
でも、たまに貰えます。
豊臣秀吉の「豊臣」は天皇から賜った『姓』です。
『氏』
先ほどにあった『松平氏』のような書き方があるので、これが氏と勘違いする人もいるでしょうが、違います。
氏とは、古代の氏族制度における血縁集団を指しますが、ほぼ廃れており、やはり戦国時代では家名や名字より軽視されます。
『家名がない』
『家名がない』という事は、要は主従関係として正式な成立ができていない、という事です。
戦国時代ですから、武力を持つ個人や集団を内に入れる事はありますが、それが主従関係として正式に成立しているかは『家名』を賜っているかで分かります。それが無い場合は、浪人・足軽・雑兵などの扱いや食客ということです。
現代会社的に言えば、不正規雇用社員ですね。

『家名』は"血統"や"出自"を示すものであり、武士にとって非常に重要な要素でした。家名によって"社会的地位"や"権威"が決まり、婚姻や就職にも大きく影響しました。
『名字』は当主個人の名前を表すものであり、家名とは直接的な関係はありませんでした。

浪人や足軽・雑兵であっても、成果・実績を出したり、特殊な技能があれば、家名を授け武士として受け入れる自由さは戦国時代ですからあります。この分かりやすい例が豊臣秀吉ですし、江戸時代になりますが三浦按針になります。例えば、足軽でも足軽大将になれば、中級武士として家名を与えられるなどがあります。
『家名』と『名字』が同じだった人物も多いので、混乱しやすいのかもしれませんね。
また、歴史の中では『名字』もないが武士と同様に扱われる人物もあったのですが、武士とはやはりいえません。

「武士および武士と同様な扱い」の立場を、現代社会の会社で例えて言えば、
・『家名を持つ』:正規社員:武士:羽柴秀吉、三浦按針
・『家名がなく、名字は拝領する』:非正規社員:武士と同様な扱いでも武士ではない:木下藤吉郎
・『名字もない』:アルバイト社員や嘱託社員:武士と同様な扱いでも武士ではない:藤吉郎、按針
という感じで捉えれば分かりやすいかもしれません。
これは会社内で仕事をする上ではあまり差を感じないかもしれませんが、公式な場ではしっかりと立場を分けられます。また、非正規社員である「武士と同様な扱いでも武士ではない」という存在は、状況が安定すると真っ先に切られる存在でもあります。豊臣秀吉が天下統一した後や、徳川家康が天下を取り平和な時代となると、大量の解雇が発生しています。

戦国時代は主家を渡り歩いていく人もいました。
藤堂高虎は、まるで現代の転職のようにその生涯に10の主家に仕えています。ですが「主家を失って浪人になった」というのではなく、高虎の場合は非正規社員(武士と同様な扱い)ではなく、正社員(武士)として渡り歩いています。
また、元は名のある武士でしたが、主家を離れ(死別などもあります)、その後に別の主家に仕え、非武士身分から再び武士として活躍した人物というのもあり、戦国時代において決して珍しい存在ではありませんでした。
中世の騎士と戦国時代の武士は比較としてよく出てきますが、社会における役割に大きな違いが見られます。中世ヨーロッパの『騎士』は騎士に叙任されると、その称号(身分)は一度与えられると基本的に一生涯続く点が特徴的です。これは、封建制度における土地や特権との結びつきが深く、単なる職業というよりも社会的な地位を意味していたのです。また、騎士道精神はキリスト教的な価値観に基づいているためでもあります。一方、日本の武士はより流動的な側面を持っており、武士であっても主君から離れて武士身分が無くなり浪人身分になる場合もありました。
武士となる年月
戦国時代は『家名』は主従関係に深く関与しており、正当性を求められる戦国時代なので江戸時代と少し扱いが変わりますが。
江戸時代も初期はそれほど変わりませんね。

戦国時代で有名なのは「藤吉郎」でしょう。
主に仕え「木下」の『名字』を賜りますが、その後でも才や実績を見せる事により「羽柴氏」の家名を賜り、正式に武士の仲間入りします。
『将軍』で有名になった按針も、1609年には250石を与えられますが、この知行は仮でありこの時点では武士ではありません("知行"を得ており、武士同様の扱いになりますが、いつでもその知行を取り上げられる、食客や側用人としての立場です)。実際に武士の仲間入りをするのはさらに10年後の1619年、『三浦氏』の家名を賜り、「三浦按針」という名前になってからです。それまではずっと「按針さん」と呼ばれていますね。

他にも『武士になった外国人』はいるのですが、どれも10~20年ほど仕えた上で、その特殊技能や才を見せたり、実績や功績を積んだ上で、やっと『家名』を賜り武士になっています。ですので、逆に15ヵ月程度仕えただけの弥助では武士にはなれませんね。
もし、10年や20年も使えていれば、"名前"や、更には家門を自身で立て"家名"を賜り武士になれた可能性はありますが。

『弥助』の地位

明確にあるのは、フロイスの記録ぐらいです。
『日本通信』の1581年10月15日に書かれたもので、書簡の原文はポルトガル語で書かれています。
"hum negro que o Padre Valignano trouxe consigo da India, chamado Lasù, o qual o Xogum tanto estimou, que lhe deu espada e renda, e o fez servir de moco de camara a Dona Oeno, sua principal mullher, e ainda de seu proprio aposento."
"ヴァリニャーノ神父がインドからきたンヤスと呼ばれる黒人を紹介し、将軍は非常に気に入り、刀と御扶持を与え、お濃の方の付き人と、また自分の部屋付きとして仕えさせた"
という一文です。
弥助の立場としてフロイスが記録しているのは「使用人」であり、仕事として「濃の方の付き人」と「信長の部屋付き」なんですね。これは『小姓』や『中間』といった役職とは異なります。
『小姓』や『中間』など
『小姓』や『中間』ではない理由
これ、簡単なんです。
『小姓』も『中間』も、役割がはっきりしていて、やる事がある程度決まっているからです。
まぁ『小姓』と言っても、多くは家臣の子息なのは知っていると思いますが、中には見目麗しい武士階級ではない人物が行う事もありました(ですので例え小姓だったとしても、武士とは限らないのですね)。

会社とかで考えればいいのでしょうか?
大企業の「営業部」所属したら営業部の仕事をします(その中でもまだ分かれますが)。
なのに、営業の仕事の実績記録も経理や開発の実績記録もない、総務部の弥助君を他の人が「営業部所属だ」と言ったらおかしいよ、というだけですが。
あっ、三浦按針君は技術営業職の嘱託社員から出世した外国人でしたね、そう言えば。

ですので、私の考えでは弥助は「側用人(総務部庶務課福利厚生係)」ですが、実態は分からないので「近習(ひっくるめて総合職、小姓や中間も含みます)」と呼んだ方がいいのでは?と言っているだけです。あっ、「側用人」というのはまた幅広く、側近やご意見番みたいな政治や軍務をする人達もいますが、芸能者や茶人などの趣味のための人達も含まれるのです。
『側用人』
側用人は多岐にわたる仕事があります。
・政治・外交: 政治的な判断を補助し、外交交渉を行うことは、側用人の最も重要な仕事の一つでした。
・家政管理: 家臣の管理、領地の経営など、家政に関する業務も担いました。
・文化・芸術: 茶道、和歌、書道など、文化的な教養も求められ、主君の趣味の相手を務めることもありました。
・情報収集: 国内外の情報を収集し、主君に報告することも重要な仕事でした。
・秘書業務: 主君のスケジュール管理、書状の起草など、現代でいう秘書業務も担っていました。

武士身分でない人が側用人になることは、一般的ではありません。
しかし、例外は存在しました。 特に、主君の側近として重用された商人や僧侶の中には、側用人と呼ばれる立場にあった人物もいます。

商人: 商人の場合は、経済的な知識や人脈を生かして、主君の財政を支えたり、外交交渉を行ったりすることが期待されました。また諸国の情報収集にも活躍をしています。
僧侶: 僧侶の場合は、宗教的な知識や教養を生かして、主君に精神的なアドバイスを与えたり、祈りを捧げたりすることが期待されました。
茶人:茶人の場合は、茶道など文化的な教養を生かして、主君に精神的なアドバイスを与えたり、茶会などの文化活動を推進しました。

というような、多種多様な業務があります。武士身分でない人が側用人になったのは、
・特殊な能力: 武士にはない、専門的な知識や能力を持っている場合。
・主君の信頼: 主君との個人的な信頼関係が深く、特別な能力を必要とする仕事に携わっていた場合。
・時代背景: 戦国時代は、身分制度が厳格ではあったものの、能力主義的な側面も強かったため、例外的に武士以外の者が重用されることもありました。
というものですね。

海外の事を知り、海外の言葉や文字も分かる。流暢ではないかもしれないが日本語もある程度は理解して話せる。
海外の情報にも好奇心を持っていた信長ですので、そういう海外の話をさせたり、そして宣教師から献上された書物などを訳させて説明させるなどをしていた。またお供をさせる事により話題作りにもなる。と考えると含まれるのでは?と思ったからですが。茶人や商人に似ていますが、「海外の文化や情報を知りたい信長の知的好奇心」を満たす為に雇用したと考えれば、通訳や茶会には記録では出てくるけれど、戦場での活躍の記録は出てこない、というのも分かるかもしれません。
それでも、『側用人』というものも「弥助の立場として好意的に考えた場合」ですので、一般的に説明するなら『使用人』という方が通りがいいとは思います(『側用人』というと、政治・外交など重要な地位なども含まれ、そちらの方が主流なので、それに勘違いされる恐れはあるので)。
『近習』
戦国時代の「近習」は、主君に非常に近いところで仕え、様々な業務をこなす役職の総称です。
『小姓』や『中間』、『側用人』もすべて含まれます。
近習の仕事は多岐にわたり、主君の身の回りのお世話から、政治的な助言、家政の管理まで、その能力に応じて様々な役割を担いました。

武士ではない人も、近習にはいろいろと居ます。ただし、近習は主君への忠誠心を強く求められました。
『信長の近習』と言うと「近」という文字が入っているので『側近』や『近衛兵』『親衛隊』などと同じようなに考える人がいますが、そうではなく『信長に仕える人々』という総合的な意味でしかありません。役職はあやふやで『側用人』も違うのでは?というのであっても、『近習』と言っておけばとりあえずそこに含まれるのは確かでしょう。ただ、先ほども言ったように、側近や近衛兵・親衛隊のように勘違いする人がいる場合はやはり『使用人』と言っておくと間違いが起こらないでしょうね。

『信長公記』

「ここに記載している」と証拠として出される資料に、『信長公記』があります。
『信長公記』ですが、実は原本はまだ見つかっていません。ですのであるのは活字本や写本になります。
よくここから『弥助は刀持ちだった』いや『弥助は荷物持ちだった』という議論が出てくる上に、『刀持ちなら小姓では』と小姓説が出てきたり、『いや小姓ではなく荷物持ちだから中間だ』という議論がされています。
こうなる理由の1つとして、様々な版や写本が存在するからですね。

では、実際はどうだったか――というと、「黒人の弥助」が『刀持ち』『荷物持ち』だった記録はありません。つまり、小姓であるかどうかという議論自体がナンセンスと言う結果です。黒人ではない別の「弥助」が荷物持ちをしたというのは、1560年代の記録部分に載っています。
様々な『信長公記』
『信長公記』は様々な版があります。
少し内容が多くなりましたので『信長公記』についてにページを分けました。

本能寺の変での活躍

本能寺の変で戦い亡くなったり、本能寺の変で逃げたり、逃げたら明智に捕まったり、二条城に乗り込んだり。
そんな説が色々とあります。
では、どれが一次史料であるのでしょうか?
――というと、1つだけ一次史料の中にあります。が、それは伝聞での記録ですね。

実際を言うと、戦った記録などは一切ありませんね。
戦い亡くなった
実はこれのみ一次史料にあります。
フロイス書簡で、本能寺の変の数日後の伝聞を記録したもので「信長の傍で弥助は戦い亡くなった」と記載があります。
ただし伝聞であり、確証はありません。
個人的にはなりますが、たぶん、1615年信長公記活字本にある「弥六ハ御刀ヲ持テ戦ヒケルガ、敵ニ囲マレテ討死セリ」という記述にある(中間の)弥六を聞き間違えたのかと思います。

また、創作本になりますが1614年版「信長記」では、亡くなったという記載はありませんし本能寺の変で戦ったという記載は具体的にはありませんが、「本能寺の変の直前に、信長から密命を受け京都へ派遣された」という記載があります。具体的には「弥助は信長の側近として仕え、槍の使い手として知られていた」とも記載されています(この槍の使い手の記述が、司馬遼太郎の『信長公記』研究本で弥助が槍の名手としたのかもしれません。ですが、この「槍の使い手」とは成田弥六のことで、ようは弥六の実績が弥助に書き換えられているのです)。
1615年「信長記」では、これが弥助が本能寺の変の後に亡くなったという記述に変更されています。具体的な記述としては、「弥助は本能寺の変から数年後に病死した」とあります。

実際、弥助は亡くなっておらず、ヴァリニャーノの書簡で1598年に京都で会っており「元気で、宣教師の布教を手伝っていた」とあり、1599年には「少し老けていた」という記録があります(今、分かっている中ではこれが最後に弥助が出てくる記録です)。
1585年にも記録があり、イエズス会の宣教師であるジョアン・バプティスタ・デ・ロドリゲスが書いたもので、書簡『日本の教会に関する報告(Relación de las cosas de la Iglesia en Japón)』にあったのですが。
"Item, de un negro de Moçambique, llamado Iasù, que vino con el Padre Visitador al Japon, y ha servido mucho a los Padres en sus viajes y ministerios."
"また、訪問使節と共に日本に来日した東アフリカ出身の黒人、ンアスについて述べたいと思います。彼は宣教師たちの旅や宣教活動に非常に役立っています。"
とあります。
これは想像ですが、日本は顔の彫が深い人も、よく日焼けしている人(特に当時だと屋外活動が多いですし)も多いですし。黒髪黒目で日本語が話せたら、「でっけー日焼けした顔の濃い人」程度しか思われなかったのかもしれませんね。

また、よく「記録に残っていない」と不明とされていますが、本能寺の変の後でも生きていた記録は『家忠日記』にあります。
"天正10年6月3日条:爰ニ酒左衛門尉申候、堺御覧ニ被成候処、其御帰路ニテ、昨日四ツ時過、上様御生害被成候由、明知日向守、小七兵衛共、御討死被成候由、相聞候。弥助ハ其御所ニ居候へハ、御供申候由ニ候。"
とありますので、本能寺の変(6月2日)の次の日(6月3日)も生きている事が分かっています。
"天正10年6月4日条:弥助ハ、明知日向守方へ罷越候由申候"
ともあるので、6月4日も生きており、明智光秀にお伺いしようとしていたとありますね(ただ、6月4日の記録は一部の写本や翻刻本 にのみ見られますので、真実か分かりません)。

ただ、日本で具体的に言えば「妙心寺塔頭妙高院文書」と「妙心寺塔頭龍安寺文書」で1590年、1600年に弥助が記録されています(色々と史料を見て少しずつ生存確認を見つけていますが、今のところはこの"1600年"が最長生存記録です)。
本能寺から出た
これは2つあり、「信長が光秀の謀反を察し、危急存亡の危機と信忠へ救援要請するために弥助を派遣した」というのと、「本能寺から逃げた」という2説があります。後者は、主に江戸時代の読み物や演劇などで1/3ぐらいにある記述ですね。

では1つ目はというと、これはイエズス会の『日本教会史』(1649年)や『日本耶蘇教史』(1663年)に記載されている内容で、それ以前には出てこない内容です。つまり、ヨーロッパで創られた創作逸話ですね。

では、史実ではこれは誰か?というのを日本側の史料を見ると、1615年信長公記活字本には、派遣されたのは「羽柴秀勝(織田信長の四男)」とあります(ちなみに尊経閣文庫本では、これは「羽柴秀吉」になっていました)。
つまり、ここでも弥助が本能寺に居た記録はありません。

ヨーロッパで、どこから「羽柴秀勝」が「弥助」に変わったかは不明です。
明智に捕まった
これは有名な逸話で、一次史料にあると思っている人が多いですが、一次史料には書かれていない逸話です。
「明智に捕まり、弥助を獣同然で日本人ではないと南蛮寺に送った」という逸話は、実は1973年の大河ドラマ『国盗り物語』で創作された逸話です。このドラマは原作小説があり、司馬遼太郎が1963年頃に連載していた同名小説です。ですが、小説ではこの件はなく、本能寺の変で弥助はは別の理由で亡くなります。視聴率が25%以上ほどもあった人気大河ドラマで、このドラマ以降ではこの逸話が盛り込まれる創作物が増えています。
また、「明智に捕まった」という自体は1972年の小説にありますが、こちらでは獣同然という台詞はありません。

それより過去になかったのか?というのは証明が難しいのですが、代替えとして歌舞伎を比較すると分かります。
1975年の浄瑠璃にもこの件の描写は盛り込まれ、1980年の歌舞伎『信長』でも盛り込まれて上演されます。
ですが、この1973年以前の歌舞伎『信長』では内容映えする逸話なのに描写はありません。
再演を除いて、その間の歌舞伎を羅列しますと、
・1760年(宝暦10年): 弥助は信長の家臣として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1772年(安永元年): 弥助は信長の家臣として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1781年(天明元年): 弥助は信長の小姓として登場し、本能寺の変後の生死は不明。
・1828年(文政11年): 弥助は信長の家臣として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1852年(嘉永5年): 弥助は信長に仕える中級武士として登場し、本能寺の変後の生死は不明。
・1862年(文久2年): 弥助は信長に仕える中級武士として登場し、本能寺の変後の生死は不明。
・1879年(明治12年): 弥助は信長の側室として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1897年(明治30年): 弥助は信長の側室として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃します。
・1898年(明治31年): 弥助は信長の娘婿となる忍びとして登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
・1911年(明治44年): 弥助は信長の隠し子で武将として登場し、本能寺の変で信長と共に自刃する。
と、色々ありますが、光秀の件はドラマ『国盗り物語』の前にはないんですよね。
18歳色白美青年や、女忍者で信長の子供を身ごもり生んだパターンはありましたが。
昭和でも1935年・1942年・1979年でも再演されていますが、内容は上記のどれかです。

そもそも、一次資料を見ますと、本能寺の変の際に捕まっていませんし。
『家忠日記』では、
"天正10年6月3日条:爰ニ酒左衛門尉申候、堺御覧ニ被成候処、其御帰路ニテ、昨日四ツ時過、上様御生害被成候由、明知日向守、小七兵衛共、御討死被成候由、相聞候。弥助ハ其御所ニ居候へハ、御供申候由ニ候。"
とありますので、本能寺の変の次の日も生きている事が分かっていますし、その時に居たのは南蛮寺ではなく御所に居た事も分かっています。さらに
"天正10年6月4日条:弥助ハ、明知日向守方へ罷越候由申候"
つまり、弥助は明智光秀に捕まったわけではなく、お伺いをたてに行くとあります(ただ、6月4日の記録は一部の写本や翻刻本 にのみ見られますので、真実か分かりません)。

また、間違った認識を唱える方もいますので、注意ですね。
例えば村上直次郎著『耶蘇会の日本年報』というのに書いてある、と画像をだして主張する人がいます。

ところが、第1版(1943年版)で同じページ(258ページ)は、こういうページです。

実は、最初の物は1973年版か1984年版に記載されている内容(両方とも258ページ)で、ここに「明智光秀が弥助を動物だ言う」記載が出てくる内容です。初版にはない記載が増えているのですね。この版違いの内容は、国会図書館のアーカイブで確認できます(もっと言えば、1943年版は国会図書館でも複数が確認き、記載がある本と記載がない本の両方が存在します。両方を確認し比較すると、記載があるのは1973年版の内容が入っているので、記載がある1943年版は本当に1943年版なのか怪しい、となります)。1943年の同日の書簡には本能寺の変に関する記述が含まれていますが、主にイエズス会士の価値銅や日本の政治状況についての報告が記されています。これが、1973年版には光秀と弥助の逸話が追加されている形です。

ちなみに、この同様の記載は『日本教会史』(岩波書店刊)にも出てきます。
ただし、こちらも1970年版までは記載がなく、1984年版から入ってきています。
海外の版でも1984年版以降にならなければ記載がなく、例えば1705年英語版や1722年イタリア版には含まれていません(もしかしたら、この書簡内容は今回の話と同じような話なのかもしれません)。

ちなみにですが。
「こんなドラマ性がある話が、なぜ江戸時代から1970年までの明治・大正・昭和の読み物や演劇に出てこないのだろう?」
というのが最初に思った疑問点ですね。
それらでの弥助の結末は、「本能寺で一緒に亡くなる」か「逃げて行方が知れない」というものが殆どです。
二条城に乗り込んだ
「弥助は二条城に乗り込み戦った」というのも見掛けますが、これも勿論、一次史料にはありません。
私が前に見かけたのは江戸時代後期の『二条城の血戦』というもので、乗り込んだ弥助が信忠と共に戦い、光秀を倒します。
また、別の物語では、二条城に乗り込みますが信忠に捕まり南蛮寺に送られていました。
というので、これも創作の内容です。

史実を見ると、本能寺の変の前日(6/1)では二条城にいただろうという記述はあります。
これは、信長も濃の方も二条城に居たからですね。
ただ、濃の方も二条城の後は不明です。
・岐阜城へ帰還:本能寺の変の直後、濃姫は岐阜城へ帰還したという説があります。明智光秀が本能寺の変の後に近江の方に移動した記録や伝承もあります。
・自害:本能寺の変の直後、濃姫は自害したという説もあります。この説は、濃姫の化粧道具箱が本能寺で見つかったという伝承に基づいています。
・生き延び、各地を流浪:本能寺の変後、濃姫は生き延び、各地を流浪したという説もあります。この説は、濃姫がその後、様々な場所で目撃されたという伝承に基づいています。
という説がありますが、一次史料には出てきません。

イエズス会の記録

弥助自身に関しては、日本の史料よりもイエズス会の当時の宣教師の書簡の方が記録がありますね。
調査する中で分かりましたが、海外の研究から辿っていき、弥助の名前も年齢も既に分かっています(これは別途記載します)。
ここでは、「弥助は武士だったか?」についてのみの言及です。

そして、答えは「使用人」でしかない、と言う事ですね。
フロイス書簡にある立ち位置
フロイスの書簡にはっきりと、ポルトガル語で「使用人」と書かれています。
「Um serviu negro de Moçambique chamado Lacù que serviu Xogum」
(信長に仕えた東アフリカ出身の黒人使用人)

ポルトガル語だから「使用人」だとはっきり分かります。

もし、弥助の身分が「家臣(武士)」であったなら
"Um vassalo negro de Moçambique chamado Lacù que serviu Xogum"
という記載になります。

もし、弥助の身分が「奴隷」であったなら
"Um escravo negro de Moçambique chamado Lacù que serviu Xogum"
という記載になりますね。

一部のものには「従僕」や「付き人」と訳せる単語もついてますが、全体を通して「使用人」だけですね。
1文だけ「negro que servia de pajem」というのがありました。この「negro」が黒人ですね。「servia」は仕えるです。「pajem」が「小姓(西洋的に言うと従者)」とも訳せるのですが、他のも見ると「付き人」と訳すのが妥当だと思います。

ただし、これをヨーロッパで翻訳された書籍を、さらに日本語で翻訳された書籍には「奴隷」と出てきます。
これはポルトガル語の「黒人使用人(serviu negro)」という単語が、ラテン語に翻訳(Servus niger)されています。この「Servus」は古ラテン語で読むと「奴隷」になるからですね(ここは「弥助奴隷説」に関わりますので、別ページでも記載します)。それを翻訳している日本書籍も「黒人奴隷」と訳しているものを見掛けます。
しかし、ポルトガル語で「奴隷」と言いたいなら「escravo」と書かれるのですが、原文ではその様には書かれていません。ラテン語翻訳本を元にして各国の本が訳されているので、原本以外は「奴隷」と書かれていたりする書籍もあります。
フロイス書簡にある仕事
イエズス会の史料を読んでいましたが、「使用人(serviu)」とは何度か出てきますが、たぶん、仕事内容が書いてあるのはこれだけです。
『日本通信』の1581年10月15日に書かれたもので、書簡の原文はポルトガル語で書かれています。
"hum negro que o Padre Valignano trouxe consigo da India, chamado Lasù, o qual o Xogum tanto estimou, que lhe deu espada e renda, e o fez servir de moco de camara a Dona Oeno, sua principal mullher, e ainda de seu proprio aposento."
"ヴァリニャーノ神父がインドからきたンヤスと呼ばれる黒人を紹介し、将軍は非常に気に入り、刀と御扶持を与え、お濃の方の付き人として、また自分の部屋付きとして仕えさせた"
という一文です。
「lhe deu espada e ceda」を「刀と御扶持」と訳していますが、ここは「刀と銅銭」「刀と俸禄」「鞘巻きの刀」とも訳せます。ですが、『家忠日記』の記載から「刀と御扶持」と訳しています(詳しくはこちらを読んでください)。

ここから、使用人、その中で「側用人」と言える立場だったのではないかと考えられます。
側用人にも色々な仕事があり、政務に関係する武士もいるのですが、茶人や医師、商人など武士ではない人もいます。
また仕事も「趣味の相手」というのがあり、海外情報にも興味があり、宣教師から海外の書籍なども贈られていた信長ですので、そういう書籍を翻訳させ説明させていたりをさせていた、と考えるとぴったりと来るのではないでしょうか?(弥助がそんな学があったかは、別で話をします)

ただ、まず外れがない言い方をするなら「近習」ですね。これは"小姓"も"中間"も"側用人"も全て含む「信長に仕えた人」というくくりになりますので。
(「近習」を、西洋で言う「近衛」「側近」みたいに考えている人がいるようですが、そういうものではありません)

その他

弥助は刀を貰った
弥助が信長から刀と御扶持を貰った事は、イエズス会の書簡だけでなく『家忠日記』でも確認できます。
この『信長から刀を貰った』というのを「武士」となった証拠という人もいますが、それは違います

当時、刀や銅銭などの褒賞、御扶持となる給与などは、武士でない人にも多く与えています。
武士にも与えていましたが、商人や茶人、芸能者、医者、そして宣教師にも上げているものです。
これらは、信長が行うマーキングであり、忠義であり褒賞であり、給与でしかありません。
刀を賜ったから武士になるなら、商人や茶人、芸能者、医者、そして宣教師も武士になりますね。
信長指示による甲州視察
「甲州征伐後に信長の現地視察があり、それに随行してる」というのを『弥助は武士だった』の一次史料だという人が居ました。
この内容は『甲陽軍鑑』です。

ただし、これも1610年依田本(山梨県立博物館所蔵)には記載がありません(弥助自体が登場していない)。
1615年成立の林本から 黒坊が信玄に仕えたという記述はあります。
1616年松井本から黒坊に関する記述が初めて見られます(そして黒坊が信玄に仕えています)。
1626年黒坂本で甲州征伐後に黒坊が随行する記載が出てきます(そして、黒坊は1562年に信玄に仕えた後に信長に仕えた事になっています)。
1643年春浦本では活躍が詳細に書かれますが、黒坊が信玄に仕えたのは1560年に変わっています。

ただ、根本的な誤解ですが、黒坊は甘楽という武将の話であって、黒人の弥助ではない、というのを前提に知っておく必要があります。
『甲陽軍鑑』は、史実とフィクションが混ざり合っている資料ですので、内容の扱いには注意が必要です。
弥助の説の中で信玄云々の話が出てくるのは、この黒坊を「黒人の弥助」に誤解したことからになりますね。

実際はと言うと、これには二人の人物が混ざり誕生しているものです。一人は、「信長の荷物持ちをした」1560年代に出てくる『黒人の弥助』とは別人の『弥助』という人物。そしてもう一人は、1550年代から『黒坊』『くろ男』と史料の中に書かれて出てくる信玄や信長に仕えた「甘楽備前守忠貞」という人物です。

まぁ問題としてまだ残るのが、この『黒坊』も記録が色々あり、信玄ではなく謙信に仕えていたというのも史料にあります。どこらかで信長に仕えたのは『家忠日記』や『多聞院日記』など資料にある1568年の記載で確認が出来るのですが。
弥助は槍の名手だった
これは、『成田弥六』という人物の事で、刀持ちをしており、たまに荷物持ちもしたという武士です。
ですが、幾つかの書物ではこの『成田弥六』の事を「弥助」に書き換えています。
『信長公記』や『家忠日記」で確認できます。

「黒人の弥助」は本当、一次史料では戦闘系の活躍は皆無です。
弥助は弓の名手だった
この逸話は『黒坊主』と呼ばれた「甘楽備前守忠貞」の逸話からきています。
この人物の弓の名手ぶりは、『信長公記』や『多聞院日記』で確認ができます。
そもそも、この話は1568年の話ですし。

「黒人の弥助」は本当、一次史料では戦闘系の活躍は皆無です。
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