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ポリコレは「仲良しお遊戯会」に成り果てるのか?

こんにちは。フェミニスト・トーキョーです。

今回は、Amazon制作のドラマ「ロード・オブ・ザ・リング 力の指輪」における、ポリコレ対策と思われる配役の妙についてのお話です。

なお、あらかじめお断りしておきますが、私は人種差別についての専門家でも何でもありませんので、本稿はただの「指輪物語」シリーズのファン、ファンタジー創作と映画が大好きな一個人として、本作を通してこれからの映像作品における懸念と考察を綴ったものです。
何か特定のグループ、思想を代表して申し上げるわけではないことをご了承ください。


「力の指輪」における2種類の論点

2022年9月からAmazon Primeで配信が開始された本作ですが、エルフ、ハーフット(小人族)、ドワーフの各種族に、それぞれ黒人系ルーツの俳優さんがキャスティングされていることが話題になりました。

これは、以前に公開された映画「ロード・オブ・ザ・リング」三部作、および「ホビット」三部作シリーズのいずれにも無かった要素です。

いずれも物語の中で、同じ種族であるのに肌の色が異なるキャラクターがいることへの言及は、この記事を執筆している時点(2022年9月20日)時点で公開されているエピソードにおいては、何ら説明されていません。

ゆえに、これらは最近アメリカの映画界を中心に広まっている、「ポリティカル・コレクトネス」への配慮であると考えるのが自然だと見ております。

ポリティカル・コレクトネス~
人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない、中立的な表現や用語を用いること。1980年代ごろから米国で、偏見・差別のない表現は政治的に妥当であるという考えのもとに使われるようになった。言葉の問題にとどまらず、社会から偏見・差別をなくすことを意味する場合もある。

コトバンク~デジタル大辞泉より抜粋

縮めて「ポリコレ」と呼ばれて広まったこの運動ですが、近年では創作の世界にも影響を与えており、米国アカデミー賞が「人種、ジェンダー、マイノリティを配役の中に含むこと」を、作品賞の対象とするための条件に含む、という基準を打ち出して話題になっていました。

「力の指輪」も、こうした流れを汲んでのことであるのが容易に想像できる状況ではあるのですが、本作についてはもともとが現代の現実社会とは異なる、剣と魔法により支配されていた時代の物語(※註)であるがゆえに、議論においてはその争点が大まかには2種類に分かれていると見ております。

すなわち、

①「指輪物語」「シルマリルの物語」においては、各種族の容姿についても言及があり、かつ、種族間の争いや、それを乗り越えての和解・共闘も描かれているので、一つの種族の中で外見が異なる者がいるのは物語において矛盾を招く。そして原作を無視してそのような描写を入れ込むのは、原作に対する非礼・侮辱である。

と、

②あからさまなポリコレ対策であるのが見え見えすぎて、作品としての魅力を削ぎかねない。

という2つです。

①の話題については、「指輪物語」の作品群は私などが及ばないほどの知識と熱量を以ってこの問題に全力で抗議されている方々がいらっしゃいますので、そちらに譲ることにします。
本稿においては、主に②についての考察を進めて参ります。

(※註)指輪物語の世界は、原作者のトールキン氏により「有史以前の地球の物語」とされているので、「異世界」「ファンタジー世界」とは書かないように心がけております。

参考:「中つ国wiki」より

「裸の王様」の逆を往くポリコレ


先述の通り、「力の指輪」には、同種族の中に肌の色が違うキャラクターが配置されています。

この話題でたびたび取り沙汰されるのが「ダークエルフ」という存在についてですが、「力の指輪」では肌色が異なるのはエルフに限らないので、この点にこだわっている方は、恐れながら作品を観ていないのだなと理解しております。

なお「ダークエルフ」という存在に関しては原作でも触れられているのですが、通常のエルフとは異なる思想を持った集団という形でそう呼ばれているもので、容姿に違いがあるわけでもなく、仲間として一緒に戦っている時点で原作のダークエルフを表現しているわけではないことがうかがえます。

暗闇のエルフ(原典:Dark Elves)

クウェンヤではモリクウェンディと呼ばれる。反対語は光のエルフ(カラクウェンディ)、上のエルフ。
アマンで「二つの木の光を見なかった」という意味で暗闇のエルフと言われるようになったものであり、肌の色や邪悪さを意味するわけではない

出典:中つ国wiki「暗闇のエルフ」項より抜粋

つまり、そうした何かしら世界観に基づくものではないのに、エルフなりハーフットなり人間なりに関わらず、まったく何の説明もなく異なる肌の色を持つ登場人物がいる、ということです。
かつ、それに関する言及もドラマ本編の中では一切出てきません。

いわば、日本の時代劇の中で、唐突に黒人のお侍さんが登場していて、しかも他の登場人物もそれに関しては一切触れず普通に接しているし、物語の中でも何の説明もない状態、ということです。

例えば、信長に仕えていたことで有名な黒人の武士、弥助のような存在ということであれば、バックグラウンドを知れば「なぜ黒人のサムライがいるのかと思ったが、なるほどそういうことか」となるわけですが、そうしたものとは完全に異なり、

「そもそもの大前提として、全ての種族にさまざまな肌色の人間が混在していることになっている」

の、ようです。
そして大事なのが、

「この作品を観る人間は、その前提を踏まえた上で、それらを一切気にしてはならないし、言及もしてはいけない」

という点で、気にした時点でその人はレイシストであると断定されてしまうようです。

これ、何かに似ているなと思ったのが、アンデルセン童話の「裸の王様」なのですよね。

「裸の王様」では、「これは愚か者には見えない服なのだ」として、見るものに忖度させて「見えないものを見えているものとさせる」という流れでしたが、こちらは逆に「見えているものを見えていないことにさせる忖度」のように感じました。


「全員が主役」のお遊戯会


「裸の王様」になぞらえたのは、忖度の強要などというのはまさしく王様の理論、つまり「強者の理論」なのでは?という点に思い至ったからでした。

あるいは全体主義と呼ばれるものかも知れませんが。
いずれにせよ、ものすごく大きくてぼんやりとした何か、だけれども、自由な身動きを許されない強制力を持った「何か」によって、反論のための口を封じられているような、そんな感覚を覚えました。

でも不思議だったのが、白人ばかりがメインキャストを務めるのが嫌だから他の人種も混ぜるように、と言われても、お話の中で主役が何人もいるわけではないですよね。

そうなると、今作では私だったから次は貴方、みたいな持ち回りにでもするか、もしくは「全員に何かしら主役級の活躍をさせる場面を作る」みたいなお話にするしかなさそうです。「力の指輪」のように登場人物が非常に多くて、一種の群像劇でもあるような作品であれば可能ですが、毎回どんな作品でもこれをやるのは至難の業です。

と、ここまで考えて、「これって何かに似てるような…?」と思い出したのが、よく耳にする「全員が主役のお遊戯会」ですとか、一部の小学校などの運動会で行われていたという「全員で手をつないでゴールする」というものでした。

「誰も傷つかないようにする」の究極はこういうことになるのでは、と思いまして。

モンスターペアレントの対応に苦慮する園や学校で、ましてや演劇や運動会は学校教育の主軸でもないので、あまりこだわらず目一杯に曖昧な対応でお茶を濁しておこう、というのは分からなくはないです。

でも、それを幼稚園や学校でやるならばともかく、エンターテインメント作品にも適用するというのはどうなのか…?というのが素直な疑問でもありました。

第一、これって黒人の「指輪物語」ファンが見て本当に嬉しいのだろうか?原作を愛している人であれば、人種に関わらずこのような「仲良しお遊戯会」状態にされてしまうのは悲しいのではないか?と思ったのです。

思ったのですが。

どうやらそれは、私自身も人種差別とは無縁に生きてこられた日本人だからこその発想なのかも、と思い直したのが、「 #blacktober 」というムーブメントを知ってからでした。


「blacktoberイコールwhitewashingではなく、むしろ真逆の存在」


blacktober はSNSを中心として、創作のキャラクターを黒人化したイラストやビジュアルを作るというもので、日本のアニメや漫画などのキャラクターも多数含まれています。

単に「黒人にしてもカッコいい」みたいなことなのかな?と思ったのですけれども、調べてゆくとどうやら

「作品への敬愛を示すと同時に、黒人差別への抗議でもある」

ということのようで、作品愛と政治・思想的なものをミックスしているのだそうです。

正直、作品へのリスペクトよりも「黒人がキャスティングされてもいいではないか」という思いの方が上回ってキャラクターを改変してしまう、という発想というか思考経路がよく分かりませんでした。

繰り返しになりますが、これは作品をあるがままに受け入れるという畏敬の念よりも、自らの思想のほうが勝ってしまっている状態のように見えまして。

第一、上記まとめサイトにもある通り、これはハリウッド実写版「攻殻機動隊」の時に取り沙汰された「ホワイトウォッシング」などと同様で、ただ白人が黒人になっただけではないのか?という風にも感じました。


……と、いうのは。

どうやら白人も黒人も黄色人種も最初から同列に見ることが出来る日本人の発想のようでして。

米国で弁護士をやっていらっしゃる方のお話が非常に分かりやすかったので、少々長いのですが抜粋させていただきます。

人種差別と言う物は「力」の表現です。なので、「強者が行う行為」と「虐げられてきた人たちが行う行為」は全く意味合いが違います。

元は白人役だったものを黒人に割り当てる事は「白人が有色人種の役を奪い続けて来た事を考慮し、有色人種の役を用意する誠意」の表現でありますので、Whitewashingとは真逆の意味となります。

例えばですが、黒人公民権・人種差別反対団体で「黒人もプライドを持つべし」として「Black Pride」・「Black Power] と言う考えが70年代・80年代から存在します。これは「黒人は無価値」と白人社会に言われ続けて来た背景があります。

対して、「White Pride」と言うのは「白人至上主義」の代名詞です。それもそのはず、白人が米社会で尊厳を持てる事は当然なのです。強者の立場であるからです。わざわざ「White Power」「White Pride」と言う人たちは「黒人の立場を上げる事は白人の力を奪う事に等しく、悪である」と言う視点です。ネオナチやKKKの好きなフレーズです。

なので、「Black Power」・「Black Pride」を掲げる事は一見して「White Power」・「White Pride」と言う事と同じ様に見えるかも知れませんが、その背景や社会の力関係を考えると全く意味が違います。

前者は「黒人の立場を向上する事で、平等を得る」事が目的

後者は「白人の立場を向上する事で、白人の優位性を保つ」事が目的。

全く違います。

 :
(中略)
 :

元は白人役だったものを黒人に割り当てる事は「白人が有色人種の役を奪い続けて来た事を考慮し、有色人種の役を用意する誠意」の表現でありますので、Whitewashingとは真逆の意味となります

出典:「Quora」より

うん……なんでしょう……。
意味はよく分かったのですが、余計にモヤモヤすると言いますか……。

まとめると、

「黒人は今日これまでずっと差別され虐げられてきた歴史と事実があるのだから、今まで白人が独占してきた役柄を譲ることは、黒人への誠意を示すものであり、決して黒人至上主義ではない

ということかと思うのですが。

これって、これから先もずっと永久にやり続けるのだろうか……?というか、「平等が達成された、というのは誰がどう判断するのか」という実にシンプルな疑問が湧いてくるのですよね。

差別が解消されたかどうか、そもそも差別されているのかどうかという判定は、全て被差別者のみが判断・決定権を持つ、という話であれば、日本にも朝田理論なる非常に近しいものがあるのですけれども、これは確かに被差別者の地位向上にはなると思いますが、片方がずっとイニシアティブを持ったままの状態では、平等というものには永遠に辿り着けないのではないでしょうか。


「誰も嫌な思いをしない」では「誰も楽しめない」


私が日本人だから云々、という話を何度かしましたが、ドラマ「力の指輪」に関する海外の反応はどうかというと、そもそも「指輪物語」シリーズは世界中に熱狂的なマニアがいる作品ですので、やっぱり同じように激怒してらっしゃる方が多数いるようでした。

もう一つ、海外の話で面白かったのは、お遊戯会の「全員主役」の話を調べていたら、これは英国タイムズ紙のニュースで取り上げられたことがあったそうで、それに対してアメリカの方から「アメリカも似たようなものだ」「アメリカの親ならオーディションをやれと言い出す」などという話もあった、というものでした。

「誰もが傷つかないようにせよ」という呪いのような言葉に悩まされているのは、世界共通なのかも知れませんね。

それにしても、ここまで調べてもよく分からないのは、ファンタジーのようにあらかじめ舞台設定がされている作品に対して、現実世界の問題を盛り込もうという感覚です。

これだけは黒人差別云々ではなく、ポリコレの話であろうと思っています。

例えば、映画「ブラックパンサー」のように、黒人がメインキャストを占めるのが何ら無理のない物語をベースにして成功を収めている作品もあります。

でも、おそらくこれもまたポリコレの目指す理想ではなく、ポリコレとは
「全てをごった煮にした上で、それらを見えないものとし、かつ全員が輝けるような世界」
を実現せよ、という話なのであろうと私は思っています。

ただ、それは現実世界での理想であればまだ理解出来ますが、もともとそうではない設定がある物語に無理やりにねじ込めば、観客はみな「裸の王様」に出てくる国民の目を持って、「全員が主役のお遊戯会」を客席から眺める保護者の気持ちで、ポップコーンを齧ることになります。

それはポリコレの思想では正しいのかも知れませんが、はたしてエンターテインメントと呼べるのだろうか、という点において、個人的には疑問を感じずにはいられません。

誰もが傷つかない世界は、誰もが心から楽しむことも出来ない世界になってしまわないように、ポリティカル・コレクトネスはとにかく何にでも適用すればいい、という考えを今一度考え直してみていただけないかと、エンタメファンの一人として切に願います。

(了)


最後までご精読いただき、誠にありがとうございました。

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ポリコレは「仲良しお遊戯会」に成り果てるのか?|フェミニスト・トーキョー
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