2024-07-25

田舎で、車がないと生活ものすごく不便な場所で育った。電車は走っていたけど運賃がとても高かった。

14歳から自傷行為を始めた。母独裁機能不全の家と学校での孤立トリガー

19歳から精神科に通った。週1回の通院が必要状態。度重なる自傷行為で鉄剤を処方されるような貧血。母との関係は最悪。貧血精神科の薬の影響で、バイト半年も続けられない。

20歳で初めての自殺◯遂。トリガーお金がなく、国民基礎年金が払えないことだった。世間では社保庁の使い込みが話題だった頃。

24歳で発達障害が分かった。作業所に通うようになっていたけど、通院頻度は相変わらず週1回から減らない。自傷も不眠も続く。母との関係も変わらない。親が負担してくれるのは通院費と住民税やら市民税やらの公的なところ。

国民基礎年金猶予制度を使った。ハロワは家から遠く、片道800円の電車賃が出せなくて通えず。職業訓練とその給付金は親の収入がそれなりだったため利用できなかった。車の免許お金が出せず、また親の反対もあって取れなかった。

28歳で障害基礎年金受給し始めた。手続きは全部自分でやった。診断書料だけは母を拝み倒して受け取った。この頃は自分の口座残高が312円だった。

服もカバンも穴が空いて、下着サイズが合わないものを使っていた。親は海外旅行に行っていた。兄弟ブランド品を買っていた。

29歳でグループホームに入所した。元手は一年貯めた障害年金。通院頻度はまだまだ週1回。これでやっと生活を立て直せるはずが、ホーム運営がどうも杜撰

突然利用料が値上げされたり、面談の日にちや時間を間違われたり、無理やり引っ越しさせられたりした。いつ住む場所が変わるか分からないし、お金がないので1日1食、着るものも満足には揃えられない。衣食住すべてが不安定

身長163センチに対して体重は46キロしょっちゅう熱を出して風邪を引いて寝込んだ。住民税やら何やらの公的な分は払えるわけもなく、住む場所は離れても親の世帯からは出られなかったため生活保護も申請できなかった。

もとより親の職業社会的地位としてそれなりのため、申請しても通らなかった可能性のほうが大きい。

33歳でグループホームを出た。通院頻度はまだまだ週1回。軽量鉄骨のアパートに部屋を借りた。とはいえ名義は親だった。帰ってこいとは言われなかった。世帯を出ろとも言われなかった。この頃後の夫となる人と出会う。

最低賃金保証してくれる作業所に入れたが、法をかいくぐって弱者ビジネスをやっているような場所だった。生産性のない作業補助金を吸っているような場所。何度もいじめのようなことをされて状態悪化貯金体重も増えない。

35歳で障害者雇用枠のパートについた。通院頻度は週1回から抜け出せない。客からのつきまといに悩んだ。体重は少し増えたが貯金は全くできない。

37歳で「もういい、もう頑張ったよ。これからボーナスステージってことで、もういいじゃん」と言われて結婚した。その翌年、通院頻度は2週間に1回になった。体重も50キロを超えることができた。

42歳。現在洗濯をして、掃除をして、買い物に行って料理をするだけの毎日子供はいない。通院頻度は月に1回になった。

時々、この20年で縁が切れてしまった友人や、私と同じような状況で未婚の人のことを考える。余計なお世話かもしれないけど。

できるだけ簡潔にまとめようとしたけど、やっぱり難しい。20代の、文字通り血みどろの毎日と、30代の福祉制度に振り回された毎日はそう簡単にまとめられない。

書いてないけど結婚するまでの間は暴力給料未払い、20歳の時以外の自◯未遂も多々あった。必死に生きてきたというより、死なない(死ねない)だけの毎日だった。

今日、厚生遺族年金のあれこれを見て久しぶりに落ち込んでしまった。私のケースだと、週1回精神科へ通院が必要発達障害持ちの人間が、どうやって厚生年金に入れただろうかと思ってしまう。今だって睡眠薬がないと眠れない。

遺族年金が有期給付になって、夫がいなくなったら私はまた死なないだけの毎日に戻ってしまうのだろうか。せめてその時までに安楽死制度が整っていれば良いんだけど。

今は毎日穏やかだけど、時々、特に今日みたいな日は生きててごめんなさいという気持ちになる。

ごめんなさい、生きてしまって。

  • ちょっと待って! わたし、理解ある彼女ちゃん、現れてないんだけど! 孤独死に向かって、ネコまっしぐらなんだけど!

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