許永中と石橋産業 その19 許永中神社の灯籠や石碑に刻まれた寄進者は・・

 

24億円の手形が正式に返還されたのは、12月中旬のことでした。

 

許永中の逃亡で中断されていた約180億円の石橋産業手形詐欺事件について、東京地検特捜部は許永中が収監されたことで、2000年の年明けから捜査を再開しました。

 

そのキーマンの一人が事情聴取の上、自殺した元住友信託銀行役員の井手野下氏でした。

 

3月7日、東京地検特捜部は許永中、かつての「特捜のエース」田中弁護士、許永中の側近で会社役員の尾崎稔、田中久則両容疑者の4人を、石橋産業グループから約180億円の約束手形をだましとったとして詐欺容疑で逮捕しました。

 

許永中らは、この約束手形をすでに市場で売却、約400億円もの利益を手にしていたといわれていました。

 

大阪市北区中崎町あバブル期、「コリアタウン」建設を夢見た許永中がリクルートコスモス社などと組んで、大がかりな地上げをしたところです。

 

ここには訪れた石橋産業の石橋社長らがあまりの豪華さに「すごい」と目を見張った許永中の豪邸や道場がありました。

 

その横に、不動明王や灯寵が立ち並ぶ、小さいが豪華な神社がありました。

 

別名「許永中神社」と呼ばれるこの神社ができたのは96年12月。

 

灯籠や石碑に刻まれた寄進者の名前を見ていくと、なんと、田中森一弁護士、山段芳春会長、吉永透弁護士、井手野下秀守・元住友信託銀行役員、川島国良・カワボウリカ社長、境川尚・日本相撲協会理事長、田中英寿・JOC委員、金雲竜・IOC副会長などの名前がゾロゾロ出てきました。

 

石橋産業手形詐欺事件をめぐって林社長が東京地検に提出した「陳述書」に登場する役者たちが、そっくりそのままあらわれ出た形となりました。

 

 

それはまた、関西の地下経済界で暗躍してきたフィクサーとその取り巻きたちの墓碑のようでもありました。

 

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許永中と石橋産業 その18 手形を一刻も早く引き上げたい

 

そこで田中弁護士が「こんな裏書類を世間の人に見せるわけにはいかんやろ。ワシがこの書類を預かっておくので心配いらんやろ」

と石橋社長と許永中に言いました。

 

この合意書は、事実上石橋産業を100億円で許永中に売る内容でした。

 

そうした疑問を抱きながらも、許永中を抑えるために田中弁護士がそう言っているのだろうと思った林社長は、いわれるがままに合意書に立会印を押した。

 

それが、後々石橋産業を窓口にした新井組株や当時許永中の影響下にあった日本レース株、あるいは若築建設株などの仕手戦の一任勘定につながっていくとは誰も想像できませんでした。

 

林社長曰く「何としても石橋の85億円を取り戻したかったし、手形約180億円分を一刻も早く引き上げたいという、焦り」 から来たものでした。

 

97年2月8日、大阪の全日空ホテルに元大阪高検検事長の富田正典弁護士の音頭取りで関係弁護士らが集まりました。

 

ここで、富田弁護士が

「石橋さんが許永中に騙されて被害にあっている」とあいさつし、林社長が経過を報告しました。

 

これに対して、許永中と一任勘定の契約を交わした石橋産業の代理人弁護士が

「100億の合意書があり、それに基づいた一任勘定の合意書もあるので立件は無理」

と言いましたが他の弁護士が、

「その書類があるからこそ詐欺なんですよ」と反論。

 

石橋産業の代理人として一任勘定の交渉にあたっていたこの弁護士は、「ちょっともらいすぎだよね」と、許永中から相当額の金品の提供を受けていたことを周囲に漏らしていたこともありました。

 

この時、すでに田中弁護士が「全部保管している」と言明していた1120万株の新井組株は、同弁護士の手元にもキョートファイナンス社にもなく、その大半が売りに出され、許永中が100億円以上の売却益を手にしていました。

 

石橋産業は、関連財団が所有する「昭和化学工業」株をはじめ、9銘柄の約285万5000株を、2月末を期限に預けていました。

ところが3月に入っても一切返却されず、うち20万株は同月中旬ころ大阪市内の金融業者に持ち込まれ、これを担保に許永中は約2億1000万円の融資を受けていました。

 

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さらに許永中はこの9銘柄の株を京都・都証券に担保提供し、

 

石橋産業名義で96年12月5日から翌97年2月4日までの間に総数357万7500株の新井組株の株取引をおこないました。

 

ところが、この取引で多額の担保不足が発生。

 

このため、石橋産業は名義上の責任をとらざるをえなくなり、都証券に対して、信用取引された新井組株を時価で引き取ることになりました。

 

しかも、この株357万7500株のうち196万8200株は、許永中と石橋産業の売買契約に明記されていた新井組株の一部だったことが判明。

 

許永中が売買契約に反して市場で処分していることが判明しました。

 

こうして石橋産業側と許永中との対立は決定的なものになり、同年3月、林社長は新井組株を譲渡するという約束が履行されなかったとして、キョートファイナンス社の社長を退任しました。

 

同年6月には勝手に株を処分したとして許永中を横領容疑で東京地検に告訴しました。

 

この告訴を受けて東京地検が関係者から事情聴取するなどしていた矢先の10月上旬、許永中は渡航先の韓国で姿を消しました。

 

このため東京地検は、さきの横領容疑だけではなく約203億円の手形のすべてを捜査の対象にして11月17日、大阪の許永中自宅や拠点ビルなど約20ヵ所を一斉に家宅捜索。

 

一方、石橋産業裏書きのロイヤル社の額面総額約203億円の手形は179億円分キョート社に差し入れられ、残り24億円は田中弁護士が保管していることになっていました。

 

新井組株は引き渡されておらず、「取り立てしない」という約束だったにもかかわらず、この24億円分の株について97年2月許永中が突然、「取り立てるので24億円支払え」と通告。

 

驚いた石橋産業側は、保管しているはずの田中弁護士に再三その所在を尋ねたが回答は一切ありませんでした。

 

このため石橋産業側は10月、田中弁護士を相手どって24億円の手形返還訴訟を大阪地裁に起こしました。

 

田中弁護士がその24億円の手形返還を申し出たのは、石橋産業側から返還要求が出てから8か月たった11月中旬のことで、東京地検の強制捜査の3日前でした。

 

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許永中と石橋産業 その17

 

山段氏は、「石橋さんとワシが手を握っていることがわかるハズや」と、

自ら会長を務める損害保険代理業キョート・ファンドや「京都自治経済協議会」が入っている京都市中京区の通称山段ビルに、石橋産業の看板を出すことをすすめました。

この席で、山段氏はキョート社やセンチュリー滋賀が石橋産業のものになることを前提に、

「京都新聞も石橋さんのものにしたらええがな。新聞社のオーナーと言うのは実質なろう思うても、簡単にはなれるものと違いまっせ。

キョートファイナンスの借金は林さんが整理してくれたらええんや。

京信の件は井上理事長がワシのことを誤解してもうて、

アホやからごちゃごちゃ騒いどるようやが、こヤツは許せんのでこれからワシが反撃しょうと思うてまんのや。

とにかく石橋さん、永中のことはワシが守ってやるさかい心配いらんで」

 

97年に入って、山段ビルのフロアーを借り受け、石橋産業の看板が出されました。

 

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ところが2月下旬、山段氏推薦の弁護士たちが、突然顧問辞任を申し出ることになり石橋社長らは山段氏から離れていくことになりました。

 

96年いよいよ資金繰りに詰まっていた許永中は

「石橋の財務内容調べたんやが、ホンマに金ないな。頭に来るで」

「ウダウダぬかしとんやったら150億作って、元にもどそうやないか」

などと林社長に言うようになってきました。

 

不信と恐怖を覚えた林社長は、今度は「許永中はワシに頭が上がらんのやから何も心配いらんで」

と、ことあるごとに言っていた田中森一弁護士に相談することにしました。

 

「永中が拘置所にいた時、ワシに面会を求めて来たんやがそれはある人に頼んでワシに言うて来たんや。

ここから出してくれたらワシは先生を一生の恩人にする。

先生頼むからワシの兄弟になってくれ!言うて涙をポロポロ流しながら頼んできたもんや。

そやから許永中はワシにだけは頭が上がらんのや」

 

とも明かしていた同弁護士は、

「よっしや、心配すんな」

と、引き受けました。

 

その直後、許永中から「先生から話は聞いたがナ」と林社長のもとに電話が入りました。

 

それは、許永中が石橋産業に100億円渡す代わりに石橋の信用力で儲けさせてもらいたいというものでした。

 

石橋の名前を使って株取引するいわゆる一任勘定ということになります。

 

林社長は許永中の申し出を石橋社長に相談。

 

田中弁護士と相談してからということになり、大阪入りした林社長と田中弁護士が会談し「安心してまかせろ」ということになりました。

 

96年2月15日大阪市北区のホテル阪急インターナショナルのスイートルームに許永中、田中弁護士、石橋社長、林社長の4人が集まりました。

 

ここで許永中は石橋産業の運営を自分にまかせれば、儲けてその中から100億円を石橋産業側に渡す。

別に石橋産業グループで必要としない会社を許永中に譲ること。

さらに「石橋産業さんはワシが入り込んだら、一時期泥まみれになる可能性がある」

と言って石橋氏は石橋産業社長を退任し、新社長を選任する必要があると提案しました。

 

新社長には石橋産業の専務が就任することで話がまとまり、翌11月16日ホテル阪急で会議がおこなわれ、許永中側には井手野下氏、側近の尾崎稔、田中久則両会社役員など新たに加わり、石橋産業側には新社長に予定していた専務が加わりました。

石橋産業専務は

「突然の呼び出しで、何がなんだかわからずに来ました。

石橋産業の社員は石橋浩社長あっての社員ですし、とてもお受けすることはできません」

 

と、新社長への就任を拒否しました。

 

この唐突な社長就任要請に驚いた専務は、こう言って林社長に詰め寄りました。

「林さん、一体どうなっているんだ。石橋社長は一体何を考えているんだ。
社長になるくらいなら会社を辞めますよ」

 

その後石橋社長と林社長は帝国ホテル東京の許事務所に呼び出され、許永中、田中弁護士の4人で会合を持ちました。

つづく

 

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許永中と石橋産業 その15

許永中と石橋産業 その16