許永中と石橋産業 その1

2000年2月6日第一ホテル東京の一室で首つり自殺の男性の遺体が発見されました。

 

男性は兵庫県川西市在住の不動産会社社長「井手野下秀守」氏。

 

その理由ははっきりとしませんが、イトマン事件で名を馳せた許永中にあったとされています。

 

許永中は失踪直前、東京の石油卸商社・石橋産業にからむ手形詐欺事件で東京地検の捜査対象になっていて家宅捜索されましたが逃亡で捜査は中断。

 

許永中が収監され年明けから特捜部が事件の再捜査に着手し、冒頭の井手野下氏はその重要参考人として、自殺する直前まで特捜部の事情聴取を2回受けていました。

 

井手野下氏は事件とのかかわりあいが深かったということですが、彼は大手信託銀行の元役員という経歴の一方、許被告の側近中の側近という裏の顔を持っていました。

 

一橋大学を卒業して62年住友信託銀行に入行した井手野下氏は、一貫して不動産融資部門を担当。

 

難波営業部長、本店開発事業部長を歴任し88年には取締役に就任。

 

92年2月からノンバンク・日本モーゲージの社長を務めました。

 

その後、98年6月まで全日空ビルディング専務、ついで副社長として出向していました。

 

許被告と知り合うようになったのは難波営業部長時代の85年ごろとされています。

 

当時、激しかったイトマンやリクルートコスモスなどと地上げにかかわるうち、許永中の存在を知るようになりました。

 

大阪の不動産会社の話によると愛人がママをしていた北新地のアカラに通いつめ、認められて側近になったそうです。

 

日本モーゲージは、大手金融機関がまだ許永中を相手にしていなかった87年当時、大阪府池田市の許永中の自宅やコリアタウン建設を計画した大阪市北区中崎の大規模地上げに百数十億円を超す融資をしていました。

 

94年10月、巨額の負債を抱えて倒産しましたが当時の社長が井手野下氏でした。

 

井手野下氏が日本モーゲージに派遣されたのは、関係があった許永中の焦げつき処理のためだったともいわれています。

 

その井出野氏の名前が出てくるようになったのは、石橋産業手形詐欺事件を通じて西宮市の中堅ゼネコン新井組株を保有していた京都のノンバンク・キョート・ファイナンス社の乗っ取り計画でした。

 

この東京地検特捜部が再捜査に着手した石橋産業手形詐欺事件はキョート・ファイナンス社の社長に就任した石橋産業の関連会社・エィチ・アール・ロイヤルの林雅三社長が、東京地検に提出した「陳述書」に詳しく述べられています。

 

これによると自殺した井手野下氏の名前がたびたび登場。

 

許永中は全日空ビルディング専務だった井手野下氏を林社長ら石橋産業側に紹介したとされています。

 

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ハンナン事件 浅田満 その9

浅田満氏の実弟は1965年頃、山口組山健組系浅田組を結成し金融業を営む株式会社昭栄を設立。

 

そして山口組と一和会との抗争事件を機に浅田組を解散、株式会社昭栄を昭栄興業に商号変更し、土木建築業を営むようになりました。

 

ちょうど田尻町は関西空港の開港に合わせ、りんくうタウンで町域が倍に拡大。

 

町は固定資産税収入が大幅増益となり、関空ブームに乗った開発計画が相次ぎました。

 

贈収賄事件の端緒になったのは、阪南土建と阪南市の土木建築業者・畑中組が田尻町に進出を計画していた大手スーパージャスコの店舗建設工事の下請け業者に入れるよう石谷町長に協力を求め、話し合ったことからこの場には泉佐野市内の土木建築業者・熊取谷工務店の熊取谷隆社長も同席。

 

話し合いの結果、石谷後援会事務局長でサエキの佐伯社長を介して依頼。

 

ジャスコの下請け工事参入に際し、石谷町長に協力を依頼してほしい旨を伝え、現金が入った封筒を渡しました。

 

また、ハンナングループと石谷町長との金銭の貸借関係が、石谷町長の各犯行の背景にあり、両者の関係は相当親密だったようです。

 

浅田氏は、昭栄興業の新社長に予定されていた石井富雄氏を石谷町長に紹介するため、大阪市内の料亭で町長と佐伯社長とを接待したことがあり、この時、石谷町長は町内の道路拡幅工事、幼稚園・保育所・給食センターの移転建設工事、町営プール、体育館の建設工事のことを漏らしたとされています。

 

また石谷町長は羽曳野市の昭栄興業事務所で、浅田氏に下水道工事、小・中学校コンピューター及び特別教室空調設備工事があることなどを話し、浅田氏は懇意にしている業者に受注させてもらえるよう依頼。

 

こうした情報漏洩が、競売入札妨害事件に発展していきました。

 

石谷町長がかねがね主張していた吉見ノ里駅前再開発計画では駅前に旧阪和銀行支店跡地とパチンコ店跡地とがあり、この土地のひとつパチンコ店跡地を「アークライト」が裁判所の競売で総額2億3000万円で落札しました。

 

預金保険機構の所有地になっていた阪和銀行支店跡地も、一般競争入札で泉南市の業者が購入。パチンコ店跡地は阪和銀行支店跡地のちょうど裏手で、価値を高めるには一体のものにする必要がありました。

 

そうしたことからこの相次ぐ買収は駅前再開発構想用地の先買いであり、一体のものだと皆が思っていたのです。

 

阪和銀行跡地を買収した業者は「頼まれて買った」と言っていたそうです。

 

そのパチンコ店跡地を買収した「アークライト」という金融会社の代表は前回記事にも書きました浅田満氏です。

 

町議会で浅田氏とは「親しい間柄ではないのか」と追及され関係を否定しませんでしたが、駅前再開発構想は石谷町長の逮捕で結局は頓挫し、現在は民間のマンションが建てられています。

 

 

現在の吉見ノ里周辺

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ハンナン事件 浅田満 その8

この人事は松原食肉荷受けの大株主である浅田氏に配慮したものでした。

 

そうしないと話がまとまらないからです。

 

事実、古財環境農林水産部長と担当部局である同部流通対策室のメンバーが、たびたび浅田邸に足を運び協議を行なっていました。

 

太田知事の浅田邸訪問は東京の情報誌がこの会合の場で、浅田氏が府側に1000億円の補償金を要求したと書いたり、また「解決金として2~300億円出すよう言われた」との情報が飛び交いました。

 

同知事はこうした疑惑について「あくまで先生方との懇談の場所としてお借りしただけ。松原食肉市場公社の話はいっさいなかった」と否定。

 

ところが不可解なことに、浅田氏との会合後の同年9月の議会でこの松原食肉市場公社の再編処理案をめぐつて、前述したように民間業者に調査委託する予算1000万円が急遽計上され、翌2001年3月末までに報告書が作成されることになりました。

 

そして同年9月、議会で処理案が発表されたのです。

 

府の処理案の元になった民間調査会社の報告書は、「羽曳野市場からの1万頭の確保の実行可能性の検討は行なっていない」と認め、府の処理案で営業権保証として4億円を渡すことになっている浅田氏の会社「南大阪食肉畜産荷受」についても、「会社の価値から、営業権の対価性を算定することは難しい」と判断しており、府が4億円もの税金を浅田氏の会社に渡す合理性はどこにも見当たりませんでした。

 

こうしたことから、大阪府庁内外で批判の声が上がったのです。

 

昨年9月の府議会で、府がノック知事時代の97年ごろから浅田氏と処理案について協議を重ね、太田知事は知事選の最中に接触しその後も酒食を共にするなどしてきたことから、共産党議員に追及されたが、「懇談の場所を借りただけ」と、答弁のあげく、「別の質問をして下さい」と声を荒げました。

 

府はBSE (狂牛病)対策に追われた一般の酪農家の苦境をよそに松原食肉市場公社を解散し、後に設立する新会社にだけ3億4600万円のBSE対策費を投入することで予算編成作業に入ったのです。

 

ただ、さすがにそれには議会から反発の声が上がり撤回。

 

浅田氏が、かつて羽曳野市の部落解放同盟向野支部の副支部長を務めていたことは前の記事に書きましたが、解同幹部が理事長を務める全国同和への輸入肉の独占的割り当てを通じて輸入食肉業界に君臨し、果ては汚職事件を引き起こしたのは先述のとおりですが、それに加え当時の山口組の当代である渡辺芳則組長とは直に話ができる関係であり、また自民党畜産族の実力者・鈴木宗男氏とはじつ懇の間柄であったともいわれていました。

 

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