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  11. 尊王攘夷運動

尊王攘夷運動

ジャパンナレッジで閲覧できる『尊王攘夷運動』の世界大百科事典・国史大辞典のサンプルページ

世界大百科事典

尊王攘夷運動
そんのうじょういうんどう

天皇を尊び外夷をしりぞけることをスローガンに掲げ,幕府政治を批判の対象とした,江戸末期の政治運動。下級武士や少壮公卿らが主たる担い手であった。

運動の発端

尊王も攘夷も,幕藩体制に本来そなわった考え方であるが,幕末に外国船の来航が多くなり,鎖国の維持が危うくなったとき,幕藩体制の秩序を再強化するための政治理論として,尊王攘夷論が登場した。その支柱となったのは,徳川斉昭や藤田東湖が唱えた後期水戸学であった。この尊王攘夷論にもとづく政治運動,すなわち尊王攘夷運動が台頭したのは,1858年(安政5)日米修好通商条約をめぐる条約勅許問題と,将軍継嗣問題とが政局の表面に浮かび上がった時期からである。ハリスと条約案を議了した幕府は同年初め,条約の勅許を得るために老中堀田正睦を上京させた。朝廷は攘夷を主張した多数の公卿の意見をいれて,幕府の要請を拒絶した。これら公卿に,条約勅許がおこなわれないように説いたのは,将軍徳川家定の継嗣問題で井伊直弼と対立していた徳川斉昭,松平慶永(よしなが)など一橋派の雄藩大名であった。4月大老となった井伊は,6月には勅許を得られないまま条約に調印し,ついで将軍継嗣を紀州藩主徳川慶福(よしとみ)(のち家茂(いえもち))と定めた。継嗣問題で敗れた斉昭や慶永は,井伊を失脚させるため違勅調印の責任を厳しく追及した。井伊の行為は尊王にも攘夷にも反する,というのが斉昭らの主張であった。これをきっかけに,水戸藩士をはじめ尊攘思想をもっていた志士や公卿が,いっせいに井伊の条約調印非難の運動をはじめ,やがて彼らがその中心となった。尊王攘夷は,もろもろのおもわくをもっておこなわれている諸運動を,幕政批判という点で一つに結集しうる理念であった。

 尊攘運動に対する井伊の弾圧は安政の大獄であったが,これはかえって運動を激化させる結果となった。大獄の報復として60年(万延1)3月,尊攘派の水戸浪士らは井伊を桜田門外に殺害した。井伊の死後,幕府は和宮の将軍家茂への降嫁の発表や,両港(兵庫,新潟)・両都(江戸,大坂)の開港開市の延期交渉を諸外国とはじめるなど,尊攘運動の鎮静化をはかった。しかし,さしたる効果を生まず,60年12月のアメリカ通訳官ヒュースケンの殺害,61年(文久1)5月の水戸藩士による東禅寺のイギリス公使館襲撃などを代表例とする外国人殺傷事件が多発し,62年1月には,公武合体策の推進者であった老中安藤信正が坂下門外で水戸浪士に襲われて負傷し,老中を辞した。

高揚期

62年になると薩摩,長州,土佐の藩内にも尊攘派の勢力が強まり,これら3藩の志士は京都へ上り,実質上,朝廷の意思を左右するようになった。当時の尊攘派の理論的リーダーであった真木和泉をはじめ,平野国臣,清川八郎,田中河内介,有馬新七,田中謙助らが代表的な志士であった。同年3月,尊攘派の声望の高かった島津久光が,兵を率いて京都へ入った。しかし彼は,幕政改革を通じて幕府を攘夷へ向かわせようという立場であったので,急進的な攘夷には反対し,尊攘挙兵を企てた有馬らを,4月,伏見の寺田屋で斬った。ついで5月,久光は勅使大原重徳(しげとみ)を奉じて江戸へ下り,幕府に攘夷貫徹のための幕政改革の実施を約束させた。ところが,この東下中に,京都では久坂玄瑞(くさかげんずい)・桂小五郎などの志士,三条実美(さねとみ)・姉小路公知(きんとも)などの公卿が中心となり,再び急進的な尊攘論が支配的となった。このため,京都へ戻った久光はなすすべもなく帰国し,同年後半には天誅(てんちゆう)の名の下に佐幕派へのテロが横行した。10月,三条実美は幕府に攘夷の実行を促すための再度の勅使として,江戸へ赴いた。幕府はこの勅命に従うことを決定し,63年(文久3)将軍家茂は攘夷の上奏のために京都へ上り,3月,二条城に入った。この間朝廷では,長州藩尊攘派に支持された少壮公卿が,新設された国事御用掛,国事参政,国事寄人など朝廷の意思を決定する機関の主導権を握り,朝議を攘夷決行の方向に導いた。孝明天皇の賀茂社,石清水社への攘夷祈願の行幸も,このような状況の中でおこなわれた。家茂は結局,63年5月10日から攘夷を実行する旨を,朝廷に誓約せざるをえなかった。5月10日になると,長州藩は下関で外国船を砲撃した。しかし幕府は依然として攘夷を実行しなかったので,尊攘派は天皇に圧力をかけた。その結果,攘夷親征のために大和行幸をおこなうとの詔勅が,8月13日に出た。

政変と衰退

このような急進的な長州藩尊攘派に対する公武合体派の巻返しが,〈文久3年8月18日の政変〉である。孝明天皇と朝彦親王が計画し,薩摩・会津両藩が支援したこのクーデタで,長州藩尊攘派とそれに同調する公卿は京都を追われた。尊攘派は,政変と時を同じくして大和五条に,10月には生野に挙兵したが,直ちに鎮圧された。8月18日の政変を境に,尊王攘夷運動は中央政局への影響力を失ってしまったのである。京都での勢力回復を目ざした長州藩は,翌64年(元治1)7月,禁門の変を戦って敗れ,ここに尊王攘夷運動はその政治的生命を絶たれた。尊攘派の拠点であった長州藩自体が,朝敵となって尊王の大義名分を失ったうえに,禁門の変の直後の8月に,4国連合艦隊の下関砲撃を受けて,攘夷に現実性がないことを実地に体験したからである。尊王攘夷運動は,外国と条約を結んだ幕府を批判しつつ,幕藩体制を旧来の姿に保つことを目的とした政治運動であったが,64年の後半からは,これに代わって,幕藩権力の頂点に立つ幕府を倒そうとする倒幕運動がおこった。その拠点もまた長州藩であった。
→攘夷論 →尊王論
[小野 正雄]

[索引語]
尊王 攘夷 井伊直弼 島津久光 長州藩 文久3年8月18日の政変


国史大辞典

尊王攘夷運動
そんのうじょういうんどう
幕末期、とりわけ開港前後から「尊王攘夷」をかかげて徳川幕閣ないし幕府の国内専制政策および対外政策を批判した政治運動をいう。尊王論も攘夷論も本来封建的な名分思想で、前者は身分制の頂点にある天皇を尊崇する思想であり、後者は自国を中華とし他国を夷狄として排撃する思想である。したがって内に対して君臣の大義を主張する尊王論と外に対する華夷の弁をとなえる攘夷論とは、名分的な封建イデオロギーとしては共通していても必ずしも二つが結合した概念ではなかった。しかし、この二つの思想を「尊王攘夷」(略して尊攘)という一つの概念とし、かつそれを政治運動へと転化せしめたのは、安政五年(一八五八)六月、大老井伊直弼のもとでなされた日米修好通商条約調印をめぐる違勅調印問題であった。すなわち、この条約調印と将軍継嗣問題に敗れた一橋派は、これらを強行した大老井伊への反対運動を、違勅に対しては尊王、条約調印に対しては攘夷をかかげ、ここに尊攘はひとつづきのスローガンとして反対勢力結集の役割を果たすに至った。つまり尊攘勢力は外圧と幕閣専制反対の結節点で成立した。だからこの尊攘運動は当初反幕閣ではあっても必ずしも反幕府ではなく、ましてや幕府打倒をめざすものではなかった。尊攘派の志士たちが、大老井伊や幕閣安藤信正を襲ったときの斬奸趣意書には、「尊王攘夷」は「天下之巨賊」を斬ることではあっても、「公辺」=幕府への「御敵対」ではないことを表明している。しかし、安政の大獄は尊攘派への徹底的な弾圧であったから、運動は次第に激化した。文久期に至ると、外圧による半植民地化の危機の深化や和宮降嫁などの公武合体運動の進展と相まって、尊攘運動は外国人殺害事件や外国公使館襲撃事件などにとどまらず、京都を中心にその政治的舞台を広げ、文久二年(一八六二)四月の寺田屋騒動のように尊攘激派と雄藩連合を背景に公武合体運動を進めようとした藩主層との対立ともなって、運動は激化し、幕府との対決をめざすようになった。そのことは、一方では尊攘運動の価値体系の縦の凝集点を天皇に求めてそれを絶対化し、文久二年十二月には朝廷に国事御用掛を新設、翌三年二月には国事参政・国事寄人をおいて縦の座標軸を固め、また学習院(弘化四年(一八四七)開院)にも尊攘派勢力が進出し、朝廷内における尊攘派公卿との結合も進められた。他方、尊攘派勢力の基盤も広がった。すでに中下級武士層登場の道は天保・安政期の改革によって開かれていたが、外圧の危機感は彼らの進出を一段と進め、さらに浪士・郷士や地方の豪農層、あるいは神官・医師・国学者・僧侶ら知識層の自覚と政治参加を促し、尊攘運動は彼らをその基盤に組みこんだ。その背景には開港後の全国的な経済変動が、幕藩体制下の藩と藩との網の目を解きほぐし、より展開する農民的商品経済が日本の民族的統一への基礎的な条件を徐々につくり出しつつあったからである。したがって、半植民地化の危機の中での尊攘運動の展開を捉えた時、その反幕スローガンとしての尊攘およびその実践としての尊攘運動は、主観的には名分論的な封建イデオロギーとしての思想および運動であるにもかかわらず、客観的には外圧の危機への抵抗の側面をもち、したがってその運動の凝集点であり、政治的シンボルとしての天皇は、同時に外圧の危機克服への民族的シンボルであるという幻想をも可能とする道を準備したのである。こうして尊攘派は、物価の上昇や経済の混乱の原因を貿易商人やそれと結ぶ幕吏に求め、「天誅」と称して彼らを襲い、また文久三年二月には、足利氏木像梟首(きょうしゅ)事件をもひきおこした。かくて尊攘運動の展開は、公武合体運動を圧倒し、文久三年五月十日が攘夷期限の日と決められ、また来る八月には天皇による攘夷祈願のための大和行幸、親征軍議、伊勢参拝を予定するに至った。ここに尊攘派が京都を中心として政局の主導権を握ったかにみえた。だが、文久三年八月十八日の政変は、事態を一転させた。会津・薩摩藩を中心とする公武合体派の策謀が功を奏し、一夜にして尊攘派の志士は京都を追われ、三条実美ら尊攘派公卿七人は長州藩へと都落ちした(七卿落ち)。このとき天皇は、「去十八日以後申出儀者、真実之朕存意候」と述べ、文久三年八月十八日以前の尊攘運動が天皇の意志に沿ったものでなかったことを明言した。尊攘運動はその価値観の窮極を天皇に求めていたから、天皇のこの意志表明は決定的な打撃であり、運動は崩壊を余儀なくされたのである。こうした尊攘運動の特徴とその弱点は、文久三年八月十八日前後の挙兵運動、つまり文久三年八月十七日の天誅組の乱や同年十月十二日の但馬生野の変にもみられる。この二つの挙兵に共通するものは、第一に、挙兵軍が幕府の天領ないし代官所を突如襲撃し、当初は成功したかにみえたにもかかわらず、近傍の諸藩兵に反撃されるやたちまち潰滅し、挙兵計画の甘さを暴露していることである。第二には、郷士や村落支配者層と手を組んでいることが挙げられる。それは在地の村落支配層との結びつきによる運動の広がりの可能性を示しているが、挙兵行動の展開とともに内部分裂をおこし、逆に崩壊の要因になっている。挙兵運動が思想的にも行動的にも未成熟だったのである。第三には、挙兵に際して年貢半減を発して一般農民層を組みこんでいることである。このことは一般農民が尊攘挙兵の真意を理解して参加したものでなかったことを示し、一般農民層とのギャップが存在したことを物語っている。だから事態が変わればたちまち一般農民層の反撃をうけている。この一般農民層の動員と反撃の両側面に尊攘運動と民衆との関係が端的に示されている、といってよい。こうした尊攘運動の矛盾や限界は、元治元年(一八六四)三月の水戸の天狗党の乱にもみられるし、何よりも攘夷が現実的に不可能なことは、文久二年八月の生麦事件とその報復のための翌三年七月の薩英戦争、文久三年五月の長州藩下関における外国船砲撃に対する翌元治元年八月の米英仏蘭四国連合艦隊の反撃で明確になった。そして、元治元年七月の禁門の変における長州藩を中心とした尊攘派の敗北で、尊攘運動は多くのリーダーを失うに至った。かかる事態に直面し、尊攘運動は文久三年から翌元治元年にかけて、内的にも外的にも挫折し、運動の転回を余儀なくされたのである。この尊攘運動を否定的媒介とし、またそれと対立していた公武合体運動とを合わせ止揚する形で、慶応期の討幕派とその運動は生まれてくる。この討幕派は尊攘運動の名分論的、観念論的な発想を克服し、天皇は絶対としつつも天下の人心と結びつけることによって政治的操作の対象とし、攘夷に代わっては対外危機の強調によって逆に開国を主張した。討幕派とその運動はすぐれて政治的リアリズムの上に立っていたのである。→公武合体運動(こうぶがったいうんどう),→将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい),→条約勅許問題(じょうやくちょっきょもんだい),→討幕運動(とうばくうんどう)
[参考文献]
維新史料編纂会編『維新史』三、遠山茂樹『明治維新』(『岩波全書』)、井上清『日本現代史』一、田中彰『明治維新政治史研究』、同「幕府の倒壊」(『(岩波講座)日本歴史』一三所収)
(田中 彰)
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天文地理・暦算に通じ、京都聖護院門跡宮の近習役を勤めた。嘉永六年(一八五三)のペリー来航後、尊王攘夷運動に加わり、膳所藩に働きかけ、長州藩士らとも交流した。その
23. 開国画像
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はじめとする商品生産の破壊・衰退が進み、急激なインフレーションの影響とともに本源的蓄積を推進した。中村 哲尊王攘夷運動ペリー来航に際して、当時すでに幕府は諸藩統
24. 開国
世界大百科事典
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25. きくぐん・きくぐん【企救郡・規矩郡】福岡県:豊前国
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曾根・門司では塩浜が営まれ、小倉城下を中心に縮や小倉織といった特産品も製造されている。幕末、尊王攘夷運動が盛んになり、関門海峡を挟んだ対岸の下関を支配する長州藩
26. 木戸孝允
世界大百科事典
戸に出て斎藤弥九郎の塾で修業。やがて尊王攘夷運動に参加し,60年(万延1)井伊大老暗殺直後に水戸藩士西丸帯刀(たてわき)らと丙辰丸盟約を結んだ。尊王攘夷運動の隆
27. きどたかよし【木戸孝允】画像
国史大辞典
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28. きのさきおんせん【城崎温泉】兵庫県:城崎郡/城崎町/湯島村
日本歴史地名大系
もって「城崎」を喧伝した。なお栗山は半夜水明楼(今津村)や玄武洞(豊岡市)の命名者でもある。幕末の尊王攘夷運動のなかで、「生野義挙」の実行者二人も当地に潜んでい
29. 京都守護職始末 1 旧会津藩老臣の手記 250ページ
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通して証明しているということができる。 松平容保が京都守護職に就任した文久二年閏八月から翌年前半期までは、尊王攘夷運動の全盛期であった。もともと尊王思想は、弛緩
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東洋文庫
五月家老国司信濃を上京させた。古高俊太郎は近江栗太郡古高村の出身で、毘沙門堂門跡の家臣となり、尊王攘夷運動に加わり、舛屋喜右衛門と変名して、武具商を営んでいた。
31. きよかわ‐はちろう【清川八郎】
日本国語大辞典
大谷雄蔵・日下部達三という。羽前の人。安積艮斎(あさかごんさい)に儒学、千葉周作に武術を学び、尊王攘夷運動に奔走。寺田屋事件後、京都警衛の浪士組(新選組)に加わ
32. きりの‐としあき【桐野利秋】
日本国語大辞典
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33. 近世の日本・日本近世史 265ページ
東洋文庫
)の著書(明治14)。本篇は嘉永六年の黒船来航から大政奉㎜、遅までの間の対外関係交渉および尊王攘夷運動を叙述したものであり、補遺では吉田松陰・僧月照・坂本竜馬ら
34. きんだい【近代】画像
国史大辞典
その側面において封建支配者内改革派をひろく結集せしめる政治運動のスローガンたりえた。さらに尊王攘夷運動は倒幕運動に転回した。すなわち、天皇の詔勅の権威を笠に幕府
35. きんだい【近代】 : 近代/〔嘉永六年(一八五三)―明治十年(一八七七)〕
国史大辞典
その側面において封建支配者内改革派をひろく結集せしめる政治運動のスローガンたりえた。さらに尊王攘夷運動は倒幕運動に転回した。すなわち、天皇の詔勅の権威を笠に幕府
36. ぎょくせいどうじゅくあと【玉生堂塾跡】大阪府:大阪市/西区/南堀江三丁目地図
日本歴史地名大系
)。呉服・太物商であったが、画を田能村竹田に、詩文を広瀬淡窓に学び、やがて家業を子に譲って尊王攘夷運動に身を投じた。中国・九州を巡歴して諸国の勤皇の志士と交わり
37. くさなぎ‐えんせき【日柳燕石】
日本国語大辞典
幕末の勤王の志士。本姓草薙(くさなぎ)。幼名長次郎、のち政章。別号柳東など。讚岐の人。土佐、長州の志士らの尊王攘夷運動を援助し、のち戊辰(ぼしん)戦争に加わる。
38. げっしょう[ゲッセウ]【月照】
日本国語大辞典
大坂の人。京都清水寺成就院の蔵海に師事し、同寺の住職を継ぐ。近衛忠熙(ただひろ)の知遇を得、尊王攘夷運動に奔走。安政の大獄に際し、西郷隆盛と薩摩にのがれたがいれ
39. 河野敏鎌
世界大百科事典
1844-95(弘化1-明治28) 明治前期の政治家。土佐藩士の子として生まれ安井息軒に学び,やがて尊王攘夷運動に奔走,藩が佐幕に急転したため投獄された。維新後
40. こうの‐とがま【河野敏鎌】
日本国語大辞典
政治家。子爵。土佐藩(高知県)出身。幕末、尊王攘夷運動に加わり入獄。維新後、新政府に仕え、大隅重信と結び立憲改進党の副総理となったが脱党し、以後、枢密顧問官、第
41. こうぶ‐がったい【公武合体】
日本国語大辞典
藤政権に引きつがれ、孝明天皇の妹和宮が一四代将軍徳川家茂に降嫁。しかし外圧の危機に直面して尊王攘夷運動が高まると、公武合体運動は佐幕的傾向をもち、結局、戊辰戦争
42. こうぶがったいうんどう【公武合体運動】
国史大辞典
た。この情勢を憂慮した大老井伊直弼らは、安政五年(一八五八)ころから、朝廷との関係を融和し尊王攘夷運動の圧力をかわすために、十四代将軍徳川家茂と孝明天皇妹和宮と
43. こくがく【国学】画像
国史大辞典
含んでいる。その故に、この学説は、地方の神職や地主富豪などの慨世家の支持を得、門人の中には、幕末の尊王攘夷運動家として過激な破壊活動に挺身した者も多い。だが、明
44. こくがく【国学】 : 国学/(二)
国史大辞典
含んでいる。その故に、この学説は、地方の神職や地主富豪などの慨世家の支持を得、門人の中には、幕末の尊王攘夷運動家として過激な破壊活動に挺身した者も多い。だが、明
45. こくじごようがかり【国事御用掛】
国史大辞典
幕末期、朝廷に新設された官職。尊王攘夷運動がたかまり諸大名や志士たちの朝廷に政治意見を建議するものが多くなると、衆議を尽くして朝議を決定するため文久二年(一八
46. こくじさんせい【国事参政】
国史大辞典
幕末期、朝廷に新設された官職。文久三年(一八六三)二月十三日、尊王攘夷運動の極盛期に国事寄人とともに設けられ、大蔵卿豊岡随資・左近衛権少将東久世通禧ら四人の尊
47. こくじよりうど【国事寄人】
国史大辞典
幕末期、朝廷に新設された官職。文久三年(一八六三)二月十三日、尊王攘夷運動の極盛期に国事参政とともに設けられ、滋野井実在・東園基敬・壬生基修・四条隆謌・錦小路
48. 小室信夫
世界大百科事典
1839-98(天保10-明治31) 明治前期の政治家,実業家。丹後縮緬の豪商だったが,尊王攘夷運動に奔走,1863年(文久3)京都等持院にある足利氏累代の木像
49. さいごうつぐみち【西郷従道】
国史大辞典
くから国事に奔走、同志とともに大老井伊直弼を襲撃する計画(突出事件)に加わるなど、急進的な尊王攘夷運動に投じた。文久二年(一八六二)寺田屋事件に連坐して藩庁より
50. 坂下門外の変
世界大百科事典
襲撃を決行し信正を負傷させた。信正は,この事件で面目を失墜し,同年4月,老中を辞した。以後尊王攘夷運動が盛んになった。小野 正雄 安藤信正 大橋訥菴
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徳政令(国史大辞典)
すでに締結されている売買・貸借・寄進などの契約について、無条件で、もしくは条件を付して、契約関係の継続、もしくは破棄を宣言する法令。一般には契約関係の破棄宣言のみを意味すると理解されやすいが、当代のさまざまな契約形態に対応して除外規定も少なくない。また、契約の破棄を
遠江国(改訂新版・世界大百科事典)
旧国名。遠州。現在の静岡県西部,大井川以西。東海道に属する上国(《延喜式》)。国名は〈琵琶湖=近ッ淡海〉(近江)に対する〈浜名湖=遠ッ淡海〉(遠江)に由来するとされている。7世紀の中葉,遠淡海,久努,素賀の3国造の支配領域を併せて成立したものと思われる。国郡制に先行する
王政復古(世界大百科事典・日本国語大辞典)
共和制,武家政治などによって支配の座を追われていた君主政体が,ふたたび旧体制を回復すること。通常,O.クロムウェルの共和政治崩壊後のイギリスにおけるスチュアート朝のチャールズ2世の即位,ナポレオン1世没落後のフランスにおけるブルボン朝のルイ18世の即位,および日本の明治維新
朝幕関係(国史大辞典)
〔鎌倉時代―建武政権〕治承四年(一一八〇)八月、伊豆に挙兵した源頼朝は、以仁王の令旨によって、東国における荘園・公領の沙汰を認められたと主張している。その令旨は、壬申の乱における天武天皇に倣って、高倉上皇・安徳天皇・平清盛によって構成される現王朝を
出羽国(日本歴史地名大系・国史大辞典・世界大百科事典)
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長篠の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
天正三年(一五七五)五月二十一日織田信長・徳川家康連合軍が武田勝頼の軍を三河国設楽原(したらがはら、愛知県新城(しんしろ)市)で破った合戦。天正元年四月武田信玄が没し武田軍の上洛遠征が中断されると、徳川家康は再び北三河の奪回を図り、七月二十一日長篠城
姉川の戦(国史大辞典・日本大百科全書・世界大百科事典)
元亀元年(一五七〇)六月二十八日(新暦八月十日)、現在の滋賀県東浅井郡浅井町野村・三田付近の姉川河原において、織田信長・徳川家康連合軍が浅井長政・朝倉景健連合軍を撃破した戦い。織田信長は永禄の末年(永禄二年(一五五九)・同七年・同八―十年ごろという
平成(国史大辞典)
現在の天皇の年号(一九八九―)。昭和六十四年一月七日天皇(昭和天皇)の崩御、皇太子明仁親王の皇位継承に伴い、元号法の規定により元号(年号)を平成と改める政令が公布され、翌一月八日より施行された。これは、日本国憲法のもとでの最初の改元であった。出典は
河原者(新版 歌舞伎事典・国史大辞典・日本国語大辞典)
江戸時代に、歌舞伎役者や大道芸人・旅芸人などを社会的に卑しめて呼んだ称。河原乞食ともいった。元来、河原者とは、中世に河原に居住した人たちに対して名づけた称である。河川沿岸地帯は、原則として非課税の土地だったので、天災・戦乱・苛斂誅求などによって荘園を
平安京(国史大辞典・日本歴史地名大系・日本大百科全書)
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