フランツをモリーナとして満足させたという自信があったものの、俺はどんよりした自己嫌悪に陥っていた。
舞台をプライベートに持ち込む。
ゆうべ俺がしたことは、その最たるものではないか。決してするまいと心に決めていたことを、俺は自ら破ってしまったのだ。
これが俺の弱さだな、と苦い後悔を噛み締めた。
俺は媚びてしまった。恋人の歓心を買おうと、へりくだってしまった。
全身に嫌な疲労感がある。
演じるべきではない場所で演じてしまったからだ。プライベートで、仕事をしてしまったからだ。
ふと、窓のカーテンの向こうに、光を感じた。
じき、夜が明ける。今日は休演日。俺は、負の感情を引きずるほうじゃない。帰ってひと眠りすれば、この自己嫌悪と後悔も消えるはずだ。
「フランツ、俺、帰るね」
眠っているフランツに小さく声を掛けた。
「タクシー呼んで、適当に出るから、寝てていいよ」
そう言ってごそごそと身支度を整えていると、不意に、フランツがムクリとやけに姿勢良くベッドの上で起き上がる気配がしたので、びっくりした。
てっきり熟睡しているものと思っていたのだ。
「HAL、話がある」
えらく静かな声で言われて、俺はびびった。
「え?」
フランツは緑色の絹のガウンを羽織ると、俺に向かって、リビングのテーブルに着くように促した。
彼が先に椅子を引いて腰掛け、テーブルの上で両手の指を組む。
俺はおっかなびっくり、フランツの向かいの椅子に座る。
「は、はい。なんでしょうか」
フランツは指を組んだまま、じっと俺を見ている。
なんだか、目が据わっている。嫌な予感がした。
面接かよ。まさか、別れ話とか?
フランツの目の圧は凄い。この目に俺は逆らえない。
こいつ、CEOとかになったら、交渉、メチャ強そう。
「もう、モリーナを踊らないでくれ」
フランツは静かな声でそう言った。
「え?」
俺は目をぱちくりさせた。全く思ってもみない話だったからだ。
「もう、モリーナを踊らないでくれ」
彼はもう一度繰り返した。
「えっと、今、まだ公演中なんだけど」
「今期は仕方がない。だけど、あの観客の熱狂ぶりをみると、リクエストも殺到するだろうし、たぶん再演するだろう」
それは、俺も感じていた。
反響の大きさは明らかで、お客さんがヤバイくらいに盛り上がっているのは伝わってきている。ネット上で、「あのモリーナ、見た?」というスレッドまで立っているらしい。
「もう、君はモリーナを踊らないでくれ」
フランツは、不気味なほど静かに三度目の要望を繰り返した。
どうやら、本気のようだ。
じわりと冷や汗が浮かぶのを感じる。
「えっと――モリーナは、ずっとやりたかった役で――わざわざアントワープまで、衣装を頼みに、デザイナーに会いに行ったんだ」
俺はささやかな抵抗を試みた。
そうだよ、芸術監督と衣装部のスタッフとで、彼らのアトリエまで訪ねていったのだ。えらく緊張したっけ。俺は、さりげなく、自前の彼らのブランドのスーツを着ていった。
彼らは一目でそうと気付いて、喜んでくれた。
試作品として作っていた俺のソロを、ピアソラの「フィアー」で踊ってみせた。
驚いたのは、スタッフが全員ニコニコして待ち構えていて、大歓迎ムードだったことだ。皆、俺の出たCFや舞台を見てくれていて、衣装を引き受けることは、依頼してすぐ、俺が訪問する前から決めていたのだそうだ。
「衣装を引き受けてくれて、めちゃめちゃ嬉しかった。俺にあててデザインしてくれた、あの赤と黒のドレス、よく出来ていて、すごく踊りやすいんだよ」
フランツはピクリとも表情を変えない。つーか、全然聞いちゃいない。
「正直に言う。今度また君がモリーナを踊っているところを見たら、僕は君を殺してしまうかもしれない」
目がマジで怖い。こいつは、冗談でこんなことを言う男ではない。
「でっ、でも」
俺は泣きそうになった。
じゃあ、今さっき、俺がフランツに奉仕したのはなんだったのか。舞台をプライベートに持ち込んでまでして、フランツを満足させたのは、どうしてなのか。彼に、モリーナを続けることを容認してもらうためではなかったか。
「モリーナ、ダメだった? 気に入らなかったのかな?」
俺がおどおどと聞くと、フランツはいきなりキレた。
「そんな話をしてるんじゃない!」
ひっ、と思わず身を引いてしまう。
「僕は嫌なんだよ! 客席で、君がモリーナを踊っているところを見ている僕の気持ちが分かるか? 周りが全員、君を強姦しそうな目付きで見ている中で、僕がじっと座っているところを? 周り全員、だぞ? 子供から年寄りまで、男も女も、君を見てヨダレを垂らしてるんだ! あんなの、もう耐えられない」
フランツがこんな大声を出すのを聞くのは初めてだった。
「僕は、君の恋人じゃないのか?」
フランツはテーブルの上に身を乗り出した。
「僕が嫌な思いをするのを、君は嫌じゃないのか?」
瞬きもせずに俺を睨みつける目は、これまで見た中でも非難メガMAX級だ。
お母さん、怖いよ。
「それは、嫌だ」
俺が弱々しく答えると、フランツは勝ち誇ったドヤ顔になった。
「じゃあ、もう君はモリーナを踊らない、ということでいいね? 今、僕と、ちゃんと約束したね?」
俺は絶句して、うなだれるしかなかった。
「なんなら、『ユビキリ』でもしようか。日本では、嘘をついたらニードルを千本呑む、と誓うんだろう?」
こいつなら、本当に針千本呑ませそうだ。
「では、気をつけて帰ってくれ。おやすみ、HAL」
フランツは「話は済んだ」と言わんばかりにそっけなく席を立つと、小さく欠伸をしてベッドルームに戻っていった。
俺はその背中を呆然と見送る。
ひどい。方針を曲げてまでして、あんなに奉仕したのに。ひどいよ、フランツ。やり逃げじゃん。
俺は尻尾を巻いて、泣きながら帰った。いや、イナリはもっと勇気があった。犬にたとえるのはイナリに申し訳ないと思う。
残りの公演を、些か開き直ったような心境で、俺は踊った。
「あのモリーナ」を、最大限。まるで親の仇でも取るかのように、めいっぱい、観客を欲情させることに専念した。二人のバレンティンも、もはや俺に欲情するというよりは、恐れおののき平伏する、という感じで入魂の踊りを見せてくれた。オーロラと刑務所長も、つられてか一緒に鬼気迫る踊りで盛り上げてくれた。
俺は見ていないけれど、「あのモリーナ、見た?」のスレッドは、公演終了時にはたいへんなことになっていたらしい。
再演時に、キャストをすべて一新する、と言った時のスタッフの表情はそれぞれで、ひじょうに複雑だった。
モリーナも?
真っ先に聞かれた。
はい、モリーナも。
で、誰がモリーナをやるの?
あれはおまえだろ、ハル。
そう深津に言われてハッとした。
モリーナの再演を託した深津は、最初の稽古の時に腕組みをしてそう言った。
俺はおまえのようには踊れないし、踊らないぜ。
その冷静な目は、俺の何かを見抜いていた。
確かに凄まじい踊りで、俺も見ていて完全に持ってかれたし、間違いなく伝説になる踊りだったけれど、あれはモリーナじゃない。おまえだ。
深津は淡々と続けた。
念願の役だと言ってたよな? ずっとやりたかった役だと? だけど、モリーナをやりたかったのは、おまえに元々素質があって、おまえが憧れている両性具有的な存在を載っけられる役だったからだろ? 俺が小説を読んだ限りでは、モリーナはあんなキャラクターじゃなかった。男女構わず、妖艶な性的魅力で圧倒してねじ伏せる、というキャラクターじゃない。あれはあくまでもおまえ自身の本能的な欲望を解放しただけで、役の拡大解釈なんじゃねえ?
グサリと来たし、当たっている、と思った。
続いて、恥ずかしさが押し寄せてきた。
ストレートだったダンサーと三角関係になったり、フランツに嫉妬されたりすることをどこかで自慢に思っていた。俺がその気になれば誰でも落とせる、とうぬぼれていた。
どれも、深津に見抜かれていた。そのことが、たまらなく恥ずかしくなったのだ。
頬が熱くなり、かすかに赤くなったのに気付いていたはずだが、深津は見ないふりをして続けた。
俺はおまえの性的指向は知らないし、別に教えてもらわなくてもいい。だけど、あれは物語の中のモリーナじゃない。俺はそう思ったから、俺の考える、小説の中のキャラクターであるモリーナをやる。だから安心しろ、今回の『蜘蛛女のキス』は、フィクションの中にちゃんと納まるはずだ。去年のようなトラブルは起こさない。
深津は正しかった。
あれこそが、モリーナだ。
ちょっとくどかったり、図々しかったり、オバちゃんが入ってたり、可愛かったり、お茶目だったり、面倒くさかったりするモリーナ。そのくせ、哀愁があり、殺伐としたものもあり、心の底に冷徹なものを隠し持っていて、最後にはバレンティンを破滅させてしまうモリーナ。
バレンティンの耳を噛むシーンも、深津がやると、もちろんエロくはあるのだが、「どさくさまぎれ」とでも言うような、なんともいえないおかしみがあって、客席から笑い声が上がったほどだ。
ああ、深津の言う通りだったな、と反省した。
俺は、役を私物化していたのだ。
踊りたいように踊って、作品としての枠組みを自ら壊してしまっていた。
「なるほどね。君の言いたいことは分かるような気がする」
フランツが、新しいキャストの『蜘蛛女のキス』を観て、呟いた。
「モリーナを踊れてなかった、というのはああいうことか。今回はきちんとエンターテインしているし、安心して観ていられる。もちろん、ざわざわする部分もあるんだけど、君の時の異様な感じはなくて、作品としてまとまりがいい。四人のキャラクターがうまくつりあっている」
「だろ? モリーナ役が変わることを危ぶんでいたスタッフも、深津が踊るのを見たら、あいつのモリーナにたちまち魅了されてたよ」
「JUNは本当にチャーミングなダンサーだな。チャーミング、という言葉がこれほど似合うダンサーもなかなかいない」
「リシャールでさえ、バレエ学校時代から、何をやっても君の魅力になる、と誉めていたくらいだからね。ヴァネッサも、今回は初演を観てなかったのが幸いした。二人で新たな、これぞスタンダードというモリーナとオーロラを創ってくれたよ」
俺は溜息をついた。
「フランツに、役を封印しろと言われたのは正解だったよ。俺は未熟だったし、作品全体を見られてなかった。もう、俺は二度とモリーナは踊らない」
フランツは、どこか後ろめたそうな顔で俺を見た。
「僕こそ、いろんな意味で公私混同してたよ」
え、と顔を上げると彼は目を逸らした。
「その――君の、僕に対するモリーナがあまりにもよかったんで(フランツはコホン、と咳払いをした)、この快楽を他の誰かが味わうなんて絶対に許さない、と思って」
なんだ、やっぱり、よかったんじゃん。
俺はムッとするのと、ホッとするのとを両方感じた。
なあ、イナリ。
思わず、スマホの待ち受け画面でこちらを無心な目で見上げているイナリに話しかける。
やっぱりイナリだけは、今でも俺の味方だ。
「フランツってさあ、俺がフランツのその目に睨まれると弱いこと知ってて、時々俺を支配しにかかるよね」
そう呟くと、フランツがぎくっとした顔になった。
「支配?」
「うん、支配。理詰めで一気に外堀を埋めて、屈服せざるを得なくなるように仕向けて、あなたに従います、と言わせる」
しばし、彼は無言になった。
「確かに――あの追い詰め方は、うちの親父と一緒だった」
自己嫌悪に陥っているらしいフランツの横顔を見ながら、もう絶対に方針は変えないぞ、と俺はイナリの待ち受け画面に固く誓った。
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