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2019.01.20 (Sun)

物事をつまらなくする才能

昨日、YouTube で動画巡りをしていたら、いわゆる「なろう系小説」の主人公がなぜ嫌われるのか? を考察する動画に行き着いた。

そのなかで、動画主の方が大先生とおなじような主張をされていて、ちょっとだけ驚いた。主の方も読書家らしいので、似たような境地にたどり着いたのかもしれない。

曰く、「基礎があってこそ応用ができる。基礎がなければ奇をてらっても悪印象になる」そして「主人公 (登場人物) の精神的成長が描かれていなければ続きを読む気にならない」とのこと。

この主張が間違っているとは思わないが、エンタメ小説の読みすぎで、だいぶ毒されているのかな、とも感じた。



ここで、大先生とフリーノベルゲームのことを考えた。

上の考察動画で挙げられていた「なろう小説」は人気があって書籍化 (やアニメ化) までされた「商品」なので、一定水準以上の品質を求められるのは当然かもしれない。(しかし、書店の店頭に並べられた「商品」のなかで、ベストセラーを謳いながら、半年後にはゴミ同然になっているものの、なんと多いことか)

しかし、フリーノベルゲームは良くも悪くもシロートのものなのだから、そんな商業主義的な「常識」から少しぐらいはみ出しても良いのではないか。とわたしは思う。

だが、フリーノベルゲームでも「完成度の高い作品のほうがスゴい」となってしまうのが、それこそ「世間の潮流www」というものなのだろう。

もちろん、その評価軸が間違っているわけではない (どうあっても覆せない) のだが、やはりどこか釈然としない。



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2019.01.16 (Wed)

それぞれの響き

そういえば、mei さんが PC を新調したとのことなので、もしかしたら今年、れんれん堂の新作が読めるかもしれないよ! やったネ!



おそらく大先生のような嗜好の持ち主からすると、れんれん堂の作品群は「娯楽読み物としての完成度が低いポエムもどき」にでも映るのだろうが、わたしはずっと、そのことば選びの感性に凡庸ならざるものを感じていた。それこそ「正しい日本語」にこだわっていては見過ごしてしまう輝きを。



そしてなにより mei さんの「書きたいから書く」というシンプルな欲求が小気味好い。

例え自分の作品が酷評されようとも泣き言もなく……いや、けっこう傷ついてはいるが、それしきの挫折では mei さんの情熱はかき消されないのである。

とにかく書き続ける。外部に向けた下心はほとんどない。そこが良い。



mei さんと友人になれて、わたしは幸福だ。

そして、せめて彼女の創作意欲の一割分だけでも、わたしにあればなあ……。



01:28  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2019.01.16 (Wed)

退かざる者







大先生がほんとうになんの下心もなく、ただ楽しいだけでレビュー活動をしているというのなら、まあ、それはそれで良いのかなー、と思わなくもない。1mm くらいは。









イエスマン フォロワーが増えて良かったね……。







このように大先生、「流行に逆らう俺 (あるいは、個性が明確に確立されている俺) 」を必死にアピールするものの、言動の端々に現れる「善を行使しているのだから自分は正しい」という傲慢な思い込みはまさに戦後日本の小市民根性そのままであり、その点でも、本人の好みとおなじように「王道」を (右に傾きながら) 歩んでるといえる。

そこもまた、彼に親しみを持つ一因なのだろうな。みんな善良なのだ、ただ単に。



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2019.01.10 (Thu)

打っても響かない馬鹿






ではおまえは Samuel Johnson の「地獄への道は善意が敷き詰められている」ということばを百万回書き取りしろ。




去年いただいたひーまさんのコメントのなかにあった「いろいろあってふりーむ! に書き込んだ感想コメントを削除した」という話に胸が痛む。

大先生やその周りの人間は、ネガティヴなレビュー (感想、コメント、その他……) は制作者のやる気を殺ぎ、ひいてはそれが全体の不利益になると主張するが、しかしその一方で彼らが押し付ける善やモラルが巡り巡って多くの一般プレイヤー (あるいはその予備軍) のささやかな表現の芽を摘んでいるのかもしれないのである。

このように、当人たちは善を行使しているつもりでいて、その実より大きな悪を成しているさまを見るに、フリーノベルゲーム界隈というニッチな集団であっても、それを構成するのが生きた人間である以上、その時代が帯びる問題点から逃れることはできないのだと思い知らされる。









特段、本人は隠しもしないが、大先生はすべてのジャンルを網羅しているわけではない。例えばホラーは読まないし、娯楽性よりも芸術性の強い作品も好きではないらしい。

もちろん、嗜好は人それぞれであるし、自分の責任で自分のやりたいようにレビューすれば良い。

ただそれも、たくさんのレビュアーのなかのひとりとして活動しているなら問題なく機能するだろうが、仮にこのまま NaGISA net が人気になって一極集中するようなことになれば、結局、ある一定の層以外の人々を取りこぼしてしまうことになるのではないか。

つまりは、レビュアーなんてちっとも万能ではないのだから、「フリーノベルゲームを (自分の手柄で) 発展させよう」「制作者やプレイヤーに影響を及ぼそう」といったスケベ心を抱いてはいけないのである。









そしてまた、単に自分が鈍感になってしまっただけのことを「精神的な強度を得たのだ」と思い違いしてはならないのである。



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2019.01.09 (Wed)

ただ 愛妻家の凡人 でいれば良いのに






自分の周りで盛り上がっている程度の話題を指して「世間の潮流www」とは、あまりの仰々しさを鼻で笑われるというものだが、要は「皆がスポーツバーでサッカー観戦しているのを横目に、わたしは (大手チェーンの) ファミレスへと向かった」だけのことであり、そんな人は他にいくらでもいるわけである。まず、ひとスベリ。

次の、短編の名作を「発見」というのも、前段にあるティラノフェスとノベルコレクションをかけて強調したかっただけなのかもしれないが、それを差し引いても、そりゃあ他人さまから教えてもらったのだから見つけられて当然だろうと、まったく意外性のないことを大げさに自慢してみせるさまで、さらにひとスベリ。

そして「世間の流行に逆らう俺カッコイイ」アピール。重ねて書くが、極々局地的な賑わいを「世間の潮流www」と呼ぶとは、事実誤認の印象操作も甚だしいわけだが、この「流行に逆らう感じ」も例えるなら「中学生が合唱コンクールや体育祭の練習に背を向けている」程度のことである。なんのことはない。

別にだれがなにを誇ろうともいっこうに構わないが、単純にダサくはないか? しかも (笑) で余裕のジョークぶっているさまがまた始末が悪い。これで自分では面白いつもりでいるのだから。



しかし皆さん、こんな程度の低いマヌケに、やれ「あなたの作品はここをこう直せば良くなる」だの「批判だけのレビュー、存在価値ゼロ」だの「正しい日本語を使えないと恥をかきますよ」などと「説法」を受けて、腹が立たないのだろうか。

大先生がそれなりにチヤホヤされている様子を見て、理解に苦しむ。ただの類は友を呼ぶ=「馬鹿ホイホイ」なのかもしれないが。



22:00  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2019.01.09 (Wed)

ヘイト管理





いやいやいや、「ふりーむ!」はフリーゲームを扱うサイトとしては大手でたくさんの人が普段と変わらず利用している。薦めてもらった作品を DL しただけのことを「発見」と手柄の横取り自画自賛。

そしていつもの「世間 (の流行) に逆らう俺カッコイイ」アピール。文尾にちっともおかしくない(笑)……




な ん ぞ こ れ!?




やはりこのフリーノベルゲーム界隈の大先生 NaGISA という御仁は、根本的な部分で「人間がダサい」のだな、と痛感する。

別に、自分の生きた時代を引きずってしまうのはしかたのない、だれにでもそういう部分はあるとは思うが、それを差し引いてもこの寒いノリはいただけない。(特に、「自分は面白い」と思っているらしいところが「( 笑) 」の部分に透けて見えて嫌)

結局、「レビュートハー」「タダシイニホンゴトハー」などと常日頃のたまっている彼自身は特段、芸術や批評に造詣が深いわけでも古式ゆかしく生きているわけでも日本の歴史に見識があるわけでもなく、ただ過去……というより「ある時期に存在していたと一部の人間が信じ込んでいるニッポン像 (※これはイメージであり、実際の日本とは異なる場合があります) 」にしがみついているだけの大勘違い野郎だったわけだ。

これはつまり「あの日のイスラムよ、もう一度!」と奮闘しているテロリストの皆さんに通じるマインドの持ち主という証左であり、本人がどれだけ否定しようとも、充分、時代に流されに流されているわけで、そこがまたダサいことこのうえない。



……ということが理解できない人とはおそらくまともに会話が成立しないはずなのでそこはありがとうございました。

仮にこの tweet に対して「NaGISA さんやっぱめっちゃおもろいわあー!」と褒めそやすフォロワーがいるとしたら……人間やめたくなるわ。



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2019.01.09 (Wed)

覇道







これは確かにそのとおり。







世のなかにはさまざまな人がいて、ある (知的・感情的) な刺激に対する反応も個人差があるようである。

個人的に大先生の「ありきたりで良いじゃない」という感覚がずっと理解できなかったのだが、大先生はおそらくおなじような刺激が続くことから快感や安心感を得られる人種なのだろう。

一方、ありきたりなんて「どこかで見たような」要素の集合体だろうと馬鹿にしているわたしは、新しい刺激からより大きな快感を得る人種のようである。(いまはやっぱり終わっていく『ルパパト』よりも二月に始まる『リュウソウジャー』のほうが気になる)

もちろんこれらはそれぞれの個性であり、どちらの反応も正しいわけだが、この小さな差異ひとつとっても、フリーノベルゲーム作品に対する評価基準が変わってくのだなあと、そしてその積み重ねが憎しみの根源となっていくのかと、どこか気が遠くなる。



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2019.01.08 (Tue)

「貴様! あの名曲『Yeah!めっちゃホリディ』を愚弄するか!?」














お年寄りが世を憂う気持ちもわからなくはないが、こういう頑迷な人種が、例えば大昔「カナなんておんなの使う文字だぜー!」とか言っていたのだろうなあ、と思う。

しかし、「ことば」とは徹頭徹尾、コミュニケーションのための「道具」であり、人間の生活のなかで使われるものである。当然、生きている人間が扱うのだから時代とともに変化し得る。「ことば」は博物館にうやうやしく展示するような性質のものではないからである。


結局、大先生には造語の天才集団である女子高校生のような創造性は、かけらもないのだろう。そんな可愛そうなお年寄りのことばを真に受けている連中も、おなじくらい救いようがないのだろうなあ。



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2019.01.08 (Tue)

人生とは 自らの行いすべてが無意味だった と気がつくまでの道程





日本人の口にする「多様性」が結局のところ大嘘でしかないことは、こういった人間が平然とのさばっていることからも理解できる。


ある表現 (フリーノベルゲーム、感想、レビュー、その他……) がどれだけの「存在価値」を持つかは、その表現に触れた個人おのおのの心が決める事柄であり、だからこそむやみやたらに (私刑のように) 検閲してはならないわけである。

仮に「批判だけのレビュー」が存在したとして、それがどれだけ悪辣、下品な文体であったとしても、その内容が真実を鋭く暴き出しているのなら、その内容がだれかの心に届かないはずはない。

(つまり重要なのは「なにを書いているか (内容) 」であって「どう書いているか (文体) 」ではない。内容が読めない文盲ほど、いちいち見た目を気にするものなのか?)

それを自分の流儀に反するから、あるいはただ目障りだからというだけで「ほとんど存在価値はない」と断罪するのだとしたら、まさにその「批判だけ (否定するだけ) のレビュー」とおなじことではないのか。

こんなことにも気がつかない人間の説教ほど虚しいものはないし、また、本人は社会貢献をしているつもりでその実、かえって多くの可能性を狭めているばかりというところに「偽善者日本人」の悲しさがある。



それにしても、トランプさんに頼らざるを得ない米国や、団結が失われつつある EU などを見ていると、人類の歴史には「理想が現実に負ける瞬間」があり、それがつまり時代の終焉なのだな、と考えさせられる。

そして、その終わりに社会の末端で加担し、加速づけているのが大先生のような連中であることは疑いようがない。



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2019.01.08 (Tue)

くだらない使命感











先日、書店で「名作小説をダイジェストにして読みやすくしたマンガ」を目にした。

これは要するに「この (わかりやすい) マンガを入り口にして (難しいと嫌厭されがちな) 文学作品に触れてもらおう」という意図を持った作品なのだろうことは理解できたが、同時に「これを企画した人間は、原作者である文豪よりも才能があるつもりなのだろうか?」とも思った。

長編小説から重要な要素を的確に拾い上げ、より短く再構築できるのなら、それは原作者以上の才能の持ち主ということになる。

当然、できると信じていなければ企画にもしないわけで、ずいぶんと思い上がった人間がいるのだな、とだけ考えた。



そして、これとおなじことは大先生にもいえる。

本人が謙遜することばそのとおりの、つまらない文章やお話しか書けない人間が、なにを他人さまに教えることができるのだろうか。

読書量が多いだけのことを根拠に、文芸雑誌の編集者気取りなのかは知らないが、ずいぶんと厚かましい態度である。



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2018.09.19 (Wed)

危うい安易さ

さて、先のエントリで引用した「小説とノベルゲームの一番の違いって、意図して読み手に感情移入できるポイントを作るかどうかだと思う」大先生の指摘、これはつまり「フリーノベルゲームは『娯楽』か『芸術』か?」という問いに通ずるものだろう。

これもまた難しい認識のギャップで、確かにゲームは「娯楽」なのだから、読み手を楽しませるために (ある種の) 配慮をしなければならない、という主張もまったくわからないではない。

と悩んでいたのだが、先日放送していた『100 分 de 石ノ森章太郎』(E テレ)で、一時期は「娯楽の王様」でもあった漫画を描きながらも、しかし石ノ森は自らの作家性を犠牲にすることはなかったらしい、という話をしていたのを思い出した。

あるいはビデオゲームの世界でも、例えば小島秀夫のように自身のネーム=作家性が熱狂的に支持されている人物もいるわけである。

そういった先人たちの様を見ていると、フリーノベルゲームにおいても、究極的には自由な (=縛りはない) のだという結論に至っても問題ないと思える。







そう、芸術や自己表現は「なんでもあり」なのだ。なぜなら、そもそも既存のルールやモラルから自由になる (する) ためにそれらはあるのだから。例え「差別表現」であってもそれは変わらない。

(もちろん、ある表現に対しての好き嫌いは当然あるし尊重される。例えばホラーが苦手な人を無理やり怖がらせるような真似はしてはならない)

それを「規制が厳しくなるから皆さん自重しましょう!」というのは本末転倒であり自由に対する裏切りではないのか。「規制に抗うのではなく迎合していけ」という理屈が通ることが理解できない。


そもそもシロートの馬鹿がクリエイターぶっているのは最高に恥ずかしい話なのだが、少なくとも大先生は表現活動に関わる人間としては最低であると言わざるを得ないし、この程度の人間のことばをありがたがっている連中もどうかしている。



21:58  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2018.09.19 (Wed)

バベル









この tweet は少しだけ感心した。さすが読書家を公言する人の着眼点だろう。


それにしても、つまりはこういうことなのである。

フリーノベルゲームに係るすべての人が、各々の「公」と「私」の区別、ゲーム観や創作観を持っている。まさにあまりに「人それぞれ」なのだ。

「作品の扱い」を例にしてみよう。わたしはそれがシロートの作だとしても、一度でも公のもとに差し出せば、それはパブリックな存在になると考えている。(だから、自分がどう対応するかはともかく、他人に評価されたり添削されたりするのも致し方ない)

一方、A さんという人がいるとして、彼・彼女はフリーノベルゲーム作品はもっとプライベートな領域にある自分の分身、こどものように考えているとする。(だから、作品を否定されることで自分も否定されているように感じたりするわけだ)

この時点ですでに、わたしと A さんのあいだでは話が通じないことになる。お互いが我を通そうとすれば、必ずトラブルになるだろう。

フリーノベルゲーム界隈で起こる軋轢や紛争の多くは、このような認識のギャップから生まれるものだといえる。別に人間が悪い人が問題を起こしているだけではないのだ。むしろ、「善良な」人々がぶつかり合うから悲惨なのである。


はっきりいって、それぞれの認識を一本化したり、すべての人が納得できるようなシステムを構築したりすることはほぼ不可能である。

それを踏まえた上で、わたしたちは他人との関わり方を考えなければならないのだが……少なくとも道徳的・政治的正しさでしばりつけるようなやり方は得策ではない、とだけはいえる。自由を奪うことで多くの人が幸福になるということは (少なくとも表現活動に関しては) ないのだ。



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2018.09.19 (Wed)

「おうさま、はだかじゃね?」





そもそも自分に近しい人ばかりに答えさせたアンケートにどれほどの意味があるのか? とはなはだ疑問だが、









本人は「今後は制作者寄りのレビューにしちゃお☆」となかなか現金なものである。

しかし考えてみれば、これはマーケティングの手法である。つまり大先生のやっていることは結局、広告屋の拙いマネゴトであって、これで自分ではクリエイティブなつもりなのだから笑わせる。



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2018.09.19 (Wed)

精神をつなぐ重力 に質量は いらない











要約:「年寄りに配慮しろ」


ただ、この態度も無理からぬことである。

人間の精神は時限タイマーのついた肉体という狭い檻に押し込められ、時間の非対称性というレールに乗せられているわけだ。

そんな窮屈な人生にあって、新しいテクノロジーによって刻々と変化していく社会の有り様に適応し続けることは容易ではない。

わたしたちの多くは自分が影響を受けた時代の感覚から抜け出せないのである。

ここ最近もわたしたちは、安室奈美恵の引退というイベントを通して「90 年代」をあの世に送ったわけだが、しかしこれはあくまで感情のうえでの別れであって、「90 年代」的なマインドやあの時代の洗礼を受けた人々が、社会から直ちにゴッソリと消え失せるわけではない。

さすがに「90 年代」を年寄りだとは考えたくないが、いずれ「現在」とのギャップが軋轢を生むこともあるだろう。(いや、すでトラブルを招いているかもしれないが、良くわからない)


わたしたちは永遠に時代の中心に居座り続けることはできない。

むしろ、そこから脱落した後にどのような態度で生きていくかが重要になってくるのではないだろうか。



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2018.09.19 (Wed)

他人の行いを許さなければ 自らの自由もまた ない

ひーまさんからいただいたコメントを読んで、ソーシャルメディア全盛のこの時代であっても、フリーノベルゲームの感想を積極的に発信していこうという人のほうが稀である、ということを思い出した。

道徳的または政治的正しさを根拠に他人を非難するものが潜み、その正しさの尺度に強く支配された場では、人々の大半は沈黙せざるを得ない。

ある作品から個人が感じ取るすべてのものには間違いもなにもないし、制作者が込めた想いを超えたなにかを受け取ることだってあるのに、あらかじめ想定される以上の「応え」は認めないとするのなら、皆、口をつぐむしかないのである。







そもそも、大先生らの主張が巡り巡って規制を後押ししていることに対してあまりに無自覚である様の馬鹿馬鹿しさ。

真に「好循環」とやらを望むのなら、まずはあなた自身が「沈黙」しなければならない、というわけである。



00:49  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2018.08.16 (Thu)

オズにお願いしてみれば?









常々「レビューはこうでなければならない! (キリッ」や「 (悪い) 実況動画はフリーノベルゲームを滅ぼす (かもしれない) 」と公言してはばからない人間が、思わず「自由」を訴えてしまった tweet に賛同するというブラックジョーク

こんな短い内容すらも理解できないようなヤツが、なにが「レビュアー」だよ、という。

おそらく流れてきた tweet にそのまま反応してしまったのだろうが、せめて相手のページでオリジナル (の流れ) を確認しろよ、という。



ほんと、脳みその代わりにおがくずでも詰まっているのではないですか?



22:48  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(1)

2018.08.16 (Thu)

ある断絶





結局はすべてがこれである。

フリーノベルゲーム製作者もプレイヤーもレビュアーもゲーム実況動画投稿者も、皆「わたしを不快にさせてはならない!」としか言っていない。


これはつまり、フリーノベルゲームを含む創作界隈が、「表現活動とそれらの発表の場」から「ソーシャルコミュニケーションの場」にシフトしたことを表しているのかもしれない。













だいたい、ほんとうに芸術や読書体験を愛しているのなら、「他人を不快にしてはならない (相手の感情に負荷をかけてはならない) !」や、「他人の表現や活動を規制しよう!」といった発想にはならないはずである。

なにか、世直しのつもりで他人を難じる姿勢、大変けっこうなことだが、同時に「自分たちはクリエイティブな活動をしている」という勘違いも改めたらどうか。



22:38  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2018.08.14 (Tue)

ソーシャル地獄





そもそもフリーノベルゲームなんてものは、作りたいから作り、語るべき物語がなくなったら辞めていくのである。

それはどれだけの人に支持されていようがファンがついていようが変わりのないことで、他人は製作者本人の決定に介入することはできない。


だいたい、製作者とプレイヤーのコミュニケーションは義務ではないし、約束された報酬でもない。

このような暗黙の強制が、結局はトラブルの元になることが、なぜ理解できないのか。



21:29  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2018.08.10 (Fri)

正しさで他人と争う人々

さらにいえば皆、自らの善意を疑いもしない。
















このように、わかりやすい悪行を非難することは誰にでもできる。











だが、自分の善意を疑うことは難しい。

社会や歴史を見渡せば、善意がむしろ他人を傷つけた例などいくらでもあるのに、皆、自分は当事者ではないかのような顔をしている。


しかし、善意が制作者を傷つけることもあることをしっかりと理解していなければ、自分の「良心的な」感想が拒絶されたとき、「せっかくわたしが『善意で』紹介してやったのに」と逆恨みするか、もう少し温厚な人でも、結局、自分の感想のなにが相手の気持ちを逆撫でたのかわからずに「人それぞれ」のような思考停止で問題を先送りにするくらいしかできなくなるわけだ。


とはいえ、「配慮」や「敬意」や「マナー」ばかりを説く老害が幅を利かせている限り、永遠に問題は解決しないわけではあるが。



00:49  |  +NaGISA大先生とノベゲの話題  |  Trackback(0)  |  Comment(0)

2018.08.10 (Fri)

燃えよ ネバーランド





……なんか、フリーノベルゲーム界隈には「こども」と「こどもでいたいオトナ」しかいないよう思えてきた。

そして皆、その状況こそが正しいと信じているようだが、ほんとうにそれで良いのか。


フリーゲーム制作者がプライベートな時間をどれだけ趣味に費やしているかを力説する人は多いが、その自分の作品が「他人の読書時間を (全体からすればほんの一瞬であれ) 奪っている」ことの重大さを語る人はほとんどいない。


結局は皆、自分のことばを押しつけることばかり、自分を売り込むことばかりに腐心している。



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