2019.04.17 (Wed)
1cm だって構わない
自分は落伍者のくせに (落伍者だから) 弱者に対して憎しみに似た感情を抱くこともある。
しかし落伍者であるからこそ、社会的強者の顔をする気はないのである。
人間の心は常に善と悪の狭間にある。ここまで単純ではない。
2019.04.17 (Wed)
理想の潰えた国で
NaGISA 氏は奥様のご病気のこともあって、その当事者としての苦労、心中察するが、だからといって「ワタシの妻こそが『本物』のメンヘラである!(あいつらは嘘つき!) 」などと言うべきではない。
NaGISA 氏が「ファッション」と非難する相手が、しかし、どのような運命を背負って人生を送っているかわからないからである。彼が「自分に酔っている」と嘲る相手もまた「なにかと戦い」「なんとか社会生活を送っている」のかもしれない。上辺の印象だけでは、他人の人生などわからない。
ここにあるのは結局、正義を装った弱者の切り捨てではないか。
世のなかの人は皆、かんたんに「想像力を働かせろ」という。
しかし、(わたしも含め) 多くの凡人の想像力にはやはり限界がある。そしてわたしたち凡人は、自分の想像力が届く範囲、それを超えた先にある世界の事柄に関して、しばしば無理解になる。
無理解は断罪や私刑を呼び、やがて排除につながるだろう。なにも特別なことではない。上記の tweet を見ると良い。
なるほど、冒頭の指摘は正しかったのである。
2019.04.15 (Mon)
仇敵的な
「えー! そんな酷いことをする人がいるんですかあー!?」www
まあ、どうせ読んだところで彼には理解できないのだろうから良かった良かった。
要は、必要とする人にフックすれば良いのである。
それにしても、これは NaGISA 氏に限ったことではないが、相手を「あたまがおかしい」と決めつけてしまえば、自分のなかの悪や限界についてそれ以上考えなくて済むので、ずいぶん楽で良いなと感心する。
世知辛い世間を渡るための処世術としては必要なのかもしれないが、こんな人間ばかりで世のなかが良い方向へ向かうとは思えないわけで。
2019.04.14 (Sun)
馬鹿でふたつも覚えられないので わたしは西暦派
こういった tweet を読むと「そりゃあ日本は中国に負けるわな」と思う。
もともと日本の元号は (多くの文化とおなじように) 中国にあったそれを真似たらしいが、中国ではすでに廃れているらしい。(Wikipedia によると、最終的に満州国とともに元号はなくなったそうだが、これもなんとも象徴的な話である)
新元号のニュースでも、毎度「現在、元号を用いているのは日本のみ」と紹介されていた。この「世界で唯一」というのがまた、卑屈な日本人の琴線に触れるのだろうが。
「オカルトなんぞに頼ってられるか!」となりふり構わず冷徹に物事を進める中国さんと、改元のご利益で「都合の悪いこと」をうやむやにできると内心、期待している日本さん、これでは相手になるまい。
それにしても、日本の「伝統文化」なんてものはすでに統治の道具でしかないのに、「独特の味わいがある」などと呑気に礼賛する様、さすがバカウヨクさまという感じだ。
2019.03.23 (Sat)
やっぱり がんばれ ぶりっ子ペテン師
たまには良いことを言う。
没入度が違ってきますよねーと同意しつつ、NaGISA 氏の作品の登場人物がちっとも若者ぽい喋り方をしていないことと併せると苦笑い。
2019.03.23 (Sat)
さらに がんばれ ぶりっ子ペテン師
それ以来、日本のクリスチャンを悪くいうことはしたくなくなったし、NaGISA 氏に対する悪感情もほとんどなくなった。
なぜ上のようにいわれるのか深い理由まではわからなかったが、ほんとうに「あの人たち、なにもわかっちゃイマセンネ HAHAHA!!」と思われているとしたら、なかなかかわいそうだと感じたから。どれだけ真剣にやっても適わないのなら。
このことを踏まえて考えると、NaGISA 氏の「人を憎んで罪を憎まず」といわんばかりの毒にも薬にもならない正論を一生懸命つぶやいているのも、彼の「善良さ」ゆえのことかもしれないし、さらにいえば、信仰を持っている人は神さまに対して常に「自分は正しい」ことを証明し続けなければならないわけだから、自分を疑うことも難しいのだろう。
ある意味、NAGIA 氏に慈しみの心を学んだともいえる。
また、こういうものを読むとね……。
2019.03.22 (Fri)
がんばれ ぶりっ子ペテン師
昔話を読むと決して平坦な道を歩いてきたわけではない、奥さまに対する愛情は本物、そして「作品から垣間見える書き手の人生を感じる瞬間」を愛するという、わたしとおなじ想いがあるのに、なんでこの人は常に上から目線の「I am the majority!!」なのかと。
身も蓋もなく言ってしまえば「ウヨクのクリスチャンだから」なのだろうが。信仰を持つってときにあたまが大変ですね。
まあ、フリーノベルゲーム界隈で、少なくとも NaGISA 氏の周りはすでにカルトだと思うことにしたから、良いかどうでも。
仮にわたしの違和感が正しかったとして、なにが変わるわけでもなし。そもそも誰も読んでないもの!
いまの百倍は賢くなりたい。
2019.03.21 (Thu)
フリーノベルゲーム界隈、カルトのたまり場になる
【悲報】 自称・レビュアーの NaGIA 氏、フリーノベルゲーム制作者に忖度しすぎてあたまがおかしくなる
ついに評価そのものを否定しだした……。
(NaGISA 氏に怒っていたイリギノさんは「感想なんて馬鹿でも書ける」と言っていたが) 馬鹿でも誰でも、万人が作品を正当に評価する権利を拒絶してしまっては、フリーノベルゲームは芸術や文学はおろか、娯楽読み物ですらなくなってしまうのだが。(大衆に奉仕するのが娯楽の役目なら、評価も同時についてくるに決まっている)
なんじゃそりゃ。「フリーノベルゲーム作品はすべて他に類を見ない特異性がある」「あなたは世界に一つだけの花」と制作者を持ち上げているつもりかもしれないが、「ただの面白さ」以上に厳格で誰にとっても明確、かつ平等な評価基準はそうそうない。
それを否定するということは、NaGIA 氏にとってのフリーノベルゲームとは、プレイヤーや制作者におためごかしするための口実 (道具) に過ぎず、また、制作者のリソース (感情・時間・社会的評価……) を超えて相手の人間性 (生の思い・勢い) をも「消費物」と見なしていると思われても仕方がない。(「細かいことなんてどうでも良いのよ、ワタシたちが消費することさえできれば」ということかと)
「つまらない作品には感想なんて書かないけどね」の直後に「つまらないなんて感想、まず浮かびません!」とぶりっ子しているし、八方美人が度を越して、気色悪さすら醸し出している……こわ。
このとおり、NaGISA 氏には「無償の愛」が念頭にあるから特に「本業以外の自由時間を使って無償で制作され、無料で公開されているフリーノベルゲームは『商品』なんかじゃない! すべてがすばらしいギフトなんだよ!」と信じているのだろうが。
(実際は、ゲーム制作なんてしょせんは「時間外労働」だと感じているから制作者は「正当な対価を得られて当然」と考えているし、だからこそ「消費者」であるプレイヤーとの意識のギャップに起因する争いも耐えない。「感謝をお返し!」も労働をねぎらっているだけ)
しかし、フリーノベルゲームの制作者はそんな高潔なものではない。こんなに傲慢で傷つきやすく、自分を高く売りつけようとする人種もいない。
そして、そんな制作者 (とプレイヤー) に甘言という餌を与え、彼らの自意識を豚のようにぶくぶくと太らせようと画策しているのが NaGISA 氏というわけ。
困ったことに制作者と NaGISA 氏は「良くしてくれたから懐く」という発想が犬猫レベルのズブズブの関係であるようだから、おたがいに救いようがない。
日本人らしくお天道さまに誓っても良いが、NaGISA 氏は別に芸術や表現活動を愛しているわけではない。「良き消費者」であろうとしているだけで、さらには他人さまからもそう思われたいだけ。
もちろん本人は強く否定するだろうが、そうやってぶりっ子をしてくれたほうが、わたしの考えに真実味が出てむしろ助かる。
それにしても、『ショート ショート ショート 100』に参加しているみなさんも、こんなメガトン級のペテン師とニコニコ付き合っていけるのだから、ヤバいわ……ホラーだわ。
2019.03.20 (Wed)
感謝してない子はいねがー!?
ごまかし、傷の舐め合い。怒られてやんの、ウケる。
しかし、怒っている側も、この文章だけだとどこまで考えているのかわからないなあ。
……うん、まあ、平成ライダーも好きみたいなので悪い人ではない。たぶん。
(やっぱり、引用で表示された文面だけではなく、きちんと引用元のアカウントまで確認しないとダメだな)
それにしても、いい加減「フリーゲームは無料・無償だから『商品』ではない!(だから『感謝』でお返し)」というマヌケな思い込みは止めにしないか。
確かに、フリーゲームには値札がついているわけではないし、実際に金銭のやり取りもないが、皆、明らか資本主義の理屈で動いているではないか。
(例えば、制作者が「本業以外の自由時間をこれだけ使ったのに……!」とゴネるとき、それは「労働に対する対価を払え!」と迫っているのに等しい)
制作者とプレイヤーはフリーゲームを介して感情や時間といったリソースを売買しているともいえるわけだ。(だからこそ大先生もアライも必死になって弁明しているともいえる)
人間自体が「商品」になっている現実から目を背けるために、「無償の厚意」というでたらめにすがりたくなるのは理解できるが、その嘘に固執するあまり同じ穴のムジナ同士が争うのは悲しくないのか。ないだろうな。
以前にも書いたが、あなたのやっていることは「おせっかいなカリスマ書店員」となにが違うのと。結局は「商品」をうまく売り込みたいだけでは? という。
「この作品をもっと多くの人に知ってほしい!」という情熱が、どれほど傲慢なのか理解していない様が恐ろしい。
2019.03.20 (Wed)
私刑大好き ニポンジン
引用元の Sophia さんの tweet 、集中砲火を受けていて嘲笑った。
いや、彼女にではなく、彼女を私刑にしている連中に対して笑いがこみ上げてくる。
確かに彼女の主張は聡明とはほど遠いかもしれないが、「あたまの」「弱い」「オンナ」を袋叩きにして、おまえらは何を守ろうというのだ。
くだらないんだよ、「消費者」という名の奴隷の分際で。
コドモのイジメなんかより、よほどドブ臭いものを見た。気分が悪い。
2019.03.19 (Tue)
人間の感受性に対する冒涜
どちらかといえば「他人さまを傷つけるなんてとんでもない! おたがいに感謝をしろ!」と迫るほうが不健全である。
大先生の tweet で「無償の愛」がどうのという話題があったが、わたしたちが相手を愛するとき、同時に傷つけることもある。人間関係や表現行為から特定の要素だけを取り出して排除することは不可能である。
一部の感情 (の表出) を禁止したがる人間は、感情のグラデーションや複雑さを無視している。人間的な感情はすべて祝福されているのだ。「わたしやあなたがなにかを愛するのならば、同時に傷つけることもできる」と言えなければならない。
百歩譲って個人が「誰かを傷つけない」という信念を持つのは勝手だが、社会全体にまでそれを当てはめるべきではない。
わたしたちは本来、悪口や差別発言を封じるのではなく、ことばの持つ暴力的な面が無効化される、つまりそれらを口にしたところで争いにならない社会を目指すべきなのだが、実際は「善良な」人々がことば狩り・表現狩りで臭いものにフタをすることで、どんどんと (すべての人間にとって) 窮屈な世のなかになってしまっている。
そして、その社会の暗黒性を手助けしているのが「善良なぶりっ子」、NaGISA の大先生というわけだ。(本人は否定するだろうが)
社会全体のルールを決めているのは一握りの為政者や資本家だが、その下部に当たるマジョリティたちも「主人」の真似をしてやたらとルールを作りたがる。
どうせ誰のためにもならないのだから、マイノリティ (悪口でも言っていなければやってられない人たち) はマジョリティ (の強要するルール) に同化しようとしてはならない。
2019.03.19 (Tue)
奴隷を礫で打つ罪人
というか、他人さまの内面 (感情) に負荷をかけるという意味では、悪口もやる気や感動を「与える」ことも違いはないのではないか。
結局は、大先生たちがご執心の「他人の内面・侵略ゲーム」においては、「感動」「勇気」「やる気」のようなポジティブなイメージを用いた侵略は「善く」、批判や悪口のようなネガティブなイメージでの侵略は「悪い」というだけのことなのだ。
ゲームのプレイヤーではない人間からすればおなじことなのに。こんな欺瞞があるか?
2019.03.19 (Tue)
結局は社会的強者の理屈に従っているだけ
書いて良いに決まってるだろ馬鹿。
このアライとかいう人と大先生、「誰も傷つけない表現などない!(キリッ」などと、まるで自分の駄文が「誰かを傷つけるかもしれない」と本気で信じているさま、その勘違いぶりっ子ぶりが超絶キモイわけだが。(「他人の内面・侵略ゲーム」のプレイヤーだから仕方がないのかもしれないが)
こうやって、誰に頼まれたわけでもないのに当事者が自主的に検閲をすることで、結果、自らと周りの人間の首を絞め、回り回って「健全な」表現の精神をも摘んでしまうことになぜ気がつかないのか。
馬鹿だからか。バーカ。
なお、私は幼少時の経験から、夫婦別姓には賛成し難い。夫婦がそれで良くても、親と苗字が違う子供の気持ち考えた事あるのかよ、と。これ、本当にやるせないですよ。
— NaGISA@6.8札幌創作オフ会開催(予定) (@NaGISA1770) 2019年3月16日
こんな自分語りをしているくせに、なぜ「他人から表現を奪え」とかんたんに言えるのか、理解できない。
大先生は結局「マジョリティのなかでの」変わり者でいたいだけ。くだらないスケベゴコロしか持っていないくせに、つまらないぶりっ子をするな。
2019.03.19 (Tue)
わたしはプロダクト
(例:「感動をありがとう!」「勇気をもらえる」)
ノベルゲーム作者が、レビューにやる気をもらえるように、レビュアーは作者からの反応にやる気をもらえるのです。
— NaGISA@6.8札幌創作オフ会開催(予定) (@NaGISA1770) 2019年3月12日
プレイヤーはプレイした作品に感想を書く。作者は、感想を書いてくれた人に感謝の意を込めて反応する。そうして、フリーノベルゲーム界がいい方向に回っていくといいですね。
私ごときのレビューに、「ありがとうございます!」と言っていただけると、「よし、この作者さんの作品をまた読んでみよう」となります。
— NaGISA@6.8札幌創作オフ会開催(予定) (@NaGISA1770) 2019年3月12日
作者とレビュアーも人間同士。認めてくれる人には関わりたくなりますし、そうでない人には、その人の作品込みで関わりたくなくなりますよね。
ふりーむもノベコレも、「レビュー書いたらこんないい事ありますよ」とやってますが。
— NaGISA@6.8札幌創作オフ会開催(予定) (@NaGISA1770) 2019年3月12日
レビュー書いて一番いいことは、「その人(レビュアー)が気に入った作品が、他の人に知られる事」と、「作者さんにやる気を与えられる事」なんですよ。
なるほど、と三割くらいの理解であたまの隅に置いていたのだが、なんと NaGISA の大先生がまさにそのまんまの tweet をしていて驚いた。
いままでわたしは、大先生とそのおともだちはおたがいに「いいね!」し合う互助的な「馴れ合いゲーム」をしているのだと考えていた。
しかし、実際にはもっと現代的でグロテスクな「相手の内面 (感情) にいかに踏み込み影響を与えるか」という「心の侵略ゲーム」をしているらしい。
正直、上記の三つの tweet だけでもおかしなことばかり書いてあるのだが、これが彼らのゲームの「ルール」なのだとしたら (彼らからすれば) 間違ってはいないのだろうし、彼らが批判や悪口を極端に忌避するのも、ただ心が痛むというだけではなく、「相手のことばに影響されたら負け」というゲームをプレイしているのだと理解すれば納得がいく。
最近、あれだけ馬鹿にしていたスマートフォンを持ち始めたそうだし、大先生、やはり現代ニホンジンど真んなかの凡人である。
2019.02.08 (Fri)
真実から最も遠いもの --- 信念に固執する心
「悪書を読まないことは、良書を読むための条件である」
ということばに「例え悪書だったとしても得られるものはあるはずじゃん」と反抗心を持っていた時期があった。悪食でも読書それ自体は善であると信じていた。
それから何年も経った現在、「さすがショーペンハウアーさん」とこのことばの正しさを痛感している。
世のなかを見渡してみれば、読書家を気取りはするものの、それがいっこう本人の実になっていないくるくるぱーは枚挙にいとまがない。
よくよく物のわかった徳の高い人物が「あえて」悪書を読むのならまだしも、ごくごく一般的な人間が悪書を読んでいれば目が曇るし、目が曇った人間にとって悪書は毒でしかないわけである。いまに毒に溺れ中毒して、思考すらも止めてしまうのだ。
NaGISAさんは作品を紹介されるのがとてもお上手な方で、プレイしたくなるような文章構成やレトリックに溢れているのです。ジャンルやプレイ時間などかゆい所に手が届く情報を載せてくれるのも嬉しいですし、何よりプレイ蓄積がすごい。600作近くレビューを続けられているのは凄すぎます。
— ykmr@ノベルゲームファン (@yokomura_novel) 2019年1月27日
RT>「プレイしたくなるような文章構成やレトリックに溢れている」という評価は、本当に嬉しいです。レビュアー冥利に尽きますね。
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月27日
私がレビューを書くとき一番悩むのは、レビュー本文よりも作品につける一言キャッチフレーズ(レビュー本文ももちろん頑張ってますが(笑))。「つけられて嬉しいキャッチを」と、いつも頭を捻っています。この1行キャッチが好きだと言ってくださる方もいらっしゃるので、いつも頑張って考えてます。
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月27日
以上を踏まえた上でこの大先生に対する礼賛を目にするとき、おもわず乾いた笑いがこみ上げてくるのである。
ykmr さんは大先生のファンらしいから、仕方がないといえばそういうわけだが。
大先生もたまーに良いことを言ってはいるけれどね。
2019.01.22 (Tue)
偽物は容赦なく焼け
そこで重要になってくるのは「感情」である。
しかもそれはだれかに与えられた「感動」や「勇気」などではなく、自らの内から底から立ち現れる感情。
一時の快楽の副産物ではない感情。容易に飼いならせない感情。
それが必要なのだ。
2019.01.22 (Tue)
憎悪の欲求
私は、「フリーノベルゲーム」は好きだけど、「フリーゲーム」が好きという訳ではなく(RPGなどは全くやらない。そもそもゲームやらない)、「フリーノベルゲーム」は好きでも、「同人ノベルゲーム」が好きという訳でもない。ノベルゲームファンの中でも、かなり特殊な部類に入るんだろうなあ。
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月16日
『女が女に怒る夜』を観て大笑いしていたけれど、見渡してみればオトコにも似たようなのがいるよね。
例えば、「どうしても自分の感性がユニークなのだと売り込みたい男」とか。
(この程度の大別で「かなり特殊な部類」て……。他にいくらでもいるっちゅーねん)
私の中では「フリーノベルゲーム」と「同人ノベルゲーム」って似てるけど別物なんですよね。なので、フリーノベルゲームを「同人」って呼んでると、若干の違和感。同人ってコミケット辺りのイベントが発祥ですが、フリーは雑誌の投稿プログラムが発祥でしょうから、成り立ちも違うし。
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月16日
なので、フリーと同人をくくるなら「インディーズノベル」なんだろうけど、私の中では両者はやはり別物。フリーはフリーで、同人は同人。私は、フリーならではの世界が好きなのです。
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月16日
何のしがらみもない、純粋な作者さんの思いにじかに触れられるところです。たとえ少々荒削りでも絵がしょぼくても(お金をとって売るような作品でなくても)、そこが魅力です。 #peing #質問箱 https://t.co/7HF91iLCl9
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月16日
フリーノベルゲームは、何から入ったかで重視する点が違うように思う。ゲームから入った人はシナリオ重視、アニメから入った人は立ち絵の演出が凝ってるし、小説から入った人は文章重視、漫画畑の人はカット割りなどが面白い。そのごった煮感こそ、私がフリーノベルゲームを気に入っている理由の1つ。
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月16日
同人ノベルゲームはあまり経験ないけど、同じような方向から入ってきている人が多いように見えて。それはそれで魅力の1つとは思うのですが、私はフリーノベルのカオスっぷりが好きなのです。
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月16日
ここら辺だけ読むと、わたしと大先生になにも違いはないのに。
まあでも、世のなかの争い事って、そんなものか。まったく異なるなにかより、自分に近しいものにこそ、憎しみが集まるように思える。
だからこそ、さらに悲劇的なわけだ。
そういえば『女が女に怒る夜』からふと考えたのだけれど、上記のような大先生の「ユニークな俺」発言にイライラするのって、不思議ちゃんやぶりっ子に感じるそれに近いものがあるのかもしれない。
本人は善いと思って (自己アピールとしてなにかしら効果的と信じて) やっているのだろうけれど、傍目にはまったく逆効果というかなんというか。小賢しさもあるし。
まあでも、大先生の発言を受けて太鼓持ちをしているヤツのほうが嫌か。いないのかな?
2019.01.22 (Tue)
にわかの発言にイラつく人 の気持ちがすこし わかった
れんれん堂さんの作品なんですね。この方の作品は、一度は取り上げないとなと思っていましたので、今度プレイいたします。作品のご紹介、ありがとうございました! #peing #質問箱 https://t.co/IjXsg7cNTu
— NaGISA (@nagisa1770) 2019年1月18日
大先生の tweet にれんれん堂の名前が挙がっていて死にたくなったwww
これで大先生にしたり顔のレビューをされたり、それだけをもってれんれん堂作品が持て囃されるようなことになったら、ちょっと耐えられないかもしれないwww
とはいえ、れんれん堂が (わたしが思っているよりもずっと) 評価されているのは嬉しい (そもそも mei さんの実力を信じていないのか? という話だ) し、mei さんの活躍をわたしごときが阻んではいけない。
※個人の感想です……ということで。
2019.01.20 (Sun)
わるい夢も ユメは ゆめ
ちょうど PS から PS2 の時代、ゲームの攻略本を集めていたので、このゲームの攻略本は持っているのだが、ゲーム自体はプレイしたことはない。アニメ版は観たのだけれど、当時のわたしに理解できるわけもなく……。(主題歌は良かった)
この作品のドライさは、90年代の世紀末的な雰囲気そのまま、そしてまだインターネットやデジタル世界に皆が希望や期待を抱いていたのだな、と感じる。(この頃まだ Google は生まれたばかり、SNS は存在もしなかった)
正直、インターネットはもう第二の現実や夢の楽園ではないと暴かれてしまった現在の感覚からすると「個人の人格をデータ化してネットワーク上で再構築して……」といった話も、あまりクールには思えない。
90年代まっただなかにいた頃はわからなかったが、振り返ってみれば確かにいまとは違う時代だった。それはもう取り戻せないだろう。