アサクリ騒動で学ぶアジア人の透明化現象。「お前はグーグル翻訳の偽日本人だ!」 海外の文化戦争に巻き込まれてアサクリ批判派の複雑な感情がリベラル勢力とアサクリファンボに伝わらない件&反ポリコレも味方にするには厄介すぎる件
皆さんが危機感を覚える理由(現在進行形の歴史修正・侮辱的発言・ブラックナショナリズムetc)は理解していますが、私は「UBIがゲームの弥助を史実と主張している」「差別的意図がある」という言説に対してフォローしていません。そのことは私がUBIを批判する直接の理由ではありません。
2024-07-04 19:48:30UBI批判と弥助の史実性を正す運動を紐づけることは、個人的にはお勧めいたしません
伝説の侍弥助が海外に広まるまで(前提1)
海外への伝播 歴史家が日本で学術書を出版(2017) ↓ 学術書を元にした小説を海外で出版(2019) ↓ 同時期弥助ブーム (ネトフリ&ハリウッド映画の製作発表) ↓ 大手メディアで歴史家が小説の中身を史実のように語る ↓ Yasukeの検索上位が上記メディア記事に ↓ 伝説の侍イメージの拡散
2024-06-24 20:38:09米GoogleでYasukeを検索した結果まとめ(左から検索上位) pic.twitter.com/Quog4PQ27e
2024-06-26 20:09:54googleトレンド調査(相対評価)
A点 (2019) 4月30日 ロックリー氏『African Samurai』発売 5月22日 ハリウッド映画「弥助」制作発表 B点 (2021) 4月29日 アニメ『Yasuke』配信開始 C点 (2024) 6月 アサシンクリードPV発表 2019年~2021年 ロックリー氏の弥助プレゼン期間(史実汚染期) pic.twitter.com/U4m6m1mkip
2024-07-04 12:38:27海外のゲーム文化戦争について(前提2)
現在海外で起きているゲーム関連の文化戦争 反ポリコレ 「DEIのためにゲームは悪くなった」 リベラル 「多様性を掲げればゲームは良くなる」
2024-06-17 12:26:35DEI=多様性、公正性、包括性を重視することで企業的にも良い方向に進むよねという考え(超要約)
ゲーマーゲート、スイートベイビーなどを盛り込むとややこしくなるため、日本人が感覚的に分かりやすい用語として「反ポリコレ」と「リベラル」でカテゴライズしています
2024-06-17 12:26:36ゲーマーゲート論争について詳しく知りたい方はこちら。画像は騒動から派生したマスコットキャラ「ヴィヴィアン・ジェームス」。4chan住民が好むタイプ。 4gamer.net/games/036/G003… 4gamer.net/games/036/G003… weblio.jp/content/%E3%82… pic.twitter.com/uNL1ZJPrQH
2024-06-20 16:48:00海外のアサクリ論争の現状
アサクリ騒動勃発 (2024) 反ポリコレが騒ぐ 「アサクリが黒人をねじこんだ!」 「弥助は信長のペットだ!」 ↓ イーロンマスクが煽る 「DEIは芸術を殺す」 ↓ リベラルが反応 「アサクリ批判者はレイシストだ!」 「弥助は伝説の侍だ!」(メディア記事ペター)
2024-06-15 6:48:44反ポリコレもリベラルも弥助のことを大して知りませんから、一方は必要以上に貶めてやろうと考え、もう一方はCNNやBBCなどの良質なメディアをソースに反論を試みるわけですね。
2024-06-15 6:48:45良質なソースによると 「弥助は日本人から神のように敬われ、6万人の忍者軍団と戦い、武士団のトップに上り詰め、信長の首を持ちさることで日本の歴史を変えたと見なされている伝説の侍」 ということになります。
2024-06-15 6:48:45ガーディアンが日本人の声を無視して反ポリコレを叩く(このまとめにうってつけの)記事なんですけど、歴史的証拠として挙げているの、ロックリー氏監修のスミソニアンなんですよ。終わってるでしょ。 それくらい大手メディアに載ってしまったことは大きな出来事なんです。 theguardian.com/games/article/…
2024-06-20 6:03:40まぁ彼らにとっては弥助が伝説の侍であってもらった方が都合が良いのですよ。実在の人物の主人公起用は初ですからね。異例の起用を正当化できるほど魅力的である必要があります。
2024-06-15 6:49:38黒人侍の主人公起用は文化の盗用の面からも、反DEIの流れからも、炎上すると分かっていたことでしょう。 プロット的に魅力なら外国人の「私たちの目」として弥助を狂言回しの位置に置くこともできたはずです。 もろもろを正当化するためには、史実以上に魅力的であった方がいいと思いませんか?
2024-06-15 16:15:19検索上位記事一覧(参考)
信長は弥助を「大黒天」ではないかと考えた。大黒天は豊穣(ほうじょう)の神で、寺院では通常、黒い像によって表現されている。信長は弥助の肌の色は墨によるものだろうと思い、こすり落とそうとした。本当に黒人だと納得すると、直ちに宴会を開いて敬意を表したという。
「弥助は初めこそ物珍しい余興の種とみられていたものの、1カ月以内に侍として重用されるようになり、信長の側近の一員になった」
1581年、弥助は織田軍による伊賀侵攻に加わった。信長は4万~6万人の軍勢を擁する忍者の地、伊賀を攻撃。息子の信雄による1579年の伊賀攻めは失敗に終わっていたものの、今回は攻略した。弥助にとって、これが信長の下での最初の戦になったという。
ロックリー氏が明かす言い伝えによると、信長の弥助への最後の指示は、刀と首を息子のもとに届けるよう命じる内容だった。「信長の首が他人の手に落ちるわけにはいかなかった。弥助の仕事は一族の権力を維持することだった」
来日から1年もしない内に、弥助は侍としての身分を手に入れた。間もなく弥助は日本語を自在に操り、信長のお供として戦場に出るようになった。
弥助のドキュメンタリー映画を製作しているフロイド・ウェブ氏とデボラ・ディスノー氏は、弥助が奴隷だったというのは憶測に過ぎないとみている。ディスノー氏は、「戦士としての経験がなければ、たった1年で侍に上り詰めることは難しいはずだ」と語る。武士階級に生まれた者は通常、子どもの頃から訓練を積まされるからだ。
ロックリー氏によると、弥助は訪日前にアフリカやインドで生活した経験があり、こうした地域の話を信長に聞かせて楽しませたのだという。
信長は弥助を気に入り、家族のように扱ったと言われる。弥助は、信長と共に食事をする数少ない家臣のひとりだったという。
歴史家のトマス・ロックリー氏によると、信長は弥助に介錯を頼み、自分の首を刀と共に息子に送り届けるよう頼んだという。これは絶大な信頼の証だ。
彼は彼らが見た初めてのアフリカ人だっただけでなく、日本の基準では身長188センチの「巨人」で、容姿端麗、知的で面白く、10人の男の力を持っていた。
また、仏陀は黒い肌で描かれることが多いため、多くの人が彼を神の訪問者と見なしていました。
数日後、ノブナガはヴァリニャーノに弥助を自分に仕えてくれないかと尋ねた。弥助は信長の武器持ち、つまり非常に名誉ある地位となり、海外問題についての腹心となった。
数か月以内に、彼は給料、京都の北東にある安土城の住居、使用人、そして刀を受け取りました。刀は武士の象徴であるため、日本では弥助が記録に残る最初の外国人武士であると伝統的に理解されています。
弥助は少なくとも一度は信長の戦いに同行した。彼らは、織田家の不倶戴天の敵である武田家が長年保持していた富士山のすぐ北の領土を征服していました。弥助は、安土へ帰る途中、聖なる山のすぐ南で日本人日記作家によって観察された。
伝説によると、信長の最後の命令は弥助に下され、敵の手に首が落ちないように守れと命じられました。
彼は大名が亡くなったとき、ノブナガの側にいました。一般的な言い伝えによると、信長は弥助に首を息子に返すよう命じました。
「信長を取り囲む非常に小さな取り巻きの一団で、その武士はおそらく30人から50人ほどで、主に若い男性で、その多くは信長の愛人でもあった」とロックリーは言う。
伝統的に、当時50代前半だった信長のような年長の武士は、若い武士を指導し、性的関係を育んだ。弥助と信長が恋人だったことを示す証拠はない。
最終的に、信長、弥助、そして当時の領主の愛人だった森蘭丸という従者は、寺の部屋の一つに退却した。ここで信長は蘭丸に斬首される前に、刀で腹部を切り裂かれて切腹を行った。その後、蘭丸も切腹し、今度は弥助に斬首を求めた。
信長と蘭丸が死ぬと、弥助は主君の首を引っ張って寺から逃げた。信長の遺体を守ることで、弥助は光秀が敵の首を奪い、正当性と権力を確立する手段として見せびらかす機会を奪った。
歴史家たちは、弥助は信長と会話できるほど日本語が堪能だったと推測し、またすぐに信長に兵士としての腕前を証明したとも考えている。最初の出会いの直後、信長は弥助に日本名を与え、仕官を認め、記録に残る外国人として初めて侍の称号を与えた。弥助はまた、信長と食事をした数少ない人物の一人であり、二人の関係が親密であったことを示している。
弥助は武士として、信長のために何度か戦っただろうが、正確な数は不明である。
敗戦を覚悟した信長は、自らの死と名誉を守るために切腹した。弥助が信長の介錯人(切腹する人の首をはねる役目)を務めた可能性もある。
「彼は腹心だったようです。ノブナガは彼と頻繁に話していたことが記録されています」
「記録はありませんが、敵から救うために信長の首を奪ったのは弥助だと言い伝えられています」とロックリー氏は語った。 「もし敵である明智が首を手に入れて、首を掲げることができていたら、彼は正統性の強力な象徴となっていたでしょう。」ロックリーは、そのような行為が明智に統治者としての信頼を与えるだろうと説明した。信長を攻撃した後、明智は多くの支援を得られず、すぐに戦いに敗れました。 「したがって弥助は首を持って逃げることで、日本の歴史を変えたと見なされてきたのです」とロックリー氏は語った。
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『なぜなに文化盗用批判のメリット・デメリット』を追加しました。わりと分かりやすい文化盗用に直面した今だからこそ、文化盗用批判を一概にバカにする風潮は改めるべきだろうねというまとめです。少なくとも批判者の意見には耳を傾けるべきでしょう。