弥助研究の権威が英語版Wikipediaで自分の未発表論文を引用して学説発表をしていた件、その内容に主張と紐づかない引用や純粋な創作が含まれていた件、ついでに小説の宣伝や自分自身の記事を作成していた件まとめ
今回の件ですが「弥助騒動が根底から覆る大発見!」というわけではなく、ロックリー氏の研究成果(英雄弥助)の拡散ルートが、一つ増えた程度の話だと認識しております。
2024-07-13 12:13:18主な水源がロックリー氏なのは変わりません。どのルートから一番水が流れたかという話です。小説なのか、検索上位の史実汚染なのか、それとも鳥取トムのWikipediaなのか。
2024-07-13 12:13:19本当にロックリー氏が編集を止めたかどうかは分かりません。ただ、自分と紐づけてしまった鳥取トム名義での編集は2019年1月が最後です。 鳥取トムがロックリー氏だと判明した理由は、本人が「自分はロックリーだ」と自己紹介していたからです。問題視されると思っていなかった可能性があります。 pic.twitter.com/2JOGqjEsmz
2024-07-13 12:00:14「イエズス会の記録によると信長はすぐさま弥助を侍に取り立て」(CNN) 「弥助と信長が性的関係にあったという学説がある」(学術書『信長と弥助』) 「家忠は『弥助という名は信長自身が与えたもので大きな名誉』と述べていた」(米wiki)
2024-07-13 12:01:02「藤田みどりによると、日本人は黒人を仏とみなし尊敬していた」(米wiki) 「日本で有名な歴史家がファクトチェッカーを務めた」(Japan Times) これらはすべて(きつい言い方をすれば)嘘です。調べれば明るみに出る問題ですが、彼はそれほど気にしていなかったように思えます。
2024-07-13 12:02:33@laymans8 トーマスロックリー氏を容易く連想出来る鳥取トムと言う名前に疑問があります 工作する人間がこんなあからさまな名前を使うでしょうか? しかもユーザーページに鳥取トムとトーマスロックリーは同一人物ですと書くでしょうか? 工作してるのに工作を自白するとか意味がわかりません
2024-07-14 20:24:09彼は善行だと思っている節があります x.com/yellobird9/sta…
2024-07-14 20:30:41ロックリーの本の目的がちょっと変わってて、些細な事しか書かれてない人に焦点を当てて後は想像を膨らまして物語りを作る。 それが貴方だよ、外国にいても孤独を感じなくてもいいよ、貴方はヒーローになれるよ〜的な? thelastdragontribute.com/african-samura… pic.twitter.com/2unTI66TZi
2024-07-14 18:42:55つーか、普通に弥助の紹介だけで話題性抜群だったろうに、何であれだけ手間掛けて盛りに盛ったかね? アメコミヒーローというかメアリー・スーじ.. togetter.com/li/2401301#c13… 「弥助研究の権威が米Wikipediaで自分の未発表論文を引用して学説発表をし..」togetter.com/li/2401301 にコメントしました。
2024-07-15 6:57:36ロックリー氏は美しい執筆動機を語りますが「自己投影して勇気づけられる」の商業的帰結は「なろう系」です。ロックリー氏の対談映像をいくつか見てきましたが、身長無双のくだりはホストにも大変人気があります。弥助が海外で受ける理由の一つに、なろう系的な魅力も間違いなく含まれるのでしょう。
2024-07-15 12:28:20ロックリー氏によって付与された属性 188cm容姿端麗(英語圏の誤読を訂正せず) 武士団の上層部に上り詰めた 大黒天の化身として日本人から尊敬されていた 天正伊賀の乱他、合戦での活躍 信長が最も信頼する側近(本能寺大活躍)
2024-07-15 12:30:43小説の記述は意図的に除いています。小説が原因で英雄弥助が拡散したと勘違いしている方が非常に多いですけど(ノンフィクションを謳っているので影響が無かったとは思いませんが)これらは「史実と誤解される形で各種媒体から発信された情報」です。私は司馬遼太郎先生を批判しません。
2024-07-15 12:35:16米GoogleでYasukeを検索した結果まとめ(左から検索上位) pic.twitter.com/Quog4PQ27e
2024-06-26 20:09:54A点 (2019) 4月30日 ロックリー氏『African Samurai』発売 5月22日 ハリウッド映画「弥助」制作発表 B点 (2021) 4月29日 アニメ『Yasuke』配信開始 C点 (2024) 6月 アサシンクリードPV発表 2019年~2021年 ロックリー氏の弥助プレゼン期間(史実汚染期) pic.twitter.com/U4m6m1mkip
2024-07-04 12:38:27私見
査読無し学術書『信長と弥助』 (2017)
史料の少ない人物故、いくつもの仮定の上に推論を重ねるような内容には、評価が分かれると思います。しかし、「これが史実だ」と主張しているわけでもないので問題はなし。
ノンフィクション伝記小説『African Samurai』 (2019)
弥助に関しては意図的に史実と創作の境を曖昧にしていますが(80ページ超えの脚注で真実らしく装飾もしていますが)、小説の体を崩していないので白 。
『外国人がほんとに知りたい日本の文化と歴史』(2019)
外国人と関わる機会が多い人に向けた英語のテキスト。有用なテキストの一部記述ですが、小説の中身を断定的に記述するなど問題もあり。「日本で最も大きく最も強い人物は日本人ではなかった」と日本人に説明させることに違和感を覚えなかったのか疑問。
CNN,BBC,TIME,Smithsonian,NHKなどのメディア対応 (2019~)
気合を入れて弥助のプレゼンに臨んだことは理解できますけど、歴史家として(Historian says)小説の中身を語るべきではなかったと思います。原稿チェックの段階で止めることもできたはず。語るなら(査読ありの)『つなぐ世界史2』の内容にするべきでしたね。
信長は弥助を「大黒天」ではないかと考えた。大黒天は豊穣(ほうじょう)の神で、寺院では通常、黒い像によって表現されている。信長は弥助の肌の色は墨によるものだろうと思い、こすり落とそうとした。本当に黒人だと納得すると、直ちに宴会を開いて敬意を表したという。
「弥助は初めこそ物珍しい余興の種とみられていたものの、1カ月以内に侍として重用されるようになり、信長の側近の一員になった」
1581年、弥助は織田軍による伊賀侵攻に加わった。信長は4万~6万人の軍勢を擁する忍者の地、伊賀を攻撃。息子の信雄による1579年の伊賀攻めは失敗に終わっていたものの、今回は攻略した。弥助にとって、これが信長の下での最初の戦になったという。
ロックリー氏が明かす言い伝えによると、信長の弥助への最後の指示は、刀と首を息子のもとに届けるよう命じる内容だった。「信長の首が他人の手に落ちるわけにはいかなかった。弥助の仕事は一族の権力を維持することだった」
来日から1年もしない内に、弥助は侍としての身分を手に入れた。間もなく弥助は日本語を自在に操り、信長のお供として戦場に出るようになった。
ロックリー氏によると、弥助は訪日前にアフリカやインドで生活した経験があり、こうした地域の話を信長に聞かせて楽しませたのだという。
信長は弥助を気に入り、家族のように扱ったと言われる。弥助は、信長と共に食事をする数少ない家臣のひとりだったという。
歴史家のトマス・ロックリー氏によると、信長は弥助に介錯を頼み、自分の首を刀と共に息子に送り届けるよう頼んだという。これは絶大な信頼の証だ。
彼は彼らが見た初めてのアフリカ人だっただけでなく、日本の基準では身長188センチの「巨人」で、容姿端麗、知的で面白く、10人の男の力を持っていた。
また、仏陀は黒い肌で描かれることが多いため、多くの人が彼を神の訪問者と見なしていました。
数日後、ノブナガはヴァリニャーノに弥助を自分に仕えてくれないかと尋ねた。弥助は信長の武器持ち、つまり非常に名誉ある地位となり、海外問題についての腹心となった。
数か月以内に、彼は給料、京都の北東にある安土城の住居、使用人、そして刀を受け取りました。刀は武士の象徴であるため、日本では弥助が記録に残る最初の外国人武士であると伝統的に理解されています。
弥助は少なくとも一度は信長の戦いに同行した。彼らは、織田家の不倶戴天の敵である武田家が長年保持していた富士山のすぐ北の領土を征服していました。弥助は、安土へ帰る途中、聖なる山のすぐ南で日本人日記作家によって観察された。
伝説によると、信長の最後の命令は弥助に下され、敵の手に首が落ちないように守れと命じられました。
彼は大名が亡くなったとき、ノブナガの側にいました。一般的な言い伝えによると、信長は弥助に首を息子に返すよう命じました。
「信長を取り囲む非常に小さな取り巻きの一団で、その武士はおそらく30人から50人ほどで、主に若い男性で、その多くは信長の愛人でもあった」とロックリーは言う。
伝統的に、当時50代前半だった信長のような年長の武士は、若い武士を指導し、性的関係を育んだ。弥助と信長が恋人だったことを示す証拠はない。
最終的に、信長、弥助、そして当時の領主の愛人だった森蘭丸という従者は、寺の部屋の一つに退却した。ここで信長は蘭丸に斬首される前に、刀で腹部を切り裂かれて切腹を行った。その後、蘭丸も切腹し、今度は弥助に斬首を求めた。
信長と蘭丸が死ぬと、弥助は主君の首を引っ張って寺から逃げた。信長の遺体を守ることで、弥助は光秀が敵の首を奪い、正当性と権力を確立する手段として見せびらかす機会を奪った。
歴史家たちは、弥助は信長と会話できるほど日本語が堪能だったと推測し、またすぐに信長に兵士としての腕前を証明したとも考えている。最初の出会いの直後、信長は弥助に日本名を与え、仕官を認め、記録に残る外国人として初めて侍の称号を与えた。弥助はまた、信長と食事をした数少ない人物の一人であり、二人の関係が親密であったことを示している。
弥助は武士として、信長のために何度か戦っただろうが、正確な数は不明である。
敗戦を覚悟した信長は、自らの死と名誉を守るために切腹した。弥助が信長の介錯人(切腹する人の首をはねる役目)を務めた可能性もある。
「彼は腹心だったようです。ノブナガは彼と頻繁に話していたことが記録されています」
「記録はありませんが、敵から救うために信長の首を奪ったのは弥助だと言い伝えられています」とロックリー氏は語った。 「もし敵である明智が首を手に入れて、首を掲げることができていたら、彼は正統性の強力な象徴となっていたでしょう。」ロックリーは、そのような行為が明智に統治者としての信頼を与えるだろうと説明した。信長を攻撃した後、明智は多くの支援を得られず、すぐに戦いに敗れました。 「したがって弥助は首を持って逃げることで、日本の歴史を変えたと見なされてきたのです」とロックリー氏は語った。
彼が鳥取トム名義を捨てた理由は、表舞台(CNN,BBC,TIME,スミソニアン,NHK etc)でのデビューが決まったからだと思います。2019年はヤスケブーム元年でした。
2024-07-13 12:03:56鳥取トムは2019年1月に自分の小説を宣伝して以降姿を消すのですが、弥助ブームの影響で大量発生したファンボーイたちが、BBCやブリタニカ、ロックリー氏の書籍などをソースに自分の願望をwikiに書き込む状況は現在まで変わっていません。 pic.twitter.com/ITrLBrir9b
2024-07-13 10:48:25騒動下、ブリタニカを編集していたことが判明
7月16日、ブリタニカの弥助の項目がロックリー氏によって(正々堂々)編集されました。これはWikipediaのようなオンライン百科事典ですが、承認システムがあるため英語圏ではWikipediaよりも上等なソースとして扱われがちです。 britannica.com/biography/Yasu…
2024-07-18 22:23:24ただ、このような記事でもファクトチェックを通過し、良質なソース扱いされてきましたので(弥助の項目に限って)その精度は推して知るべしかと。 pic.twitter.com/tIxMuEQp9F
2024-07-18 22:42:53日本大学法学部准教授トーマス・ロックリー、SNS全削除逃亡から昨日になって突然オンラインのブリタニカ百科事典の弥助の項目を上書きして「異論もある」「可能性」「推測している」とフンワリ表現に変えたみたいだけど、「日本の一般の歴史家は弥助を侍と考えている」ってそこだけは捏造のままなの…
2024-07-17 22:01:57『つなぐ世界史』はロックリー氏が寄稿した査読ありの一般書です。
ブリタニカには日本人は弥助を大黒天と思ったのではないかと言うロックリー独自の考えが記載されているが(ロックリーの考えとしている)査読あり版にはない。
2024-07-17 10:44:16
一部界隈で「ロックリー氏がアカデミックな論文を削除して参考文献を自分の本にすり替えた」という話になっていますが間違いです。誰も弥助の研究をしていなかったので、論文引っ提げて登場したロックリー氏が弥助研究のオーソリティーになれたのです。
「何年もかけて別アカで英語版Wikipediaの弥助の項目を改ざんし、それを自身の著書で引用していた」というツイートが100万回以上表示されていますがこれもフェイクです。
「ロックリーの妄想が教科書にも採用されてしまった!」とか読んでもいないのに憂いてる人が大量にタイムラインに流れてきましたが。杞憂ですので安心してください。