日本人の知らない『伝説の侍』弥助が背負わされた海外からのクソデカ感情まとめ「史料を疑え!白人の視点を排除せよ!」
@laymans8 奴隷にも私有財産は認められ、賃金も払われ、貯金も出来ます。身請け金を貯めて自分を解放することもできました。弥助はもともとはおそらく「奴隷」ですが、ヴァリニャーノにはモザンビーク要塞司令官からプレゼントとして贈られたので、ヴァリニャーノの従者であって、奴隷ではなかったと考えます。
2024-07-19 16:10:43@laymans8 ヴァリニャーノの自筆書簡。たぶん弥助に初めて会った時。世の中がエビデンスを求めているようなので貼っておきます。 pic.twitter.com/kgL4O2NgjZ
2024-07-19 16:36:33@mei_gang30266 お返事ありがとうございます! 質問なのですが、Cafreを黒奴(イエズス会日本年報)と訳すことは誤解を招く表現なのでしょうか? x.com/laymans8/statu… 『華夷通商考』のカフリはCafreとは異なるのでしょうか? x.com/laymans8/statu… お答えいただけますと幸いです。
2024-07-19 17:05:21現在、米Wikipediaでは「カフルはアフリカの黒人全般を指す言葉」という理由で、元奴隷の可能性すら削除されてしまった。しかしこれは誤りで、弥助と同時代の地理学者は、カフルを「奴隷」か「エチオピアの特定地域住民」という意味でのみ使用している。翻訳者は理由もなく「黒奴」としたわけではない pic.twitter.com/mL4O67mDWJ
2024-07-07 21:21:05弥助から100年後の地理書『華夷通商考』の記述 「大熱国にて人物甚だ賤しく、色黒き事漆の如し。人をあぶり食らうて人倫の作法に非ず。オランダその他の国よりこの国の人間を捕えあるいは買い取って永代の下人に遣う。」 読み取れること 1.カフルは奴隷貿易の対象 2.日本人はカフルを蔑視している pic.twitter.com/v3YrUBPYwi
2024-07-07 21:44:51@laymans8 同じです。基本的には、アフリカ東南沿岸部のカフラリアと呼ばれる海岸地帯出身者のことで、16世紀はモノモタパ王国と呼ばれる地域に凡そ相当します。Cafreはカフル人と訳すべきで、「黒奴」がすべてカフル人というわけではありません。インド人やジャワ人なども「黒奴」と呼ばれます。
2024-07-19 17:28:03@mei_gang30266 1. 華夷通商考やwiki記述を読む限り、カフル人は奴隷として使われることが多かったようです。そのため「黒奴」と訳されたのでしょうか? 2. 自筆書簡は「ヴァリニャーノにはモザンビーク要塞司令官からプレゼントとして贈られた」ということが書かれているのでしょうか? en.wikipedia.org/wiki/Kaffir_(r…
2024-07-19 17:47:00@laymans8 1,翻訳されたのは、あまり民族や地理性の明確な区別をつけるべしという意識がなかった時代なので、翻訳者がテキトーにそうしたのだと思います。 2,はい、そのとおりです。
2024-07-19 18:19:36@KM0158 @laymans8 ヴァリニャーノがリスボンからインドへ行く途中に、モザンビーク要塞に立ち寄り、その司令官に挨拶に行った際に、支援金と共に、3人の奴隷を受け取り、2人をリスボンのイエズス会修道院に送って、1人を手元に残した、と書いてあるからです。
2024-07-19 20:28:01この項目は「黒奴」と史料にあるにも関わらず、気に食わないからと歴史修正してしまう恐ろしさを訴える文脈だったのですが、ガチ歴史学者の方から「弥助は奴隷ではなく従者と考えられる」と指摘していただきました。
2.黒い肌に対する好奇心の否定と畏敬の念の付与
「ウェッブ氏とデスヌー氏は、日本最初の将軍の一人は坂上田村麻呂という黒人であったとする歴史家ロノク・ラシディ氏の説に賛同していない。田村麻呂は実在したが、そのアフリカ起源かどうかは議論の余地がある。」
2024-06-07 20:32:51与太話を信じるような人物でなくてよかったなぁという気持ち < そんなさらっと出てくる程度には広まっている学説なのかよという驚き
2024-06-07 20:32:52「両者とも、弥助以前にアフリカ人が日本を訪れていたと信じている。これは重要なことだ。なぜなら、両者とも、弥助が肌の色が原因で日本でヒステリーを起こしたという話を信じておらず、また、このアフリカ人が初めて信長に会ったことは大きく誤解されていると信じているからだ。
2024-06-07 20:34:34「『覚えておいてください、仏像の多くは黒人(black)でした』とウェッブは説明した。黒人の彫像以外にも、1543年の南蛮美術によって、日本におけるアフリカ人の存在が立証されている。日本に黒人男性がすでにいたのなら、なぜ弥助が来たときに皆が狂ったのか?」
2024-06-07 20:34:34「『彼は188cmで日本人はみんな155cmだったので、みんな気が狂ったんだと思います。当時は188㎝の人は誰もいなかった』とデスヌーは説明した。『私は178cmなのですが、20年前に初めて日本に来たとき、地下鉄で私より背の高い人はいませんでした。』」
2024-06-07 20:34:35「日本人戦士のほとんどは身長155cmでした。弥助は目立つでしょうし、ヴァリニャーノも非常に背が高かったです。彼らが通りを歩くと、彼らは驚くほど魅力的に見えました。彼はまるでロックスターのようでした。」
2024-06-07 20:34:35史料に残されている弥助の身長は6尺2分(182.4cm)なのですが、海外ではなぜか188cmということになっています。6尺2分を6フィート2インチ(188cm)に変換したのかもしれません。
ちなみに日本人はすぐ熱狂します。同じく『イエズス会日本年報』には、眼鏡をかけた宣教師カブラルを見た市民の間に「伴天連は目が四つある」といううわさが広まり、「四つ目」を見ようと集まった群衆で大騒ぎになったエピソードが残されています。
2024-06-07 20:38:01「弥助は信長の側近として高い地位を与えられました。奴隷だったからではなく、賢い人間だったからです。」「松平家忠は、弥助が自分より稼いでいると冗談を言っていました。彼は日記の中で、弥助の身体的特徴や、このアフリカ人が自分と同等の身分であったと書いています。」
2024-06-07 20:42:07先述した通り彼らの弥助研究は「白人の視点を排除したい」ところから始まっているため、白人の残した史料(イエズス会日本年報)は都合により修正の対象となります。
2024-06-07 20:42:08ウェッブ氏「白人の人種差別主義者や一部のインターネットユーザーは、信長が弥助を浴槽に入れ、召使にこのアフリカ人の黒い体を洗い流させようとしたと言っている。」「このイエズス会年報のエピソードは白人が人種差別を日本に広めるためのデモンストレーションとして行ったものだと思う」
2024-06-07 20:42:08ディスノー氏「信じるか信じないかは私が決められます。私は信じません。これは、黒人を歴史的に従属的な立場に留めておくために、その話を聞いた白人によって伝えられ、広められてきた都市伝説です。」「侍は戦いの前にメイクをするので戦士である弥助がメイクをしていると思った可能性があります。」
2024-06-07 20:42:08ロックリー氏はこのエピソードを以下のように修正しました。 「日本において黒は神と悪魔の肌の色である。信長は弥助の肌に清水寺の大黒天の面影を見るが、神仏を信じない信長は宣教師のトリックだと疑い家臣に肌を洗わせる。」(伝記小説)
2024-06-07 20:44:03「信長は弥助を『大黒天』ではないかと考えた。大黒天は豊穣(ほうじょう)の神で、寺院では通常、黒い像によって表現されている。信長は弥助の肌の色は墨によるものだろうと思い、こすり落とそうとした。本当に黒人だと納得すると、直ちに宴会を開いて敬意を表したという。」(CNN)
2024-06-07 20:44:03
日本人の知らない『伝説の侍』弥助が背負わされた海外からのクソデカ感情まとめ「史料を疑え!白人の視点を排除せよ!」 本まとめで弥助シリーズ完結です。 冷静なコメントをよろしくお願いいたします。