【史実のように発信された謎情報データベース】188cmで容姿端麗の俺ヤスケ、平均身長150cmの日本人から神のように崇められてしまう。え、黒い肌は大黒天の証だって?【なろう侍の作り方】
青は、弥助の起用に批判的な記事。その中でもForbesは日本人の批判の声をフィルターを通さず伝えてくれています。 「日本で人々を混乱させる理由はわかる。UBIがなぜ忍者をテーマにしたゲームにしなかったのか、そうすればこんな馬鹿げたことは避けられたはずだ」
2024-06-26 20:56:32もう一つの青は、steamの『Ghost of Tsushima』のコミュニティページです。これは発表当初に立てられた弥助の主人公起用を批判するスレッドなのですが、アサクリを楽しみにしている外国人は非常に多いため、擁護に傾きがちですね。現在はスレ停止状態です。
2024-06-26 21:04:57最後の黒は、私と同じような問題意識で、wikipediaの誤記事とロックリー氏の盛り行為を指摘してくれる動画です。おそらくyasukeでyoutube検索した時の急上昇動画として表示されています(どこまで上位にいてくれるか)。5万5千アクセスで高評価の比率が250:1。頼もしい。 pic.twitter.com/DSA4rDu5J1
2024-06-26 21:13:37私の最初のまとめと構成は似ていますけど、ご自身の手で直接史料を確認されていますし、私の取り上げなかった情報も沢山フォローされていますのでぜひご覧ください。 youtube.com/watch?v=FnYyYD…
2024-06-26 21:13:38弥助と関係ない話題は除外。米Wikipediaは細かいところで気になる部分もありますが、比較的中立に思えたので除外。2ページ目のRedditは「弥助が侍であること」を「扶持」「刀」という言葉から証明しようと頑張っている奇特な方のスレッドです。伝説の侍問題とは異なるためこちらも除外。
2024-06-26 20:09:54外国人が「我が意を得たり」と持ち出すことが非常に多いのですが、(尊経閣本の記述を信用すれば)珍重されたのは事実ですので「はいそうですね」としか。 各々証明したいものが異なるため、ミスコミュニケーションが頻繁に起こります。
2024-06-26 20:13:47なぜロックリー氏の創作が海外メディアで史実のように発信されてしまったのか?
ロックリー氏のインタビューを軸に構成されていますが 歴史家によると「~」 言い伝えによると「~」 注釈無しに「~」 ~の部分で創作が語られるために、 創作と史実の判別が困難な記事に仕上がっています
2024-06-23 22:51:50"Historian says"をどう考えるかなんですよね。歴史家が研究内容を断定調で語るのはまぁあり得ることなんですけど、彼の場合、研究内容を元にした小説が間に挟まるんですよ。しかも学術書『信長と弥助』は査読を受けていないという。普通の人は歴史家の言うことは学説でありお墨付きと捉えます。
2024-06-26 11:25:53小説家の創作(若しくは歴史家の説)であることを、記事内で言及すればいいのですが、史料に乏しいとされるのは「出生に関するエピソード」のみです。まとめ内で「弥助は奴隷ではない」「弥助は歴戦の戦士」を"説"としているのはこのためです。 pic.twitter.com/kgbNPnVVd4
2024-06-24 12:38:00こうなってしまった原因は分かりかねますが、もしも大メディアの記者が揃いも揃って無能だったのだとしたら、ロックリー氏は被害者です。記事の訂正と謝罪を求めるべきでしょうね。 x.com/laymans8/statu…
2024-06-23 23:01:41「桐野氏が『アフリカンサムライ』のファクトチェックをした」というJapan Timesの記事が訂正されました。今回のまとめの唯一の成果です。ただ、ロックリー氏の謝罪を見ても責任の所在はよく分からないまま。 pic.twitter.com/3p3tvdORzW
2024-06-13 17:52:53検索上位記事要約(ロックリー氏のインタビューを軸にしたもの)
信長は弥助を「大黒天」ではないかと考えた。大黒天は豊穣(ほうじょう)の神で、寺院では通常、黒い像によって表現されている。信長は弥助の肌の色は墨によるものだろうと思い、こすり落とそうとした。本当に黒人だと納得すると、直ちに宴会を開いて敬意を表したという。
「弥助は初めこそ物珍しい余興の種とみられていたものの、1カ月以内に侍として重用されるようになり、信長の側近の一員になった」
1581年、弥助は織田軍による伊賀侵攻に加わった。信長は4万~6万人の軍勢を擁する忍者の地、伊賀を攻撃。息子の信雄による1579年の伊賀攻めは失敗に終わっていたものの、今回は攻略した。弥助にとって、これが信長の下での最初の戦になったという。
ロックリー氏が明かす言い伝えによると、信長の弥助への最後の指示は、刀と首を息子のもとに届けるよう命じる内容だった。「信長の首が他人の手に落ちるわけにはいかなかった。弥助の仕事は一族の権力を維持することだった」
来日から1年もしない内に、弥助は侍としての身分を手に入れた。間もなく弥助は日本語を自在に操り、信長のお供として戦場に出るようになった。
弥助のドキュメンタリー映画を製作しているフロイド・ウェブ氏とデボラ・ディスノー氏は、弥助が奴隷だったというのは憶測に過ぎないとみている。ディスノー氏は、「戦士としての経験がなければ、たった1年で侍に上り詰めることは難しいはずだ」と語る。武士階級に生まれた者は通常、子どもの頃から訓練を積まされるからだ。
ロックリー氏によると、弥助は訪日前にアフリカやインドで生活した経験があり、こうした地域の話を信長に聞かせて楽しませたのだという。
信長は弥助を気に入り、家族のように扱ったと言われる。弥助は、信長と共に食事をする数少ない家臣のひとりだったという。
歴史家のトマス・ロックリー氏によると、信長は弥助に介錯を頼み、自分の首を刀と共に息子に送り届けるよう頼んだという。これは絶大な信頼の証だ。
彼は彼らが見た初めてのアフリカ人だっただけでなく、日本の基準では身長188センチの「巨人」で、容姿端麗、知的で面白く、10人の男の力を持っていた。
また、仏陀は黒い肌で描かれることが多いため、多くの人が彼を神の訪問者と見なしていました。
数日後、ノブナガはヴァリニャーノに弥助を自分に仕えてくれないかと尋ねた。弥助は信長の武器持ち、つまり非常に名誉ある地位となり、海外問題についての腹心となった。
数か月以内に、彼は給料、京都の北東にある安土城の住居、使用人、そして刀を受け取りました。刀は武士の象徴であるため、日本では弥助が記録に残る最初の外国人武士であると伝統的に理解されています。
弥助は少なくとも一度は信長の戦いに同行した。彼らは、織田家の不倶戴天の敵である武田家が長年保持していた富士山のすぐ北の領土を征服していました。弥助は、安土へ帰る途中、聖なる山のすぐ南で日本人日記作家によって観察された。
伝説によると、信長の最後の命令は弥助に下され、敵の手に首が落ちないように守れと命じられました。
彼は大名が亡くなったとき、ノブナガの側にいました。一般的な言い伝えによると、信長は弥助に首を息子に返すよう命じました。
「信長を取り囲む非常に小さな取り巻きの一団で、その武士はおそらく30人から50人ほどで、主に若い男性で、その多くは信長の愛人でもあった」とロックリーは言う。
伝統的に、当時50代前半だった信長のような年長の武士は、若い武士を指導し、性的関係を育んだ。弥助と信長が恋人だったことを示す証拠はない。
最終的に、信長、弥助、そして当時の領主の愛人だった森蘭丸という従者は、寺の部屋の一つに退却した。ここで信長は蘭丸に斬首される前に、刀で腹部を切り裂かれて切腹を行った。その後、蘭丸も切腹し、今度は弥助に斬首を求めた。
信長と蘭丸が死ぬと、弥助は主君の首を引っ張って寺から逃げた。信長の遺体を守ることで、弥助は光秀が敵の首を奪い、正当性と権力を確立する手段として見せびらかす機会を奪った。
歴史家たちは、弥助は信長と会話できるほど日本語が堪能だったと推測し、またすぐに信長に兵士としての腕前を証明したとも考えている。最初の出会いの直後、信長は弥助に日本名を与え、仕官を認め、記録に残る外国人として初めて侍の称号を与えた。弥助はまた、信長と食事をした数少ない人物の一人であり、二人の関係が親密であったことを示している。
弥助は武士として、信長のために何度か戦っただろうが、正確な数は不明である。
敗戦を覚悟した信長は、自らの死と名誉を守るために切腹した。弥助が信長の介錯人(切腹する人の首をはねる役目)を務めた可能性もある。
「彼は腹心だったようです。ノブナガは彼と頻繁に話していたことが記録されています」
「記録はありませんが、敵から救うために信長の首を奪ったのは弥助だと言い伝えられています」とロックリー氏は語った。 「もし敵である明智が首を手に入れて、首を掲げることができていたら、彼は正統性の強力な象徴となっていたでしょう。」ロックリーは、そのような行為が明智に統治者としての信頼を与えるだろうと説明した。信長を攻撃した後、明智は多くの支援を得られず、すぐに戦いに敗れました。 「したがって弥助は首を持って逃げることで、日本の歴史を変えたと見なされてきたのです」とロックリー氏は語った。
検索中位記事一覧(ロックリー氏の手から離れたもの)
Psychic Garden
この物語は架空の物語ではなく、あらゆる困難に立ち向かった一人の男の紛れもない英雄的行為と勇敢さについての注目すべき真実の物語です。
ほとんどの日本人にとって、弥助は初めて見るアフリカ人で、誰も彼から目を離すことができませんでした。当時の日本人はアフリカの存在を知らず、肌の黒い人を見たことがなかったため、すぐに弥助を神のように崇め始めました。弥助はすぐに出世し、あらゆる困難を乗り越え、侍として日本最高の栄誉を獲得した唯一のアフリカ人となりました。
弥助が日本文明の中心地である京都の都に到着すると、驚愕し魅了された大勢の見物人が群がり、その計り知れない体躯、そびえ立つような存在感、そして神秘的な肌の色を持つこの奇妙な訪問者を一目見ようと群がった。
日本人は弥助に魅了され、すぐに神のように崇め始めたが、この外国人を恐れる者もおり、弥助は実は人間のふりをした悪魔だという噂を広め始めた。
弥助は信長公にとって単なる目新しい存在ではなく、信長公はこの外国人を大変気に入り、自分の王族の一員のように扱い、このアフリカ人を食事に同席させました。これは当時、日本の侍に与えられる特権で、ごく少数でした。
弥助は安土城の警備巡視員として働き、信長公にその価値を証明し、戦場での勇敢な戦闘スキルで信長公を感心させました。1年も経たないうちに、弥助は流暢な日本語を話し、日本全土を征服するという信長の使命に同行していました。彼は謎めいた護衛から、日本の最もエリートな戦士階級である万能の侍の上層部に加わったのです。
弥助は主君を守るために勇敢に戦い、かなりの数の相手に一人で戦い、すべてを失った後も戦い続け、ついに捕らえられ、敵に刀を明け渡しました。
日本には『武士が勇敢であるためには、多少の黒い血が必要だ』という諺がある。弥助が歴史に初めて登場するのは、1579年、日本に設立された布教活動を訪問するために来日したイエズス会宣教師アレッサンドロ・ヴァリニャーノの随行者としてである。弥助は24、5歳で、身長は6フィート2インチで日本人よりも背が高かった。
信長は弥助を気に入り、戦場や安土城の巡視で弥助が実力を発揮するにつれて、彼を家族のように扱った。1年も経たないうちに、弥助は下級の小姓から日本の武士階級の上層部に加わった。やがて弥助は流暢な日本語を話し、信長と共に戦場に出るようになった。これは織田が尊敬し信頼していた人物だけに与えられる名誉だったに違いない。
京都の他の住民と同様、織田信長も弥助の背丈、体格、肌の色に畏敬の念を抱いていた。織田信長は、弥助を守護鬼か、寺院の黒い像で表現される繁栄の神『大黒天』のどちらかだと信じていた(大黒天は、仏教で描かれた黒い肌のインドの女神を通して、神道の日本に伝わった興味深い人物である)。織田信長は、弥助の肌から色素をこすり落とそうとしたが、それが黒い墨ではないとまだ信じられず、このように弥助を辱めたことを恥じたと言われている。
織田に仕えてから1年以内に、弥助は侍の地位を与えられ、これは通常、それを継承した家系にのみ認められる名誉です。侍は日本の文化遺産の最も永続的なシンボルの1つであり、外国人でその称号を主張した人はほとんどいません。さらに、 弥助は日本語も流暢になり、織田の最も信頼できる顧問の1人として信頼を得ました。
弥助が戦場で名声を博し、安土城の巡回を続けるにつれ、織田の信頼は高まっていった。政治スパイ、容赦ない暗殺、忍者の襲撃が横行する日本の時代において、弥助は信頼できる資産とみなされていた。弥助は1年も経たないうちに、下級小姓から日本の戦士階級である侍の上層部に加わった。
弥助は馬に乗って人混みの中を通り抜けた。そんな風貌の男を見て、人々は驚いた。彼は、色と外観の点で他の人とは非常に異なっていました。当時のほとんどの日本人にとって、弥助は平均身長よりもはるかに高い188cmの高さを持っていたため、巨人と呼ばれていました.
弥助の違いは身長や見た目だけではありません。彼はまた、非常に筋肉質で体格が良かった。彼の強さは、10人の男性を合わせたものに匹敵する.彼は確かに生まれながらの戦士であり、ハルクであり、侍でした。弥助を際立たせたもう 1 つの特徴は、彼の知性のレベルでした。彼が短期間で日本語を習得したことは、多くの人を驚かせました。彼は、彼を人々に近づけた人々の文化と伝統を学ぶことができました.弥助は鍛え抜かれた肉体と筋肉を持ち、ぎこちない表情を浮かべる美男子だった。
弥助は物覚えが速かった。彼は日本人のやり方にすぐに適応し、その言語を流暢に話しました。彼は半神のように扱われ、崇拝されていました。弥助が尊敬された主な理由の1つは、彼の黒い肌のためでした.ブッダは黒い肌で描かれることが多く、神聖な存在に例えられました。弥助は京都への馬車の際、輝かしい出入りを繰り返した。
弥助はその背の高さから巨人と見なされ、黒い肌から崇拝されていました。彼は地元の人々に見られた最初のアフリカ人だったので、彼らの心は驚きました。彼は武士として飾られました。弥助は信長と共に戦場に出たという歴史がある。彼らは力を合わせて、武田氏が支配していた富士山北部の領土を征服しました。織田家にとって武田は宿敵だった。
彼は、弥助と他の 29 人の信頼できる男たちと共に軍の先頭に立った。一行は、弥助と信長が15ヶ月ぶりに会った本能寺で休息した。信長と彼の部下は、夜明け前の数時間に、明智光秀軍の13,000人を超える強者によって待ち伏せされ、攻撃されました。
伝説によると、信長は弥助に最後の願いを込めて、敵が頭を抱えるのを防ぐためにできる限りのことをするように指示しました。弥助は、父・信長の死後、一族の新しい当主に任命された織田信忠に会うために逃げたと言われています。
Google Trendsの検索量調査(相対評価)
A点 (2019) 4月30日 ロックリー氏『African Samurai』発売 5月22日 ハリウッド映画「弥助」制作発表 B点 (2021) 4月29日 アニメ『Yasuke』配信開始 C点 (2024) 6月 アサシンクリードPV発表 2019年~2021年 ロックリー氏の弥助プレゼン期間(史実汚染期) pic.twitter.com/U4m6m1mkip
2024-07-04 12:38:27↑ モザンビークの検索数 > アメリカの検索数ではないと思います(たぶん)
分かったこと ・2019年以前、海外で弥助は話題になっていない ・Yasukeムーブメントは、日本人が弥助に抱いてきた興味の総量を圧倒する ・アフリカ諸国民は、Yasukeという存在に大きな関心を寄せている
2024-07-04 12:43:042018年以前の米ネット空間における弥助の存在感
トレンド調査から分かる通り、検索回数自体極めて少ないのですが・・・
2018年以前の米Yasuke検索上位記事は、日本史フォーラムやredditの歴史板が少しひっかかる程度でした。比較的日本史に詳しい投降者が多いため「侍ではないが面白い人物」という評価が多かったです。上位に『へうげもの』など日本の創作弥助の話題は見つけられませんでした。 pic.twitter.com/m3ixBbcwr9
2024-07-06 9:57:20X検索も弥助に関する話題はほぼ見つかりませんでした。特筆すべき出来事としては、2017年3月に「ライオンズゲートが弥助をテーマにした映画を製作中」というニュースを伝えるツイートが少しバズった程度(映画は立ち消えたようです)。 x.com/okayplayer/sta…
2024-07-04 12:49:44A film on Yasuke, Japan’s first black samurai, is in the works. bit.ly/YasukeFilm pic.twitter.com/P64M6EGlqX
2017-03-28 10:30:00では、ロックリー氏の小説家デビュー以前は無風だったのかというとそういうわけでもなく、2015年くらいから妙なことを史実のように語る人物がちらほら表れ始めます。こちらはアフリカ系ベトナム人レスリー・グエン・オクウ氏の発言。 openculture.com/2017/05/meet-y…
2024-07-04 12:51:08
【なろう系侍の作り方】188cmで容姿端麗の俺ヤスケ、平均身長155cmの日本人から神のように崇められてしまう。え、黒い肌は大黒天の証だって?敵は6万人の忍者軍団&武田の最強騎馬軍団!30人のエリート部隊に抜擢されたけど、周りはほとんど信長様のお手付きで...【史実として発信された情報まとめ】
一応言っておきますが、ロックリー氏に誹謗中傷とか絶対にしないでください。今回のまとめではWikipediaとロックリー氏をピックアップしましたけど、日本発の創作弥助のポテンシャルもありますし、伝説の黒人侍を求めるブラックナショナリズムとか、多文化主義の象徴にされたことによる各方面からのブーストとか。様々な要因が重なって出来上がった地雷なんです。誰か一人を叩けば済む話ではないので冷静になってください。